黙示録講解

(第102回)


説教日:2013年1月6日
聖書箇所:ヨハネの黙示録1章9節ー20節
説教題:栄光のキリストの顕現(3)


 ヨハネの黙示録1章9節ー20節には、黙示録の著者であるヨハネに栄光のキリストが御自身を現してくださったことが記されています。先週は9節に記されています、

私ヨハネは、あなたがたの兄弟であり、あなたがたとともにイエスにある苦難と御国と忍耐とにあずかっている者であって、神のことばとイエスのあかしとのゆえに、パトモスという島にいた。

というみことばを取り上げてお話ししました。
 きょうは2013年の最初の主の日であることを覚えまして、これまでお話ししたことを補足するお話をいたします。
 ここに記されていますように、この時、ヨハネは、

 神のことばとイエスのあかしとのゆえに、パトモスという島に

いました。先週お話ししましたように、これは、ヨハネが「アジヤにある七つの教会」の牧会者として働いていたために、ローマ帝国からの迫害を受けてパトモスに流刑になっていたことを示しています。そのようにして流刑の地にいたヨハネに、栄光のキリストが御自身を現してくださったのです。それは、一般に、クリストファニーと呼ばれる、イエス・キリストの栄光の顕現です。ヨハネにご自身の栄光の御姿を現してくださったイエス・キリストは、10節に記されていますように、まず、ヨハネに、

あなたの見ることを巻き物にしるして、七つの教会、すなわち、エペソ、スミルナ、ペルガモ、テアテラ、サルデス、フィラデルフィヤ、ラオデキヤに送りなさい。

と言われました。ヨハネはこの栄光のキリストのみことばに従って黙示録を記しました。
 ですから、この9節ー20節においてヨハネは、自分が黙示録を記すに至った経緯を記してています。黙示録は、ローマ帝国からの迫害を受けてパトモスに流刑になっていたヨハネに、イエス・キリストがご自身の栄光の御姿を現してくださって、19節に記されていることばで言いますと、「今ある事、この後に起こる事」を示してくださり、ヨハネにそれを書き記して「アジヤにある七つの教会」に送るように命じられたので記されたものです。
 このような経緯を記すに当たって、ヨハネは、まず、

私ヨハネは、あなたがたの兄弟であり、あなたがたとともにイエスにある苦難と御国と忍耐とにあずかっている者であって、神のことばとイエスのあかしとのゆえに、パトモスという島にいた。

と記しています。
 ここでヨハネは自分のことを、

私ヨハネは、あなたがたの兄弟であり、あなたがたとともにイエスにある苦難と御国と忍耐とにあずかっている者であって、

と述べています。先週お話ししましたように、この全体がここでの主語となっています。ここでは、「」と「ヨハネ」と「あなたがたの兄弟」と「ともにイエスにある苦難と御国と忍耐とにあずかっている者」という四つのことばが出てきますが、「」と「ヨハネ」と「あなたがたの兄弟であり、ともにイエスにある苦難と御国と忍耐とにあずかっている者」が同格で並べられています。
 ヨハネは「アジヤにある七つの教会」の牧会者でしたから、「アジヤにある七つの教会」の信徒たちはヨハネのことをよく知っていました。ヨハネがイエス・キリストによって選ばれた使徒であったことも、自分たちの間で牧会者として労していたことも、そして、そのためにローマ帝国からの迫害を受けて、パトモスに流刑になっていたことも、よく知っていました。それで、ヨハネが改めて自己紹介をする必要はなかったはずです。それでも、ヨハネはここ9節で、自らのことを、

私ヨハネは、あなたがたの兄弟であり、あなたがたとともにイエスにある苦難と御国と忍耐とにあずかっている者であって、神のことばとイエスのあかしとのゆえに、パトモスという島にいた。

と述べています。ですから、ヨハネはあえて、というか、わざわざというか、このことを記す必要を感じて記しているわけです。
 ヨハネは、「アジヤにある七つの教会」の信徒たちに自分のことを紹介しているわけではありません。それでは、ヨハネはどうしてこのことを記しているのでしょうか。
 そのことを理解する鍵は、この9節ー20節に記されていることを最初に取り上げて、全体的なことをお話しした時にお話ししたことです。ここでヨハネは、自分のことを使徒であるとも、牧会者であるとも述べてはいません。さらには、ヨハネが記した第二の手紙や第三の手紙の冒頭にあるような「長老」であるということも述べてはいません。その代わりに、

あなたがたの兄弟であり、あなたがたとともにイエスにある苦難と御国と忍耐とにあずかっている者

と述べています。これによって、徹底して、自分が「アジヤにある七つの教会」の信徒たちと一つであることを強調しています。イエス・キリストが自分に、ご自身の栄光の御姿を現してくださったのは、自分が栄光のキリストから委ねられた「アジヤにある七つの教会」の信徒たちと一つであるからであるということをヨハネが理解していたからにほかなりません。
 どうして、そのように言えるかといいますと、ヨハネが記している、栄光のキリストの顕現の記事がそのことを示しているからです。


 イエス・キリストはヨハネに、ご自身の栄光の御姿を現してくださり、「今ある事、この後に起こる事」を示してくださいました。しかし、そのようにして啓示されたことは、ヨハネ個人のためのものではありませんでした。栄光のキリストはヨハネに、それを書き記して「アジヤにある七つの教会」に送るように命じられました。このことは、イエス・キリストがご自身の栄光の御姿を現してくださり、「今ある事、この後に起こる事」を示してくださったのは、ヨハネ個人のためのことではなく、ヨハネも含めた「アジヤにある七つの教会」のためのことであったということを意味しています。
 この点をより具体的に見てみますと、ヨハネは、イエス・キリストの栄光の御姿を見るより前に、その御声を聞きました。12節には、

 そこで私は、私に語りかける声を見ようとして振り向いた。

と記されています。ですから、栄光のキリストはヨハネの背後にご臨在される形で、その栄光の御姿を現してくださったのです。ヨハネは栄光のキリストの御声を聞いたけれども、その栄光の御姿を見ることはできませんでした。
 そして、その御声は、11節に記されていますように、

あなたの見ることを巻き物にしるして、七つの教会、すなわち、エペソ、スミルナ、ペルガモ、テアテラ、サルデス、フィラデルフィヤ、ラオデキヤに送りなさい。

と言いました。もちろん、ヨハネにご自身の栄光の御姿を現してくださる前に、この御声を聞かせてくださったのは栄光のキリストご自身のみこころによることです。それで、このことには意味があります。
 そればかりではありません。この後12節ー16節には、

そこで私は、私に語りかける声を見ようとして振り向いた。振り向くと、七つの金の燭台が見えた。それらの燭台の真ん中には、足までたれた衣を着て、胸に金の帯を締めた、人の子のような方が見えた。その頭と髪の毛は、白い羊毛のように、また雪のように白く、その目は、燃える炎のようであった。その足は、炉で精錬されて光り輝くしんちゅうのようであり、その声は大水の音のようであった。また、右手に七つの星を持ち、口からは鋭い両刃の剣が出ており、顔は強く照り輝く太陽のようであった。

と記されており、ヨハネが見たイエス・キリストの栄光の御姿のことが記されています。これ自体が啓示としての意味をもっていますが、それについては、改めてお話しします。
 これに続く17節ー18節には、栄光のキリストの顕現、クリストファニーに接したヨハネのことが、

それで私は、この方を見たとき、その足もとに倒れて死者のようになった。しかし彼は右手を私の上に置いてこう言われた。「恐れるな。わたしは、最初であり、最後であり、生きている者である。わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。また、死とハデスとのかぎを持っている。

と記されています。これも、啓示としての意味をもっている出来事で、改めてお話しします。
 そして、19節ー20節には、そのようにして栄光のキリストの顕現に接したヨハネに対してイエス・キリストが、

そこで、あなたの見た事、今ある事、この後に起こる事を書きしるせ。わたしの右の手の中に見えた七つの星と、七つの金の燭台について、その秘められた意味を言えば、七つの星は七つの教会の御使いたち、七つの燭台は七つの教会である。

と言われたことが記されています。これをもって、狭い意味での、イエス・キリストの栄光の顕現の記事は終わっています。広い意味での、イエス・キリストの栄光の顕現のことは後ほどお話しします。
 それで、狭い意味での、イエス・キリストがヨハネにご自身の栄光の御姿を現してくださったことについての記事は、10節と11節に記されている、

私は、主の日に御霊に感じ、私のうしろにラッパの音のような大きな声を聞いた。その声はこう言った。「あなたの見ることを巻き物にしるして、七つの教会、すなわち、エペソ、スミルナ、ペルガモ、テアテラ、サルデス、フィラデルフィヤ、ラオデキヤに送りなさい。」

ということから始まっており、19節と20節に記されている、

そこで、あなたの見た事、今ある事、この後に起こる事を書きしるせ。わたしの右の手の中に見えた七つの星と、七つの金の燭台について、その秘められた意味を言えば、七つの星は七つの教会の御使いたち、七つの燭台は七つの教会である。

という、栄光のキリストのみことばで終わっています。つまり、この記事は、栄光のキリストがヨハネに、この時、啓示されたことを記して、「アジヤにある七つの教会」に送るという使命を授けられたことことで始まっており、そのことで終わっています。
 さらに言いますと、これに続いて、2章と3章に記されているみことばは、その時、ご自身の栄光の御姿を現してくださったイエス・キリストが語ってくださったみことばです。それで、広い意味での、栄光のキリストの顕現のことは3章の終わりまで続いていることになります。このことを視野に入れて見ましても、つまり、広い意味での栄光のキリストの顕現の記事を全体と見ましても、この記事は、栄光のキリストがヨハネに、この時、啓示されたことを記して、「アジヤにある七つの教会」に送るという使命を授けられたことことで始まっており、そのことで終わっているということになります。

 ここで、個人的なことを申しますと、私はこの栄光のキリストの顕現のことを読みまして、ある種の違和感というか、どうしてなのだろうという疑問を感じていました。それは、12節ー15節に記されています、イエス・キリストの栄光の御姿が先に示されないで、それより前に、10節ー11節に記されていますように、栄光のキリストの御声が聞こえてきたということに対してです。
 ここでヨハネが経験していることは、預言者イザヤが経験していることに比べられます。ヨハネもイザヤも、幻のうちに主の栄光の顕現に接して、使命を受けてその栄光の御臨在の御許から遣わされています。
 イザヤの経験を記しているイザヤ書6章1節ー7節には、

ウジヤ王が死んだ年に、私は、高くあげられた王座に座しておられる主を見た。そのすそは神殿に満ち、セラフィムがその上に立っていた。彼らはそれぞれ六つの翼があり、おのおのその二つで顔をおおい、二つで両足をおおい、二つで飛んでおり、互いに呼びかわして言っていた。
 「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の
 その栄光は全地に満つ。」
その叫ぶ者の声のために、敷居の基はゆるぎ、宮は煙で満たされた。そこで、私は言った。
 「ああ。私は、もうだめだ。
 私はくちびるの汚れた者で、
 くちびるの汚れた民の間に住んでいる。
 しかも万軍のである王を、
 この目で見たのだから。」
すると、私のもとに、セラフィムのひとりが飛んで来たが、その手には、祭壇の上から火ばさみで取った燃えさかる炭があった。彼は、私の口に触れて言った。
 「見よ。これがあなたのくちびるに触れたので、
 あなたの不義は取り去られ、
 あなたの罪も贖われた。」
私は、「だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう」と言っておられる主の声を聞いたので、言った。「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」

と記されています。
 ここでは、まず、主の栄光の顕現がどのようなものであったかが記されていて、その御臨在の御前に立たせられたイザヤが、自らの罪を実感し、直感的に自分が御前に滅ぼされるほかはないことを感じ取って、

 ああ。私は、もうだめだ。
 私はくちびるの汚れた者で、
 くちびるの汚れた民の間に住んでいる。
 しかも万軍のである王を、
 この目で見たのだから。

という絶望の叫び声をあげました。これに対して、

すると、私のもとに、セラフィムのひとりが飛んで来たが、その手には、祭壇の上から火ばさみで取った燃えさかる炭があった。彼は、私の口に触れて言った。
 「見よ。これがあなたのくちびるに触れたので、
 あなたの不義は取り去られ、
 あなたの罪も贖われた。」

と記されていますように、イザヤは、主の栄光の御臨在の御許には罪の贖いが備えられているということを、自分自身に関わるきわめて現実的なこととして知ることになりました。そのことを受けて、イザヤに対する使命が示されて、イザヤはそれに応答して遣わされていくことになりました。
 このように、イザヤには、まず、主の栄光の顕現、主の栄光の御姿が示され、それを受けて、使命が授けられています。
 これと同じ順序は預言者エゼキエルについても見られます。エゼキエル書1章1節ー3節には、

第三十年の第四の月の五日、私がケバル川のほとりで、捕囚の民とともにいたとき、天が開け、私は神々しい幻を見た。それはエホヤキン王が捕囚となって連れて行かれてから五年目であった。その月の五日に、カルデヤ人の地のケバル川のほとりで、ブジの子、祭司エゼキエルにはっきりとのことばがあり、の御手が彼の上にあった。

と記されています。そして、4節以下、1章の終わりの28節まで、長いので引用はしませんが、主の栄光の顕現がどのようなものであったかが記されています。そして、このことを受けて、続く2章1節ー3節には、

その方は私に仰せられた。「人の子よ。立ち上がれ。わたしがあなたに語るから。」その方が私に語りかけられると、すぐ霊が私のうちに入り、私を立ち上がらせた。そのとき、私は私に語りかけることばを聞いた。その方は私に仰せられた。「人の子よ。わたしはあなたをイスラエルの民、すなわち、わたしにそむいた反逆の国民に遣わす。彼らも、その先祖たちも、わたしにそむいた。今日もそうである。

と記されています。主のみことばはさらに続いていますが、省略いたします。
 このエゼキエルの場合も、まず、主の栄光の顕現がエゼキエルに示されています。その上で、主がその栄光の御臨在の御許からエゼキエルに語りかけてくださって、使命を授け、エゼキエルを御臨在の御許から遣わしてくださっています。
 このようなことになじんでいましたので、主の栄光の御姿が示される前に、御声が聞こえてきたというヨハネの報告に、ある種の違和感というか、どうしてなのだろうという疑問を感じてしまったのです。
 けれども、これまで何回かにわたって、この箇所の説教の準備をしながら、ヨハネの場合には、先に栄光のキリストの御声が聞こえてきたことに、大切な意味があったということに気づかされました。
 改めて確認しておきますと、栄光のキリストは、ご自身の栄光の御姿をヨハネにお示しになるに当たって、まず、御声をもって、

あなたの見ることを巻き物にしるして、七つの教会、すなわち、エペソ、スミルナ、ペルガモ、テアテラ、サルデス、フィラデルフィヤ、ラオデキヤに送りなさい。

と語られました。主の御声を聞いたヨハネは、語っておられる方の御姿を見ようとして振り向いて、その栄光の御姿を見ます。それで、ヨハネは自分がその方の御前に滅ぶべき者であることを実感して、御前に死人のようになってしまいます。すると、栄光のキリストはヨハネの上に右手を置いてくださって、

 わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。また、死とハデスとのかぎを持っている。

というみことばをもって、ご自身が贖いの御業を遂行された方であられることを示してくださいました。ヨハネはその方の備えてくださっている贖いの恵みにあずかっている者として、その方の栄光の御臨在の御前にあることができました。そのヨハネに、

 そこで、あなたの見た事、今ある事、この後に起こる事を書きしるせ。わたしの右の手の中に見えた七つの星と、七つの金の燭台について、その秘められた意味を言えば、七つの星は七つの教会の御使いたち、七つの燭台は七つの教会である。

という御声とともに、再び、「アジヤにある七つの教会」に対する使命が授けられました。そして、これに続いて、その栄光の御姿をお示しになっておられるイエス・キリストは、「アジヤにある七つの教会」のそれぞれに対するみことばを語ってくださっています。
 ヨハネはこのことの意味を悟ったのだと考えられます。栄光のキリストは「アジヤにある七つの教会」にみこころを留めていてくださり、みことばをもって「アジヤにある七つの教会」を支え、励まし、慰め、救いの完成へと導いてくださっておられるお方として、その栄光の御姿をヨハネに示してくださった、ということを悟ったのです。
 ヨハネがイエス・キリストの栄光の顕現に接して、このことを悟ることができたのは、ヨハネが「アジヤにある七つの教会」の牧会者として、「アジヤにある七つの教会」のそれぞれのことを、ずっと心にかけていたからにほかなりません。「アジヤにある七つの教会」のそれぞれが、今、どのような状態にあるかを常に思いながら、そのために執り成し祈り続けていたからにほかなりません。栄光のキリストはそのヨハネの思いに応える形で、また、そのヨハネの思いと願いにお答えになられる方として、ご自身の栄光の御姿をヨハネに現してくださったのでした。それで、まず、

あなたの見ることを巻き物にしるして、七つの教会、すなわち、エペソ、スミルナ、ペルガモ、テアテラ、サルデス、フィラデルフィヤ、ラオデキヤに送りなさい。

という御声をもって、ヨハネに語りかけてくださる形で、ご自身の栄光の御姿を示してくださったのです。
 「アジヤにある七つの教会」の牧会者として、常に「アジヤにある七つの教会」のそれぞれのことを心にかけていたヨハネにとっては、イエス・キリストが「アジヤにある七つの教会」のそれぞれにこまやかな視線を注いでくださっている栄光の主としての御姿を示してくださったことは、ただ、まばゆいばかりの御姿を示してくださったということよりもはるかに優ることであったはずです。そのようにして、栄光の御姿を現してくださった主が、「アジヤにある七つの教会」のそれぞれに対して、みことばを語ってくださっていることは、牧会者であるヨハネにとって、この上ない喜びであったはずです。
 このようなことを踏まえて、1章9節に記されています、

私ヨハネは、あなたがたの兄弟であり、あなたがたとともにイエスにある苦難と御国と忍耐とにあずかっている者であって、神のことばとイエスのあかしとのゆえに、パトモスという島にいた。

というヨハネのことばを読みますと、ここでヨハネが自らを、徹底して、「アジヤにある七つの教会」の信徒たちと一つであるということを示していることが了解されます。

 このこととの関連で、また個人的なことをお話しさせていただきますが、私はこの栄光のキリストの顕現の記事に、先ほどお話ししましたような違和感というか疑問を感じていたのですが、やはり、先ほどお話ししましたように、そのことに大切な意味があったことを理解するようになりまして、それが自分のことのように感じられました。ここに、ご自身の栄光の御姿を現しておられるイエス・キリストが、ご自身のみからだである教会の一つ一つに、こまやかな視線を注いでいてくださり、みことばをもって諭し、励まし、支え、救いの完成に至るまで導き続けてくださっているのです。この、主にある事実の前に、この方にあって、私自身も含めて、私たちは信仰の家族を与えられているということの喜びが、よりいっそう大きなものとなりました。そして、改めてのことですが、信仰の家族の兄弟姉妹たちがあることに対する感謝があふれ出てきました。
 教会のかしらであられる栄光のキリストがこのような方であられるので、私たちはお互いに執り成し祈り合うのです。私たちは私たちに優って、また私たちに先立って、信仰の家族の一人一人にこまやかな視線を注いでいてくださり、愛といつくしみの御手をもって支え、みことばをもって諭し、励まし、救いの完成に至るまで導き続けてくださっている栄光のキリストにあって、お互いに執り成し祈り合うのです。栄光のキリストを信頼し、お互いを栄光のキリストの御手にお委ねしつつ執り成し祈り合うのです。
 また、みことばの説教をするためには、私自身がみことばを理解し悟らなければなりません。それは、栄光のキリストご自身が御霊によって、みことばを悟らせてくださらなければできないことです。この小さな群れの牧会者としての私が主のみことばを悟らせていただくのは、私に与えられたみことばを悟るということではなく、この信仰の家族の兄弟姉妹たちに与えられているみことばを悟るように導いていただいていることであるということを、改めて、覚えさせられました。


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