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説教日:2012年12月30日 |
順序が逆になってしまいましたが、これらのことを踏まえて、9節の前半を見てみましょう。そこには、 私ヨハネは、あなたがたの兄弟であり、あなたがたとともにイエスにある苦難と御国と忍耐とにあずかっている者であって、 と記されています。 新改訳では分かりやすくするために、これを一つの文として訳していますが、実は、この全体が主語となっています。具体的には、ここには、「私」と「ヨハネ」と「あなたがたの兄弟」と「ともにイエスにある苦難と御国と忍耐とにあずかっている者」という四つのことばが出てきます。このうち、「私」と「ヨハネ」と「あなたがたの兄弟であり、ともにイエスにある苦難と御国と忍耐とにあずかっている者」が同格で並べられています。これを日本語に訳せば、同格はさらに説明するためのものですから、新改訳のように、 私ヨハネは、あなたがたの兄弟であり、あなたがたとともにイエスにある苦難と御国と忍耐とにあずかっている者である。 となります。 最初の「私ヨハネ」という言い方は、黙示録の中では、この他、最後の章である22章の8節に出てきます。そこでは、 これらのことを聞き、また見たのは私ヨハネである。 と言われています。また、黙示録の背景となっている旧約聖書の書物の一つですが、主要なものあるダニエル書にも「私、ダニエル」ということばが何回か出てきます(7章15節、28節、8章1節、15節、27節、9章2節、10章2節、7節、12章5節)。このような言い方は、幻による啓示を受けた預言者が、それをあかしするときに用いるときの特徴であると言われています。 ヨハネは黙示録全体に記されているような啓示を受け取った人です。しかも、前回お話ししましたが、この1章9節ー20節に記されていますように、一般にクリストファニーと呼ばれている栄光のキリストの顕現に接しています。そして、そのように栄光の御姿を現してくださったイエス・キリストから、啓示を受け、それを「アジヤにある七つの教会」に書き送るという使命を受けています。 そのヨハネが、自分が牧会している「アジヤにある七つの教会」の信徒たちに対して、自らのことを、 あなたがたの兄弟 と述べています。 この「兄弟」ということばは、イエス・キリストを主として、イエス・キリストに従っている人々を一つの家族として、お互いのことを呼び合うことばです。これは、今日の私たちにまで引き継がれているものですので、私たちにもなじみのあることばです。 このことばの起源は神さまの「永遠のみこころ」すなわち永遠の聖定におけるみこころにあります。 ローマ人への手紙8章29節には、 なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。 と記されています。この場合の「あらかじめ知っておられる」や「あらかじめ定められた」は、時間の中で「前もって」という意味ではなく、神さまの「永遠のみこころ」、すなわち、永遠の聖定におけることを意味しています。 同じく、神さまの「永遠のみこころ」のことを記しています、エペソ人への手紙1章5節には、 神は、みむねとみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。 と記されています。 また、このことは、イエス・キリストの教えに反映しています。マルコの福音書3章35節には、 神のみこころを行う人はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです。 というイエス・キリストの教えが記されています。 さらに、ローマ人への手紙8章14節ー15節には、 神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父」と呼びます。 と記されています。これは地上の歩みを続けている神の子どもたちの現実を示しています。私たちは御霊に導かれている「神の子ども」であり、御霊によって、父なる神さまに向かって親しく「アバ、父」と呼びます。 ここで大切なことは、御霊によらなければ、誰も父なる神さまに向かって「アバ、父」と呼ぶことはできないということです。そうであれば、私たちが真の意味で、お互いのことを「兄弟」と呼ぶことができるのも、御霊によって初めてできることです。ですから、私たちがお互いのことを「兄弟」、「姉妹」と呼んでいることは、単なる習慣によることではありません。 このことは、私たちがあまり意識していないかもしれませんが、私たちにとって、とても重い事実です。 私たちは福音のみことばに基づいて、永遠の神の御子であられるイエス・キリストが、私たちと同じ人の性質を取って来てくださったこと、そして、私たちの罪を負って十字架におかかりになって、私たちの罪に対する神さまの聖なる御怒りによるさばきを、余すところなくお受けになったことを信じています。また、イエス・キリストが十字架の死に至るまで父なる神さまのみこころに従いとおされたことにより、そのことへの報いとして、栄光を受けて死者の中からよみがえられたことを信じています。そのような歴史的な事実ばかりでなく、私たちはそのようにして、私たちの贖い主となってくださったイエス・キリストご自身を信じています。その信仰によって、私たちは罪を贖われており、イエス・キリストの復活のいのちによって新しく生まれています。私たちがイエス・キリストを信じることができたのも、その結果、罪を贖われて、新しく生まれているのも、御霊のお働きによることです。その御霊が私たちを導いてくださって、父なる神さまに向かって、親しく「アバ、父」と呼ばせてくださるのです。また、お互いのことを「兄弟」、「姉妹」と呼ばせてくださるのです。 これには、とても大切な、もう一つの面があります。ヨハネの手紙第一・4章7節ー14節には、 愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。いまだかつて、だれも神を見た者はありません。もし私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにおられ、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。 神は私たちに御霊を与えてくださいました。それによって、私たちが神のうちにおり、神も私たちのうちにおられることがわかります。 と記されています。 御霊に導かれている神の子どもは、すでに、イエス・キリストの復活のいのちにあずかって新しく生まれています。そのことは、私たちがお互いに愛し合うことにおいて現実となります。ここでヨハネは、そのことに先立って、私たちそれぞれが、ご自分の御子をも賜った父なる神さまの愛に触れていることを伝えています。私たちが御霊によって、父なる神さまに向かって「アバ、父」と呼ぶとき、私たちはこの父なる神さまの愛を確信しています。また、私たちが御霊によってお互いに「兄弟」、「姉妹」と呼び合うときには、イエス・キリストの復活のいのちの本質的な特性であり、御霊の実である、愛がともなっているはずです。 私たちは普段あまり意識していませんが、神の子どもとして、深いところで、このことを知っています。目の前にいる人がどんなにいい人であっても、自分に親切にしてくださっても、その人のことを「兄弟」、「姉妹」とは呼びません。もしそのように呼ぶように求められますと違和感を感じます。それは、私たちがお互いに「兄弟」、「姉妹」と呼び合うことがどのようなことであるかを理解しているからです。私たちがお互いに「兄弟」、「姉妹」と呼び合うことができるのは、イエス・キリストにあってのことであり、御霊によることです。 牧会者であるヨハネは、自分が牧会している「アジヤにある七つの教会」の信徒たちに対して、自分のことを、 あなたがたの兄弟 と呼んでいます。 ヨハネは、これを記しているときには、すでに、この1章9節ー20節にヨハネ自身が記している栄光のキリストの顕現に触れています。栄光のキリストが自分にその栄光の御姿を示してくださったこと自体が、栄光のキリストの愛から出ていることです。そればかりではありません。ヨハネにその栄光の御姿を現してくださった栄光のキリストこそは、ヨハネのために、また「アジヤにある七つの教会」の信徒たちのために、そして、私たちのために十字架の死におかかりになった方であるという、衝撃的な事実があるのです。 このような経験があったからこそ、ヨハネは「アジヤにある七つの教会」の信徒たちに宛てた挨拶を記している1章5節後半ー6節前半において、特に、イエス・キリストのことを詳しく、 イエス・キリストは私たちを愛して、その血によって私たちを罪から解き放ち、また、私たちを王国とし、ご自分の父である神のために祭司としてくださった方である。 と記していると考えられます。 もちろん、ヨハネは地上を歩まれたイエス・キリストに従ってその御業に接し、御教えを聞いていました。さらには、栄光を受けて死者の中からよみがえられたイエス・キリストにも出会っていました。しかし、それでイエス・キリストのすべてが分かったわけではありません。私たちが栄光のうちによみがえって栄光のキリストの御臨在の御前で生きるようになっても、栄光のキリストのことを知り尽くすようになることはありません。私たちは永遠に栄光のキリストのことを知り続けることになります。ヨハネはパトモスにおいて、クリストファニー、栄光のキリストが愛によってお示しになった御姿に接することによって、さらに深く豊かな栄光のキリストの自己啓示を受けることになりました。それは、父なる神さまと御子イエス・キリストの圧倒的な愛をさらに深く豊かに悟ることであったはずです。 ヨハネは、そのような自らの経験を記すときに、「アジヤにある七つの教会」の信徒たちに、自分のことを、 あなたがたの兄弟 と呼んでいるのです。それは、単なる形式的なへりくだりの表現ではありません。ヨハネの「アジヤにある七つの教会」の信徒たちに対する愛の現れです。ともに、父なる神さまと御子イエス・キリストの圧倒的な愛に触れて、死と滅びの中から贖い出され、神の子どもとしていただき、御霊によって導いていただいている者としての思いの発露でしょう。 ヨハネはこのことを踏まえて、この1章9節の後半に、 神のことばとイエスのあかしとのゆえに、パトモスという島にいた。 と記しています。 先ほどお話ししましたように、これは、ヨハネが「神のことば」を宣べ伝え、イエス・キリストをあかししたために迫害を受けて、パトモスに流刑になっていることを示しています。私たちは試練や患難に見舞われたときに、ともすれば、自分が主を信じて歩んでいるのに、こんなことが起こったというような苦情を言いがちです。しかし、このヨハネのことばは「神のことば」を宣べ伝え、イエス・キリストをあかししたのに迫害にあったという苦情を述べているものではありません。むしろ、なんと、この流刑の地であるパトモスにおいて、栄光のキリストはご自身の栄光の御姿を現してくださったということを記すためのことばです。 ここでヨハネは、 神のことばとイエスのあかしとのゆえに と述べています。その「神のことばとイエスのあかし」が全体として示していることは、突き詰めていきますと、先ほど引用しました、ヨハネ自身が記していた第一の手紙の4章7節ー14節に記されている、父なる神さまと御子イエス・キリストの圧倒的な愛です。ヨハネはこの流刑の地であるパトモスにおいて、栄光のキリストの顕現に触れて、その愛をさらに深く豊かに悟ることになったと考えられます。栄光のキリストの愛からでている栄光のキリストの栄光の顕現に接したのに、栄光のキリストの愛をより深く豊かに知ることはなかったということはありえません。 この時、ヨハネはローマ帝国の迫害にさらされています。また、そのために、自分が牧会し、心にかけている「アジヤにある七つの教会」の信徒たちと引き離されてしまっています。しかし、イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いにあずかり、イエス・キリストの復活のいのちにあずかって新しく生まれ、御霊によって導いていただいている神の子どもたちの交わりは、迫害の中でも、物理的に遠く引き離されてしまっても、損なわれることはなかったのです。 ヨハネはまことに厳しい状況に置かれて、なおも、父なる神さまと御子イエス・キリストの圧倒的な愛に触れるようになりました。そうであれば、ヨハネがこの主から与えられた使命に従って牧会している「アジヤにある七つの教会」の信徒たちも、その父なる神さまと御子イエス・キリストの圧倒的な愛に包んでいただいているはずです。 これらのことは、私たちにも当てはまります。それは、ヘブル人への手紙13章8節に、 イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです。 と記されていますように、栄光のキリストが決して変わることがない、真実な方であるからです。 神の子どもたちは、そのような、父なる神さまと御子イエス・キリストの愛に包んでいただいています。それは、さまざまな患難の中にあっても変わることはありません。たとえ迫害の中にあっても変わることはありません。そのことを確信させてくださるのは御霊です。ローマ人への手紙5章1節ー5節に、 ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。 と記されているとおりです。 私たちは、この御霊に導いていただいて、父なる神さまと御子イエス・キリストの愛に包まれ、お互いのことを「兄弟」、「姉妹」と呼び合います。 |
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