黙示録講解

(第101回)


説教日:2012年12月30日
聖書箇所:ヨハネの黙示録1章9節ー20節
説教題:栄光のキリストの顕現(2)


 先主日は2012年の降誕節でしたので、黙示録からのお話はお休みしました。きょうは黙示録のお話に戻ります。前回は、1章9節ー20節を全体として見たときに考えられるいくつかのことをお話ししました。
 きょうは、改めて、9節に記されています、

私ヨハネは、あなたがたの兄弟であり、あなたがたとともにイエスにある苦難と御国と忍耐とにあずかっている者であって、神のことばとイエスのあかしとのゆえに、パトモスという島にいた。

というみことばに注目したいと思います。
 これまで繰り返しお話ししてきましたように、ヨハネは、ヨハネの挨拶を記している1章4節に出てきます「アジヤにある七つの教会」の牧会者でした。
 そのヨハネが、この9節の後半に、

[私は]神のことばとイエスのあかしとのゆえに、パトモスという島にいた。

と記されていますように、ローマ帝国からの迫害を受けて「パトモスという島」に流刑となっていました。
 この点につきましては、これまで結論的なことをお話してきましたが、異論もあります。きょうはそのことについて記している箇所を取り上げていますので、まず、この点についてお話したいと思います。
 それは、その当時の記録にはパトモスが流刑の地として用いられていたという記録がないから、ヨハネは迫害を受けて流刑になったのではないという主張です。
 それでは、ヨハネはどうしてパトモスにいたのかということにつきましては、そのように主張する人々の間でも、意見が分かれています。
 たとえば、ヨハネは迫ってきている迫害を逃れて、パトモスに渡ったという見方があります。
 けれども、そのようなことは考えにくいことです。というのは、この9節でヨハネは自分のことを、

あなたがたの兄弟であり、あなたがたとともにイエスにある苦難と御国と忍耐とにあずかっている者

と述べて「アジヤにある七つの教会」の信徒たちと、イエス・キリストにあって一つであることを強調しています。さらに、2章ー3章に記されています、栄光のキリストの「アジヤにある七つの教会」に対するみことばには、「アジヤにある七つの教会」のすべてにとまでは言えないとしても、そこに迫害の手が及んでいたことが示されています。そのような状況で、牧会者であるヨハネが、迫害に苦しむ群れを離れてパトモスに逃れたとは考えにくいことです。
 もう一つの主張は、

神のことばとイエスのあかしとのゆえに、

ということばに基づいて、ヨハネは「神のことばとイエス」をあかしするために、パトモスにいたというものです。
 これに対しまして、この場合の、「・・・のゆえに」と訳されていることば(前置詞ディア+対格)は、目的ではなく理由を表しているので。この主張は成り立たないという意見があります。けれども、この言い方が理由を表す事例があります。たとえば。マルコの福音書2章27節には、

安息日は人間のために設けられたのです。

というイエス・キリストの教えが記されています。この「人間のために」(前置詞ディア+対格)は目的を表しています。あることの目的が、そのことがなされる理由となることがあるのです。

 それでは、黙示録1章9節の、

 神のことばとイエスのあかしとのゆえに、

ということばは、ヨハネは「神のことば」を宣べ伝え、イエス・キリストをあかしするために、パトモスにいたということを示しているのでしょうか。これについてはそうではなかったと考えられる理由があります。「神のことばとイエスのあかしとのゆえに」ということばとまったく同じではありませんが、ほぼこれと同じことばが黙示録にはいくつか出てきます。それらを見てみますと、

 神のことばとイエスのあかしとのゆえに、

ということばが黙示録の中で意味していることの方向性が見えてきます。
 まず、「神のことばとイエスのあかし」ということばに限って言えば、最もこれに近いのは、1章2節に、

ヨハネは、神のことばとイエス・キリストのあかし、すなわち、彼の見たすべての事をあかしした。

と記されているときの「神のことばとイエス・キリストのあかし」です。これについては、続いて「すなわち、彼の見たすべての事」であると説明されています。つまり、これは、この黙示録に記されていることを指しています。ここでは、「神のことばとイエス・キリストのあかし」ということばが出てきますが、9節の、

 神のことばとイエスのあかしとのゆえに、

というように理由あるいは目的を示すことば(「・・・のゆえに」)はありません。この2節は、ヨハネが幻による啓示を受けて、黙示録を記したことを述べています。
 このことから、ヨハネが「神のことば」を宣べ伝え、イエス・キリストをあかしするために、パトモスにいたと主張することはできません。
 もちろん、ヨハネはそこでも福音のみことばを宣べ伝えたことでしょう。けれども、それは、迫害を受けてパトモスに流刑になったヨハネが、そこで、「神のことば」を宣べ伝え、イエス・キリストをあかししたということかもしれません。この点につきましては、別の箇所を見る必要があります。
 この1章9節に記されている、

 神のことばとイエスのあかしとのゆえに、

ということばに近いのは、20章4節に記されているみことばです。そこには、一部の引用ですが、

また私は、イエスのあかしと神のことばとのゆえに首をはねられた人たちのたましいと、獣やその像を拝まず、その額や手に獣の刻印を押されなかった人たちを見た。

と記されています。ここには、「イエスのあかしと神のことばとのゆえに」(前置詞ディア+対格)ということばが出てきます。これは順序が逆になっているだけで、1章9節に出てくる「神のことばとイエスのあかしとのゆえに」ということばと同じです。この場合の「イエスのあかしと神のことばとのゆえに」ということばは、その人々が迫害を受けて殺された理由を示しています。
 また、これとは少し違いますが、6章9節には、

小羊が第五の封印を解いたとき、私は、神のことばと、自分たちが立てたあかしとのために殺された人々のたましいが祭壇の下にいるのを見た。

と記されています。ここには、「神のことばと、自分たちが立てたあかしとのために」(前置詞ディア+対格)ということばが出てきます。これも、この人々が迫害を受けて殺された理由を示しています。
 また、これらとは違って、直接的に理由を示すものではありませんが、12章17節には、

すると、竜は女に対して激しく怒り、女の子孫の残りの者、すなわち、神の戒めを守り、イエスのあかしを保っている者たちと戦おうとして出て行った。

と記されています。ここには「神の戒めを守り、イエスのあかしを保っている者たち」ということばが出てきます。「神の戒め」と「イエスのあかし」の組み合わせです。ここでは、ここに記されていることから、「神の戒めを守り、イエスのあかしを保っている者たち」への迫害が始まっていることが示されています。
 これらが、黙示録に記されていることばの中で、1章9節に出てくる「神のことばとイエスのあかし」ということばと類似していることばです。また、これらがそのすべてです。最初に取り上げた1章2節に記されていることばを除いて、すべて、それにかかわっている人たちが迫害を受けている理由を直接的に(6章9節、20章4節)、あるいは間接的に(12章17節)示しています。
 このことから、1章9節に出てくる、

 神のことばとイエスのあかしとのゆえに、パトモスという島にいた。

ということばはヨハネが迫害を受けてパトモスに流刑になっていたことを意味していると考えられます。
 また、これと同じ理由によって、ヨハネは「神のことばとイエスのあかし」、すなわち、啓示を受け取るためにパトモスにいたという主張も退けられます。さらに、ヨハネが啓示を受け取るためにパトモスにいたという主張では、ヨハネはパトモスに来る前に、啓示を受け取るためにパトモスに行くようにという主の命令を受けていたというようなことを想定しなければなりません。
 このようなわけで、ヨハネはこの時、迫害を受けてパトモスに流刑になっていたと考えられます。
 その当時の追放には、永久追放と一時的な追放があったようです。ヨハネはパトモスから「アジヤにある七つの教会」に、1章4節ー6節に記されています、手紙の挨拶の形式で記された挨拶のことばを含む黙示録を書き送っています。そのことは、ヨハネと「アジヤにある七つの教会」の間に、不自由ではありましたが、何らかの交流がなされていたことを暗示しています。また、エイレナイオスやエウセビオスの証言が正しければ、ヨハネは後にパトモスから解放されたことになります。また、この時に、パトモスが流刑の地として知れ渡るほどになっていなかったとすれば、パトモスには流刑者を収容するような施設はなかった可能性があります。これらのことから、この時にヨハネは一時的に「アジヤ」すなわち今日の小アジアから追放されて、パトモスに流刑になっていたと考えられます。それは、おそらく、当局者が、指導者であるヨハネをその群れから引き離してしまえば、その群れは立ち行かなくなると考えてのことでしょう。


 順序が逆になってしまいましたが、これらのことを踏まえて、9節の前半を見てみましょう。そこには、

私ヨハネは、あなたがたの兄弟であり、あなたがたとともにイエスにある苦難と御国と忍耐とにあずかっている者であって、

と記されています。
 新改訳では分かりやすくするために、これを一つの文として訳していますが、実は、この全体が主語となっています。具体的には、ここには、「」と「ヨハネ」と「あなたがたの兄弟」と「ともにイエスにある苦難と御国と忍耐とにあずかっている者」という四つのことばが出てきます。このうち、「」と「ヨハネ」と「あなたがたの兄弟であり、ともにイエスにある苦難と御国と忍耐とにあずかっている者」が同格で並べられています。これを日本語に訳せば、同格はさらに説明するためのものですから、新改訳のように、

私ヨハネは、あなたがたの兄弟であり、あなたがたとともにイエスにある苦難と御国と忍耐とにあずかっている者である。

となります。
 最初の「私ヨハネ」という言い方は、黙示録の中では、この他、最後の章である22章の8節に出てきます。そこでは、

 これらのことを聞き、また見たのは私ヨハネである。

と言われています。また、黙示録の背景となっている旧約聖書の書物の一つですが、主要なものあるダニエル書にも「私、ダニエル」ということばが何回か出てきます(7章15節、28節、8章1節、15節、27節、9章2節、10章2節、7節、12章5節)。このような言い方は、幻による啓示を受けた預言者が、それをあかしするときに用いるときの特徴であると言われています。
 ヨハネは黙示録全体に記されているような啓示を受け取った人です。しかも、前回お話ししましたが、この1章9節ー20節に記されていますように、一般にクリストファニーと呼ばれている栄光のキリストの顕現に接しています。そして、そのように栄光の御姿を現してくださったイエス・キリストから、啓示を受け、それを「アジヤにある七つの教会」に書き送るという使命を受けています。
 そのヨハネが、自分が牧会している「アジヤにある七つの教会」の信徒たちに対して、自らのことを、

 あなたがたの兄弟

と述べています。
 この「兄弟」ということばは、イエス・キリストを主として、イエス・キリストに従っている人々を一つの家族として、お互いのことを呼び合うことばです。これは、今日の私たちにまで引き継がれているものですので、私たちにもなじみのあることばです。
 このことばの起源は神さまの「永遠のみこころ」すなわち永遠の聖定におけるみこころにあります。
 ローマ人への手紙8章29節には、

なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。

と記されています。この場合の「あらかじめ知っておられる」や「あらかじめ定められた」は、時間の中で「前もって」という意味ではなく、神さまの「永遠のみこころ」、すなわち、永遠の聖定におけることを意味しています。
 同じく、神さまの「永遠のみこころ」のことを記しています、エペソ人への手紙1章5節には、

神は、みむねとみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。

と記されています。
 また、このことは、イエス・キリストの教えに反映しています。マルコの福音書3章35節には、

神のみこころを行う人はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです。

というイエス・キリストの教えが記されています。
 さらに、ローマ人への手紙8章14節ー15節には、

神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父」と呼びます。

と記されています。これは地上の歩みを続けている神の子どもたちの現実を示しています。私たちは御霊に導かれている「神の子ども」であり、御霊によって、父なる神さまに向かって親しく「アバ、父」と呼びます。
 ここで大切なことは、御霊によらなければ、誰も父なる神さまに向かって「アバ、父」と呼ぶことはできないということです。そうであれば、私たちが真の意味で、お互いのことを「兄弟」と呼ぶことができるのも、御霊によって初めてできることです。ですから、私たちがお互いのことを「兄弟」、「姉妹」と呼んでいることは、単なる習慣によることではありません。
 このことは、私たちがあまり意識していないかもしれませんが、私たちにとって、とても重い事実です。
 私たちは福音のみことばに基づいて、永遠の神の御子であられるイエス・キリストが、私たちと同じ人の性質を取って来てくださったこと、そして、私たちの罪を負って十字架におかかりになって、私たちの罪に対する神さまの聖なる御怒りによるさばきを、余すところなくお受けになったことを信じています。また、イエス・キリストが十字架の死に至るまで父なる神さまのみこころに従いとおされたことにより、そのことへの報いとして、栄光を受けて死者の中からよみがえられたことを信じています。そのような歴史的な事実ばかりでなく、私たちはそのようにして、私たちの贖い主となってくださったイエス・キリストご自身を信じています。その信仰によって、私たちは罪を贖われており、イエス・キリストの復活のいのちによって新しく生まれています。私たちがイエス・キリストを信じることができたのも、その結果、罪を贖われて、新しく生まれているのも、御霊のお働きによることです。その御霊が私たちを導いてくださって、父なる神さまに向かって、親しく「アバ、父」と呼ばせてくださるのです。また、お互いのことを「兄弟」、「姉妹」と呼ばせてくださるのです。

 これには、とても大切な、もう一つの面があります。ヨハネの手紙第一・4章7節ー14節には、

愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。いまだかつて、だれも神を見た者はありません。もし私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにおられ、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。 神は私たちに御霊を与えてくださいました。それによって、私たちが神のうちにおり、神も私たちのうちにおられることがわかります。

と記されています。
 御霊に導かれている神の子どもは、すでに、イエス・キリストの復活のいのちにあずかって新しく生まれています。そのことは、私たちがお互いに愛し合うことにおいて現実となります。ここでヨハネは、そのことに先立って、私たちそれぞれが、ご自分の御子をも賜った父なる神さまの愛に触れていることを伝えています。私たちが御霊によって、父なる神さまに向かって「アバ、父」と呼ぶとき、私たちはこの父なる神さまの愛を確信しています。また、私たちが御霊によってお互いに「兄弟」、「姉妹」と呼び合うときには、イエス・キリストの復活のいのちの本質的な特性であり、御霊の実である、愛がともなっているはずです。
 私たちは普段あまり意識していませんが、神の子どもとして、深いところで、このことを知っています。目の前にいる人がどんなにいい人であっても、自分に親切にしてくださっても、その人のことを「兄弟」、「姉妹」とは呼びません。もしそのように呼ぶように求められますと違和感を感じます。それは、私たちがお互いに「兄弟」、「姉妹」と呼び合うことがどのようなことであるかを理解しているからです。私たちがお互いに「兄弟」、「姉妹」と呼び合うことができるのは、イエス・キリストにあってのことであり、御霊によることです。
 牧会者であるヨハネは、自分が牧会している「アジヤにある七つの教会」の信徒たちに対して、自分のことを、

 あなたがたの兄弟

と呼んでいます。
 ヨハネは、これを記しているときには、すでに、この1章9節ー20節にヨハネ自身が記している栄光のキリストの顕現に触れています。栄光のキリストが自分にその栄光の御姿を示してくださったこと自体が、栄光のキリストの愛から出ていることです。そればかりではありません。ヨハネにその栄光の御姿を現してくださった栄光のキリストこそは、ヨハネのために、また「アジヤにある七つの教会」の信徒たちのために、そして、私たちのために十字架の死におかかりになった方であるという、衝撃的な事実があるのです。
 このような経験があったからこそ、ヨハネは「アジヤにある七つの教会」の信徒たちに宛てた挨拶を記している1章5節後半ー6節前半において、特に、イエス・キリストのことを詳しく、

イエス・キリストは私たちを愛して、その血によって私たちを罪から解き放ち、また、私たちを王国とし、ご自分の父である神のために祭司としてくださった方である。

と記していると考えられます。
 もちろん、ヨハネは地上を歩まれたイエス・キリストに従ってその御業に接し、御教えを聞いていました。さらには、栄光を受けて死者の中からよみがえられたイエス・キリストにも出会っていました。しかし、それでイエス・キリストのすべてが分かったわけではありません。私たちが栄光のうちによみがえって栄光のキリストの御臨在の御前で生きるようになっても、栄光のキリストのことを知り尽くすようになることはありません。私たちは永遠に栄光のキリストのことを知り続けることになります。ヨハネはパトモスにおいて、クリストファニー、栄光のキリストが愛によってお示しになった御姿に接することによって、さらに深く豊かな栄光のキリストの自己啓示を受けることになりました。それは、父なる神さまと御子イエス・キリストの圧倒的な愛をさらに深く豊かに悟ることであったはずです。
 ヨハネは、そのような自らの経験を記すときに、「アジヤにある七つの教会」の信徒たちに、自分のことを、

 あなたがたの兄弟

と呼んでいるのです。それは、単なる形式的なへりくだりの表現ではありません。ヨハネの「アジヤにある七つの教会」の信徒たちに対する愛の現れです。ともに、父なる神さまと御子イエス・キリストの圧倒的な愛に触れて、死と滅びの中から贖い出され、神の子どもとしていただき、御霊によって導いていただいている者としての思いの発露でしょう。

 ヨハネはこのことを踏まえて、この1章9節の後半に、

 神のことばとイエスのあかしとのゆえに、パトモスという島にいた。

と記しています。
 先ほどお話ししましたように、これは、ヨハネが「神のことば」を宣べ伝え、イエス・キリストをあかししたために迫害を受けて、パトモスに流刑になっていることを示しています。私たちは試練や患難に見舞われたときに、ともすれば、自分が主を信じて歩んでいるのに、こんなことが起こったというような苦情を言いがちです。しかし、このヨハネのことばは「神のことば」を宣べ伝え、イエス・キリストをあかししたのに迫害にあったという苦情を述べているものではありません。むしろ、なんと、この流刑の地であるパトモスにおいて、栄光のキリストはご自身の栄光の御姿を現してくださったということを記すためのことばです。
 ここでヨハネは、

 神のことばとイエスのあかしとのゆえに

と述べています。その「神のことばとイエスのあかし」が全体として示していることは、突き詰めていきますと、先ほど引用しました、ヨハネ自身が記していた第一の手紙の4章7節ー14節に記されている、父なる神さまと御子イエス・キリストの圧倒的な愛です。ヨハネはこの流刑の地であるパトモスにおいて、栄光のキリストの顕現に触れて、その愛をさらに深く豊かに悟ることになったと考えられます。栄光のキリストの愛からでている栄光のキリストの栄光の顕現に接したのに、栄光のキリストの愛をより深く豊かに知ることはなかったということはありえません。
 この時、ヨハネはローマ帝国の迫害にさらされています。また、そのために、自分が牧会し、心にかけている「アジヤにある七つの教会」の信徒たちと引き離されてしまっています。しかし、イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いにあずかり、イエス・キリストの復活のいのちにあずかって新しく生まれ、御霊によって導いていただいている神の子どもたちの交わりは、迫害の中でも、物理的に遠く引き離されてしまっても、損なわれることはなかったのです。
 ヨハネはまことに厳しい状況に置かれて、なおも、父なる神さまと御子イエス・キリストの圧倒的な愛に触れるようになりました。そうであれば、ヨハネがこの主から与えられた使命に従って牧会している「アジヤにある七つの教会」の信徒たちも、その父なる神さまと御子イエス・キリストの圧倒的な愛に包んでいただいているはずです。
 これらのことは、私たちにも当てはまります。それは、ヘブル人への手紙13章8節に、

 イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです。

と記されていますように、栄光のキリストが決して変わることがない、真実な方であるからです。
 神の子どもたちは、そのような、父なる神さまと御子イエス・キリストの愛に包んでいただいています。それは、さまざまな患難の中にあっても変わることはありません。たとえ迫害の中にあっても変わることはありません。そのことを確信させてくださるのは御霊です。ローマ人への手紙5章1節ー5節に、

ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。

と記されているとおりです。
 私たちは、この御霊に導いていただいて、父なる神さまと御子イエス・キリストの愛に包まれ、お互いのことを「兄弟」、「姉妹」と呼び合います。


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