黙示録講解

(第100回)


説教日:2012年12月16日
聖書箇所:ヨハネの黙示録1章9節ー20節
説教題:栄光のキリストの顕現(1)


 ヨハネの黙示録1章1節ー8節は黙示録の序文に当たります。これに続く1章9節ー3章22節には、「アジヤにある七つの教会」に対して語られた栄光のキリストのみことばが記されています。栄光のキリストのみことばそのものは2章ー3章に記されていますが、それに先立つ部分である1章9節ー20節には、そこで語っておられる栄光のキリストが、黙示録の著者であるヨハネにご自身を現してくださったことが記されています。
 すでに1章1節ー8節に記されている序文の部分を取り上げたときにお話ししましたように、ヨハネはその「アジヤにある七つの教会」の牧会者でした。この場合のアジアは、ローマの属州であるアジアのことで、今日の小アジアのことです。しかし、9節に、

私ヨハネは、あなたがたの兄弟であり、あなたがたとともにイエスにある苦難と御国と忍耐とにあずかっている者であって、神のことばとイエスのあかしとのゆえに、パトモスという島にいた。

と記されていますように、ローマ帝国から迫害を受けて、「パトモスという島」に流刑になっていました。「パトモス」はエーゲ海南東部の南スポラデス群島南部のドデカニソス諸島の島の一つです。小アジアの西岸の港湾都市であったミレトから西方約70キロメートルほど離れたところにあり、長さが約16キロメートル、幅は約9キロメートルほどの火山岩の島です。牧会者であるヨハネが「パトモス」に流刑になっているということは、ローマ帝国の迫害が「アジヤにある七つの教会」にまで及んでいたことを意味しています。事実、そのことは2章ー3章に記されている、栄光のキリストの「アジヤにある七つの教会」への語りかけにも表れています。その語りかけの中で、栄光のキリストは厳しい迫害にさらされている教会に向かって語りかけておられます(2章9節ー10節)。
 栄光のキリストは、このように、「パトモス」に流刑になっているヨハネを通して、「アジヤにある七つの教会」に語りかけておられます。このことから、私たちは二つのことを汲み取ることができます。
 一つは、「アジヤにある七つの教会」を迫害している人々は牧会者であるヨハネを彼らから引き離してしまえば、それらの教会は立ち行かなくなってしまうと考えたと思われます。けれども、2章ー3章に記されている栄光のキリストの語りかけのみことばを見てみますと、栄光のキリストが「アジヤにある七つの教会」のまことの牧会者として語りかけておられることが分かります。
 もう一つのことは、これと関連していますが、「アジヤにある七つの教会」のまことの牧会者であられる栄光のキリストは、ご自身がお立てになった牧会者であるヨハネを通して「アジヤにある七つの教会」に語りかけておられます。栄光のキリストはその群れから切り離されてしまっているヨハネを、なおも、その群れの牧会者としてお立てになっているのです。
 これと同じことはパウロの働きにおいても見られます。テモテへの手紙第二・2章9節ー10節には、

私は、福音のために、苦しみを受け、犯罪者のようにつながれています。しかし、神のことばは、つながれてはいません。ですから、私は選ばれた人たちのために、すべてのことを耐え忍びます。それは、彼らもまたキリスト・イエスにある救いと、それとともに、とこしえの栄光を受けるようになるためです。

と記されています。
 ヨハネと同じように「福音のために、苦しみを受け」、すなわち、迫害を受け、獄屋につながれていたパウロは、弟子であるテモテに、自分は苦しみを受けて獄屋につながれていても、

 神のことばは、つながれてはいません。

と教えています。このことの背後には、栄光のキリストがまことの牧者として、ご自身の民を、福音のみことばをもって支え導いておられるという事実があります。
 そればかりではありません。パウロは、続いて、

ですから、私は選ばれた人たちのために、すべてのことを耐え忍びます。それは、彼らもまたキリスト・イエスにある救いと、それとともに、とこしえの栄光を受けるようになるためです。

と述べています。
 ここでは、苦しみを受けて獄屋につながれているパウロが、なおも「選ばれた人たちのために」それを耐え忍んで仕えていることが示されています。「選ばれた人たち」は聖書の中では、基本的に、主の民となっている人々を指します。そして、これに続く、

それは、彼らもまたキリスト・イエスにある救いと、それとともに、とこしえの栄光を受けるようになるためです。

ということばは、ここで言われている救いが将来における救い、つまり、すでに「選ばれた人たち」があずかっている救いが完全に実現するようになることを意味しています。その場合、「彼らもまた」の「・・・もまた」は、パウロやテモテたちだけでなく「彼らもまた」という意味になります。
 このことは、

 神のことばは、つながれてはいません。

ということがどのようなことであるかを示しています。それは、パウロは獄屋につながれていてどうしようもないけれども、「神のことば」が働いているということではないことを意味しています。むしろ、「神のことば」は獄屋につながれるほどの迫害にあって苦しんでいるパウロをとおして働き続けているということを意味しています。栄光のキリストが苦しみを受けて獄屋につながれているパウロを用いてくださって、「選ばれた人たち」が「とこしえの栄光を受けるようになるため」に仕えさせてくださっているということです。
 この手紙の4章6節でパウロは、

 私は今や注ぎの供え物となります。私が世を去る時はすでに来ました。

と記しています。パウロは自分の身に死が迫ってきていることを感じ取っています。それで、この時に獄屋につながれていたパウロは、やがて殉教の死を遂げるようになったと考えられます。栄光のキリストはそのような状態にあったパウロをもお用いになって、「選ばれた人たち」が「とこしえの栄光を受けるようになるため」に仕えさせてくださっていました。実際、パウロはこの獄屋から弟子であるテモテに手紙を書き送って、テモテを教えていますし、励ましています。また、それ以外の人々にも、手紙などの形で仕えていたと思われます。
 パウロはこの時より前にも獄屋につながれたことがあります。その際には、一般に獄中書簡と呼ばれる、エペソ人への手紙、ピリピ人への手紙、コロサイ人への手紙、ピレモンへの手紙を記しています。
 また、使徒の働きの最後に当たる28章30節ー31節には、

こうしてパウロは満二年の間、自費で借りた家に住み、たずねて来る人たちをみな迎えて、大胆に、少しも妨げられることなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストのことを教えた。

と記されています。
 これだけを読みますと分かりませんが、この「満二年の間」というのは、パウロがいわば「自宅軟禁」の状態にあった期間です。その時、パウロは「自宅軟禁」の状態にありましたが、人々が訪問することはできたようですし、自由に福音を伝えることもできたようです。
 どうしてこのようなことになったかと言いますと、使徒の働き21章27節以下に記されていますが、パウロはエルサレムで捕らえられます。パウロを殺害しようとしている陰謀も企てられましたが、最終的に、パウロはローマの市民としての権利を行使して、カイザルに上訴する道を選びます。そのことは25章11節に記されています。それで、護衛が付けられてローマまで移送されていきました。そして、ローマで裁判を受けるようになるまでパウロは2年ほど待たなければなりませんでした。その間は、パウロは囚人として扱われていましたから、「自宅軟禁」のような状態にあったのです。先ほど引用しました28章30節ー31節には、その間のことが記されています。そして、その記述をもって使徒の働きは終わっています。
 パウロがカイザルに上訴するようになるのは25章11節に記されていますが、その前のことを記している23章11節には、

その夜、主がパウロのそばに立って、「勇気を出しなさい。あなたは、エルサレムでわたしのことをあかししたように、ローマでもあかしをしなければならない」と言われた。

と記されています。主がパウロに託してくださったローマでのあかしは、パウロがローマで囚人として過ごした期間になされたと、使徒の働きは伝えているのです。
 使徒の働きが、

こうしてパウロは満二年の間、自費で借りた家に住み、たずねて来る人たちをみな迎えて、大胆に、少しも妨げられることなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストのことを教えた。

という記述で終わっていることには、意味があると考えられます。というのは、この後、パウロは釈放されて、再び、自由の身として福音を伝える働きを始めます。ですから、使徒の働きを記したルカは、あえて、パウロが囚人としてつながれていた2年間のことを記して使徒の働きを閉じていると考えられるからです。
 使徒の働き全体の構成から言いますと、1章8節に、

しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。

という、栄光のキリストのみことばが記されています。使徒の働きは、聖霊降臨節(ペンテコステの日)に、父なる神さまの右の座に座しておられる栄光のキリストが注いでくださった聖霊に満たされた使徒たちが、「エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで」栄光のキリストの証人となったことを記しています。そうしますと、先ほどの、

こうしてパウロは満二年の間、自費で借りた家に住み、たずねて来る人たちをみな迎えて、大胆に、少しも妨げられることなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストのことを教えた。

という記述は、「地の果てにまで」栄光のキリストのあかしがなされたということを伝えているわけです。「地の果てにまで」と言っても、今日の私たちが考える「地の果て」ではなく、その当時の人々が考えている地中海世界の「地の果て」です。そして、「地の果てにまで」栄光のキリストのあかしがなされたということはパウロが囚人としてつながれている時になされたと言われているのです。まさに、パウロはつながれていたけれども、

 神のことばは、つながれてはいません。

ということです。
 エペソ人への手紙1章23節に、

教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。

と記されているとおり、教会は栄光のキリストのからだです。同じエペソ人への手紙の中で、夫と妻に対する戒めを記している5章の25節には、

 キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられた

ことが記されています。そして、続く26節には、

キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。

と記されています。「聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせ」てくださるということは、将来における救いの完全な実現を見据えてのことです。そのために、栄光のキリストはみことばに仕える人々をお用いになります。同じエペソ人への手紙4章11節ー13節に、

こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。

と記されているとおりです。
 みことばに仕える人々のよりどころは、栄光のキリストがご自身のからだである教会のかしらであられ、そのまことの牧会者であられることです。栄光のキリストが自分を通して働いてくださって、御業を成し遂げてくださるということであり、たとえ自分に何かあったとしても、栄光のキリストはご自身のからだである教会の牧会者として教会を省みてくださるということです。


 このこととの関連で、もう一つのことを見ておきたいと思います。
 きょうのテキストである黙示録1章9節ー20節には、栄光のキリストがヨハネにご自身を現してくださり、ヨハネに使命を授けてくださったことが記されています。ヨハネが見た栄光のキリストの御姿は、12節ー16節に、

そこで私は、私に語りかける声を見ようとして振り向いた。振り向くと、七つの金の燭台が見えた。それらの燭台の真ん中には、足までたれた衣を着て、胸に金の帯を締めた、人の子のような方が見えた。その頭と髪の毛は、白い羊毛のように、また雪のように白く、その目は、燃える炎のようであった。その足は、炉で精錬されて光り輝くしんちゅうのようであり、その声は大水の音のようであった。また、右手に七つの星を持ち、口からは鋭い両刃の剣が出ており、顔は強く照り輝く太陽のようであった。

と記されています。これは一般にクリストファニーと呼ばれる、栄光のキリストの顕現、イエス・キリストの栄光の顕現です。ヨハネは、このようにご自身の栄光の御姿を現された主から、

あなたの見ることを巻き物にしるして、七つの教会、すなわち、エペソ、スミルナ、ペルガモ、テアテラ、サルデス、フィラデルフィヤ、ラオデキヤに送りなさい。

という命令、使命を受けました。そして、このことを受けて、黙示録を記しています。ですから、ヨハネが黙示録を記しているのは、栄光のキリストの顕現に接した後のことです。
 このことを踏まえた上で、私自身も含めてのこととして振り返ってみたいのですが、仮に、私たちの誰かがこのような栄光のキリストの顕現に接したとします。そして、使命を委ねられて栄光のキリストの顕現の御許から遣わされたとします。そうしますと、私たちは自分が栄光のキリストから顕現に接して、その御臨在の御許から遣わされた者であるということを笠に着て、自らのことを誇るようになりかねません。
 このように言いますと、思い起こすことがあります。もうかなり前のことですが、まったく見知らぬ人物から封書が送られてきました。それには、自分はキリストから使徒としての権威を授けられたから、日本中の牧師たちは自分に従わなければならないというようなことが記されていました。
 これは、本当に、栄光のキリストの顕現に接し、その御臨在の御許から遣わされたヨハネの姿勢とまったく異なっています。すでに栄光のキリストの顕現に接しているヨハネは、1章9節において、

私ヨハネは、あなたがたの兄弟であり、あなたがたとともにイエスにある苦難と御国と忍耐とにあずかっている者であって、神のことばとイエスのあかしとのゆえに、パトモスという島にいた。

と記しています。
 ここでヨハネは、自分のことを、

私ヨハネは、あなたがたの兄弟であり、あなたがたとともにイエスにある苦難と御国と忍耐とにあずかっている者である

とあかししています。ヨハネは栄光のキリストの命令に従って「アジヤにある七つの教会」にこれを書き送っているのですが、自分が使徒であるということを主張していません。この点は、ヨハネの手紙にも見られることです。その第一の手紙では、自分が何者であるかを述べてはいません。第二と、第三の手紙では、ただ単に、

 長老から

と記して、自分が牧会者であることを示していますが、それ以上のことは記していません。
 けれども、この黙示録1章9節では、自分が「アジヤにある七つの教会」の牧会者であるということさえも言っていません。その代わりに、まず、

 あなたがたの兄弟である

と述べています。そして、さらに、

あなたがたとともにイエスにある苦難と御国と忍耐とにあずかっている者である

と述べています。徹底して、自分が「アジヤにある七つの教会」の信徒たちと一つであるということを伝えています。ここでは、自分は栄光のキリストの顕現に接した、栄光のキリストは自分にその栄光の御姿を現してくださった、だから自分は特別であるというようなことは、みじんも感じられません。
 これには二つのことがかかわっていると考えられます。
 一つは、ヨハネは栄光のキリストの顕現に接して、栄光のキリストがご自身のからだである「アジヤにある七つの教会」のまことの牧会者であられることを示してくださったということを理解したということです。ただ単に、ヨハネが人として謙遜であったということではなく、栄光のキリストが啓示してくださったことの意味を理解していたということです。具体的には、栄光のキリストが自分にご自身の栄光の御姿を現してくださったのは、自分が「アジヤにある七つの教会」の牧会者であるからであり、「アジヤにある七つの教会」の信徒たちを離れては、このことはありえなかったことを悟っていたということです。
 もう一つのことは、栄光のキリストの顕現は、決して、それに触れた人が、そのことを笠に着て誇るようになるようなものではないということです。
 実際、1章17節には、

 それで私は、この方を見たとき、その足もとに倒れて死者のようになった。

と記されています。ヨハネは自分が栄光の主の御臨在の御前においては滅び去るべきものであることを、恐ろしい現実として経験しているのです。その時、ヨハネが滅び去ることがなかったのは、これに続いて、17節後半ー18節に、

しかし彼は右手を私の上に置いてこう言われた。「恐れるな。わたしは、最初であり、最後であり、生きている者である。わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。また、死とハデスとのかぎを持っている。

と記されていますように、栄光のキリストご自身がヨハネの上に右手を置いて語りかけてくださったからです。

わたしは、最初であり、最後であり、生きている者である。わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。また、死とハデスとのかぎを持っている。

というみことばは、栄光のキリストの自己啓示です。クリストファニーによる自己啓示に加えて与えられた、みことばによる自己啓示です。

 わたしは、最初であり、最後であり、生きている者である。

というみことばは、先週お話ししました、
 エゴー・エイミ・・・
という強調形で表されています。それで、これは栄光のキリストが、

 わたしは「わたしはある。」という者である。

という御名の方、すなわち、契約の神である主、ヤハウェであられることを意味しています。これだけですと、ヨハネはその方の御前に滅び去るべき者でしかないことになってしまいます。けれども、この方は、さらに、

 わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。

と言われて、ご自身を啓示されました。この方は、ご自身の民の罪の贖いのために死んでくださり、栄光を受けてよみがえってくださった方です。この方によって、ヨハネの罪はきよめられており、主の栄光の御臨在の御許に近づくことができる者とされています。
 このように、ヨハネは栄光のキリストの顕現に接して、自らの罪の恐ろしい現実を思い知らされると同時に、その自分がその方の贖いの恵みによって御前に生きることができる者であることを自分自身のリアルな経験として知るようになりました。栄光のキリストに出会うとは、このようなことです。ですから、栄光のキリストの顕現に接した人は、あるいは、別の形で、すなわち、福音のみことばにあかしされている栄光のキリストとの出会いを経験した人は、決して、そのことを笠に着て、自らを誇るようにはなりません。

 このこととのかかわりで、さらに、もう一つのことに触れておきます。
 ヨハネは流刑の地であるパトモスで栄光のキリストの顕現に接しました。その御姿は、文字通り、栄光に輝くものでした。その後、黙示録4章以下に記されていますが、ヨハネは天に引き上げられて、そこで栄光のキリストの御姿を見ます。地上においてあのような栄光に輝く御姿の主であれば、天においては、それにはるかにまさる栄光に輝く御姿が見られるはずです。実際、栄光のキリストは天において、御座に座る方とともに、その栄光が讃えられています。しかし、その栄光の御姿は、私たちの思っているまばゆいばかりの栄光に輝く御姿とは異なっています。5章6節には、

さらに私は、御座――そこには、四つの生き物がいる――と、長老たちとの間に、ほふられたと見える小羊が立っているのを見た。これに七つの角と七つの目があった。その目は、全世界に遣わされた神の七つの御霊である。

と記されています。ここで栄光のキリストは「ほふられたと見える小羊」としてご自身を現しておられます。そして、5章9節ー10節では、

あなたは、巻き物を受け取って、その封印を解くのにふさわしい方です。あなたは、ほふられて、その血により、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から、神のために人々を贖い、私たちの神のために、この人々を王国とし、祭司とされました。彼らは地上を治めるのです。

と讃えられています。また12節では、

ほふられた小羊は、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美を受けるにふさわしい方です。

と讃えられています。
 イエス・キリストの栄光は、私たちご自身の民のために十字架にかかって死んでくださったことに、最も豊かに現されているのです。このことを離れて、イエス・キリストの栄光を考えるなら、根本的に誤ってしまいます。問題は、私たちが神さまの栄光をそのように理解することができるかということです。
 ですから、真に栄光のキリストに出会った人は、決して、そのことを笠に着て、自らを誇ることはありません。実際、栄光のキリストの顕現に接したことがあるパウロは、ガラテヤ人への手紙6章14節において、

しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです。

と述べています。
 私たちは黙示録において、イエス・キリストの栄光の御姿の描写に触れるようになります。その時、私たちは気をつけていませんと、そのイエス・キリストの栄光を、この世の権力の頂点にある栄光であるかのように受け止めて、栄光のキリストはそのような人の上に立って権力で押さえつけるような栄光によってすべてのものを屈服させるのだと思ってしまいかねません。
 イエス・キリストはそのような栄光によって敵を屈服されるのではありません。イエス・キリストは十字架の死において最も豊かに現された栄光によって、ご自身の契約の民を死と滅びの中から贖い出してくださり、永遠のいのちをもつ者、父なる神さまとの愛にあるいのちの交わりのうちに生きる者としてくださいました。そして、この十字架の死において最も豊かに現された栄光によって、サタンとその下にある暗闇の主権者たちをおさばきになり、滅ぼされるのです。ヘブル人への手紙2章14節ー15節に、

そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。

と記されているとおりです。イエス・キリストの十字架の死によって、霊的な戦いにおけるサタンの牙は砕かれました。黙示録12章10節では、サタンのことが、

 私たちの兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている者

と言われています。サタンは、イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いにあずかっている私たちを神さまの御前に訴える根拠を失ってしまっています。


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