黙示録講解

(第99回)


説教日:2012年12月9日
聖書箇所:ヨハネの黙示録1章1節ー8節
説教題:主、ヤハウェの御名によって


 黙示録1章8節には、

神である主、今いまし、昔いまし、後に来られる方、万物の支配者がこう言われる。「わたしはアルファであり、オメガである。」

と記されています。
 ここに出てきます、

 今いまし、昔いまし、後に来られる方

という、神さまに対する呼び名は、黙示録の著者であるヨハネの挨拶を記している4節に出てきました。この呼び名につきましては、4節を取り上げたときに、かなり詳しくお話ししましたので、必要に応じて触れるだけにいたします。
 ギリシャ語の原文では、この8節は、

 わたしはアルファであり、オメガである。

という神である主のみことばから始まっています。この、

 わたしは・・・である。

ということばは、「エゴー・エイミ・・・」という強調形で表されています。これは、契約の神である主の御名にかかわっています。

 わたしは・・・である。

と言われる方は、契約の神である主であられるということです。
 実際には、この、

 わたしはアルファであり、オメガである。

ということばだけでなく、「神である主」という神さまの呼び名も、

 今いまし、昔いまし、後に来られる方

という呼び名も、さらには、「万物の支配者」という呼び名も、契約の神である主の御名にかかわっています。言い換えますと、1章8節に記されていることのすべてが、契約の神である主の御名にかかわっているのです。
 それで、まず、主の御名についてお話しします。
 主がご自身の御名をモーセに啓示してくださったときのことを記している出エジプト記3章13節ー14節には、

モーセは神に申し上げた。「今、私はイスラエル人のところに行きます。私が彼らに『あなたがたの父祖の神が、私をあなたがたのもとに遣わされました』と言えば、彼らは、『その名は何ですか』と私に聞くでしょう。私は、何と答えたらよいのでしょうか。」神はモーセに仰せられた。「わたしは、『わたしはある』という者である。」また仰せられた。「あなたはイスラエル人にこう告げなければならない。『わたしはあるという方が、私をあなたがたのところに遣わされた』と。」

と記されています。
 ここに出てきます、

 わたしは、「わたしはある」という者である(エヒエ・アシェル・エヒエ)

ということば全体が契約の神である主の御名です。これは、ヘブル語聖書のギリシャ語訳である7十人訳では、
 エゴー・エイミ・ホ・オーン(わたしは存在している者である。)
となっています。これも形としては、

 わたしは・・・である。(エゴー・エイミ・・・)

という強調の形で表されています。それで、これは、黙示録1章8節の

 わたしはアルファであり、オメガである。

という神である主のみことばと関連しています。ここに出てくる、

 アルファであり、オメガである

ということなど、具体的なことにつきましては、後ほどお話しします。
 もう一つのことですが、この、
 エゴー・エイミ・ホ・オーン(わたしは存在している者である。)
という主の御名の7十人訳に出てくる「ホ・オーン」(「存在している者」[英語のbe動詞に当たるエイミ動詞の現在分詞「オーン」が、定冠詞「ホ」で実体化されています。])ということばが、黙示録1章8節で、

 今いまし、昔いまし、後に来られる方

と言われているときの「今いまし」と訳されていることばです。このことは、

 今いまし、昔いまし、後に来られる方

という呼び名が、

 わたしは、「わたしはある」という者である

という神さまの御名とかかわっていることを暗示しています。ただ「ホ・オーン」(「存在している者」)ということばだけですと、これは神さまが「常に存在しておられる方」すなわち「永遠に存在しておられる方」であることを示すことになります。その場合は、神さまが超絶的な方で、この世界とは無関係に存在しておられるような意味合いに受け取られかねません。しかし、これに「昔いまし、後に来られる方」(直訳「おられた方、また、来られる方」)ということばが続いていることによって、この方がこの世界の歴史に深くかかわっておられることが示されています。
 後ほどお話ししますが、このこと、すなわち、この方がこの世界の歴史と深くかかわっておられることは、

 わたしは、「わたしはある」という者である。

という神さまの御名によって示されていることです。


 出エジプト記3章では、

 わたしは、「わたしはある」という者である。

という神さまの御名が、その後に記されています、主がモーセに語られた、

わたしはあるという方が、私をあなたがたのところに遣わされた

ということばにおいて、

 わたしはある(エヒエ)

に短縮されています。この、

 わたしはある(エヒエ)

という御名を、ギリシャ語に訳せば、強調形の、
 エゴー・エイミ
となります。
 さらにこれに続く15節には、

神はさらにモーセに仰せられた。「イスラエル人に言え。
 あなたがたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、が、私をあなたがたのところに遣わされた、と言え。
 これが永遠にわたしの名、これが代々にわたってわたしの呼び名である。

と記されています。お気づきのように、これは、この前の14節後半で、

また仰せられた。「あなたはイスラエル人にこう告げなければならない。『わたしはあるという方が、私をあなたがたのところに遣わされた』と。」

と言われていることを言い換えています。神さまの御名に注目しますと、14節後半で、

 わたしはある

と言われている御名が、15節では、

 (ヤハウェ)

となっています。

 わたしはある

という御名は1人称の御名です。これに対して、

 (ヤハウェ)

という御名は、その、

 わたしはある

という御名が3人称化されたものです。

 わたしはある

という御名は1人称ですから、厳密に言いますと、契約の神である主、ヤハウェご自身だけがお用いになることができる御名です。仮にこの私が「わたしはある」というようなことを言ったとしますと、私は自分が契約の神である主、ヤハウェであると主張していることになってしまいます。実際、ヨハネの福音書8章58節に、

イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。アブラハムが生まれる前から、わたしはいるのです。」

と記されていますように、イエス・キリストはご自身が「わたしはある」という方であると主張しておられます。

 アブラハムが生まれる前から、わたしはいるのです。

というみことばは、

 アブラハムが生まれる前から、エゴー・エイミ

という言い方です。そのために、続く59節に、

すると彼らは石を取ってイエスに投げつけようとした。しかし、イエスは身を隠して、宮から出て行かれた。

と記されていますように、ユダヤ人から神を冒涜する者として石打の刑に処せられそうになりました。そのような語弊を避けるためにも、私たちは神さまの御名として、

 (ヤハウェ)

を用いるようになっています。
 ちなみに、この、

 (ヤハウェ)

という神さまの御名は固有名詞です。私で言えば「清水武夫」に当たります。これに対して、「神」という御名は、総称的な名で、私で言えば「人間」に当たります。誰かが私に向かって「人間さん」と呼んだとしても、私は自分が呼ばれたかどうか分かりません。ほかにも「人間」はたくさんいるからです。けれども「神」はお1人です。それで「神」といえば、それがどなたであるかは分かります。

 聖書において「名」は、その名をもつものの本質的な特性を表しています。それは、神さまの御名にも当てはまります。神さまがご自身の御名を啓示してくださったということは、神さまがどのような方であるかを示してくださったということです。それでは、

 わたしは、「わたしはある」という者である

という御名あるいは、その省略された形の、

 わたしはある

という御名は、神さまがどのような方であることを示しているのでしょうか。
 この、

 わたしは、「わたしはある」という者である

という御名は、それ自体としては、存在にかかわっていて、神さまが真に存在される方であられることを意味していると考えられます。神さまは何ものにも依存されることなく存在しておられ、それゆえに、永遠に充ち満ちた方として存在しておられます。また、神さまは創造の御業によって、この世界のすべてのものをお造りになった方です。その意味で、神さまはこの世界のすべてのものを存在するようにされた方であり、この世界のすべてのものの存在を支えておられる方です。
 この、

 わたしは、「わたしはある」という者である

という御名は、もともとは使役の形(ヒフィール語幹)であったという主張もあります[Douglaa Stuart, Exodus (NAC), pp.121-122]。その場合は、

 わたしは存在させる(あらしめる)者である

ということであり、神さまはこの世界のすべてのものを存在するようにされた方であり、この世界のすべてのものの存在を支えておられる方であられるということが、この御名の基本的な意味となります。
 ただ、これはマソラ本文の読みではありません。いずれにしましても、この御名は、神さまが真に存在される方であられること、神さまが何ものにも依存されることなく存在しておられ、それゆえに、永遠に充ち満ちた方として存在しておられることと、神さまがこの世界のすべてのものを存在するようにされた方であり、この世界のすべてのものの存在を支えておられる方であられるということの両方を意味しています。そのどちらかが基本的であるとしましても、もう一つのことが必ずその裏側にあります。
 このように、神さまは何ものにも依存されることなく、永遠に充ち満ちた方として存在しておられます。そしてそのような方として、創造の御業によって、この世界のすべてのものをお造りになり、この世界のすべてのものの存在を支えておられます。その意味で、神さまはこの世界のすべてのものの主権者であられます。特に、神さまがこの世界を歴史的な世界とお造りになられたこととのかかわりで言いますと、神さまは歴史の主です。
 黙示録1章8節に記されています、

神である主、今いまし、昔いまし、後に来られる方、万物の支配者がこう言われる。「わたしはアルファであり、オメガである。」

というみことばには、「神である主」が「万物の支配者」(ホ・パントクラトール)であられることが示されています。この「万物の支配者」ということば(ホ・パントクラトール)はギリシャ語原文では8節の最後に出てきて、強調されています。このことばは7十人訳では、しばしば、「万軍の主」(ヤハウェ・ツェバーオート)あるいは「全能者」(シャダイ)ということばの訳語として用いられています。どちらも、神である主がこの世界のすべてのものの主権者であれ、その全能の御力によって、すべてのものを治めておられる方であられることを表しています。

 出エジプト記3章に記されている記事においては、神さまがご自身の御名をモーセに啓示してくださったのは、神さまがモーセを、エジプトの奴隷となっていたイスラエルの民の許に遣わしてくださるためのことでした。そして、それは神さまがアブラハム、イサク、ヤコブに与えてくださった契約に基づくことでした。そのことは、この3章に記されていることに先立って、2章23節ー25節に、

それから何年もたって、エジプトの王は死んだ。イスラエル人は労役にうめき、わめいた。彼らの労役の叫びは神に届いた。神は彼らの嘆きを聞かれ、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた。神はイスラエル人をご覧になった。神はみこころを留められた。

と記されていること、また、3章6節に記されていますように、神さまがモーセにご自身のことを、最初に、

 わたしは、あなたの父の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。

としてお示しになったことに現れています。さらに、先ほど引用しました3章15節には、

神はさらにモーセに仰せられた。「イスラエル人に言え。
 あなたがたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、が、私をあなたがたのところに遣わされた、と言え。
 これが永遠にわたしの名、これが代々にわたってわたしの呼び名である。

と記されていました。この、

あなたがたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、

ということばは、ヘブル語原文では、「」(ヤハウェ)が先に出てきて、

 あなたがたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神

が(同格として)それを説明することばとなっています。それが新改訳の訳が示していることです。
 これらのことから、神さまの御名である、

 (ヤハウェ)

は、神さまがご自身の契約に対して真実な方であられることをも意味していることが分かります。それで、私たちは「(ヤハウェ)」のことを「契約の神である主」と呼んでいるのです。
 黙示録1章8節で、

 神である主、今いまし、昔いまし、後に来られる方、

と言われているときの「神である主」ということばは、旧約聖書に出てくる「神である」という呼び名を受けています。この「神である」という呼び名は、特に、創世記2章4節ー4章26節に出てきます。この場合の「」は新改訳で太字で表されていますように、契約の神である主、ヤハウェです。
 創世記1章1節ー2章3節に記されている天地創造の御業の記事では、「神」(エローヒーム)という御名が用いられています。それは、この記事では、神さまがこの世界のすべてのものの造り主として、神さまによって造られたものと絶対的に区別される方であることが示されているからです。
 これに対して2章4節ー4章26節に記されている記事では、その天地創造の御業を遂行された神さまが、ご自身の契約に基づいて、無限に身を低くされ、人と深くかかわってくださっていることが示されています。
 神である主はご自身がお造りになったこの世界にご臨在され、陶器師にたとえられるような形で、土地のちりで人を形造り、親しく向き合う形で「いのちの息」を吹き込まれました。そして、神のかたちに造られた人をご自身のご臨在の御許に住まわせてくださいました。神さまがこのような方であられることが、「神である」という呼び名によって示されています。「神である」は、人が罪を犯して、御前に堕落してしまった後も、贖い主を約束してくださって、ご自身の契約の民を再びご自身の御臨在の御許に住まうもの、ご自身との愛にあるいのちの交わりのうちに生きる者として回復してくださることを示し、約束してくださいました。
 この神さまの契約の約束は、空しくなることはありません。というのは、契約の神である主の、

 わたしは、「わたしはある」という者である

という御名あるいは、その省略された形の、

 わたしはある

という御名が表していますように、神さまがこの世界のすべてのものの主権者であられ、特に、歴史の主であられるからです。神さまは歴史の主であられる方として、ご自身の契約に真実であられるのです。それで、歴史の主であられる神さまは、すべてのことを働かせて、ご自身の契約に約束されたことを実現してくださいます。

 先ほどお話ししましたように、黙示録1章8節に記されている、

 わたしはアルファであり、オメガである。

という神である主のみことばは、ギリシャ語では強調形の「エゴー・エイミ・・・」という表現の仕方で、語っておられる方が、契約の神である主、ヤハウェであられることを意味しています。その意味で、この方はこの世界のすべてのものの主権者、特に、歴史の主であられ、すべてのことを働かせて、ご自身の契約に約束されたことを実現してくださいます。
 その方が、ご自身のことを、

 わたしはアルファであり、オメガである

と言われます。「アルファ」はギリシャ語のアルファベットの最初の文字であり「初め」を意味しています。また、「オメガ」は最後の文字であり、「終わり」を意味しています。このことばには旧約聖書の背景があります。イザヤ書41章4節には、

 だれが、これを成し遂げたのか。
 初めから代々の人々に呼びかけた者ではないか。
 わたし、こそ初めであり、
 また終わりとともにある。わたしがそれだ。

という主、ヤハウェのみことばが記されています。また、44章6節ー7節には、

 イスラエルの王である、これを贖う方、
 万軍のはこう仰せられる。
 「わたしは初めであり、
 わたしは終わりである。
 わたしのほかに神はない。
 わたしが永遠の民を起こしたときから、
 だれが、わたしのように宣言して、
 これを告げることができたか。
 これをわたしの前で並べたててみよ。
 彼らに未来の事、来たるべき事を
 告げさせてみよ。

と記されています。さらに、48章12節ー13節には、

 わたしに聞け。ヤコブよ。
 わたしが呼び出したイスラエルよ。
 わたしがそれだ。
 わたしは初めであり、また、終わりである。
 まことに、わたしの手が地の基を定め、
 わたしの右の手が天を引き延ばした。
 わたしがそれらに呼びかけると、
 それらはこぞって立ち上がる。

と記されています。
 これらの引用から分かりますが、主が「初めであり」、「終わりである」ということは、主がこの歴史的な世界の主であられ、この世界に起こるすべてのことを治めておられる方であることを意味しています。それは、ご自身のみこころと関係なく存在しているものを治めておられると言うことではありません。主はすべてのものをお造りになり、存在させておられる方です。主はこの歴史的な世界を始められた方であり、終わらせる方です。当然、その間のすべての歴史の出来事を治めておられ、導いておられます。そのゆえに、主はやがて起こることを前もってお知らせになることがおできになります。そのことは、特に、主がご自身の契約に基づいて遂行される贖いの御業が、必ず実現することを意味しています。そして、主の契約の民は、このように「初めであり」、「終わりである」主を信頼するように招かれているのです。

 これらのことを踏まえて、契約の神である主の御名に関連して、もう一つのことに注目したいと思います。
 これまでお話ししてきましたように、この黙示録1章8節の、

神である主、今いまし、昔いまし、後に来られる方、万物の支配者がこう言われる。「わたしはアルファであり、オメガである。」

というみことばは、「神である主」という呼び名も、

 今いまし、昔いまし、後に来られる方

という呼び名も「万物の支配者」という呼び名も、

 わたしはアルファであり、オメガである。

という主のみことばも、すべて、

 わたしは、「わたしはある」という者である。

という契約の神である主、ヤハウェの御名に基づいていますし、その御名を指し示しています。
 このことには理由があると考えられます。
 先ほど引用しました出エジプト記3章15節には、

神はさらにモーセに仰せられた。「イスラエル人に言え。
 あなたがたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、が、私をあなたがたのところに遣わされた、と言え。
 これが永遠にわたしの名、これが代々にわたってわたしの呼び名である。

というみことばが記されていました。これは、契約の神である主、ヤハウェがアブラハム、イサク、ヤコブに与えてくださった契約に基づいて、イスラエルの民をエジプトの奴隷の状態から贖い出してくださること、そのために、モーセをお遣わしになることを示すものでした。主はご自身がこのような方であることを「」(ヤハウェ)という御名によってお示しになりました。そして、この御名について、

これが永遠にわたしの名、これが代々にわたってわたしの呼び名である。

と述べておられます。神さまは「」(ヤハウェ)という御名の方として、出エジプトの時代に御業をなさっただけでなく、その後もずっと、神さまは「」(ヤハウェ)という御名の方として、ご自身契約の民のために御業をなさってくださいます。
 このことは、ローマ帝国からの激しい迫害を受けていたヨハネを初めとする「アジヤにある七つの教会」の信徒たちにとって、大きな意味をもっていました。エジプト奴隷となっていたイスラエルも、ローマ帝国からの厳しい迫害にさらされていた「アジヤにある七つの教会」の信徒たちも、この世の権力者によって搾取され、苦しめられていました。契約の神である主、ヤハウェは、そのようなご自身の民ために、アブラハム、イサク、ヤコブに与えられた契約の約束を覚えていてくださり、約束のメシヤをとおして贖いの御業を成し遂げてくださいましたし、それを完成へと至らせてくださいます。
 このことは、この1章8節に記されているみことばに先立って、7節に記されている、

見よ、彼が、雲に乗って来られる。すべての目、ことに彼を突き刺した者たちが、彼を見る。地上の諸族はみな、彼のゆえに嘆く。しかり。アーメン。

というみことばにおいても示されていたことでした。黙示録1章では、7節と8節が1節ー8節に記されていることの締めくくりの部分となっています。その意味で、7節と8節は深くつながっています。
 7節前半の、

 見よ、彼が、雲に乗って来られる。

ということばの背景にあるのは、ダニエル書7章13節ー14節に記されています、

 私がまた、夜の幻を見ていると、
  見よ、人の子のような方が天の雲に乗って来られ、
  年を経た方のもとに進み、その前に導かれた。
  この方に、主権と光栄と国が与えられ、
  諸民、諸国、諸国語の者たちがことごとく、
  彼に仕えることになった。
  その主権は永遠の主権で、過ぎ去ることがなく、
  その国は滅びることがない。

というみことばです。ここでは、「諸民、諸国、諸国語の者たちがことごとく」やがて栄光のうちに来られるメシヤすなわちキリストの民として回復されるようになることを預言的に示していました。これは「諸民、諸国、諸国語の者たちがことごとく」主がアブラハムに与えてくださった、

 地上のすべての民族は、
 あなたによって祝福される。

という、創世記12章3節に記されている約束にあずかって主の契約の民としていただくことを意味しています。
 また、7節後半の、

すべての目、ことに彼を突き刺した者たちが、彼を見る。地上の諸族はみな、彼のゆえに嘆く。

というみことばの背景となっているのは、ゼカリヤ書12章10節に記されている、

わたしは、ダビデの家とエルサレムの住民の上に、恵みと哀願の霊を注ぐ。彼らは、自分たちが突き刺した者、わたしを仰ぎ見、ひとり子を失って嘆くように、その者のために嘆き、初子を失って激しく泣くように、その者のために激しく泣く。

というみことばです。これも、主に背いていた主の契約の民が、自分たちこそが、契約の神である主、ヤハウェなる方を「突き刺した者」であることを悟って、そのことを深く嘆き悲しむようになることを預言的に示していました。それで、このみことばを背景として記されている黙示録1章7節の、

すべての目、ことに彼を突き刺した者たちが、彼を見る。地上の諸族はみな、彼のゆえに嘆く。

というみことばは、基本的に、「地上の諸族」が自分たちの契約の神である主を突き刺してしまったことを悟るようになり、そのことのために、深く嘆き悲しむようになること、そして、自分たちが突き刺してしまった方を仰ぎ見るようになることを意味しています。これも、「地上の諸族」が、主がアブラハムに与えてくださった、

 地上のすべての民族は、
 あなたによって祝福される。

という約束にあずかって、主の契約の民としていただくようになることを意味しています。
 8節では、7節に示されている「地上の諸族」のうちから主の契約の民が回復されることを実現してくださる方のことが記されています。そこでは、これまでお話ししてきましたように、

 わたしは、「わたしはある」という者である

という御名あるいは、その省略された形の、

 わたしはある

という御名に基づき、また逆に、その御名を指し示す、「神である主」という呼び名と、

 今いまし、昔いまし、後に来られる方

という呼び名、さらには、「万物の支配者」という呼び名をもって呼ばれる方が、

 わたしはアルファであり、オメガである。

とあかししておられます。これによって、7節に記されている、「地上の諸族」が、主がアブラハムに与えてくださった、

 地上のすべての民族は、
 あなたによって祝福される。

という約束にあずかって、主の契約の民としていただくようになることが、必ず実現されるということが示されています。
そして、「アジヤにある七つの教会」の信徒たちも、また、今日の困難な時代を生きている私たちも、この方、歴史の主であられる契約の神である主、ヤハウェを信頼するように招かれているのです。


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