黙示録講解

(第98回)


説教日:2012年12月2日
聖書箇所:ヨハネの黙示録1章1節ー8節
説教題:彼を突き刺した者たちが


 ヨハネの黙示録1章7節には、

見よ、彼が、雲に乗って来られる。すべての目、ことに彼を突き刺した者たちが、彼を見る。地上の諸族はみな、彼のゆえに嘆く。しかり。アーメン。

と記されています。
 このみことばは旧約聖書の二つの書に記されているみことばを背景として記されています。
 一つは、先主日に取り上げました、ダニエル書7章13節ー14節に記されています、

 私がまた、夜の幻を見ていると、
  見よ、人の子のような方が天の雲に乗って来られ、
  年を経た方のもとに進み、その前に導かれた。
  この方に、主権と光栄と国が与えられ、
  諸民、諸国、諸国語の者たちがことごとく、
  彼に仕えることになった。
  その主権は永遠の主権で、過ぎ去ることがなく、
  その国は滅びることがない。

というみことばに出てくる、

 見よ、人の子のような方が天の雲に乗って来られた

というみことばです。
 もう一つは、ゼカリヤ書12章10節に記されています、

わたしは、ダビデの家とエルサレムの住民の上に、恵みと哀願の霊を注ぐ。彼らは、自分たちが突き刺した者、わたしを仰ぎ見、ひとり子を失って嘆くように、その者のために嘆き、初子を失って激しく泣くように、その者のために激しく泣く。

というみことばです。きょうは、このみことばについてお話しします。
 このゼカリヤ書12章10節に記されているみことばの中の、

彼らは、自分たちが突き刺した者、わたしを仰ぎ見、ひとり子を失って嘆くように、その者のために嘆き、初子を失って激しく泣くように、その者のために激しく泣く。

というみことばが、黙示録1章7節の、

すべての目、ことに彼を突き刺した者たちが、彼を見る。地上の諸族はみな、彼のゆえに嘆く。

というみことばの背景になっています。
 このゼカリヤ書12章10節に記されているみことばの意味を理解するためには、これに先立って記されていることを踏まえておく必要があります。
 このみことばはゼカリヤ書12章に記されていますが、12章に記されていることは、さらに、11章に記されているみことばを受けています。それで、引用はいたしませんが、11章に記されていることを、ごく簡単にまとめてお話ししますと、11章においては、イスラエルの民の歴史的な状況が記されています。イスラエルの民は、主が与えてくださる良い牧者を退けてしまうようになります。それで、主はイスラエルの民を退けられ、周囲の国々が進入してきてその地を荒らします。イスラエルの民は死に捕らえられ、お互いに争うようになります。やがて、「愚かな牧者」(13節)と呼ばれる支配者がその地に侵入してきて、イスラエルの民はその手に陥り、ひどく痛めつけられるようになります。けれども、その「愚かな牧者」も滅亡するようになります。
 それらのことが示されて11章は終わりますが、その後、イスラエルの民はどうなるのかということは記されていません。このことを受けて、12章においては、イスラエルの民がどのようになるかということが示されています。
 黙示録1章7節に記されている、

すべての目、ことに彼を突き刺した者たちが、彼を見る。地上の諸族はみな、彼のゆえに嘆く。

というみことばの背景にあるゼカリヤ書12章10節の、

彼らは、自分たちが突き刺した者、わたしを仰ぎ見、ひとり子を失って嘆くように、その者のために嘆き、初子を失って激しく泣くように、その者のために激しく泣く。

というみことばは、その前の1節ー9節に記されていますみことばを受けています。そこには、

宣告。
イスラエルについてののことば。
 ――天を張り、地の基を定め、人の霊をその中に造られた方、の御告げ――見よ。わたしはエルサレムを、その回りのすべての国々の民をよろめかす杯とする。ユダについてもそうなる。エルサレムの包囲されるときに。その日、わたしはエルサレムを、すべての国々の民にとって重い石とする。すべてそれをかつぐ者は、ひどく傷を受ける。地のすべての国々は、それに向かって集まって来よう。その日、――の御告げ――わたしは、すべての馬を打って驚かせ、その乗り手を打って狂わせる。しかし、わたしはユダの家の上に目を開き、国々の民のすべての馬を打って盲目にする。ユダの首長たちは心の中で言おう。エルサレムの住民の力は彼らの神、万軍のにある、と。その日、わたしは、ユダの首長たちを、たきぎの中にある火鉢のようにし、麦束の中にある燃えているたいまつのようにする。彼らは右も左も、回りのすべての国々の民を焼き尽くす。しかし、エルサレムは、エルサレムのもとの所にそのまま残る。
 主は初めに、ユダの天幕を救われる。それは、ダビデの家の栄えと、エルサレムの住民の栄えとが、ユダ以上に大きくならないためである。その日、は、エルサレムの住民をかばわれる。その日、彼らのうちのよろめき倒れた者もダビデのようになり、ダビデの家は神のようになり、彼らの先頭に立つの使いのようになる。
 その日、わたしは、エルサレムに攻めて来るすべての国々を捜して滅ぼそう。

と記されています。
 順次このみことばを見ていきましょう。
 1節には、

宣告。
イスラエルについてののことば。
 ――天を張り、地の基を定め、人の霊をその中に造られた方、の御告げ――

と記されています。これは12章全体に対する導入のことばです。ですから、12章に記されているのは、

 イスラエルについてののことば。

です。この場合の「」は、新改訳で太字で記されていますように、契約の神である主、ヤハウェです。そして、ここでは、「」のことが、

 天を張り、地の基を定め、人の霊をその中に造られた方

と説明されています。

 天を張り、地の基を定め

ということは、この方、契約の神である主、ヤハウェが天地創造の御業を遂行された方であることを示しています。これによって、主が全能の神であられ、どのようなことをも成し遂げられる方であることが示されています。さらに、このみことばを示されたゼカリヤも、これを聞くユダの民も、神さまは、そのみことばによって天地創造の御業を遂行されたことを知っています。このことからも、この方がお語りになること、すなわちそのみことばの確かさが示されています。
 これに続いて、主、ヤハウェが、

 人の霊をその中に造られた方

であることが示されています。もちろんこれは、この前に記されている天地創造の御業に含まれることです。その創造の御業の中でも特に、主、ヤハウェが人を生きているものとしてお造りになった方であることが示されています。これによって、主、ヤハウェは、人を治め導いておられる方であることが示されています。この12章に記されていることは、主がイスラエルについてお語りになったみことばです。それは、現実の人の歴史の中で起こることです。主はそのすべてを治め、導いておられる契約の神である主です。
 2節ー3節には、

見よ。わたしはエルサレムを、その回りのすべての国々の民をよろめかす杯とする。ユダについてもそうなる。エルサレムの包囲されるときに。その日、わたしはエルサレムを、すべての国々の民にとって重い石とする。すべてそれをかつぐ者は、ひどく傷を受ける。地のすべての国々は、それに向かって集まって来よう。

と記されています。ここでは、「回りのすべての国々」がエルサレムを占領しようとしてやって来て、包囲することが示されています。けれども、主はエルサレムを「よろめかす杯」とされますので、それを飲む者たちは泥酔した者のように、あるいは何らかの毒杯を仰いだ者のように、よろめくことになります。また、主はエルサレムを「重い石」とされますので、それを運んで行こうとしても、困難を極めることになります。あえて運んで行こうつすれば、かえって彼らが大きく傷つくことになります。私たちの感覚では、重いものを持ち上げようとして腰が砕けてしまうということを想像しますが、ここで用いられていることば(動詞・サーラト)は「傷をつける」ことを表しています。いずれにしましても、ここでは周囲の国々がエルサレムを包囲しても、かえって、それによって大きな損失を被ることになることが示されています。その理由はこの後の4節で明らかになりますが、先主日にもお話ししました、主ご自身が「神であられる戦士」として霊的な戦いを戦われるからです。
 最後の、

 地のすべての国々は、それに向かって集まって来よう。

ということばは、実際に「地のすべての国々」が「それに向かって集まって来」るようになるという意味に取るか、たとえ「地のすべての国々」が「それに向かって集まって来」たとしても、彼ら自身が大きな傷を受けるだけであるという意味に取るか、意見が分かれるところです。
 4節の、

その日、――の御告げ――わたしは、すべての馬を打って驚かせ、その乗り手を打って狂わせる。しかし、わたしはユダの家の上に目を開き、国々の民のすべての馬を打って盲目にする。

というみことばは、この前の2節ー3節に記されていたことを別の面から述べています。契約の神である主、ヤハウェご自身が、そこにご臨在されて、エルサレムを包囲する軍隊の馬と騎手を混乱させて、戦いを遂行することができないようにされるということです。それは、恐怖に駆られて逃げ惑うということでもあるでしょうし、混乱のあまり、同士打ちをするということでもあるでしょう。

 わたしはユダの家の上に目を開き

というみことばは、主が注意深く見張って「ユダの家」を守られるということです。
 ここには、先ほど触れました、主ご自身が霊的な戦いを戦われるという「神であられる戦士」の思想があります。このことを受けて、5節には、

ユダの首長たちは心の中で言おう。エルサレムの住民の力は彼らの神、万軍のにある、と。

と記されています。

 ユダの首長たちは心の中で言おう。

と言われているときの「心の中で言う」ということは、よく考えて結論づけることを意味しています。「ユダの首長たち」は、次の6節で明らかになりますが、エルサレムでの戦いに参加しています。そして、その戦いの様子を見て、どう考えても、そこでは契約の神である主が「エルサレムの住民」とともにおられて、その戦いを戦っておられたと言うほかはないと考えたということです。
 6節には、

その日、わたしは、ユダの首長たちを、たきぎの中にある火鉢のようにし、麦束の中にある燃えているたいまつのようにする。彼らは右も左も、回りのすべての国々の民を焼き尽くす。しかし、エルサレムは、エルサレムのもとの所にそのまま残る。

と記されています。
 この場合の「その日」は、4節において、

その日、――の御告げ――わたしは、すべての馬を打って驚かせ、

と言われているときの「その日」と同じ時を意味しています。つまり、「ユダの首長たち」もエルサレムをを包囲しようとしてやって来る「回りのすべての国々の民」と戦うのです。その時、主が彼らを「たきぎの中にある火鉢のようにし、麦束の中にある燃えているたいまつのように」してくださいます。言うまでもなく、ここでは「回りのすべての国々の民」が「たきぎ」や「麦束」にたとえられています。ここでも、この戦いの主体は契約の神である主です。
 7節では、

は初めに、ユダの天幕を救われる。それは、ダビデの家の栄えと、エルサレムの住民の栄えとが、ユダ以上に大きくならないためである。

と言われています。
 これは、ユダの住民とエルサレムの住民の関係に触れるものです。ご存知のように、エルサレムはユダの首都です。おそらく、このことの背景には、首都であるエルサレムに住んでいる人々は、ユダ全土に住んでいる人々よりも高い所にいるというような発想があったと思われます。私たちの国で言えば、今はそうでもないかもしれませんが、かつては、東京に対する地方の人々の思いにそのようなものがありました。また、同じ「エルサレムの住民」の中でも、「ダビデの家」が最も由緒ある家柄であると考えられていました。けれども、契約の神である主は、

 初めに、ユダの天幕を救われる

ことによって、そのような差別を取り去られます。主は等しく、ご自身の契約の民の間にご臨在してくださり、主の契約の民としての栄光にあずからせてくださいます。
 けれども、このことは、主がダビデに与えてくださった、ダビデの子に関する契約が無効になるという意味ではありません。主はダビデにダビデの子が永遠の王座に着座され。主の御名のために神殿を建設し、主の契約の民のためにまことの牧者となって、彼らをいのちに導くということを約束されました。そのことが、続く8節において、

その日、は、エルサレムの住民をかばわれる。その日、彼らのうちのよろめき倒れた者もダビデのようになり、ダビデの家は神のようになり、彼らの先頭に立つの使いのようになる。

と言われているときの、

 ダビデの家は神のようになり、彼らの先頭に立つの使いのようになる。

ということばに示唆されています。主がダビデに与えてくださった契約に約束されていることは、まことのダビデの子として来てくださった御子イエス・キリストにおいて成就しています。この8節において、

ダビデの家は神のようになり、彼らの先頭に立つの使いのようになる。

と言われていることも、最終的には、イエス・キリストにおいて現実となります。
 9節では、

その日、わたしは、エルサレムに攻めて来るすべての国々を捜して滅ぼそう。

と言われています。改めて説明するまでもありませんが、これも、契約の神である主が「神であられる戦士」として霊的な戦いを戦われることを示しています。


 これらのことを受けて、10節では、

わたしは、ダビデの家とエルサレムの住民の上に、恵みと哀願の霊を注ぐ。彼らは、自分たちが突き刺した者、わたしを仰ぎ見、ひとり子を失って嘆くように、その者のために嘆き、初子を失って激しく泣くように、その者のために激しく泣く。

と言われています。
 すでにお話ししましたように、これに先立つ1節ー9節においては、契約の神である主が「神であられる戦士」として、エルサレムを包囲しようとしてやって来る周囲の国々と戦われることが示されていました。その際に、主はその御目をエルサレムに対してしっかりと見開かれ、これをお守りくださると言われていました。たとえ地のすべての国々がこぞってエルサレムを取り囲んだとしても、主がそのすべてからエルサレムの住民とユダの住民を守られるとも言われていました。
 これらのことを考えますと、エルサレムの住民とユダの住民が主の宝物のように取り扱われていることが分かります。申命記32章9節ー10節には、イスラエルの民のことが、

 の割り当て分はご自分の民であるから、
 ヤコブは主の相続地である。
 主は荒野で、
 獣のほえる荒地で彼を見つけ、
 これをいだき、世話をして、
 ご自分のひとみのように、
 これを守られた。

と記されています。このゼカリヤ書12章1節ー9節に記されていることは、まさに、主がユダの住民とエルサレムの住民を「ご自分のひとみのように」お守りになるということです。実際、ゼカリヤ書2章8節には、ユダの民に対して、主が、

 あなたがたに触れる者は、わたしのひとみに触れる者だ。

と言われたことが記されています。
 このように見ますと、ユダの住民とエルサレムの住民がどんなに素晴らしい民であるかと思いたくなります。けれども、先ほどお話ししましたように、この12章に先立って11章には、そのユダの住民とエルサレムの住民が契約の神である主が遣わしてくださった良い牧者を退け、主に背いて、さばきを招くに至ったことが記されていました。また、先ほどの2章8節に記されていました、

 あなたがたに触れる者は、わたしのひとみに触れる者だ。

というみことばも、主に背き続けてさばきを受け、バビロニアの捕囚になり、国々に略奪されていたユダの民に対して語られたものです。ユダの住民もエルサレムの住民も、その実態は、決して、主の宝物であると言われるだけの価値をもってはいなかったのです。
 これは、古い契約の時代のユダの住民とエルサレムの住民だけのことではありません。今ここにいる私たちに、そのまま当てはまることです。
 そうではあっても、主はそのユダの住民とエルサレムの住民のことを、

 あなたがたに触れる者は、わたしのひとみに触れる者だ。

と言われ、まさに「ご自分のひとみのように」お守りになるのです。それはただただ契約の神である主の一方的な愛と恵みによることです。このことも、そのまま、私たちに当てはまることです。
 このことを踏まえて、改めて、12章10節に記されているこを見てみましょう。
 まず、

わたしは、ダビデの家とエルサレムの住民の上に、恵みと哀願の霊を注ぐ。

と言われています。問題は、この場合の「恵みと哀願の霊」と訳されているときの「」が人の霊か御霊かということです。これがただ「恵みの霊」となっていたとしますと、御霊の可能性があります。けれども、「恵みと哀願の霊」ということですと、人の霊のことであると考えるほかはありません。「哀願」と訳されたことば(タハヌーニーム)は、何かを熱心に願い求めることを表します。この場合は、恵みを熱心に願い求めることでしょう。「恵みと哀願の霊」と言われているときの「恵み・・・の霊」ということは少し分かりにくいかと思います。おそらく、これは契約の神である主の恵みを悟ることを表していると思われます。それは、これに先立って1節ー9節に記されていました、契約の神である主が、その一方的な愛と恵みによって、ユダとエルサレムの住民をお守りくださったことをとおして悟ったものであると考えられます。そして、そのように主の恵みを悟るとき、その人は、ますます切に主の恵みを願い求めるようになります。より具体的なことは、この後に記されていることとのかかわりで明らかになってきます。
 大切なことは、

わたしは、ダビデの家とエルサレムの住民の上に、恵みと哀願の霊を注ぐ。

と言われていますように、契約の神である主が、その一方的な恵みによって、ご自身の契約の民に「恵みと哀願の霊」を与えてくださるということです。
 10節では、このことを受けて、さらに、

彼らは、自分たちが突き刺した者、わたしを仰ぎ見、ひとり子を失って嘆くように、その者のために嘆き、初子を失って激しく泣くように、その者のために激しく泣く。

と言われています。
 この引用の冒頭の「彼ら」は「ダビデの家とエルサレムの住民」のことです。契約の神である主や「ダビデの家とエルサレムの住民」に敵対している周囲の国々の民ではありません。その「彼ら」すなわち「ダビデの家とエルサレムの住民」について、さらに、

 彼らは、自分たちが突き刺した者、わたしを仰ぎ見る

と言われています。
 ここで「わたし」と言われているのは契約の神である主です。そして、「彼ら」すなわち「ダビデの家とエルサレムの住民」が契約の神である主を「突き刺した」と言われています。このことは、古くから理解しがたいことであると考えられてきたようで、いろいろな訳や理解が生み出されてきました。
 たとえば7十人訳は「突き刺した」を「侮辱的に扱った」、「あざけった」というように訳しています。また、ある人々はここで「わたし」と言われているのは契約の神である主ではなく、ユダヤ人の殉教者であると主張しました。けれども、いろいろな議論は省きますが、新改訳の基となっているマソラ本文が本来の読みを表していると考えられます。また、ユダヤ人の殉教者として実在した人物で、ここで示されていることに当てはまる人はいません。
 さらに、「突き刺した」と言われているのは、文字通りのことではなく、心や感情を傷つけたことを意味していると理解している人々もいます。けれども、この「突き刺した」と訳されていることば(ダーカル)は、聖書の中に出てくる用例では、すべて、実際に刀や槍などで「突き刺す」ことを意味しています。ゼカリヤ書では、ここの他13章3節に出てきます。また、ゼカリヤ書以外では、民数記5章8節、士師記9章54節、サムエル記第一・31章4節、歴代誌第一・10章4節、イザヤ書13章15節、エレミヤ書37章10節、51章4節、哀歌4章9節に出てきます。
 ですから、このゼカリヤ書12章10節では、主の契約の民とされていた「ダビデの家とエルサレムの住民」が、こともあろうに、その契約の神である主、ヤハウェを「突き刺した」と言われているのです。これは、古い契約の時代には解くことができなかったなぞです。これに相当することで、古い契約の下ではなぞであるゼカリヤ書12章10節で言われていることの意味を解く鍵のようなみことばは、「主のしもべの第4の歌」を記しているイザヤ書53章5節に記されている、

 しかし、彼は、
 私たちのそむきの罪のために刺し通され、
 私たちの咎のために砕かれた。
 彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、
 彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。

というみことばです。ここで用いられている「刺し通された」と訳されていることばは、ゼカリヤ書12章10節で用いられいることばとは違いますが、新改訳のように「刺し通す」ことを意味しています。このことから分かりますが、主の契約の民が「突き刺した」ことは、人の性質をお取りになって来てくださった栄光の主、イエス・キリストにおいて成就しています。
 ゼカリヤ書12章10節では、契約の神である主が注いでくださる「恵みと哀願の霊」によって、「ダビデの家とエルサレムの住民」が、自分たちの契約の神である主、ヤハウェを「突き刺した」ことを悟るようになり、この方を仰ぎ見て、激しく嘆くようになることが記されています。その嘆きの深さは「ひとり子を失って嘆くように」と言われています。これだけでも十分にね劇の深さを表しているのですが、ここではさらに「初子を失って激しく泣くように」と言われていて、その嘆きの深さをこれ以上ないほどに表しています。
 黙示録1章7節に記されている、

すべての目、ことに彼を突き刺した者たちが、彼を見る。地上の諸族はみな、彼のゆえに嘆く。

というみことばは、このゼカリヤ書12章10節の、

彼らは、自分たちが突き刺した者、わたしを仰ぎ見、ひとり子を失って嘆くように、その者のために嘆き、初子を失って激しく泣くように、その者のために激しく泣く。

というみことばを背景として記されています。
 そうしますと、この、

すべての目、ことに彼を突き刺した者たちが、彼を見る。地上の諸族はみな、彼のゆえに嘆く。

というみことばは、基本的に、「地上の諸族」が自分たちの契約の神である主を突き刺してしまったことを悟るようになり、そのことのために、深く嘆くようになることを意味しています。それはまた、契約の神である主の一方的な愛と恵みによって、自分たちが契約の神である主に対してしてしまったことを悟るようになったことによっています。けれどもそれで終わるのではありません。その「地上の諸族」は自分たちが突き刺してしまった契約の神である主を仰ぎ見るようになるのです。それは、彼らが契約の神である主の御許に立ち返ってのことです。
 そうであるとしますと、この場合の「地上の諸族」も、創世記12章3節に、

 地上のすべての民族は、
 あなたによって祝福される。

と記されている、主がアブラハムに与えてくださった約束にあずかって、主の契約の民としていただいているのです。
 私たちも無限、永遠、不変の栄光の主であられながら、人の性質をお取りになって来てくださった御子イエス・キリストを十字架につけたのは、ほかならぬ自分自身であったことを悟るようになりました。それは主がその一方的な愛と恵みによって、私たちに「恵みと哀願の霊」を与えてくださったからです。私たちは信仰によって、このお方を仰ぎ見ています。


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