黙示録講解

(第97回)


説教日:2012年11月25日
聖書箇所:ヨハネの黙示録1章1節ー8節
説教題:雲に乗って来られる方


 ヨハネの黙示録1章7節には、

見よ、彼が、雲に乗って来られる。すべての目、ことに彼を突き刺した者たちが、彼を見る。地上の諸族はみな、彼のゆえに嘆く。しかり。アーメン。

と記されています。
 このみことばは旧約聖書の二つの書に記されているみことばを背景として記されています。
 一つはダニエル書7章13節ー14節に記されています、

 私がまた、夜の幻を見ていると、
  見よ、人の子のような方が天の雲に乗って来られ、
  年を経た方のもとに進み、その前に導かれた。
  この方に、主権と光栄と国が与えられ、
  諸民、諸国、諸国語の者たちがことごとく、
  彼に仕えることになった。
  その主権は永遠の主権で、過ぎ去ることがなく、
  その国は滅びることがない。

というみことばに出てくる、

 見よ、人の子のような方が天の雲に乗って来られた

ということです。
 きょうは、このことについてお話しします。
 ダニエル書7章にはダニエルが夜の幻のうちに示された海から上ってきた4頭の大きな獣のことが記されています。2節ー8節には、

私が夜、幻を見ていると、突然、天の四方の風が大海をかき立て、四頭の大きな獣が海から上がって来た。その四頭はそれぞれ異なっていた。第一のものは獅子のようで、鷲の翼をつけていた。見ていると、その翼は抜き取られ、地から起こされ、人間のように二本の足で立たされて、人間の心が与えられた。また突然、熊に似たほかの第二の獣が現れた。その獣は横ざまに寝ていて、その口のきばの間には三本の肋骨があった。するとそれに、『起き上がって、多くの肉を食らえ』との声がかかった。この後、見ていると、また突然、ひょうのようなほかの獣が現れた。その背には四つの鳥の翼があり、その獣には四つの頭があった。そしてそれに主権が与えられた。その後また、私が夜の幻を見ていると、突然、第四の獣が現れた。それは恐ろしく、ものすごく、非常に強くて、大きな鉄のきばを持っており、食らって、かみ砕いて、その残りを足で踏みつけた。これは前に現れたすべての獣と異なり、十本の角を持っていた。私がその角を注意して見ていると、その間から、もう一本の小さな角が出て来たが、その角のために、初めの角のうち三本が引き抜かれた。よく見ると、この角には、人間の目のような目があり、大きなことを語る口があった。

と記されています。
 これら4頭の獣が意味するところについては、すでに、何度かお話ししたことがあります。繰り返しになってしまい申し訳ありませんが、改めて結論的なことをお話ししたいと思います。
 これら4頭の獣たちは、ダニエルが仕えていたバビロンの王ネブカデネザルの時代から始まって、それに続いて登場してくるこの世の帝国を表しています。それで、これら4頭の獣が、実際に歴史に登場してきたどの帝国であるかということが論じられてきました。そして、その見方は大きく二つに別れていますが、それぞれに言い分があり、決着はついていません。
 おそらく、それがダニエル書の意図するところで、それによって、いくつかのことが示されていると考えられます。
 第一に、これら4頭の獣によって表象的に示されているのは、この世の帝国です。その権力は軍事力や経済的な力などの血肉の力によって支えられています。それは、また、罪の自己中心性によって動かされ、自らを神の位置に据えて、いっさいのものを支配しようとする特徴をもった権力です。そして、このことを実現するために、血肉の力を使って、力ずくで人を支配し、邪魔者を抹殺します。
 ノアの時代の大洪水によるさばきが執行された後には、神さまは契約により、一般恩恵による御霊のお働きによって、人の心を啓発してくださっています。そうであっても、人は造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまい、その本性が腐敗しています。そのために、罪の自己中心性がさまざまな形で現れてきてしまうという現実があります。自己中心的なおごりや高ぶり、その裏返しの、ねたみやそしりや憤りという内側の状態から始まり、それを表す暴力的なことばや行いが生まれてきます。さらに、社会的には、力のある者が弱い立場の人々を搾取し、抵抗する人々を弾圧することや、国家間の紛争や戦争となって現れてきます。人類の歴史の中で、これらのことが絶えたことはありません。
 第二に、ここに記されている、4頭の獣たちの幻によってダニエルに示されているのは、架空の国々のことではなく、実際に、この世の歴史の中に登場してくる国々のことであるということです。それで、バビロンの王ネブカデネザルに続くいくつかの帝国の特徴がこれら4頭の獣に見られる形で記されています。
 第三に、これら4頭の獣の「4」という数字は完全数です。特に、2節に出てくる「天の四方の風」ということばや、より一般的な「四方」あるいは「地の四隅」というように、空間的あるいは地理的な広がりの全体性を表します。それで、これら4頭の獣によって、この世の国々全体が象徴的に表されていると考えられます。しかも、これら4頭の獣が次々と現れてくるということから、これら4頭の獣によって象徴的に表されているのは、ダニエルが仕えていたネブカデネザルの時代から世の終わりに至るまでの歴史の中に登場してくるこの世の国々であると考えられます。
 第四に、このような意味をもっているこれら4頭の獣についての描写を見ますと、だんだんとその凶暴性が増していき、第四の獣において頂点に達します。これによって、世の終わりに至るまでの歴史の中に登場してくるこの世の国々は、だんだんとその凶暴性を増していくことが示されています。そして、終わりの日に登場してくる帝国においてその頂点に至ることが示されています。
 第5に、最も大切なことですが、これは、ダニエル書2章28節に記されていますダニエルがネブカデネザルに語ったことばを用いて言いますと、「天に秘密をあらわすひとりの神がおられ、この方が終わりの日に起こることを」ダニエルにお示しになったものです。この方は、ご自身がこれら4頭の獣によって表象的に表されているこの世の帝国すべてを治めておられる、歴史の主です。ダニエルがネブカデネザルに語ったことばを記している2章37節ー38節に、

王の王である王さま。天の神はあなたに国と権威と力と光栄とを賜い、また人の子ら、野の獣、空の鳥がどこに住んでいても、これをことごとく治めるようにあなたの手に与えられました。

と記されているとおりです。それで、歴史の主であられるこの方は「終わりの日に起こることを」ダニエルにお示しになることがおできになったのです。決して、ご自身のみこころとは関係なく起こることを見通して、それをダニエルにお示しになったのではありません。


 ダニエルが夜の幻のうちに見たこれら4頭の獣を背景として、黙示録13章1節ー2節には、

また私は見た。海から一匹の獣が上って来た。これには十本の角と七つの頭とがあった。その角には十の冠があり、その頭には神をけがす名があった。私の見たその獣は、ひょうに似ており、足は熊の足のようで、口は獅子の口のようであった。竜はこの獣に、自分の力と位と大きな権威とを与えた。

と記されています。
 ここには海から上ってきた獣のことが記されています。ダニエルが見た幻のうちに示された4頭の獣も海から上ってきたと言われていました。古代オリエントの文化では、海は渾沌や破壊をもたらし、神々に敵対する暗闇の力を表示するものでした。バビロニアの創世神話である「エヌマ・エリシュ」では、複雑な神々の関係があるのですが、アッカド語で「海」を意味するティアマト[海が神格化されて女神になっています。]を打ち破ったマルドゥクがバビロニアの主神になります。マルドゥクは二つに引き裂いたティアマトの半分のからだで天を、もう半分のからだで地を造ったとされています。また、カナンの神話でも「海」を意味するヤムを打ち破ったバアルが主神になります。カナン神話には、創世にかかわる神話は発見されていないようです。
 黙示録13章1節では、海から上ってきた獣には「十本の角」があったと言われています。ダニエルが見た幻のうちに示された第四の獣にも「十本の角」がありました。
 また、黙示録13章の海から上ってきた獣は、

ひょうに似ており、足は熊の足のようで、口は獅子の口のようであった。

と言われています。ここには、「ひょう」と「」と「獅子」の組み合わせがあります。この「ひょう」と「」と「獅子」は、ダニエルが見た幻のうちに示された4頭の獣うちの第一から第三の獣と対応しています。第一の獣については、ダニエル書7章4節に、

 第一のものは獅子のようで、鷲の翼をつけていた。

と記されています。また、第二の獣については5節に、

 また突然、熊に似たほかの第二の獣が現れた。

と記されています。そして、第三の獣については6節に、

 また突然、ひょうのようなほかの獣が現れた。

と記されています。
 ですから、黙示録13章の海から上ってきた獣は、ダニエルが見た幻のうちに示された4頭の獣のすべての特徴を兼ね備えています。この世に起こり来るすべての帝国を総合するような恐ろしい帝国です。そのことは、この引用の最後に、

 竜はこの獣に、自分の力と位と大きな権威とを与えた。

と記されていることからも分かります。この「」はこの直前の12章に出てくるサタンのことです。
 13章1節では、この海から上ってきた獣には、

十本の角と七つの頭とがあった。その角には十の冠があり、その頭には神をけがす名があった。

と言われています。この「十本の角」は、先ほど触れましたように、ダニエル書7章に出てくる第四の獣が背景となっています。しかし、それだけではありません。この海から上ってきた獣には、「十本の角」に加えて、「七つの頭」があったと言われていますし、

 その角には十の冠が・・・あった。

と言われています。
 これは、

 竜はこの獣に、自分の力と位と大きな権威とを与えた

と言われている「」すなわちサタンのことが、12章3節で、

また、別のしるしが天に現れた。見よ。大きな赤い竜である。七つの頭と十本の角とを持ち、その頭には七つの冠をかぶっていた。

と言われていることを受けています。これによって、この海から上ってきた獣とサタンとのつながりの深さが示されています。海から上ってきた獣は、歴史におけるサタンの最終的で最もあからさまな体現であるのです。
 また、海から上ってきた獣の「頭には神をけがす名があった」と言われています。これは、ダニエルが見た幻のうちに示された第四の獣の頭にあった「十本の角」の間から出てきた「小さな角」について記しているダニエル書7章8節に、

 この角には・・・大きなことを語る口があった。

と記されており、その「小さな角」のことを解説している7章25節に、

 彼は、いと高き方に逆らうことばを吐き、
 いと高き方の聖徒たちを滅ぼし尽くそうとする。

と記されていることを受けています。ここには、「小さな角」に「大きなことを語る口」があるという皮肉が見られます。
 ダニエル書7章においては、この第四の獣、特に、その「小さな角」が終わりの日に登場してくる反キリストの帝国を指し示しています。それは、最終的に、黙示録13章に預言的に記されている、海から上ってきた獣において成就します。

 ダニエル書7章においては、2節ー8節に記されている4頭の獣の描写に続いて、9節ー14節には、

 私が見ていると、
 幾つかの御座が備えられ、
 年を経た方が座に着かれた。
 その衣は雪のように白く、
 頭の毛は混じりけのない羊の毛のようであった。
 御座は火の炎、
 その車輪は燃える火で、
 火の流れがこの方の前から流れ出ていた。
 幾千のものがこの方に仕え、
 幾万のものがその前に立っていた。
 さばく方が座に着き、
 幾つかの文書が開かれた。
私は、あの角が語る大きなことばの声がするので、見ていると、そのとき、その獣は殺され、からだはそこなわれて、燃える火に投げ込まれるのを見た。残りの獣は、主権を奪われたが、いのちはその時と季節まで延ばされた。
 私がまた、夜の幻を見ていると、
 見よ、人の子のような方が天の雲に乗って来られ、
 年を経た方のもとに進み、その前に導かれた。
 この方に、主権と光栄と国が与えられ、
 諸民、諸国、諸国語の者たちがことごとく、
 彼に仕えることになった。
 その主権は永遠の主権で、過ぎ去ることがなく、
 その国は滅びることがない。

と記されています。
 9節には「年を経た方」が出てきます。これは神さまのことを擬人化して表したものです。「年を経た方」は、神さまを知恵に満ちている人になぞらえるものです。また、13節には「人の子のような方」が出てきます。これらは、神のかたちに造られた人の表象で表されていて、その前の2節ー8節において、この世の帝国が4頭のどう猛な獣の表象によって表されていることと対比されます。
 9節では、この方が「座に着かれた」と言われていますが、10節で、

 さばく方が座に着き、

と言われていますように、その「」はさばきの座です。
 この方については、

 その衣は雪のように白く、

と言われています。これは、義と聖さを象徴的に表しています。また、

 頭の毛は混じりけのない羊の毛のようであった。

と言われていることは、この方が「年を経た方」と言われていることと対応しています。その意味で、これは知恵を象徴的に表していると考えられます。
 この方が座しておられる、

 御座は火の炎、
 その車輪は燃える火で、
 火の流れがこの方の前から流れ出ていた。

と言われています。「その車輪」と言われていますように、この方が座しておられる「御座」には「車輪」があります。これは焼き尽くす火の戦車です。
 火は神さまのさばきとかかわっています。それを詩篇の中で、いくつか見てみましょう。
 18篇6節ー8節には、

 私は苦しみの中にを呼び求め、
 助けを求めてわが神に叫んだ。
 主はその宮で私の声を聞かれ、
 御前に助けを求めた私の叫びは、御耳に届いた。
 すると、地はゆるぎ、動いた。
 また、山々の基も震え、揺れた。
 主がお怒りになったのだ。
 煙は鼻から立ち上り、
 その口から出る火はむさぼり食い、
 炭火は主から燃え上がった。

と記されています。21篇9節には、

 あなたの御怒りのとき、
 彼らを、燃える炉のようにされましょう。
 は御怒りによって彼らをのみ尽くし、
 火は彼らを食い尽くすでしょう。

と記されています。97篇1節ー3節には、

 は、王だ。
 地は、こおどりし、多くの島々は喜べ。
 雲と暗やみが主を取り囲み、
 義とさばきが御座の基である。
 火は御前に先立って行き
 主を取り囲む敵を焼き尽くす。

と記されています。
 ダニエル書7章11節には、

私は、あの角が語る大きなことばの声がするので、見ていると、そのとき、その獣は殺され、からだはそこなわれて、燃える火に投げ込まれるのを見た。

と記されています。「あの角」とは第四の獣の「十本の角」の間から出てきた「小さな角」で「大きなことを語る口」があったものです。これは終わりの日に現れてくる反キリストを預言的に示すものです。
 黙示録においては、19章20節に、

すると、獣は捕らえられた。また、獣の前でしるしを行い、それによって獣の刻印を受けた人々と獣の像を拝む人々とを惑わしたあのにせ預言者も、彼といっしょに捕らえられた。そして、このふたりは、硫黄の燃えている火の池に、生きたままで投げ込まれた。

と記されており、20章9節ー10節に、

彼らは、地上の広い平地に上って来て、聖徒たちの陣営と愛された都とを取り囲んだ。すると、天から火が降って来て、彼らを焼き尽くした。そして、彼らを惑わした悪魔は火と硫黄との池に投げ込まれた。そこは獣も、にせ預言者もいる所で、彼らは永遠に昼も夜も苦しみを受ける。

と記されていますように、終わりの日に再臨される栄光のキリストによるさばきは、火の池をもって執行されます。

 ダニエル書7章13節ー14節には、

私がまた、夜の幻を見ていると、
 見よ、人の子のような方が天の雲に乗って来られ、
 年を経た方のもとに進み、その前に導かれた。
 この方に、主権と光栄と国が与えられ、
 諸民、諸国、諸国語の者たちがことごとく、
 彼に仕えることになった。
 その主権は永遠の主権で、過ぎ去ることがなく、
 その国は滅びることがない。

と記されています。
 ここでは

 人の子のような方が天の雲に乗って来られた

と言われています。この「雲に乗って来られる」ということは、聖書の中にしばしば出てくる、神さまが「戦士」であられることとかかわっています[英語にはdivine warriorという専門用語がありますが、日本語では、まだ一般化していません]。たとえば、詩篇68篇4節ー6節には、

 神に向かって歌い、御名をほめ歌え。
 雲に乗って来られる方のために道を備えよ。
 その御名は、主。その御前で、こおどりして喜べ。
 みなしごの父、やもめのさばき人は
 聖なる住まいにおられる神。
 神は孤独な者を家に住まわせ、
 捕らわれ人を導き出して栄えさせられる。
 しかし、頑迷な者だけは、焦げつく地に住む。

と記されています。また、104篇1節ー4節には、

 わが神、よ。あなたはまことに偉大な方。
 あなたは尊厳と威光を身にまとっておられます。
 あなたは光を衣のように着、
 天を、幕のように広げておられます。
 水の中にご自分の高殿の梁を置き、
 雲をご自分の車とし、
 風の翼に乗って歩かれます。
 風をご自分の使いとし、
 焼き尽くす火をご自分の召使いとされます。

と記されています。さらに、イザヤ書19章1節には、

エジプトに対する宣告。
 見よ。は速い雲に乗って
 エジプトに来る。
 エジプトの偽りの神々はその前にわななき、
 エジプト人の心も真底からしなえる。

と記されていますし、ナホム書1章3節には、

 主は怒るのにおそく、力強い。
 は決して罰せずにおくことはしない方。
 主の道はつむじ風とあらしの中にある。
 雲はその足でかき立てられる砂ほこり。

と記されています。
 これらの引用から分かりますが、「雲に乗って来られる」方は神さまであり、契約の神である主、ヤハウェです。ですから、ダニエル書7章13節に出てくる「雲に乗って来られる」「人の子のような方」は人と同じような方でありつつ、神であられます。
 この場合の「人の子のような方」が乗って来られる「」は、自然現象の雨を降らす雲ではなく、契約の神である主、ヤハウェの御臨在に伴う雲です。先週も引用しました、出エジプト記40章34節ー35節には、

そのとき、雲は会見の天幕をおおい、の栄光が幕屋に満ちた。モーセは会見の天幕に入ることができなかった。雲がその上にとどまり、の栄光が幕屋に満ちていたからである。

と記されています。
 また、これらの引用からさらに分かることは、主、ヤハウェが「雲に乗って来られる」のは、ご自身の契約の民のために救いとさばきの御業を遂行されるためであるということです。ダニエル書7章14節には、

 この方に、主権と光栄と国が与えられ、
 諸民、諸国、諸国語の者たちがことごとく、
 彼に仕えることになった。

と記されています。ここに出てくる「仕える」ということば(アラム語・ペラハ)は「礼拝する」ことをも意味しています(TWOT)。これは、

 諸民、諸国、諸国語の者たちがことごとく、

この方の民となったことを意味しています。それは、創世記12章3節に、

 地上のすべての民族は、
 あなたによって祝福される。

と記されているアブラハムに与えられた約束の成就を意味しています。その意味では、ダニエル書7章13節で、

 人の子のような方が天の雲に乗って来られた

と言われていることは、最終的には、ご自身の民のために救いを完成してくださるためのことです。
 このことから、思い出されるイエス・キリストのみことばがあります。それは、終わりの日に関するイエス・キリストの教えを記しているマタイの福音書24章30節に記されています、

そのとき、人の子のしるしが天に現れます。すると、地上のあらゆる種族は、悲しみながら、人の子が大能と輝かしい栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見るのです。

という教えです。また、マタイの福音書では、少し後の26章63節ー64節に、イエス・キリストが逮捕されて大祭司カヤパの家で審問を受けた時に、大祭司の問いかけに答えて、イエス・キリストが、

あなたの言うとおりです。なお、あなたがたに言っておきますが、今からのち、人の子が、力ある方の右の座に着き、天の雲に乗って来るのを、あなたがたは見ることになります。

とあかしされたことが記されています。
 黙示録1章7節において、

 見よ、彼が、雲に乗って来られる。

と言われていることは、十字架にかかって、私たちの罪の贖いを成し遂げてくださり、栄光を受けて死者の中からよみがえってくださって、父なる神さまの右に着座されたイエス・キリストが、終わりの日に再臨されて、救いとさばきの御業を遂行されることを意味しています。それは、特に、アブラハムに約束された祝福にあずかる者としていただいた私たち、主の契約の民の救いを完成してくださるために来てくださることを意味しています。


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