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説教日:2012年11月18日 |
通常、頌栄は「神さまに栄光がありますように」というように、神さまに栄光が帰せられることを願う讃美です。その原形は旧約聖書に見られます。たとえば、詩篇104篇31節には、 主の栄光が、とこしえにありますように。 主がそのみわざを喜ばれますように。 と記されています。これは、契約の神である主、ヤハウェに対する頌栄です。引用はしていませんが、その前の部分に記されていることから分かりますように、主の創造の御業と摂理の御業に対する讃美を受けての頌栄です。また、72篇18節ー19節には、 ほむべきかな。神、主、イスラエルの神。 ただ、主ひとり、奇しいわざを行う。 とこしえに、ほむべきかな。その栄光の御名。 その栄光は地に満ちわたれ。 アーメン。アーメン。 と記されています。この詩篇72篇はダビデ的な王の支配についての祈りです。その王が義をもってさばきを執行し、貧しく、虐げられた者たちが贖い出され、救われるようにと祈っています。この頌栄に当たる部分はその結びとなっています。この詩篇に記されていることは、最終的には、まことのダビデの子として来られたイエス・キリストにおいて成就しています。 その他、頌栄に近い讃美としましては、57篇の5節と11節、さらに108篇5節に、 神よ。あなたが、天であがめられ、 あなたの栄光が、全世界であがめられますように。 と記されています。57篇と108篇は、ともに、神さまが敵の手から救い出してくださったことを告白しつつ、神さまを讃えるものです。 もう一組を見てみますと、29篇1節ー2節には、 力ある者の子らよ。主に帰せよ。 栄光と力とを主に帰せよ。 御名の栄光を、主に帰せよ。 聖なる飾り物を着けて主にひれ伏せ。 と記されています。これは、契約の神である主、ヤハウェを礼拝するように招くことばとして歌われている讃美です。29篇は、全体としては、契約の神である主、ヤハウェの王権を讃えるものです。また、96篇7節ー8節には、 国々の民の諸族よ。主にささげよ。 栄光と力を主にささげよ。 御名の栄光を主にささげよ。 ささげ物を携えて、主の大庭に入れ。 と記されています。これも、契約の神である主、ヤハウェを礼拝するように招くことばとして歌われている讃美です。96篇は、全体としては、主が義をもって全世界をおさばきになることを歌っています。 注目すべきことに、これらの讃美では「栄光と力」とが結び合わされて、契約の神である主、ヤハウェに帰せられています。 引用しましたこれらの頌栄あるいは頌栄に近い讃美から、四つほどのことに注目したいと思います。 第一に、最も基本的なことは、言うまでもなく、神さま、すなわち、契約の神である主、ヤハウェへの頌栄は、礼拝と讃美の中で歌われ、神さまに栄光があるようにと讃えるものであるということです。 第二に、その頌栄は神さまの創造の御業と摂理の御業を受けて神さまを讃えるものもあれば、神さまの救いとさばきの御業を受けて神さまを讃えるものもあります。 第三に、時間的に、神さまにとこしえに栄光がありますようにと讃えるものと、空間的に、神さまの栄光が全世界であがめられますようにと讃えるものがあります。 第四に、これらの讃美の中には、「栄光と力」とが結び合わされて神さまに帰せられているものがあります。黙示録1章6節に記されています、 この方に、栄光と力とが、とこしえ[からとこしえ]にあるように。アーメン。 という頌栄においては、この「栄光と力」が結びつけられています。これには、このような旧約聖書の頌栄や讃美が背景になっていると考えられます。 また、もう一つのことについて少しお話ししておきたいと思います。神さまへの頌栄に時間的に、神さまにとこしえに栄光がありますようにと讃えるものと、空間的に、神さまの栄光が全世界であがめられますようにと讃えるものがあります。けれども、その二つは、常に、同時にあると考えられます。どういうことかと言いますと、新約聖書における頌栄は、ほとんどが、時間的に、神さまにとこしえに栄光がありますようにと讃えるものとなっています。けれども、それには、空間的に、神さまがお造りになったこの世界全体に満ちている栄光が、時間的に、とこしえにあるようにという意味合いがあると考えられます。 ちなみに、新約聖書の頌栄で空間的な観点からのものとしては、ルカの福音書2章14節に記されています、イエス・キリストがお生まれになった夜における御使いたちの、 いと高き所に、栄光が、神にあるように。 とい讃美があります。また、同じルカの福音書19章38節にも、 祝福あれ。 主の御名によって来られる王に。 天には平和。 栄光は、いと高き所に。 という人々の讃美が記されています。 新約聖書のほとんどの頌栄に見られますように、頌栄においては、時間的に、神さまにとこしえに栄光がありますようにと讃えることが中心になっています。それには二つの理由があると思われます。そして、それは、先ほど見ましたように、旧約聖書に見られる頌栄には、創造の御業と摂理の御業を受けて神さまを讃えるものと、救いとさばきの御業を受けて神さまを讃えるものがあることにかかわっています。 一つの理由は、神さまの創造の御業と摂理の御業にかかわっていますが、神さまがお造りになったこの世界が、基本的に、歴史的な世界であるからです。そして派生的に、神さまが神のかたちにお造りになった人に、神さまがお造りになった世界の歴史と文化を造る使命をお委ねになったからです。このように、この世界は、本来、歴史の進展とともに、造り主である神さまの栄光がより豊かに現れるようになる世界として造られています。 もう一つの理由は、神さまの救いとさばきの御業にかかわっていますが、神さまの救いとさばきの御業も、人類の歴史の中で、預言と約束からその成就と進展してきて、さらに、救いの完全な実現へと至るという形で遂行されてきたからです。たとえば、黙示録1章6節に記されています、 この方に、栄光と力とが、とこしえ[からとこしえ]にあるように。アーメン。 という頌栄においては、時間的に、「とこしえ[からとこしえ]にあるように」となっています。これは、これに先立つ部分で、 私たちを愛しておられ、私たちを私たちの罪から、ご自分の血によって、解き放ってくださり、また、私たちをご自分の神また父のために、王国、祭司たちとしてくださった方に、 と言われていますように、イエス・キリストが贖いの御業を成し遂げてくださり、終わりの日にご自身の民の救いを完全に実現してくださり、最終的なさばきを執行されることに関連して、イエス・キリストが讃えられていることに沿っています。また、黙示録が、栄光のキリストが啓示してくださった「今ある事、この後に起こる事」を記していることにも沿っています。 これらのことを踏まえて、頌栄の本質にかかわる一つのことをお話ししたいと思います。 頌栄は、さまざまなバリエーションがありますが、基本的には、神さまに栄光がありますようにという願いとともに、神さまを讃美するものです。ところが、神さまは無限、永遠、不変の栄光に満ちた方です。テモテへの手紙第一・6章15節後半ー16節には、 神は祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主、ただひとり死のない方であり、近づくこともできない光の中に住まわれ、人間がだれひとり見たことのない、また見ることのできない方です。誉れと、とこしえの主権は神のものです。アーメン。 と記されています。神さまは永遠に変わることなく、無限の栄光に満ちた方ですから、神さまの栄光は無限、永遠、不変です。そのことは、神さまの栄光は増えたり減ったりすることがないということを意味しています。もし神さまの栄光が増えたり減ったりするとしたら、神さまの栄光は無限ではないことになりますし、永遠でも、不変でもないことになります。 神さまの栄光が増えたり減ったりするとしたら、神さまの栄光は永遠ではなくなるということは分かりにくいかもしれません。それは「永遠」をどのように理解するかにかかっています。聖書の中では「永遠」ということばが、時間的に、いつまでも続くという意味で用いられている場合があります。また、それは日本語でも普通に用いられている「永遠」の意味でもあります。けれども、神さまに当てはめられる永遠は時間的にいつまでも続くという意味の永遠ではありません。時間が当てはまるのは、神さまがお造りになったこの時間とともに移り変わっていく、歴史的な世界とその中にある物事です。神さまはこのような世界をお造りになった方であって、この世界と同じように時間とともに移り変わっていくことはありません。ですから、神さまに当てはめられる永遠は時間を超えていて、時間的に経過することがありません。あるものが増えたり減ったりするということは、時間的に経過しているということです。そのようなものは(神さまに当てはめられる)永遠ではありません。 このように、神さまの栄光は無限、永遠、不変であって、増えたり減ったりすることはありません。そうしますと、「神さまに栄光がありますように」という頌栄を歌うことは、間違っているのではないかという疑問が湧いてきます。「神さまに栄光がありますように」と言うことは、神さまの栄光が増し加わるようにと言うことではないのでしょうか。 このこととのかかわりで注目したいのは、先ほど注目しましたように、旧約聖書に見られる頌栄あるいは頌栄に近い讃美には、創造の御業と摂理の御業を受けて神さまを讃えるものと、救いとさばきの御業を受けて神さまを讃えるものがあるということです。神さまの栄光は無限、永遠、不変です。ですから頌栄は、その無限、永遠、不変の栄光が増えるようにと願って神さまを讃えるものではありません。そうではなく、創造の御業と摂理の御業を通して、あるいは、贖いの御業すなわち救いとさばきの御業を通して、神さまの栄光がより豊かに現されるようになることを願っているのです。それは神さまの無限、永遠、不変の栄光自体が増えることではなく、神さまの栄光がより豊かに映し出されることを意味しています。 鏡が太陽の光を反射して、室内が明るくなったとしても、太陽の発している光そのものが増えるわけではありませんし、減ってしまうわけでもありません。それと同じように、神さまの創造の御業と摂理の御業を通して、あるいは、贖いの御業を通して、神さまの栄光がより豊かに映し出されたとしても、神さまの栄光そのものが増えるわけではありませんし、減ってしまうわけでもありません。磨かれた鏡であればよりよく太陽の光を反射しますし、曇った鏡であれば、それほど反射することはありません。その違いがどれほど大きくても、それによって太陽が発する光の量が増えたり減ったりすることはありません。 このように、頌栄においては、神さまの創造の御業と摂理の御業を通して神さまの栄光がより豊かに映し出されることを願います。あるいは、神さまの贖いの御業を通して神さまの栄光がより豊かに映し出されることを願い求めて神さまを讃えます。 このことを踏まえて、さらに、黙示録1章6節に記されています頌栄に出てくる「栄光と力」について、お話しします。 先ほどお話ししましたように、この頌栄に出てくる「栄光と力」には、旧約聖書に見られる頌栄が背景となっています。 「栄光」(ヘブル語・カーボード、ギリシャ語・ドクサ)は神さまの存在と属性の輝きのことで、その現れは神さまご自身の御臨在にかかわっています。実際、旧約聖書においては、契約の神である主の栄光が現れることは、主が幕屋や神殿の聖所にご臨在されることと関連して頻繁に記されています。幕屋が完成した時のことを記している出エジプト記40章34節ー35節には、 そのとき、雲は会見の天幕をおおい、主の栄光が幕屋に満ちた。モーセは会見の天幕に入ることができなかった。雲がその上にとどまり、主の栄光が幕屋に満ちていたからである。 と記されています。この「雲」は自然現象としての雲ではなく、主の栄光の御臨在にともない、それを表示する雲です。これとの関連で言いますと、黙示録1章7節で、栄光のキリストの再臨について、 見よ、彼が、雲に乗って来られる。 と言われているときの「雲」も自然現象としての雲のことではなく、主の栄光の御臨在にともない、それを表示する雲です。 また、エルサレム神殿が完成した時のことを記している列王記第一・8章10節ー11節には、 祭司たちが聖所から出て来たとき、雲が主の宮に満ちた。祭司たちは、その雲にさえぎられ、そこに立って仕えることができなかった。主の栄光が主の宮に満ちたからである。 と記されています。 このように、主の栄光の現れと主の御臨在は深く結びついています。ですからイザヤ書6章4節において、主の栄光の御臨在の御前に仕えているセラフィムたちが、 聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。 その栄光は全地に満つ。 と言って、契約の神である主、ヤハウェを讃えているのは、主の御臨在が全地に及んでいることを意味しています。エレミヤ書23章23節ー24節には、 わたしは近くにいれば、神なのか。 ――主の御告げ―― 遠くにいれば、神ではないのか。 人が隠れた所に身を隠したら、 わたしは彼を見ることができないのか。 ――主の御告げ―― 天にも地にも、わたしは満ちているではないか。 ――主の御告げ―― という契約の神である主のみことばが記されています。 主の御臨在のある聖所は、主の栄光の御臨在を表示し、その聖さを守護しているケルビムを織り出した垂れ幕で仕切られていました。これによって、罪ある者はそのままで主の御臨在の御許に近づくことができないことが示されていました。このように、主の御臨在に伴う栄光は、主の聖さと深くかかわっています。罪あるままで主の栄光の御臨在の御前に近づく者は、主の聖さを冒す者として滅ぼされてしまいます。 しかし、それと同時に、その幕屋や神殿で仕えていた祭司たちは、聖所の前にあった祭壇で動物のいけにえを屠ってから、聖所で仕えました。また、年に一度、大贖罪の日に、大祭司が動物のいけにえの血を携えて聖所の奥の至聖所にまで入っていって礼拝しました。これによって、罪ある者でも、罪の贖いにあずかることによって、主の御臨在の御前に出でて、主を礼拝することができるということが示されていました。主の栄光の御臨在の御許には、罪の贖いも備えられていて、人は主が備えてくださっている罪の贖いにあずかって、主の御臨在の御前に近づいて、主を礼拝するように招かれているのです。 先ほど一部を引用しましたイザヤ書6章には、イザヤが主の栄光の御臨在の御前に立たせられてしまったことが記されています。1節ー5節には、 ウジヤ王が死んだ年に、私は、高くあげられた王座に座しておられる主を見た。そのすそは神殿に満ち、セラフィムがその上に立っていた。彼らはそれぞれ六つの翼があり、おのおのその二つで顔をおおい、二つで両足をおおい、二つで飛んでおり、互いに呼びかわして言っていた。 「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。 その栄光は全地に満つ。」 その叫ぶ者の声のために、敷居の基はゆるぎ、宮は煙で満たされた。そこで、私は言った。 「ああ。私は、もうだめだ。 私はくちびるの汚れた者で、 くちびるの汚れた民の間に住んでいる。 しかも万軍の主である王を、 この目で見たのだから。」 と記されています。罪があるままで主の栄光の御臨在の御前に立ってしまったイザヤは自分が主の聖さを冒す者として直ちに滅ぼされてしまうという恐怖に襲われました。けれども、続く6節ー7節には、 すると、私のもとに、セラフィムのひとりが飛んで来たが、その手には、祭壇の上から火ばさみで取った燃えさかる炭があった。彼は、私の口に触れて言った。 「見よ。これがあなたのくちびるに触れたので、 あなたの不義は取り去られ、 あなたの罪も贖われた。」 と記されています。主の栄光の御臨在の御許には罪の贖いが備えられていたのです。 これが、旧約聖書と新約聖書を通して、契約の神である主が一方的な恵みによって与えてくださっている福音のみことばがあかししていることです。このように福音のみことばにおいてあかしされている主の御臨在に伴う栄光は、恵みとまことに満ちた栄光です。そして、古い契約のもとでの「地上的なひな型」によって示され、約束されていたことは、永遠の神の御子イエス・キリストにおいて成就しています。ヨハネの福音書1章14節に、 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。 と記されているとおりです。実質的には同じことですが、ここで、 この方は恵みとまことに満ちておられた。 と訳されている部分は、 この栄光は恵みとまことに満ちていた。 と訳すこともできて、イエス・キリストの栄光のことを述べていると理解することもできます。イエス・キリストは古い契約の「地上的なひな型」である動物のいけにえの本体として、十字架におかかりになって、私たちの罪に対する父なる神さまの聖なる御怒りによるさばきを、私たちに代わってすべて受けてくださいました。それによって、私たちの罪を完全に贖ってくださったのです。 黙示録1章5節後半ー6節に記されています、 私たちを愛しておられ、私たちを私たちの罪から、ご自分の血によって、解き放ってくださり、また、私たちをご自分の神また父のために、王国、祭司たちとしてくださった方に、この方に、栄光と力とが、とこしえ[からとこしえ]にあるように。アーメン。 という頌栄においては、このような、イエス・キリストの十字架の死によって成し遂げられた贖いの御業を通して、栄光がさらに豊かに表されることを願いつつ「恵みとまことに満ち」た栄光の主であられるイエス・キリストご自身を讃えています。 けれども、この罪の贖いにあずかることがないなら、罪があるままで、栄光の主の御臨在の御前に立たなければならないことになります。古い契約の「地上的なひな型」としての地上の幕屋や神殿の聖所にご臨在された栄光の主の本体は、やはり、無限、永遠、不変の栄光の主であられながら、私たちと同じ人の性質を取って来てくださった御子イエス・キリストご自身であるからです。栄光のキリストは終わりの日に、その充満な栄光のうちにご臨在されます。そして、すべての者がその御前に立つことになります。罪があるままの者は、その終わりの日の前にもその日にも、主の聖さを犯している者として御前に立ち、そのさばきを受けることになります。 このように、主の御臨在に伴う栄光、あるいは、主の栄光の御臨在には、救いとさばきがともなっています。 頌栄に出てくる「栄光と力」の「力」(ヘブル語・オーズ、ギリシャ語・クラトス)は、基本的には、あるいは本来は、神さまの力のことです。そして、この神さまの力は、ご自身の契約の民の救いのために働きます。 主がイスラエルの民をエジプトの奴隷の状態から贖い出してくださって、エジプトの軍隊を紅海で滅ぼされた時のことを歌っている出エジプト記15章13節には、 あなたが贖われたこの民を、 あなたは恵みをもって導き、 御力をもって、聖なる御住まいに伴われた。 と記されています。主はその御力をもって救いとさばきの御業を遂行されたのです。 また詩篇28篇7節ー8節には、 主は私の力、私の盾。 私の心は主に拠り頼み、私は助けられた。 それゆえ私の心はこおどりして喜び、 私は歌をもって、主に感謝しよう。 主は、彼らの力。 主は、その油そそがれた者の、救いのとりで。 と記されています。ここでは、主の力というより、主ご自身がご自身の民をお救いになる力であると言われています。この詩篇28篇も全体としては、主がご自身の契約の民のために救いとさばきの御業を遂行されることに関する祈りと讃美です。 同じことは、マリヤの賛歌の一部を記しているルカの福音書1章51節ー53節に、 主は、御腕をもって力強いわざをなし、 心の思いの高ぶっている者を追い散らし、 権力ある者を王位から引き降ろされます。 低い者を高く引き上げ、 飢えた者を良いもので満ち足らせ、 富む者を何も持たせないで追い返されました。 と記されています。ここで「力強いわざ」と訳されているのが「力」ということば(クラトス)です。この場合も、主がその御力をもって、救いとさばきの御業を遂行されることが告白されています。 これらのことから分かりますように、主の御臨在の栄光は、主の救いとさばきの御業を通して、より豊かに映し出されるようになります。そして、その救いのさばきの御業を遂行するのが「栄光と力」というように主の「栄光」と結び合わされている「力」です。 ですから、黙示録1章6節に記されている、 この方に、栄光と力とが、とこしえ[からとこしえ]にあるように。アーメン。 という頌栄は、イエス・キリストが救いとさばきの御業を遂行されることによって、イエス・キリストの栄光がより豊かに現されるようになることを願いつつ、栄光のキリストを讃えるものです。 それは、ローマ帝国からの激しい迫害にさらされていた「アジヤにある七つの教会」の信徒たちにとっては、栄光のキリストがこのローマ帝国に対しても救いとさばきの御業を遂行されることによって、ご自身の栄光を現されるようになることを信じて願い求めつつ、イエス・キリストを讃えるものです。前回お話ししましたように、「アジヤにある七つの教会」の信徒たちも私たちも、主の御臨在の御前で仕える「祭司たち」としていただいています。ですから、これは自分たちを迫害しているローマ帝国に対する復讐を願うものというよりは、ローマ帝国の中から主の契約の民が起こされることを願って、そのためにとりなし祈ることをともなう頌栄であるはずです。またそれは、そのまま私たちにも当てはまることですが、特に、イエス・キリストがその十字架の死によって成し遂げられた贖いの御業に基づいて、ご自身の民の救いを完全に実現してくださることを通して、イエス・キリストの栄光がより豊かに現されるようになることを信じて、願い求めつつ、また待ち望みつつイエス・キリストを讃えるものです。 |
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