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説教日:2012年11月4日 |
この天における「ほふられたと見える小羊」への讃美、そして、これに基づいて記されている、 また、私たちをご自分の神また父のために、王国、祭司たちとしてくださった というヨハネの挨拶の中のことばには、さらに、旧約聖書の背景があります。 出エジプト記19章2節ー6節には、 彼らはレフィディムを旅立って、シナイの荒野に入り、その荒野で宿営した。イスラエルはそこで、山のすぐ前に宿営した。モーセは神のみもとに上って行った。主は山から彼を呼んで仰せられた。「あなたは、このように、ヤコブの家に言い、イスラエルの人々に告げよ。 あなたがたは、わたしがエジプトにしたこと、また、あなたがたを鷲の翼に載せ、わたしのもとに連れて来たことを見た。今、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはすべての国々の民の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。あなたがたはわたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。 これが、イスラエル人にあなたの語るべきことばである。」 と記されています。 主はエジプトの奴隷となっていたイスラエルの民を力強い御手をもって、エジプトの地から贖い出してくださいました。その際に、イスラエルの民を奴隷として搾取していたエジプトを十のさばきをもっておさばきになりました。その十番目のさばきが、エジプト全土にいるすべての「初子」を打つというものでした。しかし、それに先立って、主はイスラエルの民のために過越の小羊を備えてくださいました。12章3節ー8節には、 イスラエルの全会衆に告げて言え。 この月の十日に、おのおのその父祖の家ごとに、羊一頭を、すなわち、家族ごとに羊一頭を用意しなさい。もし家族が羊一頭の分より少ないなら、その人はその家のすぐ隣の人と、人数に応じて一頭を取り、めいめいが食べる分量に応じて、その羊を分けなければならない。あなたがたの羊は傷のない一歳の雄でなければならない。それを子羊かやぎのうちから取らなければならない。あなたがたはこの月の十四日までそれをよく見守る。そしてイスラエルの民の全集会は集まって、夕暮れにそれをほふり、その血を取り、羊を食べる家々の二本の門柱と、かもいに、それをつける。その夜、その肉を食べる。すなわち、それを火に焼いて、種を入れないパンと苦菜を添えて食べなければならない。 と記されています。「この月」とはニサンの月のことです。この時、主はこの「この月」を年の最初の月とするように命じられました。そして、12節には、 その夜、わたしはエジプトの地を巡り、人をはじめ、家畜に至るまで、エジプトの地のすべての初子を打ち、また、エジプトのすべての神々にさばきを下そう。わたしは主である。 と記されています。 この主のみことばに従ってモーセがイスラエルの長老たちに語ったことばが、21節以下に記されています。21節ー24節には、 あなたがたの家族のために羊を、ためらうことなく、取り、過越のいけにえとしてほふりなさい。ヒソプの一束を取って、鉢の中の血に浸し、その鉢の中の血をかもいと二本の門柱につけなさい。朝まで、だれも家の戸口から外に出てはならない。主がエジプトを打つために行き巡られ、かもいと二本の門柱にある血をご覧になれば、主はその戸口を過ぎ越され、滅ぼす者があなたがたの家に入って、打つことがないようにされる。あなたがたはこのことを、あなたとあなたの子孫のためのおきてとして、永遠に守りなさい。 と記されています。 これらのことから分かりますように、主がエジプトの全土に下されたさばきは、人だけでなく家畜も含めて、その地にいるすべてのものに及ぶものでした。29節には、 真夜中になって、主はエジプトの地のすべての初子を、王座に着くパロの初子から、地下牢にいる捕虜の初子に至るまで、また、すべての家畜の初子をも打たれた。 と記されています。 このようにしてさばかれるべきものには、イスラエルの民も含まれていました。ただ、イスラエルの民のためには、主が「過越のいけにえ」としての小羊を備えてくださったのです。そして、主はエジプトをさばくためにその地を行き巡られた時、その家の「かもいと二本の門柱にある血をご覧になれば、主はその戸口を過ぎ越され」ました。そこでは、すでにさばきが執行されていると見なされたのです。ですから、決して、イスラエルの民がさばきに値しないということではありませんでした。モーセがイスラエルの民に、 朝まで、だれも家の戸口から外に出てはならない。 と命じているように、イスラエルの民であっても、もしその家から外に出るなら、主のさばきを受けることになったのです。 このように、これは、イスラエルの民に特別な価値があったということを意味してはいません。注意していませんと、エジプトは悪い民で、イスラエルは良い民であったというように考えがちです。けれども、決して、そのようなことではありません。事実、この時、エジプトから贖い出されたイスラエルの民は、このような主のさばきと救いの御業を見ていながら、そして、主の恵みにあずかっていながら、主を信じないで、主への不信を募らせ続けました。 この点について、モーセはイスラエルの民の第2世代に教えています。申命記7章6節ー8節には、 あなたは、あなたの神、主の聖なる民だからである。あなたの神、主は、地の面のすべての国々の民のうちから、あなたを選んでご自分の宝の民とされた。主があなたがたを恋い慕って、あなたがたを選ばれたのは、あなたがたがどの民よりも数が多かったからではない。事実、あなたがたは、すべての国々の民のうちで最も数が少なかった。しかし、主があなたがたを愛されたから、また、あなたがたの先祖たちに誓われた誓いを守られたから、主は、力強い御手をもってあなたがたを連れ出し、奴隷の家から、エジプトの王パロの手からあなたを贖い出された。 と記されています。 ここには、主がイスラエルの民をお選びになったことについて、消極的な面と積極的な面が記されています。消極的な面として、モーセは、 主があなたがたを恋い慕って、あなたがたを選ばれたのは、あなたがたがどの民よりも数が多かったからではない。事実、あなたがたは、すべての国々の民のうちで最も数が少なかった。 と教えています。これによって、主がイスラエルの民をお選びになったのは、イスラエルの民に価値があったからではないということが示されています。その上で、積極的な面として、主がイスラエルの民をお選びになった理由が示されています。一つは、 主があなたがたを愛されたから ということです。もう一つは、 主が・・・あなたがたの先祖たちに誓われた誓いを守られたから ということです。 このように、主がイスラエルの民をお選びになったのは、イスラエルの民の価値によってはいません。それは主のイスラエルの民に対する一方的な愛によっています。また、主がその一方的な愛と恵みによって、アブラハム、イサク、ヤコブに与えてくださった契約を守ってくださったことによっています。 このことは、そのまま、私たちにも当てはまります。コリント人への手紙第一・1章26節ー31節には、 兄弟たち、あなたがたの召しのことを考えてごらんなさい。この世の知者は多くはなく、権力者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。これは、神の御前でだれをも誇らせないためです。しかしあなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました。まさしく、「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりになるためです。 と記されています。 ひょっとすると、29節に記されている、 これは、神の御前でだれをも誇らせないためです。 というみことばに抵抗を感じられる方がおられるかもしれません。けれども、これは、神さまが人を見下して誇られるという意味ではありませんし、神さまが人の上に権力を振るって、人を屈服させるという意味でもありません。神さまの御前における自分自身のの現実、自分の真の姿を知った者は、自分の罪の深さを嘆くことはあっても、決して、誇ることはできません。これは、私たちがそのような自分自身の現実を悟るようになることにかかわっています。神さまがそのような私たちをお選びになったのは、神さまが一方的な愛で私たちを愛してくださったことと、人類の堕落の直後から約束してくださっていた贖い主についての契約を真実に守ってくださったことによっています。 契約の神である主は、初めから、ご自身に対して罪を犯して、御前に堕落してしまい、ご自身の聖なる御怒りによるさばきを受けて滅ぼされるべき者を愛してくださり、その一方的な恵みによって贖い主を約束してくださっていました。そのことが、古い契約のもとにおける贖いの御業としての出エジプトの贖いの御業においても示されました。そして、それは、御子イエス・キリストが十字架の上で流された血によって立てられた新しい契約における贖いの御業においても示されています。そのように、すべてがただ主の愛と恵みによっていることが初めから終わりまで一貫しています。 黙示録1章5節後半において、ヨハネはイエス・キリストのことを、 私たちを愛しておられ、私たちを私たちの罪から、ご自分の血によって、解き放ってくださった と記しています。すべては、主イエス・キリストが私たちを愛してくださっていることによっています。私たちといえば、自らの罪に縛られて、罪の自己中心性に動かされて、死と滅びへの道を歩んでいた者でした。イエス・キリストはそのような私たちを愛してくださり、今も、愛してくださっているのです。 ペテロの手紙第一・1章18節ー20節には、 ご承知のように、あなたがたが父祖伝来のむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。キリストは、世の始まる前から知られていましたが、この終わりの時に、あなたがたのために、現れてくださいました。あなたがたは、死者の中からこのキリストをよみがえらせて彼に栄光を与えられた神を、キリストによって信じる人々です。このようにして、あなたがたの信仰と希望は神にかかっているのです。あなたがたは、真理に従うことによって、たましいを清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、互いに心から熱く愛し合いなさい。 と記されています。私たちはイエス・キリストの十字架の血によって罪を贖われて死と滅びから救われているだけではありません。罪の自己中心性から解放されて「偽りのない兄弟愛を抱くようになったのです」。それで、 互いに心から熱く愛し合いなさい。 と戒められています。 このようにイスラエルの民は、契約の神である主の一方的な愛と、契約に対する真実によって、エジプトの奴隷の状態から贖い出され、主の「宝の民」としていただきました。出エジプト記19章5節ー6節では、そのことが、 今、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはすべての国々の民の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。あなたがたはわたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。 と言われています。 この6節の、 あなたがたはわたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。 という、主のみことばが、黙示録6章10節に記されています天における讃美で、 私たちの神のために、この人々を王国とし、祭司とされました。彼らは地上を治めるのです。 と告白されていることの背景となっています。そして、さらには、1章6節に記されていますヨハネの挨拶の中の、 私たちをご自分の神また父のために、王国、祭司たちとしてくださった ということばの背景となっています。 このことから、いくつかのことが考えられます。 まず、黙示録1章5節後半ー6節において、イエス・キリストが、 私たちを愛しておられ、私たちを私たちの罪から、ご自分の血によって、解き放ってくださり、また、私たちをご自分の神また父のために、王国、祭司たちとしてくださった ということは、古い契約のもとでなされた出エジプトの贖いの御業の成就であるということを意味しています。 主は古い契約のもとにあるイスラエルの民に、 あなたがたはわたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。 と言われました。イスラエルの民がこのような主の契約の民として選ばれたのは、すでにお話ししましたように、主がその一方的な愛によって、イスラエルの民を愛してくださったからですし、父祖たち、すなわちアブラハム、イサク、ヤコブに与えられた契約の約束を守られたからです。その契約の約束は、創世記12章1節ー3節に記されています、 あなたは、 あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、 わたしが示す地へ行きなさい。 そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、 あなたを祝福し、 あなたの名を大いなるものとしよう。 あなたの名は祝福となる。 あなたを祝福する者をわたしは祝福し、 あなたをのろう者をわたしはのろう。 地上のすべての民族は、 あなたによって祝福される。 という、アブラハムへの召しと約束に関連しています。これは「地上のすべての民族」に対する祝福のための召しであり約束です。このアブラハムへの召しと約束が根本にあって、その実現のためにアブラハム、イサク、ヤコブに契約が与えられました。そして、そのことに基づいて、イスラエルの民はエジプトの奴隷の状態から贖い出され、主の「宝の民」とされ、「祭司の王国、聖なる国民」とされました。 「祭司の王国」ということは、イスラエルの民が「地上のすべての民族」のために、契約の神である主の御前に立つものであることを意味しています。イスラエルの民が主の贖いの御業に基づいて「聖なる国民」、主の「宝の民」とされて、主との親しい交わりのうちを歩むようになるという祝福が、やがて、「地上のすべての民族」の間にも実現するようになるということです。イスラエルの民はそのような使命へと召されたのです。決して、ほかの民族は主から捨てられて、イスラエルの民だけが主の「宝の民」となるということではありません。 イスラエルの民は、主の一方的な愛と恵みによって、エジプトの奴隷の状態から贖い出されました。ですから、イスラエルの民は、そのことで、「地上のすべての民族」の上に立って誇ることはできません。むしろ、主がまったく無価値なものであった自分たちを一方的な愛と恵みをもって、エジプトの奴隷の状態から贖い出してくださったことをあかしする使命に召されています。自分たちでさえこのような主の愛と恵みを受けたのだから、主の愛と恵みは「地上のすべての民族」にも及ぶものであるということをあかしするのです。 先ほどペテロの手紙第一・1章18節ー20節に記されているみことばを引用しました。ペテロはそのすぐ後の2章9節ー10節において、 しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。あなたがたは、以前は神の民ではなかったのに、今は神の民であり、以前はあわれみを受けない者であったのに、今はあわれみを受けた者です。 と記しています。 このペテロの教えは、古い契約のもとでイスラエルの民がエジプトの奴隷の状態から贖い出され、主の「宝の民」とされ、「祭司の王国、聖なる国民」とされたことが、「傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血に」よって贖われている私たちにおいて成就していることを示しています。そのようにして罪を贖っていただいた私たちが「王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民」であるのは、私たちが、私たちを、 やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを・・・宣べ伝えるためなのです と言われています。 黙示録1章6節には、イエス・キリストが、 私たちをご自分の神また父のために、王国、祭司たちとしてくださった と記されていました。ここでは、イエス・キリストが私たちを「祭司たちとしてくださった」だけでなく、「王国・・・としてくださった」と言われています。このことの基となっていると考えられる5章10節では、これに当たることが、 私たちの神のために、この人々を王国とし、祭司とされました。彼らは地上を治めるのです。 と言われています。ここで、 彼らは地上を治めるのです と言われていますように、私たちが「王国とし、祭司とされ」ていることは、私たちが「地上を治める」ことを意味しています。けれども、これまでお話ししてきましたように、これは決して、私たちがほかの人々の上に立って支配するということを意味してはいません。 繰り返しお話ししてきましたように、1章5節前半で「地上の王たちの支配者」と呼ばれているイエス・キリストは、「地上の王たち」のように、人々の上に立って権力を振るい、人々を搾取するようなことはありませんでした。むしろ、ご自身の意思で十字架におかかりになって、私たちの罪を贖い、私たちを父なる神さまとの愛の交わりのうちに生きるもの、契約の神である主の御臨在の御前を歩むものとしてくださいました。イエス・キリストは私たちがいのちのうちに生きるようになるためにすべてのことを成し遂げてくださった王です。 私たちはこの主の「すばらしいみわざを・・・宣べ伝える」ことによって、人々がまことのいのち、父なる神さまとの愛にあるいのちの交わりのうちに生きるようになるために仕える「王国」とされています。 私たちをご自分の神また父のために、王国、祭司たちとしてくださった と言われていますように、この「王国」は父なる神さまのみこころにしたがって、父なる神さまの愛と恵みを映し出し、あかしする「王国」です。 このことを、ヨハネとヨハネが牧会している「アジヤにある七つの教会」に当てはめて見てみましょう。 この時はローマ帝国によるクリスチャンへの迫害が激しくなっていた時で、その迫害は「アジヤにある七つの教会」にも及んでいました。そのために、牧会者であるヨハネは捕えられて、パトモスに流刑となっていました。 そのような厳しい状態にあった主の契約の民は、自分たちを迫害しているローマ帝国の人々にイエス・キリストが十字架の死によって成し遂げてくださった罪の贖いの御業を宣べ伝え、父なる神さまと御子イエス・キリストの愛と恵みをあかししました。それによって、自分たちを迫害している人々が、イエス・キリストが十字架の死によって成し遂げてくださった罪の贖いを信じて、父なる神さまとの愛にあるいのちの交わりのうちに生きるようになることを願ってのことでした。そのことにおいて、イエス・キリストが、 私たちをご自分の神また父のために、王国、祭司たちとしてくださった ということが現実となっています。 |
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