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説教日:2012年10月28日 |
このヨハネの挨拶のことばに記されていることと同じようなことが記されているもう一つの箇所は20章6節です。4節から見てみますと、そこには、 また私は、多くの座を見た。彼らはその上にすわった。そしてさばきを行う権威が彼らに与えられた。また私は、イエスのあかしと神のことばとのゆえに首をはねられた人たちのたましいと、獣やその像を拝まず、その額や手に獣の刻印を押されなかった人たちを見た。彼らは生き返って、キリストとともに、千年の間王となった。そのほかの死者は、千年の終わるまでは、生き返らなかった。これが第一の復活である。この第一の復活にあずかる者は幸いな者、聖なる者である。この人々に対しては、第二の死は、なんの力も持っていない。彼らは神とキリストとの祭司となり、キリストとともに、千年の間王となる。 と記されています。 これは、20章1節ー6節に記されている、一般に「千年王国」と呼ばれる期間についての描写の後半部分です。最後の6節の後半に記されています、 彼らは神とキリストとの祭司となり、キリストとともに、千年の間王となる。 ということばが、ヨハネの挨拶の中の1章6節に記されている、 また、私たちをご自分の神また父のために、王国、祭司たちとしてくださった ということばと似ています。 この20章6節で、 彼らは神とキリストとの祭司となり、キリストとともに、千年の間王となる。 と言われていることがいつのことであるかは、この「千年」と言われている期間がいつのことであるかによっています。これについては、ご存知の方も多いかと思いますが、さまざまな理解があります。大きく分けると、栄光のキリストの再臨との関係で、三つの見方に分けられます。 一つの見方は、「千年王国前再臨説」です。これは、終わりの日に栄光のキリストが再臨されてから「千年王国」が始まるという理解です。これはよく「プレ・ミレ」と呼ばれます。「プレ・ミレ」は英語の「プレ・ミレニアム」の省略です。「プレ」は「前」を意味しており、「ミレニアム」は「千年期」を意味しますが、特定化して「千年王国」を意味します。この見方に立ちますと、20章6節で、 彼らは神とキリストとの祭司となり、キリストとともに、千年の間王となる。 と言われていることは、栄光のキリストの再臨の後のことであるということになります。 もう一つの見方は、「千年王国後再臨説」です。これは、終わりの日に福音が多くの人々に受け入れられて「千年王国」と呼ばれる時代がやってきて、その後に、栄光のキリストが再臨されるという理解です。これはよく「ポスト・ミレ」と呼ばれます。「ポスト」は「後」を意味しています。この見方に立ちますと、20章6節で、 彼らは神とキリストとの祭司となり、キリストとともに、千年の間王となる。 と言われていることは、まだ歴史の現実になっていないということになります。 さらにもう一つの見方は、「無千年王国説」です。これは、黙示録20章1節ー6節に記されている「千年」は、イエス・キリストが十字架の死と死者の中からのよみがえりによって贖いの御業を成し遂げられ、天に上られて父なる神さまの右の座に着座されて、約束の聖霊を注いでくださってから、世の終わりにおける栄光のキリストの再臨までの間を指しているという理解です。その意味で、「無千年王国説」という呼び方には少し語弊があります。「千年王国」に相当する期間はあるけれども、それは世の終わりの特定の期間ではなく、イエス・キリストが贖いの御業を成し遂げてくださってから、世の終わりにおける栄光のキリストの再臨の時までのことであるということです。それで「無千年王国説」は、世の終わりの特定の期間としての「千年王国」はないという意味になります。これはよく「ア・ミレ」と呼ばれます。「ア」は否定を表します。この見方に立ちますと、20章6節で、 彼らは神とキリストとの祭司となり、キリストとともに、千年の間王となる。 と言われていることは、終わりの日に至るまでの主の契約の民の現実であるということになります。 これら三つの見方にもバリエーションがあって、実際には、もう少し複雑ですが、これらのどの理解の仕方が聖書の述べていることにそっているかということについては、意見の一致を見ていません。私は一つの立場を取っていますが、それ以外の立場も尊重したいと思っています。 このように、ヨハネが記した「アジヤにある七つの教会」への挨拶に出てくる、 また、私たちをご自分の神また父のために、王国、祭司たちとしてくださった ということと同じようなことが記されている箇所は、黙示録には、この1章6節の他に、5章10節と20章6節の二つあります。 ただ、このヨハネの挨拶にも、5章10節に記されている、 私たちの神のために、この人々を王国とし、祭司とされました。彼らは地上を治めるのです。 という天における「ほふられたと見える小羊」への讃美にも、「王国」ということばと「祭司たち」ということばが出てきます。5章10節に出てくる「祭司」も複数で「祭司たち」です。しかし、20章6節では、 彼らは神とキリストとの祭司となり、キリストとともに、千年の間王となる。 と言われていて「祭司」(複数「祭司たち」)は出てきますが、「王国」ということばは出てきません。その代わりに、「王となる」(動詞「王として治める」、「治める」)ということばが出てきます。この「王となる」と訳されていることばは、もう一つの箇所である5章10節で、 私たちの神のために、この人々を王国とし、祭司とされました。彼らは地上を治めるのです。 と言われているときの「治める」と訳されていることばと同じことばです。このことは、20章5節で、 彼らは・・・キリストとともに、千年の間王となる。 と言われていることは、それより前の5章10節に記されている、 私たちの神のために、この人々を王国とし、祭司とされました。彼らは地上を治めるのです。 という天における「ほふられたと見える小羊」への讃美に出てくる、 彼らは地上を治めるのです ということばを反映していると考えられます。 また、先ほどお話ししましたが、ヨハネの挨拶も、栄光のキリストが啓示してくださったことに基づいているということからしますと、5章10節に記されている、天における「ほふられたと見える小羊」への讃美を反映していると考えられます。 このようなことから、ヨハネが記している「アジヤにある七つの教会」への挨拶も含めて、黙示録の三つの箇所に出てくる同じようなことの基となっているのは、5章10節に記されている、天における「ほふられたと見える小羊」への讃美であると考えられます。 このことを踏まえて、改めて、5章9節ー10節に記されている天における「ほふられたと見える小羊」への讃美を見てみますと、それは、 あなたは、巻き物を受け取って、その封印を解くのにふさわしい方です。あなたは、ほふられて、その血により、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から、神のために人々を贖い、私たちの神のために、この人々を王国とし、祭司とされました。彼らは地上を治めるのです。 という讃美です。 この讃美は、 あなたは、巻き物を受け取って、その封印を解くのにふさわしい方です。 ということばから始まっています。これは、「ほふられたと見える小羊」こそが、封じられていた、終わりの日に至るまでの歴史に対する父なる神さまのご計画を明らかにすることができるお方であるとともに、その父なる神さまのご計画を完全に実現される歴史の主であることを告白し、讃えるものです。そのような讃美に続いて、というか、そのような讃美を受けて、さらに、「ほふられたと見える小羊」が、 あなたは、ほふられて、その血により、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から、神のために人々を贖い、私たちの神のために、この人々を王国とし、祭司とされました。彼らは地上を治めるのです。 と讃えられています。 このことは、イエス・キリストが終わりの日に至るまでの歴史に対する父なる神さまのご計画を完全に実現される歴史の主であられることと、私たち主の契約の民が、イエス・キリストの血により、この世の国々から贖い出されて、父なる神さまのために「王国と」され「祭司とされ」たことが深くつながっていることを意味しています。 どういうことかと言いますと、イエス・キリストが終わりの日に至るまでの歴史に対する父なる神さまのご計画を完全に実現されることの中心に、私たち主の契約の民が、イエス・キリストの血により、この世の国々から贖い出されて、父なる神さまのために「王国と」され「祭司とされ」たことがあるということです。それは、とりもなおさず、終わりの日に至るまでの歴史に対する父なる神さまのご計画の中心に、私たち主の契約の民が、イエス・キリストの血により、この世の国々から贖い出されて、父なる神さまのために「王国と」され「祭司とされ」たことがあるということです。さらに、言い換えますと、イエス・キリストはご自身の血によって、私たち主の契約の民をこの世の国々から贖い出してくださり、父なる神さまのために「王国と」し「祭司と」してくださったことに基づいて、終わりの日に至るまでの歴史に対する父なる神さまのご計画を完全に実現されるということです。 最初にお話ししましたように、ヨハネを初めとして、「アジヤにある七つの教会」は、ローマ帝国という強大な帝国による迫害にさらされていました。それは、人の目から見ますと、風前の灯としか言いようのないものでした。しかし、栄光のキリストが実現される、終わりの日に至るまでの歴史に対する父なる神さまのご計画の中では、そのヨハネを初めとして、「アジヤにある七つの教会」の存在が大切な意味をもっていたのです。それはまた、今日に至るまで、さらには、終わりの日に至るまでのそれぞれの時代において、地上に存在するキリストのからだである教会に当てはまることです。 ヨハネはこのことを汲み取って、自分が牧会している「アジヤにある七つの教会」に宛てた挨拶の中で、イエス・キリストのことを、 私たちを愛しておられ、私たちを私たちの罪から、ご自分の血によって、解き放ってくださり、また、私たちをご自分の神また父のために、王国、祭司たちとしてくださった方に、この方に、栄光と力とが、とこしえ[からとこしえ]にあるように。アーメン。 という頌栄の形で記しています。 このヨハネの挨拶だけを見ますと、なんとなく、自分たち中心のような印象を受けます。イエス・キリストが自分たちに素晴らしいことをしてくださったから、イエス・キリストに対する頌栄を記しているという気がします。もちろん、それは間違っていません。 けれども、このことには、そのような自分たち中心であることを超えた面があります。というのは、このヨハネの挨拶の基となっている、天における「ほふられたと見える小羊」への、 あなたは、ほふられて、その血により、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から、神のために人々を贖い、私たちの神のために、この人々を王国とし、祭司とされました。彼らは地上を治めるのです。 という讃美を歌っているのは、「四つの生き物と二十四人の長老」たちだからです。「四つの生き物」は旧約聖書のエゼキエル書の1章や10章に出てくる「生き物」(ケルビム)を背景としていて、イザヤ書6章に出てくるセラフィムの特徴を兼ね備えた存在です。「二十四人の長老」が誰であるかについては、これが教会とかかわっていることは確かですが、人間なのか天使的な存在なのかをめぐって、意見が分かれています。それぞれに言い分があって、決着をつけることが難しいものです。 いずれにしましても、天では天使的な存在が、この讃美をもって「ほふられたと見える小羊」を讃えています。それは、自分たち中心というより、イエス・キリストが終わりの日に至るまでの歴史に対する父なる神さまのご計画を完全に実現されること自体を讃えるものです。そのような讃美において、イエス・キリストがご自身の血によって、私たち主の契約の民を贖ってくださったことが、決定的に大切なことであることが告白されています。 ヨハネも、もちろん、栄光のキリストからの啓示を受けてのことですが、このような天における「ほふられたと見える小羊」への讃美とともに告白されている、イエス・キリストがご自身の血によって成し遂げられた贖いの御業の意味を汲み取っています。そして、それを自分が牧会する「アジヤにある七つの教会」への挨拶の中で、頌栄の形で伝えることによって、強調しています。いわば、ぜひこのことを知ってから、黙示録のこの後に記されていることを読んでいただきたいと願っているということです。 私たちもこの時代において、風前の灯のような存在です。そうではあっても、私たちがイエス・キリストの血によって贖い出された民として地上に存在してしていることが、そして、イエス・キリストの御名によって父なる神さまを礼拝していることが、イエス・キリストが父なる神さまのご計画を実現されることに深くかかわっているということを心に刻みたいと思います。そして、栄光のキリストによって、父なる神さまのご計画が歴史を通して実現していくことを喜びつつ、そのことをさらに願い求める者としていただきたいと思います。私たちはそのような者として、主の祈りで、 天にいます私たちの父よ。 御名があがめられますように。 御国が来ますように。 みこころが天で行われるように地でも行われますように。 と祈っています。 |
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