黙示録講解

(第93回)


説教日:2012年10月21日
聖書箇所:ヨハネの黙示録1章1節ー8節
説教題:罪からの解放(2)


 ヨハネの黙示録1章5節後半ー6節には、

イエス・キリストは私たちを愛して、その血によって私たちを罪から解き放ち、また、私たちを王国とし、ご自分の父である神のために祭司としてくださった方である。キリストに栄光と力とが、とこしえにあるように。アーメン。

と記されています。
 このイエス・キリストについての説明のことばを、直訳調に訳しますと、

私たちを愛しておられ、私たちを私たちの罪から、ご自分の血によって、解き放ってくださり、また、私たちをご自分の神また父のために、王国、祭司たちとしてくださった方に、この方に、栄光と力とが、とこしえ[からとこしえ]にあるように。アーメン。

となります。これからのお話は、この直訳調の訳に基づいて進めていきます。
 これまで、

 私たちを愛しておられ、私たちを私たちの罪から、ご自分の血によって、解き放ってくださり、

ということについてお話ししました。今日は、これまでお話ししたことをさらに補足するお話をします。


 ヨハネはイエス・キリストのことを、まず、

 私たちを愛しておられ、

と述べています。この「愛しておられる」ということばは、現在分詞で表されていて、常に変わることがない事実を表しています。イエス・キリストはこれまで私たちを愛してくださっただけでなく、今も、またこの後も、どのようなことがあっても、変わることがない愛をもって、私たちを愛してくださいます。それは、私たちがこの世を去って、父なる神さまと御子イエス・キリストの御臨在の御許に行っても変わることはありません。
 私たちは何となく、この世を去って、父なる神さまと御子イエス・キリストの御臨在の御許に行ったときに、あるいは、世の終わりに再臨される栄光のキリストが私たちを栄光のからだをもつものとしてよみがえらせてくださるときに、イエス・キリストの私たちに対する愛は完全なものとなると思っているかもしれません。けれども、私たちのために、人としての性質をお取りになるほどに貧しくなって来てくださり、ご自身のご意思で、十字架にかかって、私たちの罪に対する神さまの聖なる御怒りによるさばきを受けてくださったことに、イエス・キリストの私たちに対する愛はこの上なく豊かに現されています。私たちはすでにその愛をもって愛していただいています。そして、この愛が、永遠に変わることなく、私たちに注がれています。
 問題は、私たちが私たち自身のうちになおも残っている罪のために、その愛ををきちんと受け止められないでいることです。私たちが地上の生涯を終えるとき、私たちは父なる神さまと御子イエス・キリストの御臨在の御許に召されます。その時には、私たちは、イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いに基づいて、父なる神さまと栄光のキリストの御臨在の御許にあるものにふさわしく、魂をきよめられます。それで、私たちは父なる神さまとイエス・キリストの愛を、地上にあるときにあったさまざまな妨げるもののない状態で受け止めるようになります。このように、私たちの受け止め方は変わりますが、私たちのためにご自分の御子をも賜った父なる神さまの愛も、私たちのために十字架にかかってくださった御子イエス・キリストの愛も、永遠に変わることはありません。私たちにとっては、常に新しく、常に新鮮な愛であり続けます。

 これに続いて、

 私たちを私たちの罪から、ご自分の血によって、解き放ってくださり

と記されています。この場合の「解き放ってくださり」は、不定過去分詞で表されていて、過去においてすでになされていることを表しています。イエス・キリストは、すでに「私たちを私たちの罪から、ご自分の血によって、解き放ってくださ」っています。この前で、

 私たちを愛しておられ、

と言われていることとのつながりで言いますと、イエス・キリストが、

 私たちを私たちの罪から、ご自分の血によって、解き放ってくださった

のは、イエス・キリストが私たちを愛してくださっていることに基づいています。言い換えますと、イエス・キリストが「私たちを私たちの罪から、ご自分の血によって、解き放ってくださった」ことに、イエス・キリストが「私たちを愛しておられる」ことが現れています。
 ここで、イエス・キリストが

 私たちを私たちの罪から、ご自分の血によって、解き放ってくださった

ということには、二つのことがかかわっています。
 一つは、イエス・キリストが私たちを罪の結果である死と滅びから解放してくださったということです。
 永遠の神の御子であられるイエス・キリストは、私たちと一つとなってくださるために、人としての性質を取って、この世に来てくださいました。そして、その地上の生涯の終わりに、十字架にかかってくださって、私たちの罪に対する神さまの聖なる御怒りによるさばきを、私たちに代わってすべて受けてくださいました。それで、私たち、福音のみことばにしたがって、イエス・キリストを父なる神さまが遣わしてくださった贖い主として信じている者たちの罪に対する神さまの聖なる御怒りによるさばきは、すでに終わっています。イエス・キリストは、私たちがイエス・キリストを信じた時までに犯した罪だけでなく、その後に犯した罪や、これから犯すであろう罪に対する神さまの聖なる御怒りによるさばきを、すべて私たちに代わって受けてくださいました。ですから、私たちは決して、神さまの聖なる御怒りによるさばきにあうことはありません。
 このことは、私たちの罪に対する、神さまのさばきにかかわることです。その意味で「法的な」ことです。私たちの罪に対する刑罰はすでに御子イエス・キリストの十字架において執行されて終わっています。黙示録20章12節には、

 数々の書物が開かれた

と記されています。これに合わせて少し絵画的に言いますと、栄光のキリストが公正な裁判官として座しておられる天の法廷においては、私たちの罪の罪状が正確に、細大漏らさず記録されています。その記録にはすべて、刑の執行済みの証印が捺されているのです。もう、私たちを罪に定めるものはありません。
 黙示録12章10節で「私たちの兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている者」と呼ばれているサタンは、天の法廷に対して、私たちの罪を数え上げて、さばきが執行されるべきであると訴え、告発します。けれども、天の法廷には、すでに私たちの罪に対する刑罰は御子イエス・キリストの十字架において終わっているという記録が残っています。天の法廷において明らかにされることは、決して、私たちが罪を犯していないとか、私たちの罪がたいしたことはないということではありません。私たちの罪がどんなに重いものであっても、そのため、その罪に対する刑罰がどんなに重いものであっても、無限、永遠、不変の栄光の主であられるイエス・キリストが。その罪に対する神さまの聖なる御怒りによる刑罰をお受けになっているということです。栄光のキリストがご自身のいのちの値をもって、その罪を完全に償われたということが明らかにされるのです。ローマ人への手紙8章33節ー34節には、

神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。 罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。

と記されています。また、ヨハネの手紙第一・2章1節ー2節には、

私の子どもたち。私がこれらのことを書き送るのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。もしだれかが罪を犯すことがあれば、私たちには、御父の前で弁護する方がいます。義なるイエス・キリストです。この方こそ、私たちの罪のための――私たちの罪だけでなく、世全体のための――なだめの供え物です。

と記されています。
 以上は、イエス・キリストがご自身の血によって、私たちを私たちの罪の結果である、死と滅びから解放してくださったことです。

 イエス・キリストが、

 私たちを私たちの罪から、ご自分の血によって、解き放ってくださった

ことにはもう一つのことがかかわっています。それは、罪の力からの解放です。
 ヨハネの手紙第一・1章8節ー10節には、

もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。もし、罪を犯してはいないと言うなら、私たちは神を偽り者とするのです。神のみことばは私たちのうちにありません。

と記されています。
 8節では、

 もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。

と言われています。ここで「罪はない」と訳されていることばは、直訳調に訳しますと「私たちは罪をもっていない」となります。このような言い方はヨハネに特有な言い方です。また、この場合の「」は単数形で、罪の性質を表しています。
 このように、「罪はない」つまり「罪をもっていない」ということは、自分のうちには罪の性質がないということです。
 このように主張される場合が二つ考えられます。一つは、イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いを信じているという人が、すでに、自分の本性が完全にきよめられていると主張することです。もう一つは、造り主である神さまを神と認めていない人々が、神さまとの関係で罪を認めないために、自分は犯罪を犯していないから、自分には罪はないと主張することです。
 もちろん、ここでヨハネは、すでに主を信じている者のことを述べています。

 もし、罪はないと言うなら

と言われているときの「言う」という動詞も1人称複数形ですから、それを生かして、直訳調に訳せば、少しくどくなりますが、

 もし、私たちは罪をもっていないと、私たちが言うなら

となります。もし私たちがそのように言うとしたら、すなわち、そのように自分のことを考えているとしたら、

 私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。

とヨハネは言います。これは、私たちが福音のみことばをまったく誤解しているために、自分で「自分を欺いて」しまっている状態にあるということを示しています。
 先週引用しました、ローマ人への手紙7章19節ー20節には、

 私は、自分でしたいと思う善を行わないで、かえって、したくない悪を行っています。もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行っているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。

という、パウロの嘆きのことばによる告白が記されています。
 無限、永遠、不変の栄光の主であられるイエス・キリストの十字架の死による罪の贖いにあずかって、罪を赦されたばかりでなく、イエス・キリストの復活にあずかって新しく生まれ、造り主である神さまとの愛にある親しい交わりのうちに生きる者とされている私たちは、神さまの聖さを知るようになります。なぜ、私たちの罪のために、無限、永遠、不変の栄光の主であられるイエス・キリストが十字架にかかって、神さまの聖なる御怒りによるさばきを、私たちに代わって受けてくださらなければならなかったのか、なぜ、それによってしか、私たちの罪は贖われなかったのかということを理解したなら、それは神さまが無限に聖いお方であり、私たちの罪はその神さまの無限の聖さを冒すものであることが分かるようになります。そのようにして、神さまの聖さが分かるようになりますと、私たちはますます自分の罪の深さを思い知らされることになります。それが、先ほど引用しましたパウロの嘆きの根底にあることです。
 しかし、パウロは嘆いて終わってはいません。同じローマ人への手紙8章1節ー2節には、

 こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。

と記されています。イエス・キリストが十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げられた贖いの御業に基づいてお働きになる御霊が、私たちを栄光のキリストと一つに結び合わせてくださり、私たちをイエス・キリストの復活のいのちによって生かしてくださいます。そして、私たちをイエス・キリストの栄光のかたちに造り変えてくださいます。先週も引用しました、コリント人への手紙第二・3章18節に、

私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。

と記されているとおりです。
 また、ガラテヤ人への手紙5章22節には、

 御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、 柔和、自制です。

と記されています。
 ここには「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、 柔和、自制」という、9つの人格的な特性が出てきます。けれども、「御霊の実」の「」は単数形です。これは集合名詞と考えられますが、一つの木になる実のイメージではありません。一つの木には同じ実がいくつもなりますが、ここでは、9つの異なった人格的な特性があげられています。そして、それが全体としてのまとまりの中にあるということを示しています。そのようなものは、私たちの人格です。これら9つの人格的な特性は一人の人格において一つのまとまりとなっています。ですから、「御霊の実」は基本的に人格であり、それが、具体的な状況において、「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、 柔和、自制」として現れてくるわけです。このような「御霊の実」としての人格は、先ほどの、御霊のお働きによって栄光のキリストのかたちに造り変えられていく私たちのことにほかなりません。

 エペソ人への手紙2章1節ー3節には、

あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。

と記されています。
 私たちはかつて、罪と罪過の中に死んでいました。それで、罪がもたらす霊的な暗やみのうちに閉ざされていました。そのために、やがてその罪のために肉体的に死ぬということだけでなく、最終的には、神さまの聖なる御怒りによるさばきを受けて滅ぶべきものであることも知らずに歩んでいました。神さまはそのような私たちを愛してくださって、ご自身の御子を贖い主として立ててくださいました。そして、イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げられた罪の贖いに、ただ恵みによって、私たちをあずからせてくださり、私たちの罪をすべて赦してくださいました。そればかりでなく、イエス・キリストが十字架の死に至まで父なる神さまのみこころに従い通されたことによって立てられた義に、私たちをあずからせてくださって、私たちを義と認めてくださいました。あたかも、私たちが神さまのみこころに完全に従ったかのように、見なしてくださったのです。これを神学的には「転嫁」と呼びます。詳しい議論は省きますが、「転嫁」は主の契約に基づくことで、法的なことです。
 ローマ人への手紙5章18節ー19節には、

こういうわけで、ちょうどひとりの違反によってすべての人が罪に定められたのと同様に、ひとりの義の行為によってすべての人が義と認められ、いのちを与えられるのです。すなわち、ちょうどひとりの人の不従順によって多くの人が罪人とされたのと同様に、ひとりの従順によって多くの人が義人とされるのです。

と記されています。ここで、

 ちょうどひとりの違反によってすべての人が罪に定められた

とか、

 ひとりの人の不従順によって多くの人が罪人とされた

と言われているときの「ひとり」、「ひとりの人」とは、言うまでもなく、最初の人アダムです。アダムをかしらとする人類は、かしらであるアダムが神さまに対して罪を犯して御前に堕落したことによって、「すべての人が罪に定められ」ていますし、罪によって堕落し腐敗した本性をもつ者として生まれてきます。この罪によって堕落し腐敗した本性が、ヨハネの手紙第一・1章8節に出てきた、単数形の「罪」です。私たちもそのような者として生まれてきました。
 これに対して、

 ひとりの義の行為によってすべての人が義と認められ、いのちを与えられる

とか、

 ひとりの従順によって多くの人が義人とされる

と言われているときの「ひとり」とは、イエス・キリストのことです。そして、

 すべての人が義と認められ、いのちを与えられる

と言われているときの「すべての人」、また、

 多くの人が義人とされる

と言われているときの「多くの人」とは、イエス・キリストが十字架の上で流してくださった血による新しい契約の民とされている、私たちのことです。イエス・キリストはご自身が十字架の上で流してくださった血によって新しい契約を確立してくださり、私たちをその契約の民としてくださいました。私たちはイエス・キリストを契約のかしらとする、主の契約の民です。ここでは、その契約のかしらであるイエス・キリストの「義の行為によって」私たちすべてが「義と認められ、いのちを与えられ」ていると言われています。また、イエス・キリストの「従順によって」私たちが「義人とされ」ていると言われています。
 同じことが、ローマ人への手紙3章23節ー26節には、

すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現すためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。それは、今の時にご自身の義を現すためであり、こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。

と記されています。
 このように、私たちは神さまの一方的な愛と恵みによって、イエス・キリストを信じる者としていただき、その信仰によって義と認めていただいた者です。それは、私たちが自分の力によって打ち立てた義ではありません。私たちには神さまの御前に通用する義を打ち立てる力はありません。私たちの内には罪の本性、あの単数形の「罪」が宿っていて、それが私たちの思いとことばと行いのすべてに現れてきます。それは、アダムの子孫として生まれてくるすべての人に当てはまります。そして、イエス・キリストが十字架の死に至まで父なる神さまのみこころに従い通されて確立された義にあずかって、神さまの御前に義と認められている私たちにも、なお、当てはまります。
 私たちが今、父なる神さまと栄光のキリストの御臨在の御前に近づいて、礼拝することができるのは、私たちが義と認められているからです。イエス・キリストが十字架の死に至まで父なる神さまのみこころに従い通されて確立された義が、私たちの義であると認められているからです。イエス・キリストの義は「白い衣」にたとえられます。私たちのうちには、なおも、罪の本性が宿っており、私たちの思いとことばと行いのすべてにそれが現れてきます。そのような、私たちですが、イエス・キリストの義が、白い衣のように私たちをおおってくれます。私たちはイエス・キリストの義の衣をまとって、父なる神さまとイエス・キリストの栄光の御臨在の御前に近づいて、礼拝することができるのです。

 そうではあっても、私たちはなおも自らのうちに罪の本性、あの単数形の罪を宿している者です。私たちは父なる神さまとイエス・キリストの御臨在の御前に近づく時に、私たちの内にある罪を自覚しないではいられませんし、実際に犯してしまった一つ一つの罪を覚えないわけにはいきません。ヨハネの手紙第一・1章9節には、

もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。

と記されています。この場合の「自分の罪」の「」は複数形で、私たちが実際に犯してしまった罪のことを指しています。9節で言われていることは、この前の8節に記されている、「罪はないと言う」こととは正反対のことです。自分のうちに罪の本性はないと言い張ることは、罪を犯すこともないと言い張ることでもあります。いくら神さまでも、罪のない人の罪を赦すことはできません。もちろん、人としての性質を取って来てくださったイエス・キリストのほかに、罪のない人はいません。自分のうちに罪の本性はないと言う人は、罪の赦しを必要としていないと言っているのです。その人には、もはや、福音は意味をもちません。
 けれども、福音のみことばがあかししているイエス・キリストを信じている私たちは、私たち自身のうちに罪の本性(単数形の罪)があり、思いとことばと行いにおいて罪(複数形の罪)を犯してしまっていることを認め、それを神さまに告白するようにと招かれています。そして、それに対しては、

神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。

と約束されています。罪を告白すること自体が良いと認められて、罪が赦されるのではありません。罪を告白することが殊勝であるというようなことで、その罪が赦されるのではありません。神さまは、イエス・キリストがその十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げてくださった罪の贖いに基づいて、私たちの罪を赦してくださるのです。
 そればかりでなく、ここでは、

 すべての悪から私たちをきよめてくださいます。

と約束されています。この「すべての悪」は単数形で、8節の単数形の「」と同じことを指していると考えられます。ここで「」(ハマルティア)ではなく、「」(アディキア)ということばを使っているのは、神さまが「真実で正しい方」と言われているときの「正しい」(ディカイオス)ということばと関連づけてのことであると考えられます。
 先ほど引用しましたコリント人への手紙第二・3章18節には、

私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。

と記されていました。私たちは御霊のお働きによって「栄光から栄光へと」栄光のキリストと「同じかたちに姿を変えられて行きます」。そのことは、私たちが自分のうちに罪の本性(単数形の罪)があり、実際に、思いとことばと行いにおいて罪(複数形の罪)を犯してしまっていることを認め、その具体的な罪を神さまに告白することとともになされていきます。
 私たちに自らの罪を自覚させてくださり、その罪を告白するように導いてくださるのも御霊のお働きです。そして、神さまが、「その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださ」ることによって、私たちが罪の力から解放されていることが現実となって現れてきます。私たちが罪の力から解放されていることは、積極的には、私たちの内に御霊の実としての、「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、 柔和、自制」という人格的な特性が育つようになること、そして、私たち自身が栄光のキリストと「「同じかたちに姿を変えられて」いくことに現れてきます。


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