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説教日:2012年10月14日 |
ヨハネはイエス・キリストが無限、永遠、不変の栄光の神の御子であられることを、明確にあかしした使徒です。ヨハネの福音書の冒頭の1章1節ー3節においては、 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。 と記して、御子イエス・キリストが永遠に父なる神さまとの愛の交わりのうちにおられる神であられ、すべてのものをお造りになった主であられることをあかししています。もちろんこれは、ヨハネが勝手に考えたことではありません。神さまが御霊によってヨハネに啓示してくださったことです。ヨハネは、さらに、ヨハネの福音書の最後の方の20章28節において、トマスが、死者の中からよみがえられたイエス・キリストに向かって、 私の主。私の神。 と告白したことを記しています。これは、神さまがただお一人であることを固く信じているユダヤ人であるトマスの告白です。それで、これは、イエス・キリストが契約の神である主、ヤハウェであられることを告白するものです。ヨハネはこのトマスの告白に続いて、30節ー31節において、 この書には書かれていないが、まだほかの多くのしるしをも、イエスは弟子たちの前で行われた。しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。 と記しています。これによってヨハネは、イエス・キリストがなさった「しるし」としての御業、それは基本的には奇跡のことですが、それは私たちがトマスの告白のように、 イエスが神の子キリストであることを・・・信じるため のことであり、また、そのように、 信じて、イエスの御名によっていのちを得るため のことであったとあかししているのです。 このようにヨハネは、イエス・キリストが契約の神である主、ヤハウェなるお方であられ、無限、永遠、不変の栄光の主であられることを、すでに、神さまの啓示によって知らされており、理解し信じていました。そのヨハネが、パトモスで栄光のキリストの顕現(クリストファニー)に触れました。そのことが、黙示録1章12節ー18節には、 そこで私は、私に語りかける声を見ようとして振り向いた。振り向くと、七つの金の燭台が見えた。それらの燭台の真ん中には、足までたれた衣を着て、胸に金の帯を締めた、人の子のような方が見えた。その頭と髪の毛は、白い羊毛のように、また雪のように白く、その目は、燃える炎のようであった。その足は、炉で精錬されて光り輝くしんちゅうのようであり、その声は大水の音のようであった。また、右手に七つの星を持ち、口からは鋭い両刃の剣が出ており、顔は強く照り輝く太陽のようであった。それで私は、この方を見たとき、その足もとに倒れて死者のようになった。しかし彼は右手を私の上に置いてこう言われた。「恐れるな。わたしは、最初であり、最後であり、生きている者である。わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。また、死とハデスとのかぎを持っている。 と記されています。 このように、ヨハネはイエス・キリストの栄光の顕現(クリストファニー)に触れました。幻の中のことではありましたが、実際に、栄光のキリストの御臨在の御前に立ちました。それは、ヨハネ自身が、神さまの啓示によって理解し、受け止めていた、イエス・キリストは無限、永遠、不変の栄光の主、ヤハウェなるお方であるということの現実に触れたということです。これは、自らのうちに罪を宿しており、実際に罪を犯してしまっている私たち人間にとっては、無限に聖い神さまの聖さを犯すことであり、聖なる御怒りによるさばきによって直ちに滅ぼされてしまうことを意味しています。主の栄光の御臨在の御前に立つということはそのように、この上なく恐ろしいことです。 けれども、ヨハネは、そのような恐るべき現実の中にあったはずですが、神さまの聖なる御怒りによるさばきに遭うことはありませんでした。それは、その無限、永遠、不変の栄光の主、ヤハウェであられるイエス・キリストが、ヨハネのために、またヨハネだけでなく、私たち主の契約の民すべてのために、十字架におかかりになって、私たちの罪を完全に清算し、贖ってくださっているからです。 すでに栄光のキリストの顕現(クリストファニー)の御前でこのような経験をしているヨハネが、自分の牧会している「アジヤにある七つの教会」の信徒たちに、 イエス・キリストは私たちを愛して、その血によって私たちを罪から解き放ち とあかししています。それは、ヨハネにとっては、あの栄光の顕現(クリストファニー)においてご自身を表してくださった、栄光の主が、 その血によって私たちを罪から解き放ってくださった ということであり、そのようにしてくださったことに現れている愛をもって、 私たちを愛してくださっている ということです。このことは、そのまま、私たちそれぞれにも当てはまります。 ヨハネはこの頌栄の形のイエス・キリストについての説明の中で、さらに、 また、私たちを王国とし、ご自分の父である神のために祭司としてくださった と述べています。 イエス・キリストの愛は、その血によって私たちを私たちの罪から解き放ってくださったことにおいて、この上なく豊かに現されました。けれども、それだけではないのです。罪から解き放ってくださって、後は自分で生きなさいというのではなく、私たちをご自身の御臨在の御許に導き入れてくださり、 私たちを王国とし、ご自分の父である神のために祭司として くださいました。 新改訳では、 私たちを王国とし、ご自分の父である神のために祭司としてくださった となっていますので、「ご自分の父である神のために」ということは、私たちを「祭司としてくださった」ことだけにかかるようになっています。けれども、イエス・キリストが私たちを「王国」としてくださったことも、「ご自分の父である神のために」ということであると考えられます。それにつきましては、日を改めてお話しします。それで、すでにお話ししました、このイエス・キリストについての説明のギリシャ語を直訳調に訳したものでは、 私たちをご自分の神また父のために、王国、祭司たちとしてくださった としています。 イエス・キリストが、 私たちをご自分の神また父のために、王国、祭司たちとしてくださった ということは、出エジプト記19章6節に記されています、 あなたがたはわたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。 という契約の神である主のみことばを背景としています。 この主のみことばは、主が、エジプトの奴隷となって苦役に服していたイスラエルの民を、その奴隷の状態から贖い出してくださって、主がご臨在されるシナイ山の麓まで導いてくださったことを受けています。 これに先立つ4節ー5節には、 あなたがたは、わたしがエジプトにしたこと、また、あなたがたを鷲の翼に載せ、わたしのもとに連れて来たことを見た。 今、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはすべての国々の民の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。 という主のみことばが記されています。 ここで、 わたしがエジプトにしたこと と言われていることとは、何よりもまず、主が10のさばきをもって、エジプトを打たれたことを指しています。また、紅海の水を分けて、イスラエルの民を渡らせ、エジプトの軍隊をその水によって滅ぼされたことも含まれます。 今お話ししていることとのかかわりで注目したいのは、主が10のさばきをもって、エジプトを打たれたことです。これにつきましては数週間前にお話ししたことがありますので、ごく簡単にまとめておきます。 その最後の10番目のさばきは、人であれ家畜であれ、エジプトにいるすべてのものの初子をさばきによって滅ぼすということでした。主はイスラエルの民にそのさばきにどのように対処するかを示してくださいました。イスラエルの民は主の教えに従って、傷のない小羊を取り分け、それを主がさばきを執行される日の夕暮れに屠り、その血を、それぞれの家の「二本の門柱と、かもいに」塗りました。その夜、エジプトの地において主のさばきが執行されました。けれども、小羊の血が塗られていた家では、すでにさばきが執行されていると見なされて、主のさばきを執行していた御使いはその家を過ぎ越していきました。過越の小羊がその家の初子の身代わりとなって血を流したのです。この過越の小羊は「地上的なひな型」であり、その本体はイエス・キリストです。 ヨハネは黙示録1章5節後半で、 イエス・キリストは私たちを愛して、その血によって私たちを罪から解き放ち、 と記してから、それに続く6節前半で、出エジプト記19章6節を背景として、 私たちをご自分の神また父のために、王国、祭司たちとしてくださった と記しています。ですから、 イエス・キリストは私たちを愛して、その血によって私たちを罪から解き放ち、 と記されていることも、出エジプトの贖いの御業を背景としていると考えられます。契約の神である主は出エジプトの時代に、過越の小羊の血によって、イスラエルの民をエジプトの地で執行された最後のさばきから救ってくださり、エジプトの奴隷の状態から解放してくださいました。契約の神である主、ヤハウェであられるイエス・キリストは、ご自身が十字架の上で流された血によって、私たちを終わりの日に執行される最後のさばきから完全に救い出してくださり、私たちを罪から解放してくださいました。 そして、出エジプトの時代に、契約の神である主、ヤハウェはエジプトの奴隷の状態から解放してくださったイスラエルの民を、主にとって「祭司の王国、聖なる国民」としてくださいました。イエス・キリストは罪から解放してくださった 私たちをご自分の神また父のために、王国、祭司たちとしてくださった のです。 イエス・キリストが 私たちをご自分の神また父のために、王国、祭司たちとしてくださった ことの意味につきましては改めてお話ししたいと思いますが、そのことを理解するためにどうしても踏まえておかなければならないことがあります。それは、イエス・キリストが、 私たちをご自分の神また父のために、王国、祭司たちとしてくださった ということは、その前に記されています、イエス・キリストが、 私たちを愛して、その血によって私たちを罪から解き放ち と言われていること、直訳調に訳したものでは、 私たちを愛しておられ、私たちを私たちの罪から、ご自分の血によって、解き放ってくださり、 と言われていることと、切り離しがたく結びついているということです。 ここで注意したいのは、イエス・キリストが、 私たちを私たちの罪から・・・解き放ってくださった ということです。 これは、これまでお話ししてきましたように、私たちの罪に対する神さまの聖なる御怒りによるさばきから、私たちを救い出してくださったことを意味しています。それは、いわば、罪の結果からの解放です。しかし、それがすべてではありません。 私たちを私たちの罪から・・・解き放ってくださった ということは、私たちを私たちの罪の力から解放してくださったことも意味しています。というより、このことの方がここでヨハネが言おうとしていることの中心にあると思われます。 ヨハネの福音書8章34節には、 まことに、まことに、あなたがたに告げます。罪を行っている者はみな、罪の奴隷です。 というイエス・キリストの教えが記されています。私たちもそのようなものでしたが、造り主である神さまに対して罪を犯して御前に堕落している人は、その本性が罪によって腐敗してしまっています。そのために、どうしても罪を犯してしまいます。ローマ人への手紙7章15節には、 私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行っているからです。 というパウロの嘆きのことばが記されています。さらに、19節ー20節には、 私は、自分でしたいと思う善を行わないで、かえって、したくない悪を行っています。もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行っているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。 と記されています。これは、イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いにあずかって、罪を贖っていただいているけれども、なおも、自分の本性のうちに罪の性質を宿している人の現実を示しています。パウロはそれを他人事のようにではなく、自分自身のこととして、深い嘆きとともに記しています。 みことばが教えていることは、私たちは地上の生涯において、徐々に罪の性質をきよめられていくけれども。完全にきよめられることはないということです。同時に、みことばは次のことも教えています。それは、一昨日、主の御許に召された兄弟が経験しておられることです。また、すでに主の御許に召された兄弟姉妹たちが経験していることです。私たちは肉体的な死を迎えるときに、私たちの魂を完全にきよめられて、天において、父なる神さまと栄光のキリストの御臨在の御許で、主と主の民との愛にあるいのちの交わりのうちに、生きるようになります。 このように、私たちが罪から完全にきよめられるのは、肉体的な死によってこの世を去り、私たちの魂が主の御臨在の御許に引き上げられるときです。そして、終わりの日には、主が私たちを、そのように主の栄光の御臨在の御前に立つのにふさわしく、きよめられ栄光化されている魂にふさわしい栄光のからだをもつもととして、私たちをよみがえらせてくださいます。 そうではあっても、私たちはすでに、原理的に、罪から解放されています。主は私たちを罪の力から解放するお働きを始めておられます。そのお働きは決して未完のまま終わることはありません。それで、私たちは霊的な成長とともに、うちなる本性をきよめられていきます。それは、イエス・キリストが十字架の上で私たちの罪を完全に贖ってくださったことに基づいています。御霊がイエス・キリストが私たちのために罪の贖いを成し遂げてくださった事実に基づいて、私たちにイエス・キリストが成し遂げてくださった罪の贖いを当てはめてくださるのです。そのことが、コリント人への手紙第二・3章18節に、 私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。 と記されています。 私たちはこのような意味で罪から解放されています。イエス・キリストは、すでに「その血によって私たちを罪から解き放」ってくださっています。それは、私たちが自らの罪の本質的な特性である自己中心性から解放されて、御霊が私たちのうちに結んでくださる、御霊の実の第一の現れである愛のうちに生きるようになることに現れてきます。 このようにして、私たちが自分自身のうちにある罪から解放されて、御霊によって導かれて愛のうちを生きるようにしていただいていることが現実となっていて初めて、イエス・キリストが、 私たちをご自分の神また父のために、王国、祭司たちとしてくださった ことが理解できます。というのは、日を改めてお話ししますが、私たちが「王国」とされているということは、私たちがイエス・キリストとともに治めるようになっていることをも意味しているからです。その場合、私たちが肝に銘じておかなければならないことは、黙示録1章5節において、イエス・キリストが 地上の王たちの支配者 と呼ばれていることの意味です。繰り返しお話ししてきましたが、これは決して、イエス・キリストが「地上の王たち」の権力の序列のいちばん上に立って、「地上の王たち」を支配し、ひいては、地上のすべての人を支配するという意味ではありません。ヨハネの福音書10章11節には、 わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。 というイエス・キリストの教えが記されており、さらに、18節には、 だれも、わたしからいのちを取った者はいません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、それをもう一度得る権威があります。わたしはこの命令をわたしの父から受けたのです。 というイエス・キリストの教えが記されています。イエス・キリストのメシヤとしての権威は、ご自身の民である私たちのために、ご自身のご意思で十字架におかかりになって、私たちの罪に対する神さまの聖なる御怒りによるさばきをすべてお受けになったことに現れている権威です。それは、父なる神さまと私たちへの愛に導かれている権威、愛を本質的な特性とする権威です。 このイエス・キリストが、 私たちを・・・王国としてくださった のであれば、私たちがイエス・キリストとともに治めるようになるということは、私たちも愛をもって仕えるようになることを意味しています。そのために、イエス・キリストは、 私たちを愛しておられ、私たちを私たちの罪から、ご自分の血によって、解き放って くださったのです。 最後に、ガラテヤ人への手紙5章から二つのみことばをお読みいたします。1節には、 キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。 と記されています。そして、13節には、 兄弟たち。あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい。 と記されています。 |
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