黙示録講解

(第91回)


説教日:2012年10月7日
聖書箇所:ヨハネの黙示録1章1節ー8節
説教題:恵みとまことに満ちた栄光の主が


 黙示録1章5節後半ー6節には、

イエス・キリストは私たちを愛して、その血によって私たちを罪から解き放ち、また、私たちを王国とし、ご自分の父である神のために祭司としてくださった方である。キリストに栄光と力とが、とこしえにあるように。アーメン。

と記されています。今日は先週お話ししたことを補足するお話をしたいと思います。
 これは、これに先立つ4節ー5節前半に記されていますヨハネが「アジヤにある七つの教会」に送った挨拶の続きで、ヨハネの挨拶の後半に当たります。ヨハネはこの挨拶の前半において、

ヨハネから、アジヤにある七つの教会へ。今いまし、昔いまし、後に来られる方から、また、その御座の前におられる七つの御霊から、また、忠実な証人、死者の中から最初によみがえられた方、地上の王たちの支配者であるイエス・キリストから、恵みと平安が、あなたがたにあるように。

というように、「アジヤにある七つの教会」に、三位一体の御父、御子、御霊からの「恵みと平安が・・・あるように」と祈っています。これは祝福の祈りです。ここでヨハネは、その「恵みと平安」の源である御父、御子、御霊のことを、この順序にではなく、御父の次に御霊を取り上げ、最後に御子イエス・キリストを取り上げています。これは、「恵みと平安」の源としての御子イエス・キリストを強調するためです。
 さらにヨハネは、続く5節後半ー6節において、イエス・キリストのことをさらに説明しています。これも、イエス・キリストのことを強調するためのことです。
 そればかりではありません。すでにお話ししましたように、この後半の部分のギリシャ語を直訳調に訳しますと、

私たちを愛しておられ、私たちを私たちの罪から、ご自分の血によって、解き放ってくださり、また、私たちをご自分の神また父のために、王国、祭司たちとしてくださった方に、この方に、栄光と力とが、とこしえ[からとこしえ]にあるように。アーメン。

となります。この直訳調の訳から分かりますように、この部分は、イエス・キリストへの頌栄となっています。ヨハネはただ単にイエス・キリストのことを説明しているのではなく、イエス・キリストに対する頌栄の形で、イエス・キリストのことを説明しているのです。


 このように、ヨハネが「アジヤにある七つの教会」に送った挨拶は祝祷と頌栄から成り立っています。そして、そのどちらにおいても、御子イエス・キリストが強調されており、中心となっています。このことに、ヨハネのイエス・キリストに対する思いの深さを汲み取ることができます。これには、ヨハネとヨハネが置かれていた歴史的な事情がからんでいると考えられます。
 ヨハネは「アジヤにある七つの教会」の牧会者でした。この時は、ローマ帝国においてクリスチャンたちに対する迫害が激しくなっていた時で、「アジヤにある七つの教会」の牧会者であったヨハネは捕えられて、パトモスというエーゲ海南東の島にに流刑となっていました。ヨハネはこの流刑の地であるパトモスから「アジヤにある七つの教会」に、牧会者としての思いを込めて、祝祷と頌栄からなっている挨拶を送っています。
 このようにして、ローマ帝国からの迫害を受けてパトモスにいたヨハネに、栄光のキリストがご自身を現してくださいました。その時のことが、1章9節ー20節に、

私ヨハネは、あなたがたの兄弟であり、あなたがたとともにイエスにある苦難と御国と忍耐とにあずかっている者であって、神のことばとイエスのあかしとのゆえに、パトモスという島にいた。私は、主の日に御霊に感じ、私のうしろにラッパの音のような大きな声を聞いた。その声はこう言った。「あなたの見ることを巻き物にしるして、七つの教会、すなわち、エペソ、スミルナ、ペルガモ、テアテラ、サルデス、フィラデルフィヤ、ラオデキヤに送りなさい。」そこで私は、私に語りかける声を見ようとして振り向いた。振り向くと、七つの金の燭台が見えた。それらの燭台の真ん中には、足までたれた衣を着て、胸に金の帯を締めた、人の子のような方が見えた。その頭と髪の毛は、白い羊毛のように、また雪のように白く、その目は、燃える炎のようであった。その足は、炉で精錬されて光り輝くしんちゅうのようであり、その声は大水の音のようであった。また、右手に七つの星を持ち、口からは鋭い両刃の剣が出ており、顔は強く照り輝く太陽のようであった。それで私は、この方を見たとき、その足もとに倒れて死者のようになった。しかし彼は右手を私の上に置いてこう言われた。「恐れるな。わたしは、最初であり、最後であり、生きている者である。わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。また、死とハデスとのかぎを持っている。そこで、あなたの見た事、今ある事、この後に起こる事を書きしるせ。わたしの右の手の中に見えた七つの星と、七つの金の燭台について、その秘められた意味を言えば、七つの星は七つの教会の御使いたち、七つの燭台は七つの教会である。

と記されています。
 ここに引用しましたみことばから分かりますが、ヨハネにご自身を現してくださった栄光のキリストは、まず、

あなたの見ることを巻き物にしるして、七つの教会、すなわち、エペソ、スミルナ、ペルガモ、テアテラ、サルデス、フィラデルフィヤ、ラオデキヤに送りなさい。

と言われました。そして、ご自身の栄光の御姿を現された後にも、そのことを受けて、

そこで、あなたの見た事、今ある事、この後に起こる事を書きしるせ。

と言われました。このことは、ヨハネが栄光のキリストが啓示してくださること、19節のことばで言いますと「今ある事、この後に起こる事」を記すことがとても大切であることを意味しています。
 ヨハネはこの栄光のキリストのみことばにしたがって、栄光のキリストが啓示してくださった「今ある事、この後に起こる事」を書き記しました。それが、ヨハネの黙示録です。

 ことの順序としましては、栄光のキリストがその御姿をヨハネに示してくださる前に、ヨハネは栄光のキリストの御声を聞きました。その御声をもって、栄光のキリストは、

あなたの見ることを巻き物にしるして、七つの教会、すなわち、エペソ、スミルナ、ペルガモ、テアテラ、サルデス、フィラデルフィヤ、ラオデキヤに送りなさい。

と言われました。ですから、この黙示録は、基本的に、ヨハネが牧会していた「アジヤにある七つの教会」に対して与えられた栄光のキリストの啓示です。栄光のキリストが何よりもまず「アジヤにある七つの教会」に「今ある事、この後に起こる事」をを啓示しようとしてくださっていることは、栄光のキリストが「アジヤにある七つの教会」のことを深くお心に留めていてくださっていることを意味しています。当然、ヨハネはこのことを受け止めたはずです。
 もちろん、すでにお話ししたことを繰り返すことになりますが、この「七つの教会」の「」は完全数で、終わりの日にまで存在し続いていく栄光のキリストのからだである教会全体を代表的に表わしています。その意味で、黙示録に記されていることは、私たちも含めて、すべての時代の主の契約の民に当てはまります。
 さらに、12節には、

そこで私は、私に語りかける声を見ようとして振り向いた。振り向くと、七つの金の燭台が見えた。

と記されています。「七つの金の燭台」が何であるかは栄光のキリストご自身が示してくださっていて、20節に、

 七つの燭台は七つの教会である。

と記されています。
 また、13節には、

それらの燭台の真ん中には、足までたれた衣を着て、胸に金の帯を締めた、人の子のような方が見えた。

と記されています。これは、栄光のキリストが「七つの教会」の間にご臨在してくださり、「七つの教会」を守り、支え、導いてくださっていることを示しています。
 このように、ここでは、栄光のキリストご自身の御姿よりも前に、「七つの金の燭台」が示され、その「七つの金の燭台」との関係で栄光のキリストの御姿が示されています。もちろん、それはヨハネに見えた順に記されていることです。しかし、ここに記されていることは、栄光のキリストが幻の形でヨハネに示してくださっていることです。それで、この順序も栄光のキリストのみこころにしたがっている順序です。栄光のキリストが、先に「七つの金の燭台」を示してくださり、その「七つの金の燭台」との関係において、つまり、「アジヤにある七つの教会」の間にご臨在してくださっている方として、ご自身を示してくださったのです。
 このことも、栄光のキリストご自身が「アジヤにある七つの教会」のことを、どんなに大切にしてくださっており、深く心にかけてくださっているかを示しています。そして、このことは、ローマ帝国からの激しい迫害を受けている「アジヤにある七つの教会」にとっては大きな意味をもったことであり、深い慰めの源となったと考えられます。
 そればかりではありません。16節には、栄光のキリストのことが、

 右手に七つの星を持っている(現在分詞)

と記されています。この「七つの星」についても、栄光のキリストが説明してくださっています。やはり20節においてですが、そこには、

 七つの星は七つの教会の御使いたち・・・である。

と記されています。「七つの教会の御使いたち」の「御使いたち」が何を意味するかは、学者たちの間でも、いくつかの見方があり、決定することがとても難しいことです。具体的なことは、この個所を取り扱うときにお話ししますが、いずれの見方を取るとしましても、これが、「アジヤにある七つの教会」とかかわっていることには変わりがありません。
 栄光のキリストが、その

 右手に七つの星を持っておられる

と言われているときの「右手」は「力」と「権威」、さらには「保護」を意味しています。また「持っておられる」ということは、「所有しておられる」ことや「保護しておられる」ことを意味しています。ですから、ここでは、栄光のキリストが、ローマ帝国からの激しい迫害にさらされている「アジヤにある七つの教会」を力強い「右手」で保持してくださっており、そのメシヤとしての権威をもって、保護し、支え、導いてくださっていることが示されています。
 このように、栄光のキリストがヨハネにご自身を現してくださったのは、ローマ帝国からの激しい迫害にさらされているヨハネとヨハネが牧会している「アジヤにある七つの教会」のことを深く心にかけておられ、力強い「右手」で保持してくださり、メシヤとしての権威をもって、保護し、支え、導いてくださっていることを示してくださるためのことでした。このことは、今日の私たちにも、また、世の終わりまで続くキリストのからだである教会にも当てはまります。

 その肝心の、栄光のキリストご自身のことは、13節ー16節に、

それらの燭台の真ん中には、足までたれた衣を着て、胸に金の帯を締めた、人の子のような方が見えた。その頭と髪の毛は、白い羊毛のように、また雪のように白く、その目は、燃える炎のようであった。その足は、炉で精錬されて光り輝くしんちゅうのようであり、その声は大水の音のようであった。また、右手に七つの星を持ち、口からは鋭い両刃の剣が出ており、顔は強く照り輝く太陽のようであった。

と記されています。
 これは「キリストの栄光の顕現」(クリストファニー)と呼ばれるものです。栄光のキリストがこのような形でご自身を現してくださったのは、今お話ししましたように、この栄光のキリストが、ローマ帝国からの激しい迫害にさらされているヨハネとヨハネが牧会している「アジヤにある七つの教会」と深くかかわってくださっていることを示してくださるためでした。その意味では、これは恵みとまことに満ちた栄光のキリストの顕現です。
 ところが、そのような恵みとまことに満ちた栄光のキリストの御姿に接したヨハネのことが、続く17節前半に、

 それで私は、この方を見たとき、その足もとに倒れて死者のようになった。

と記されています。これは、

 それで私は、この方を見たとき、死者のようにその足もとに倒れた。

とも訳せますが、言われていることは同じです。
 このこととの関連で、モーセが契約の神である主に、主の栄光を見せていただきたいと願ったことを見てみましょう。その時のことが、出エジプト記33章18節ー23節に、

すると、モーセは言った。「どうか、あなたの栄光を私に見せてください。」主は仰せられた。「わたし自身、わたしのあらゆる善をあなたの前に通らせ、の名で、あなたの前に宣言しよう。わたしは、恵もうと思う者を恵み、あわれもうと思う者をあわれむ。」また仰せられた。「あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである。」または仰せられた。「見よ。わたしのかたわらに一つの場所がある。あなたは岩の上に立て。わたしの栄光が通り過ぎるときには、わたしはあなたを岩の裂け目に入れ、わたしが通り過ぎるまで、この手であなたをおおっておこう。わたしが手をのけたら、あなたはわたしのうしろを見るであろうが、わたしの顔は決して見られない。」

と記されています。
 ここに記されていることについては、以前お話ししたことがありますが、ごく簡単にまとめておきます。
 これは、モーセが主、ヤハウェの栄光の御臨在のあるシナイ山に上って、主から十戒を記した2枚の板と、主がイスラエルの民の間にご臨在してくださるために、イスラエルが造るべき主の幕屋についての啓示を受け取った時の出来事です。モーセの帰りが遅いと感じたイスラエルの民は、モーセの兄アロンに頼んで、金の子牛を造り、これを契約の神である主、ヤハウェであるとして拝みました。それは、シナイ山にご臨在されていた主が直接、御声をもってイスラエルの民に語ってくださった十戒の第2戒に、

あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。

と戒められていたことに、あからさまに反することでした。十戒の第2戒の主旨は、主、ヤハウェの偶像を造ることを禁じるものです。もちろん、その他の神々の偶像を造ってはならないのですが、第1戒において、ほかの神々を神とすることが禁じられていますので、ほかの神々はそれで排除されています。それで、第2戒では主、ヤハウェの偶像を造ることを禁じていると考えられます。
 この時、主はこのようにかたくななイスラエルの民を滅ぼし、モーセから新しい民を起こそうと言われました。しかし、モーセの執り成しによって、そのようにはなりませんでした。主はモーセにイスラエルの民を率いて約束の地に上るようにと言われました。けれども主は、このようにかたくななイスラエルの民とともに約束の地には上って行ってはくださらないと言われました。それは、主の栄光の御臨在がそのようなイスラエルの民とともにあるなら、イスラエルの民が再び同じような罪を犯したとき、主はイスラエルの民を滅ぼすことになるからでした。出エジプト記33章3節には、

わたしは、あなたがたのうちにあっては上らないからである。あなたがたはうなじのこわい民であるから、わたしが途中であなたがたを絶ち滅ぼすようなことがあるといけないから。

という主のみことばが記されています。
 それでも、モーセは主の御前に出でて、イスラエルの民のために執り成しをし、主が約束の地にまでイスラエルの民とともに行ってくださるように願いました。すると、主はモーセの執り成しを受け入れてくださって、イスラエルの民とともに約束の地にまで上って行ってくださると約束してくださいました。そのことを受けて、先ほど引用しました33章18節に記されていますように、モーセは、

 どうか、あなたの栄光を私に見せてください。

と、主にお願いしました。
 これには重大な意味があります。この時までに、モーセは主の栄光の御臨在のあるシナイ山に上って、主の御臨在の御前に出でています。その意味で、主の栄光を見ています。そのモーセが、ここで、

 どうか、あなたの栄光を私に見せてください。

と願ったのです。ですから、それはモーセがまだ主の栄光を見ていないという意味ではありません。そういうことではなく、それまでモーセが接していた主の栄光ですと、かたくななイスラエルの民が罪を犯すと、イスラエルの民を滅ぼすほかはありません。それで主は、イスラエルの民ともに約束の地には上って行かれないと言われたのです。けれども、主はモーセの執り成しにお答えになって、そのかたくななイスラエルの民とともに約束の地に上って行ってくださると約束してくださいました。そうしますと、かたくななイスラエルの民とともにあっても、イスラエルの民を滅ぼすことがないという主の栄光は、どのような栄光なのかということが問題となります。それでモーセは、主に、

 どうか、あなたの栄光を私に見せてください。

と願ったのです。
 実際に、主の指示にしたがってシナイ山に上ったモーセに示された主の栄光の御臨在のことを記している34章5節ー7節には、

は雲の中にあって降りて来られ、彼とともにそこに立って、の名によって宣言された。は彼の前を通り過ぎるとき、宣言された。「は、あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富み、恵みを千代も保ち、咎とそむきと罪を赦す者、罰すべき者は必ず罰して報いる者。父の咎は子に、子の子に、三代に、四代に。」

と記されています。
 ここで、主はご自身のことを、まず、

は、あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富み、

と宣言されました。ですから、この時、モーセに示された契約の神である主、ヤハウェの栄光は「恵みとまこと」に満ちた栄光であったのです。
 これに続く、

恵みを千代も保ち、咎とそむきと罪を赦す者、罰すべき者は必ず罰して報いる者。父の咎は子に、子の子に、三代に、四代に。

という宣言のみことばは、先ほど引用しました十戒の第2戒の最後にありました、

あなたの神、であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。

というみことばに対応しています。
 十戒の第2戒では、主のことが、

 あなたの神、であるわたしは、ねたむ神、

であると言われています。これに対して、「恵みとまこと」に満ちた主の栄光の宣言では、主のことが、

 は、あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富み、

であると言われています。
 十戒の第2戒では背く者への刑罰が先に出てきますが、「恵みとまこと」に満ちた主の栄光の宣言では、主の恵みの方が先に出てきます。さらに、十戒の第2戒では、恵みを施される人のことが、

 わたしを愛し、わたしの命令を守る者には

と言われいますが、「恵みとまこと」に満ちた主の栄光の宣言には、このことばがありません。そればかりでなく、その代わりに、

 咎とそむきと罪を赦す者

ということばが付け加えられています。
 このようにして、イスラエルの民が金の子牛を造って、これを契約の神である主、ヤハウェであるとして拝むという、重大な罪を犯したときに、主の御前に出でて執り成し続けたモーセに対して、主はご自身の栄光が「恵みとまこと」に満ちた栄光であることを示してくださいました。
 けれども、33章20節に記されていますように、主はご自身の栄光が「恵みとまこと」に満ちた栄光であることを示してくださるに当たって、モーセに、

あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである。

と言われ、22節ー23節に記されていますように、

わたしの栄光が通り過ぎるときには、わたしはあなたを岩の裂け目に入れ、わたしが通り過ぎるまで、この手であなたをおおっておこう。わたしが手をのけたら、あなたはわたしのうしろを見るであろうが、わたしの顔は決して見られない。

と言われました。
 ここで、

 あなたはわたしのうしろを見るであろうが、わたしの顔は決して見られない。

と言われているときの「うしろ」(アーホール)は、その用例からして、人の背中を表すことばではなく、方向としての「うしろの方」を意味することばです(TWOT、#68 背中を表すことばは「ガブ」や「ガウ」で、首の後ろを表す場合は「オーレフ」)。また、「」(パーニーム)は、御臨在をも意味することばです。この時、モーセは契約の神である主、ヤハウェの栄光の御臨在が通り過ぎた後に、そのうしろの方からその栄光を見たのですが、主、ヤハウェの御顔、すなわち、主、ヤハウェの御臨在そのものを見ることはできなかったのです。
 どうしてなのでしょうか。この契約の神である主、ヤハウェの栄光の御臨在そのものが、主の栄光は「恵みとまこと」に満ちた栄光であることを啓示するものでした。けれども、モーセの時代には、まだ、主の「恵みとまこと」に満ちた栄光の御臨在が、完全な形で歴史の現実となっていなかったからです。主の「恵みとまこと」に満ちた栄光の御臨在は、無限、永遠、不変の栄光の主であられる御子イエス・キリストが、私たちご自身の民と一つとなってくださり、私たちのために罪の贖いの御業を遂行してくださるために、人の性質を取って来てくださったことによって、さらには、この方が十字架におかかりになって、私たちご自身の民の罪を完全に贖ってくださったことによって、歴史の現実となったのです。ヨハネの福音書1章14節に、

ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。

と記されているとおりです。最後の、

 この方は恵みとまことに満ちておられた。

と訳されていることばは[「満ちておられた」と訳されていることば(プレーレース)が不変化詞ですので]、

 この栄光は恵みとまことに満ちていた。

と訳すことができます。
 このように、主の「恵みとまこと」に満ちた栄光の御臨在は御子イエス・キリストにおいて、歴史の現実となっています。そして、主の「恵みとまこと」に満ちた栄光の御臨在の御許には、私たちご自身の民のために完全な罪の贖いが備えられています。それで、イエス・キリストが十字架の上で流された血によって罪を完全に贖っていただいている私たちは、恐れなく「恵みとまこと」に満ちた栄光の主の御臨在の御前に近づくことができるのです。
 実際、黙示録1章14節ー16節に、

その頭と髪の毛は、白い羊毛のように、また雪のように白く、その目は、燃える炎のようであった。その足は、炉で精錬されて光り輝くしんちゅうのようであり、その声は大水の音のようであった。また、右手に七つの星を持ち、口からは鋭い両刃の剣が出ており、顔は強く照り輝く太陽のようであった。

と記されていますように、ヨハネは、栄光のキリストの御顔を見ています。栄光のキリストの御臨在そのものを見ています。
 そうではあっても、先ほど引用しましたように、これに続いて17節には、

 それで私は、この方を見たとき、その足もとに倒れて死者のようになった。

と記されていました。私たちは罪を完全に贖われているとはいえ、自らのうちになおも罪の性質を宿しており、実際に罪を犯してしまう者です。そのことは、使徒ヨハネといえども、例外ではありません。そのような者が、主の栄光の顕現に直接的に触れることになったのです。その御前で、

 それで私は、この方を見たとき、その足もとに倒れて死者のようになった。

と言われている状態になってしまったことは、十分理解できます。
 しかし、これには続きがあります。17節では、さらに、

しかし彼は右手を私の上に置いてこう言われた。「恐れるな。わたしは、最初であり、最後であり、生きている者である。わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。また、死とハデスとのかぎを持っている。

と記されています。栄光のキリストご自身が、

 恐れるな。

というみことばをもって、ヨハネから恐れを取り除いてくださいました。それは、言うまでもなく、栄光のキリストご自身がその十字架の死をもって成し遂げてくださった罪の贖いに基づくことです。ヨハネが、イエス・キリストのことを、

私たちを愛しておられ、私たちを私たちの罪から、ご自分の血によって、解き放ってくださった

とあかししていることが、このような栄光のキリストの御臨在の御前において、ヨハネ自身の生きた現実的な経験となっていたのです。
 ヨハネにとっては、自分が、

その頭と髪の毛は、白い羊毛のように、また雪のように白く、その目は、燃える炎のようであった。その足は、炉で精錬されて光り輝くしんちゅうのようであり、その声は大水の音のようであった。また、右手に七つの星を持ち、口からは鋭い両刃の剣が出ており、顔は強く照り輝く太陽のようであった。

とあかししている栄光の主が、また、その御前では、自分が、

 その足もとに倒れて死者のようになった。

と言われている状態になってしまうほどであった栄光の主が、十字架にかかって自分たちを罪から解き放ってくださったということであり、それほどまでに自分たちを愛してくださっているということであったのです。ヨハネがこの栄光のキリストのことを説明するときに、単なる説明のことばではなく、頌栄の形を取ったことが分かるような気がします。


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