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説教日:2012年9月30日 |
このようなことを念頭に置きながら、ヨハネがこのイエス・キリストへの頌栄の中で語っていることを見てみましょう。そのために、先ほどの直訳調の訳の方を取り上げます。それは、 私たちを愛しておられ、私たちを私たちの罪から、ご自分の血によって、解き放ってくださり、また、私たちをご自分の神また父のために、王国、祭司たちとしてくださった方に、この方に、栄光と力とが、とこしえ[からとこしえ]にあるように。アーメン。 というものです。 これは、これに先立って、 忠実な証人、死者の中から最初によみがえられた方、地上の王たちの支配者であるイエス・キリスト と記されているイエス・キリストを受けている(関係代名詞・男性・単数・与格の)「方(かた)に」ということばで始まっています。そしてこれが、最後の、 この方に、栄光と力とが、とこしえ[からとこしえ]にあるように。アーメン。 という、いわば、頌栄の本体とも言うべきことばを導入している(人称代名詞・3人称・単数・与格の)「この方に」と対応しています。それで、 私たちを愛しておられ、私たちを私たちの罪から、ご自分の血によって、解き放ってくださり、また、私たちをご自分の神また父のために、王国、祭司たちとしてくださった方に、この方に、栄光と力とが、とこしえ[からとこしえ]にあるように。アーメン。 ということば全体が、イエス・キリストに対する頌栄となっていると考えられるのです。そして、このことは、先週お話ししましたように、また、先程もお話ししましたように、ここであえてイエス・キリストおひとりに対する頌栄を記そうとしているヨハネのイエス・キリストに対する思いの深さと強さを反映しています。 このときヨハネは、ローマ帝国という強大な帝国による迫害によって捕えられ、自分が牧会者として心にかけている「アジヤにある七つの教会」の群れから引き裂かれるようにして、パトモスに流刑となっていました。そのような自分に、栄光のキリストがご自身を現してくださったのです。そして、栄光のキリストご自身が、ヨハネが心にかけていた「アジヤにある七つの教会」のまことの牧会者として、一つ一つの群れに目を留めていてくださり、細やかなご配慮をもって支え、導いてくださっていることを示してくださいました。 そればかりでなく、栄光のキリストは、この後、ご自身が救いとさばきの御業をどのように遂行していかれるかをも示してくださったのです。これによって、その栄光のキリストが遂行される救いとさばきの御業は、ローマ帝国の激しい迫害にさらされているヨハネを初めとする「アジヤにある七つの教会」、さらには、「アジヤにある七つの教会」によって代表的に示されている、世の終わりまで続いていく主の契約の民の救いの完成のための御業であることが明らかにされました。さらに、これによって、先週詳しくお話ししましたが、ヨハネを初めとする「アジヤにある七つの教会」がローマ帝国の激しい迫害にさらされていることは、サタンが天における霊的な戦いに破れて、血に投げ落とされたことの現れであることが示されました。ヨハネを初めとする「アジヤにある七つの教会」がローマ帝国の激しい迫害にさらされていることさえも、栄光のキリストが救いとさばきの御業を遂行していることの中で、意味をもっていることが明らかにされたのです。 ヨハネはイエス・キリストの栄光の顕現に接し、その栄光のキリストから、このような意味をもった啓示を受け、それを理解しました(理解したからこそ、黙示録を記すことができたのです)。それで、自分と自分が牧会している「アジヤにある七つの教会」が、確かに、栄光のキリストが遂行しておられる救いとさばきの御業のうちにあることを確信することができました。そのような、栄光のキリストとの生き生きとした出会いと、交わりを経験していたヨハネです。そのヨハネの中で、イエス・キリストへの深い感謝とともに、そのイエス・キリストに栄光が帰せられることを求める思いがどれほど強く大きなものであったかは、容易に想像できます。 そのような思いを込めて、すなわち、頌栄の形で、ヨハネは、イエス・キリストのことを、 私たちを愛しておられ、私たちを私たちの罪から、ご自分の血によって、解き放ってくださり、また、私たちをご自分の神また父のために、王国、祭司たちとしてくださった方 と述べています。 最初の、 私たちを愛しておられ、 ということばは(現在分詞で表されていて)、イエス・キリストの私たちに対する愛が常に、どのような状態にあっても、変わることがないことを示しています。 これに続いて、イエス・キリストのことが、 私たちを私たちの罪から、ご自分の血によって、解き放ってくださり、 と述べられています。この「解き放ってくださった」ということばは(不定過去分詞で表されていて)すでに過去において成し遂げられたことを示しています。 言うまでもなく、これは、無限、永遠、不変の栄光の主であられる御子イエス・キリストが、私たちご自身の民と一つとなってくださるために、人の性質を取って来てくださり、私たちの罪を贖うために十字架にかかって死んでくださったことを指しています。十字架にかかられたイエス・キリストは、私たちの罪に対する父なる神さまの聖なる御怒りによるさばきを、私たちに代わって、すべて受けてくださいました。それで、私たちの罪に対する神さまの聖なる御怒りによるさばきは、すでに、御子イエス・キリストの十字架において執行されて終わっています。 その昔、出エジプトの時代に、契約の神である主は、主の契約の民であるイスラエルの民を奴隷として搾取し、苦しめていたエジプトを、十のさばきをもっておさばきになりました。その最後のさばきは、人を初めとして家畜に至るまで、エジプトの地にある、すべての「初子」を滅ぼすというものでした。 これに対して、主はイスラエルの民に、最初の月(ニサンの月)の10日に、それぞれの家ごとに小羊を取り分けておき、その14日の夕暮れにそれをほふり、その血を、それぞれの家の2本の門柱と鴨居に塗るようにお命じになりました。そして、その夜にエジプトの地にさばきが執行されました。しかし、門柱と鴨居に小羊の血が塗られていた家では、すでにさばきが執行されていたということで、さばきが執行されることはありませんでした。 その過越の小羊は、やがて契約の神である主が遣わしてくださる約束の贖い主を指し示すもの、「地上的なひな型」でした。コリント人への手紙第一・5章7節には、 私たちの過越の小羊キリストが、すでにほふられた と記されています。イエス・キリストは過越の小羊の本体であられる方として、私たちご自身の民のために十字架におかかりになって、私たちの罪に対する神さまの聖なる御怒りによるさばきを、私たちに代わって受けてくださいました。私たちはその血にあずかっていますので、終わりに日に執行される最後のさばきにおいて、決して、さばかれることはありません。 これは、私たち、この時代に生きている主の契約の民にとっては、今から2千年前になされた罪の贖いの御業です。それはまた、ヨハネを初めとする「アジヤにある七つの教会」の信徒たちにとっても、すでに、成し遂げられていた贖いの御業でした。すでに歴史の中でなされていることを変えることができません。そのように、このイエス・キリストの十字架の死による私たちのための罪の贖いの御業は、確かなことです。 これらのことを踏まえて、改めて、ヨハネが、イエス・キリストについて、 私たちを愛しておられ、私たちを私たちの罪から、ご自分の血によって、解き放ってくださり、 と述べていることを見てみましょう。 これによってヨハネは、イエス・キリストが、 私たちを私たちの罪から、ご自分の血によって、解き放ってくださった のは、イエス・キリストが、 私たちを愛しておられる からであるということを示しています。言い換えますと、イエス・キリストが、 私たちを愛しておられる ということは、イエス・キリストが、 私たちを私たちの罪から、ご自分の血によって、解き放ってくださった ことに現れているということです。 ここで大切なことは、イエス・キリストが、 私たちを愛しておられる ことは(現在分詞で表されていて)常に変わらないこと、どのような場合にも変わらないことであるということです。そして、その変わることがないイエス・キリストの私たちへの愛は、 私たちを私たちの罪から、ご自分の血によって、解き放ってくださった ことに表されている、まさにその愛であるということです。 イエス・キリストが私たちの罪を贖ってくださるために十字架にかかってくださり、私たちの罪に対する神さまの聖なる御怒りによるさばきを、私たちに代わって、すべて受けてくださったことに、イエス・キリストの私たちに対する愛がこの上なく豊かに示されました。ヨハネが言いたいのは、その愛は過去に一度だけ現されて終わってしまったのではなく、イエス・キリストは今も、また、永遠に変わることなく、それと同じ豊かな愛をもって、私たちを愛していてくださるということです。ですから私たちは、イエス・キリストが十字架におかかりになって、私たちの罪に対する神さまの聖なる御怒りによるさばきを、私たちに代わってすべて受けてくださったことに現れている愛を、今このときに受けているということに気がつく必要があるのです。 すでに、ヨハネがその祝福の祈りの中で、イエス・キリストのことを、 地上の王たちの支配者 と呼んでいることについてお話ししました。 地上の王たちの支配者 であられるイエス・キリストの権威は、「地上の王たち」の権威と本質的に違います。「地上の王たち」は、自分が支配する人々の上に立って、権力を振るいます。「地上の王たち」の野望の実現のために、どれほど多くの血と涙が流され、うめきと叫びの声が発せられたか分かりません。しかも、その野望によって打ち立てられたものは、うたかたのごとくに過ぎ去っていきました。そのようなもののために、神のかたちに造られた人のいのちの血が流され、悲しみの叫びとうめきの声があげられたのです。 しかし、イエス・キリストの権威はそのようなものとはまったく違います。繰り返し引用しましたヨハネの福音書10章11節に記されていますように、イエス・キリストは、 わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。 と言われました。また、少し後の18節に記されていますように、 だれも、わたしからいのちを取った者はいません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、それをもう一度得る権威があります。わたしはこの命令をわたしの父から受けたのです。 と言われました。 イエス・キリストは私たちを死と滅びの中から贖い出してくださるために十字架におかかりになりました。それにはさまざまなことがかかわっています。そのすべてをイエス・キリストがご自身の権威を発揮して導いておられたというのです。ユダヤ人の当局者たちがイエス・キリストの人気を妬んでいたこと、最初イエス・キリストを助けようとしたローマの総督ピラトが、自分の保身のために、イエス・キリストを十字架につけるように、ローマの兵士の手に渡したこと、さらには、イエス・キリストの弟子であったイスカリオテ・ユダがイエス・キリストを裏切るようになったこと、そのために、サタンがユダに働きかけていたことなど、すべてのことを、イエス・キリストがご自身の権威によってお用いになって、十字架におかかりになったのです。 ですから、イエス・キリストはことの成り行きの中で、結果的に十字架につけられたのではありません。私たちの目にはことの成り行きと見えるすべてのことを、メシヤとして父なる神さまから委ねられた権威を発揮して導いて、ご自身の意志で十字架におかかりになって、ご自身の意志で、私たちの罪に対する神さまの聖なる御怒りによるさばきをすべてお受けになったのです。 その根底にあったのは、 わたしはこの命令をわたしの父から受けたのです。 というみことばに示されている、父なる神さまへの愛によって父なる神さまのみこころを実現しようとされたことと、これまでお話ししてきました、私たちご自身の民を愛してくださっている愛です。イエス・キリストの権威は父なる神さまと私たちへの愛に基づいて発揮されました。いわば、イエス・キリストの権威は、父なる神さまと私たちご自身の民への愛に導かれて発揮されたのです。それは、私たちを死と滅びから贖い出してくださるという父なる神さまのみこころを実現してくださるために、十字架にかかってくださったことに現れている権威です。 このイエス・キリストの権威も、過去のものではありません。また、イエス・キリストの権威を導いている愛も過去のものではありません。ヨハネがこのイエス・キリストに対する頌栄の中で示していますように、イエス・キリストは、私たちのために十字架にかかってくださったことに現れている愛をもって、今このとき、私たちを愛してくださっています。その愛は空しいものではありません。というのは、イエス・キリストはその愛を私たちに注いでくださるために、メシヤとして父なる神さまから委ねられている権威を発揮してくださるからです。 そのことは、ローマ帝国からの激しい迫害にさらされて苦しんでいたヨハネを初めとする「アジヤにある七つの教会」の信徒たちにとって、大きな意味をもっていました。また、この時代を生きる私たちにとっても大きな意味をもっています。 契約の神である主、ヤハウェの恵みを歌っているイザヤ書63章8節ー9節には、 こうして、主は彼らの救い主になられた。 彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ、 ご自身の使いが彼らを救った。 その愛とあわれみによって主は彼らを贖い、 昔からずっと、彼らを背負い、抱いて来られた。 と記されています。ローマ帝国による厳しい迫害の中にあった神の子どもたちにとって、栄光のキリストがともにいてくださらなかったときはなかったのです。誰よりも、この黙示録を記しているヨハネが、ローマ帝国による激しい迫害の苦しみの中で、自分たちを愛してくださって十字架にかかってくださったイエス・キリストがともにいてくださることを経験していました。さらに、イエス・キリストがメシヤとしての権威をもって、神の子どもたちのために救いとさばきの御業を遂行してくださっているということ、それによって、終わりに日に、神の子どもたちの救いを完全に実現してくださるということを確信することができるように導かれていました。 私たちにとって、今は、国家や社会による迫害は激しいものではありません。けれども、私たちはこの世にある間に、さまざまな試練に遭遇します。死を思わせるような病にかかることや、自然災害や事故に巻き込まれることもあります。そのようなときに、私たちは常に変わることがないイエス・キリストの愛を受け取るように招かれています。というより、それは私たちの使命です。今このときに、そして、その試練の中にあって、 こうして、主は彼らの救い主になられた。 彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ、 ご自身の使いが彼らを救った。 その愛とあわれみによって主は彼らを贖い、 昔からずっと、彼らを背負い、抱いて来られた。 とあかしされていることが、イエス・キリストにおいて、私たちの現実になっていることをあかしすることは、私たちの大切な使命です。 またその一方で、物質的な豊かさの中で、それほど主に信頼しなくてもやっていけると感じてしまうという、それとは別の誘惑が私たちに迫ってきています。黙示録に出てくる「アジヤにある七つの教会」の中では、ラオデキヤにある教会がそのような誘惑に陥っていました。それがどのような形であっても、暗やみの主権者の陣営が目指しているのは、私たち神の子どもたちが福音のみことばにあかしされているイエス・キリストの十字架の死による罪の贖いを空しいもののように感じるようになることです。イエス・キリストを信じていないというのではなく、信じていると言っても、イエス・キリストとの生きた交わりのうちには生きてはいない、その結果、イエス・キリストの愛をそれほど現実的に感じてはいない状態に陥ってしまうことです。ラオデキヤにある教会に照らして言いますと、実質的にはイエス・キリストを家の外に締め出してしまっているということです。 私たちは、イエス・キリストが私たちの罪に対する神さまの聖なる御怒りによるさばきを、私たちに代わって、すべて受けてくださったことを知っています。そうであれば、イエス・キリストを十字架につけてしまった張本人は、突き詰めていけば、私たち自身にほかならないことになります。この事実の前に、私たちはことばを失います。それでも、あえてことばを出すとすれば、ヨハネのように、そのようにして私たちを愛してくださり、今も、愛してくださっているイエス・キリストに、 栄光と力とが、とこしえ[からとこしえ]にあるように。アーメン。 という頌栄のことばとなるでしょう。 |
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