黙示録1章5節後半ー6節には、
イエス・キリストは私たちを愛して、その血によって私たちを罪から解き放ち、また、私たちを王国とし、ご自分の父である神のために祭司としてくださった方である。キリストに栄光と力とが、とこしえにあるように。アーメン。
と記されています。これは、この前の4節ー5節前半に記されていますヨハネの挨拶の続きです。
すでに、その挨拶の前の部分を取り上げたときに、お話ししてきましたように、この時は、ローマ帝国においてクリスチャンたちに対する迫害が厳しくなっていた時でした。1章9節に、
私ヨハネは、あなたがたの兄弟であり、あなたがたとともにイエスにある苦難と御国と忍耐とにあずかっている者であって、神のことばとイエスのあかしとのゆえに、パトモスという島にいた。
と記されていますように、その迫害は、ローマの属州である「アジヤ」、現在の小アジアにあった「七つの教会」にまで及んでいて、その牧会者であったヨハネは捕えられて、パトモスという島に流刑、島流しになっていました。そして、パトモスにいたヨハネに栄光のキリストがご自身を現してくださり、ヨハネが黙示録に記していることを啓示してくださいました。先ほどの9節に記されていることに続いて、10節ー19節には、
私は、主の日に御霊に感じ、私のうしろにラッパの音のような大きな声を聞いた。その声はこう言った。「あなたの見ることを巻き物にしるして、七つの教会、すなわち、エペソ、スミルナ、ペルガモ、テアテラ、サルデス、フィラデルフィヤ、ラオデキヤに送りなさい。」そこで私は、私に語りかける声を見ようとして振り向いた。振り向くと、七つの金の燭台が見えた。それらの燭台の真ん中には、足までたれた衣を着て、胸に金の帯を締めた、人の子のような方が見えた。その頭と髪の毛は、白い羊毛のように、また雪のように白く、その目は、燃える炎のようであった。その足は、炉で精錬されて光り輝くしんちゅうのようであり、その声は大水の音のようであった。また、右手に七つの星を持ち、口からは鋭い両刃の剣が出ており、顔は強く照り輝く太陽のようであった。それで私は、この方を見たとき、その足もとに倒れて死者のようになった。しかし彼は右手を私の上に置いてこう言われた。「恐れるな。わたしは、最初であり、最後であり、生きている者である。わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。また、死とハデスとのかぎを持っている。そこで、あなたの見た事、今ある事、この後に起こる事を書きしるせ。
と記されています。ヨハネはこのイエス・キリストの命令にしたがって、この黙示録を記しました。ここには、イエス・キリストが、
あなたの見ることを巻き物にしるして、七つの教会、すなわち、エペソ、スミルナ、ペルガモ、テアテラ、サルデス、フィラデルフィヤ、ラオデキヤに送りなさい。
と言われたことが記されています。このみことばから分かりますように、ヨハネが黙示録に記していることは、基本的に、「アジヤにある七つの教会」に示された栄光のキリストの啓示です。この場合の「七」という数字は完全数で、代々に渡って地上にあるすべての教会を象徴的に示しています。
ヨハネが黙示録に記していることは、基本的に、「アジヤにある七つの教会」に示された栄光のキリストの啓示であるということは、以前お話ししましたように、2章ー3章に記されている「アジヤにある七つの教会」のそれぞれの群れに対して語られている栄光のキリストのみことばに如実に現れています。そこで、イエス・キリストは「アジヤにある七つの教会」のそれぞれの群れの実情を知っていてくださり、賞賛すべきことを賞賛してくださり、悔い改めるべきことがあれば、それを指摘して、悔い改めに導いてくださっています。そして、最後には、終わりの日においてご自身が再臨されて実現してくださる救いの完成とともにもたらされる祝福を約束してくださっています。これによって、ヨハネは栄光のキリストご自身が、「アジヤにある七つの教会」のまことの牧者として、1つ1つの群れを顧みてくださり、細やかに、導いてくださっていることを知ることができたのです。たとえ牧会者である自分が「アジヤにある七つの教会」から引き裂かれて、遠くパトモスに島流しになってしまっていても、その群れはまったくの孤立無援の状態にあるわけではないことを確信することができたと考えられます。
ヨハネはそのような意味をもっている黙示録を記すときに、自分が牧会者として仕えている「アジヤにある七つの教会」に、牧会者としての思いを込めて挨拶を記しました。そして、これまでお話ししてきましたように、まず、4節ー5節前半において、自分が牧会している「アジヤにある七つの教会」に、御父、御子、御霊からの「恵みと平安」があるようにと祈っています。
ヨハネは、その祝福の祈りに続いて、この5節後半ー6節において、イエス・キリストに対する頌栄を記しています。
先ほど引用しました、新改訳の訳ですと、最後の、
キリストに栄光と力とが、とこしえにあるように。アーメン。
という部分が頌栄であるように見えます。けれども、原文のギリシャ語では、
イエス・キリストは私たちを愛して、その血によって私たちを罪から解き放ち、また、私たちを王国とし、ご自分の父である神のために祭司としてくださった方である。キリストに栄光と力とが、とこしえにあるように。アーメン。
と訳されている部分の全体が、イエス・キリストに対する頌栄となっています。かなりぎこちなくなりますが、この部分を直訳調に訳しますと、
私たちを愛しておられ、私たちを私たちの罪から、ご自分の血によって、解き放ってくださり、また、私たちをご自分の神また父のために、王国、祭司たちとしてくださった方に、この方に、栄光と力とが、とこしえ[からとこしえ]にあるように。アーメン。
となります。[注] この直訳調の訳から分かりますように、この全体が、イエス・キリストに対する頌栄です。
[注]少し文法的な注釈を加えますと、
私たちを愛しておられ(現在時制の分詞)、私たちを私たちの罪から、ご自分の血によって、解き放ってくださり(不定過去時制の分詞)、また、私たちをご自分の神また父のために、王国、祭司たちとしてくださった(不定過去時制の定動詞)方に(関係代名詞の与格で冒頭にあります)、この方に(人称代名詞の与格)、栄光と力とが、とこしえ[からとこしえ]にあるように。アーメン。
となります。最後の部分は、「とこしえにあるように」なのか「とこしえからとこしえにあるように」(「とこしえからとこしえに」は意訳です)なのか、本文批評の上から決定しがたいということで、カギカッコの部分が加えられています。
新改訳がこの頌栄の前の部分を、
イエス・キリストは私たちを愛して、その血によって私たちを罪から解き放ち、また、私たちを王国とし、ご自分の父である神のために祭司としてくださった方である
と訳しているのは、この部分が関係代名詞で始まっていて、その前のヨハネの祈りにおいて、
また、忠実な証人、死者の中から最初によみがえられた方、地上の王たちの支配者であるイエス・キリスト
と言われている、イエス・キリストのことを説明しているという面もあるからであると思われます。新改訳はそのイエス・キリストのことを説明しているという面の方を前面に出していると考えられます。
いずれにしましても、この、
私たちを愛しておられ、私たちを私たちの罪から、ご自分の血によって、解き放ってくださり、また、私たちをご自分の神また父のために、王国、祭司たちとしてくださった方に、この方に、栄光と力とが、とこしえ[からとこしえ]にあるように。アーメン。
という部分の全体がイエス・キリストに対する頌栄であるということはとても大切なことです。今日は、このことについてお話しします。
先ほどお話ししましたように、ヨハネは「アジヤにある七つの教会」の牧会者ですが、ローマ帝国という、当時、最強の帝国による迫害にあって捕えられ、遠くパトモスという島に流刑となってしまっていました。自分が心にかけている「アジヤにある七つの教会」の信徒たちはローマ帝国からの迫害にさらされ、試練の中にあるのに、自分はその群れから引き離されてしまっています。そのような中で、ヨハネはひたすら、御霊に導いていただいて、それぞれの群れのために、父なる神さまと御子イエス・キリストにとりなし祈っていたと考えられます。もちろん、「アジヤにある七つの教会」の信徒たちも、牧会者であるヨハネのために、とりなし祈り続けていたと考えられます。
そのヨハネに栄光のキリストがご自身を現してくださり、「アジヤにある七つの教会」の1つ1つの群れに御目を留めていてくださり、まことの牧者としてのご配慮をもって、導いてくださっていることをお示しになりました。イエス・キリストは「アジヤにある七つの教会」の1つ1つの群れの実情、その1つ1つの群れが直面している、ローマ帝国からの迫害という、非常に厳しい現実や、その厳しい現実の中で苦しむ信徒たちをさらに惑わす、さまざまな誤った教えにもさらされているという現実[「ニコライ派の人々」(2章6節、15節)、「サタンの王座」(2章13節)、「バラムの教え」(2章14節)、「イゼベルという女」(2章20節、「サタンの会衆に属する者」(3章9節)]などを、つぶさに知っていてくださり、導いてくださっていました。けれども、それだけではありません。イエス・キリストは、そのような状況にある人々が経験していることのさらに奥にある、霊的な状況を明らかにしてくださっています。しかも、それを契約の神である主が、この後、ご自身の民のために、救いの御業をどのように進めていかれるかを示してくださることの中で明らかにしてくださっています。それによって、主の契約の民は、神さまの救いの御業の歴史の中で自分たちがどのような立場にあるかを知ることができました。
たとえば、黙示録12章には、創世記3章15節に記されている「最初の福音」において約束されている「女の子孫」のかしらであられる贖い主がお生まれになって、贖いの御業を成し遂げられ、栄光を受けて、父なる神さまの御許にまで引き上げられたことが記されています。また、そのことを受けて、天において霊的な戦いがなされてサタンが敗北し、地に投げ落とされたことが示されています。
そのことを記している12章7節ー18節には、
さて、天に戦いが起こって、ミカエルと彼の使いたちは、竜と戦った。それで、竜とその使いたちは応戦したが、勝つことができず、天にはもはや彼らのいる場所がなくなった。こうして、この巨大な竜、すなわち、悪魔とか、サタンとか呼ばれて、全世界を惑わす、あの古い蛇は投げ落とされた。彼は地上に投げ落とされ、彼の使いどもも彼とともに投げ落とされた。そのとき私は、天で大きな声が、こう言うのを聞いた。
「今や、私たちの神の救いと力と国と、また、神のキリストの権威が現れた。私たちの兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている者が投げ落とされたからである。兄弟たちは、小羊の血と、自分たちのあかしのことばのゆえに彼に打ち勝った。彼らは死に至るまでもいのちを惜しまなかった。それゆえ、天とその中に住む者たち。喜びなさい。しかし、地と海とには、わざわいが来る。悪魔が自分の時の短いことを知り、激しく怒って、そこに下ったからである。」
自分が地上に投げ落とされたのを知った竜は、男の子を産んだ女を追いかけた。しかし、女は大鷲の翼を二つ与えられた。自分の場所である荒野に飛んで行って、そこで一時と二時と半時の間、蛇の前をのがれて養われるためであった。ところが、蛇はその口から水を川のように女のうしろへ吐き出し、彼女を大水で押し流そうとした。しかし、地は女を助け、その口を開いて、竜が口から吐き出した川を飲み干した。すると、竜は女に対して激しく怒り、女の子孫の残りの者、すなわち、神の戒めを守り、イエスのあかしを保っている者たちと戦おうとして出て行った。そして、彼は海べの砂の上に立った。
と記されています。
今お話ししていることとかかわっていることだけに触れますが、ここでは、「竜」として示されているサタンが天における霊的な戦いに破れて、地上に投げ落とされたことが記されています。そして、そのサタンは「自分の時の短いことを知り」、いわば最後の死に物狂いの戦いを開始します。その戦いの対象となっているのが、
女の子孫の残りの者、すなわち、神の戒めを守り、イエスのあかしを保っている者たち
と言われている人々です。ここには「女」も出てきます。これは、古い契約の下にある教会と新しい契約の下にある教会の全体を表しています。「女の子孫の残りの者」たちは、地上にいる主の契約の民です。ヨハネの時代ですと、ローマ帝国にいるクリスチャンたちです。
そして、これに続く13章1節ー2節には、
また私は見た。海から一匹の獣が上って来た。これには十本の角と七つの頭とがあった。その角には十の冠があり、その頭には神をけがす名があった。私の見たその獣は、ひょうに似ており、足は熊の足のようで、口は獅子の口のようであった。竜はこの獣に、自分の力と位と大きな権威とを与えた。
と記されています。
この海から上ってきた獣につきましては、すでにお話ししたことがありますが、ダニエル書7章に出てくる、この世の帝国を象徴的に表わしている4つの獣の特徴を合わせもつ、恐るべき帝国です。この帝国は、ヨハネの時代のローマ帝国をモデルとして描写されています。それで、ヨハネを初めとする「アジヤにある七つの教会」にとっては、自分たちを迫害しているローマ帝国のことであることが分かりました。同時に、これは終わりの日に至るまでのこの世の国の姿を示しつつ、終わりの日に現れると言われている反キリストの帝国を指し示しています。それで、これはいつの時代の主の民にとっても、意味をもっています。いつの時代においても、この世の国にはこのような獣によって示される特性があるということです。
このことから、ヨハネを初めとする「アジヤにある七つの教会」の信徒たちは、自分たちがローマ帝国による激しい迫害にさらされていることが、自分たちの目に見えることを越えた、契約の神である主の救いの御業の歴史のどのような事情の中で起こっているかを理解することができました。その迫害は、サタンが天における霊的な戦いに敗北したことの結果として起こっているということを理解することができるようになったのです。しかも、それは、人類の罪による堕落の直後に与えられた「最初の福音」に約束された「女の子孫」のかしらなる御方が来てくださって実現してくださったことです。つまり、契約の神である主が、人類の罪による堕落の直後からずっと変わることなく、常にご自身の契約に真実であられたことの現れであるのです。それはまた、契約の神である主が、この後も、ご自身の契約に対して真実であられ、終わりの日に、栄光のキリストを遣わしてくださって、私たち主の契約の民の救いを完成してくださることの確かさをあかしするものです。
このようにして、黙示録に記されている啓示を受け取ったヨハネを初めとする「アジヤにある七つの教会」の信徒たちは、栄光のキリストが自分たちに示してくださったことに基づいて契約の神である主の壮大なご計画に基づく贖いの御業の歴史の中に自分たちを位置づけることができました。そして、ヨハネは、このことに基づいて、「アジヤにある七つの教会」に対する挨拶の中で、贖いの御業を遂行しておられる御父、御子、御霊からの「恵みと平安」があるようにと祈っています。その際に、ヨハネは、この「恵みと平安」の源の中心であるイエス・キリストのことを「忠実な証人、死者の中から最初によみがえられた方、地上の王たちの支配者」と呼んでいます。
このヨハネの祈りは、必ずしも、ローマ帝国からの激しい迫害が止むことを意味しているわけではありません。むしろ、ローマ帝国からの激しい迫害にさらされている「アジヤにある七つの教会」の信徒たちが、その迫害の試練の中で「忠実な証人」と呼ばれているイエス・キリストのあかしによって、黙示録に記されていることを理解し、受け止め、それを自分たちに当てはめることができるように導いていただいて、自分たちに与えられている「恵み」を悟り、迫害の中でも揺るぐことのない「平安」をもつことができるようになることを意味しています。
ヨハネは流刑の地であるパトモスから、自分が牧会している「アジヤにある七つの教会」に送った挨拶の中で、イエス・キリストがその十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げてくださった贖いの御業を記しています。それは、ローマ帝国による激しい迫害にさらされている「アジヤにある七つの教会」に、その迫害の中にあってもなお揺るぐことがない「恵みと平安」の源となり、土台となっている御業です。
ヨハネはそのイエス・キリストの贖いの御業を記すに当たって、
私たちを愛しておられ、私たちを私たちの罪から、ご自分の血によって、解き放ってくださり、また、私たちをご自分の神また父のために、王国、祭司たちとしてくださった方に、この方に、栄光と力とが、とこしえ[からとこしえ]にあるように。アーメン。
というように、イエス・キリストに対する頌栄の形で記しています。先ほどお話ししましたように、これは関係代名詞で始まっていて、その前の祝福の祈りの形の挨拶の中で、
忠実な証人、死者の中から最初によみがえられた方、地上の王たちの支配者であるイエス・キリスト
と呼ばれているイエス・キリストを、さらに説明することばです。それが頌栄の形を取っています。このことは、ヨハネがこのようなイエス・キリストの十字架の死による罪の贖いの御業を記すときに、それを単なる説明、単なる教えとして記すことができなかったことを意味しています。
さらに、このことを示すことがあります。それは、ここにヨハネが記しているような、イエス・キリストおひとりに対する頌栄は、稀なものであるということです。黙示録以外では、明確にイエス・キリストおひとりに対する頌栄と言えるもの、あるいはその可能性の高いものは、二つしかありません。黙示録でも、厳密な頌栄の形のものは、ここのほかには見られません。ただ5章12節に、
ほふられた小羊は、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美を受けるにふさわしい方です。
という、多くの御使いたちの讃美が記されていますが、これは頌栄に近いものです。このほかには、イエス・キリストおひとりに対する頌栄はありません。ただ、頌栄ではありませんが、イエス・キリストおひとりに対する讃美が、同じ5章の9節ー10節に、
彼らは、新しい歌を歌って言った。
「あなたは、巻き物を受け取って、その封印を解くのにふさわしい方です。あなたは、ほふられて、その血により、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から、神のために人々を贖い、私たちの神のために、この人々を王国とし、祭司とされました。彼らは地上を治めるのです。」
と記されています。これは、天における24人の長老たちと4つの生き物たちの讃美です。
お気づきのことと思いますが、この24人の長老たちと4つの生き物たちの讃美に出てくる、
あなたは、ほふられて、その血により、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から、神のために人々を贖い、私たちの神のために、この人々を王国とし、祭司とされました。
ということばは、ヨハネが「アジヤにある七つの教会」に送った挨拶の中で記している、頌栄の形の
私たちを愛しておられ、私たちを私たちの罪から、ご自分の血によって、解き放ってくださり、また、私たちをご自分の神また父のために、王国、祭司たちとしてくださった方に、
ということばとよく似ています。
すでに4節ー5節前半に記されている挨拶を取り上げたときにお話ししましたように、ヨハネは、すでに栄光のキリストから示されたことに基づいて、「アジヤにある七つの教会」に対する挨拶を記していると考えられますから、この挨拶の中で頌栄の形で記されている、
私たちを愛しておられ、私たちを私たちの罪から、ご自分の血によって、解き放ってくださり、また、私たちをご自分の神また父のために、王国、祭司たちとしてくださった方に、
ということばは、天における24人の長老たちと4つの生き物たちの讃美を反映していると考えられます。 いずれにしましても、イエス・キリストおひとりに対する頌栄は、稀なものです。ですから、ヨハネはここであえて一般的な頌栄とは違う、イエス・キリストおひとりに対する頌栄を記しています。それは、ヨハネがそのように記さなければならないと考えたからにほかなりません。
このようなことから推察しますと、イエス・キリストがその十字架の死によって成し遂げてくださった、罪の贖いの御業のことを頌栄の形で記したときに、ヨハネの中から深い喜びと、確信と、感謝があふれ出てきていたに違いありません。これに先立って、ヨハネは、
今いまし、昔いまし、後に来られる方から、また、その御座の前におられる七つの御霊から、また、忠実な証人、死者の中から最初によみがえられた方、地上の王たちの支配者であるイエス・キリストから、恵みと平安が、あなたがたにあるように。
という祝福の祈りを記しています。それに続いてイエス・キリストへの頌栄の形で、イエス・キリストがその十字架の死によって成し遂げてくださった贖いの御業を記しています。このことは、流刑の地であるパトモスに閉じ込められていたヨハネ自身のうちに、すでに、御父、御子、御霊からの「恵みと平安」が与えられていたことを思わせます。そのことは、栄光のキリストがご自身を現してくださり、主の贖いの御業の歴史の中でこの後起こることを啓示してくださり、ヨハネがそれを理解し、受け止めていたことを考え合わせますと、確かなことであったと思われます。そのような「恵みと平安」がヨハネ自身のうちにあったからこそ、その「恵みと平安」の源の中心であるイエス・キリストのことを記すときに、それがイエス・キリストへの頌栄となっていたということでしょう。
これらのことは、そのまま、私たちにも当てはまることではないでしょうか。永遠の神の御子であられ、無限、永遠、不変の栄光の主であられる方が、私たちの罪を贖ってくださるために、人の性質を取って来てくださって、ご自身の意志で十字架におかかりになって、私たちの罪に対する父なる神さまの聖なる御怒りによるさばきをすべて受けてくださったということを、自分自身の罪に対する痛切な痛みを感じないままに語ることができるでしょうか。あるいは、そのようにしてまで私たちを愛してくださったイエス・キリストの愛に対する深い感謝がわき上がることのないままに語ることができるでしょうか。
それにしましても、自分自身を振り返ってみますと、いつの間にか、それが何か当然のことであるかのように語ってしまっています。しかも、そんな自分の現実にも気づかないままに流されてしまうこともしばしばです。そのような中で、ローマ帝国の激しい迫害にあって、パトモスに島流しになってしまっていたヨハネが、牧会者としての思いを込めて「アジヤにある七つの教会」に送った挨拶の中で、イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いのことを記したときに、それがイエス・キリストに対する頌栄になっていたことに、はっとさせられます。そのような激しい試練の中にあったからこそ、ヨハネはイエス・キリストの十字架の死による罪の贖いを真剣に、真実に見つめ続けたのではなかったでしょうか。そして、与えられた啓示のみことばに示されている、神さまの贖いの御業の歴史に照らして、その意味の深さを感じ取り、そこに現れているイエス・キリストの愛を生き生きとした愛として受け止めるように導かれていたのではないかと思わせられます。
私たちは、今日も、父なる神さまと御子イエス・キリストの御臨在の御前に立っています。それはひとえに、御子イエス・キリストが十字架の死によって私たちの罪をすべて贖ってくださったからです。そして、私たちをご自身の復活にあずからせてくださって、永遠のいのちに生きる者としてくださっているからです。私たちはそのような、神さまの愛と恵みにあずかっている者として、創造の御業と贖いの御業に現されている父なる神さまの愛と御子イエス・キリストの恵みを讚えました。その讃美の中で、どれほど、父なる神さまの愛を身近に覚えたでしょうか。イエス・キリストの恵みが真実に讚えられたでしょうか。
私たちを王国とし、ご自分の父である神のために祭司としてくださった方である
イエス・キリストが、御霊によって、私たちを真実な礼拝者として整えてくださいますように。
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