ヨハネの黙示録1章4節ー5節前半には、
ヨハネから、アジヤにある七つの教会へ。今いまし、昔いまし、後に来られる方から、また、その御座の前におられる七つの御霊から、また、忠実な証人、死者の中から最初によみがえられた方、地上の王たちの支配者であるイエス・キリストから、恵みと平安が、あなたがたにあるように。
と記されています。
これは、黙示録の著者であるヨハネが「アジヤにある七つの教会」に送った挨拶です。今お話ししているのは、この挨拶に出てきます、
地上の王たちの支配者
というイエス・キリストに対する呼び方についてです。
イエス・キリストが、
地上の王たちの支配者
であられると言いますと、普通は、イエス・キリストが「地上の王たち」の権力の序列の頂点に立って、「地上の王たち」を支配しておられるということを想像します。しかし、これまで、イエス・キリストの権威は、「地上の王たち」の権威、権力とは本質的に違うということをお話ししてきました。繰り返しの引用となりますが、ヨハネの福音書10章11節には、
わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。
というイエス・キリストの教えが記されており、18節には、
だれも、わたしからいのちを取った者はいません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、それをもう一度得る権威があります。わたしはこの命令をわたしの父から受けたのです。
という教えが記されています。この教えだけではありませんが、福音のみことばにあかしされていますイエス・キリストの権威は、私たちご自身の民のために、ご自分のいのちをお捨てになったことに現れている権威です。
イエス・キリストは、ご自身の権威によって、十字架におかかりになって、私たちご自身の民の罪に対する神さまの聖なる御怒りによるさばきを、私たちに代わってすべて受けてくださいました。それによって、私たちの罪を完全に贖ってくださり、私たちを罪の結果である死と滅びから救い出してくださいました。そして、ご自身の権威によって、死者の中からよみがえってくださって、私たちご自身の民をご自身の復活にあずからせてくださり、私たちを復活のいのち、すなわち、父なる神さまと信仰の家族の兄弟姉妹たちとの愛の交わりのうちに生きる永遠のいのちに生きるものとしてくださいました。このことに、イエス・キリストの権威が最も豊かに現れています。その意味で、イエス・キリストの権威は「地上の王たち」の権威、権力とは本質的に違います。
このことを再確認したうえで、今日は、黙示録の中で「地上の王たち」がどのように取り上げられているかを見てみましょう。黙示録の中にはこの「地上の王たち」ということばとそれに相当することばがいくつかの個所に出てきますが、今日は、二つの個所しか取り上げることができません。
この「地上の王たち」ということばは、この後、6章15節に出てきます。その前後も含めた12節ー17節には、
私は見た。小羊が第六の封印を解いたとき、大きな地震が起こった。そして、太陽は毛の荒布のように黒くなり、月の全面が血のようになった。そして天の星が地上に落ちた。それは、いちじくが、大風に揺られて、青い実を振り落とすようであった。 天は、巻き物が巻かれるように消えてなくなり、すべての山や島がその場所から移された。地上の王、高官、千人隊長、金持ち、勇者、あらゆる奴隷と自由人が、ほら穴と山の岩間に隠れ、山や岩に向かってこう言った。「私たちの上に倒れかかって、御座にある方の御顔と小羊の怒りとから、私たちをかくまってくれ。御怒りの大いなる日が来たのだ。だれがそれに耐えられよう。
と記されています。
ここには「小羊が第六の封印を解いたとき」のことが記されています。最後の17節に、
御怒りの大いなる日が来たのだ。だれがそれに耐えられよう。
と記されていますように、これは、終わりの日において、神さまの聖なる御怒りによるさばきの執行がなされるときのことを記しています。この「御怒り」には「彼らの」ということばがついていて、[注] それが16節に出てくる「御座にある方」すなわち父なる神さまと「小羊」すなわちイエス・キリストの「御怒り」であることを示しています。
[[注]写本によっては「彼の」というものもあります。これはその前の16節の「小羊の怒り」を指しているということを示しています。けれども、16節においては「御座にある方の御顔と小羊の怒り」と言われていて、御怒りが「小羊」とだけ結ばれていることからしますと、「御座にある方」と「小羊」の(「彼らの」)御怒りとされていた本文を修正して、「小羊」の(「彼の」)御怒りに修正した可能性がありますが、その逆の可能性は低くなります。]
12節ー14節には、その時のことが、
大きな地震が起こった。そして、太陽は毛の荒布のように黒くなり、月の全面が血のようになった。そして天の星が地上に落ちた。それは、いちじくが、大風に揺られて、青い実を振り落とすようであった。 天は、巻き物が巻かれるように消えてなくなり、すべての山や島がその場所から移された。
と言われています。これらの描写は、旧約聖書において、主の栄光の御臨在、特に、主がさばきのためにご臨在されることに伴う現象として記されていることを背景としています。たとえば、ペテロがペンテコステ(聖霊降臨節)の日にしたあかしの中で引用しているためによく知られているヨエル書2章30節ー31節には、
わたしは天と地に、不思議なしるしを現す。
血と火と煙の柱である。
主の大いなる恐るべき日が来る前に、
太陽はやみとなり、月は血に変わる。
と記されています。また、イザヤ書43章4節には、
天の万象は朽ち果て、
天は巻き物のように巻かれる。
その万象は、枯れ落ちる。
ぶどうの木から葉が枯れ落ちるように。
いちじくの木から葉が枯れ落ちるように。
と記されています。
もちろん、これらは、人をただ絶望的な状態に陥れるだけの、運命的な恐怖を記しているのではありません。ご存知のように、ヨエル書2章30節ー31節に記されていることは、それで終わっていないで、続く32節には、
しかし、主の名を呼ぶ者はみな救われる。
主が仰せられたように、
シオンの山、エルサレムに、
のがれる者があるからだ。
その生き残った者のうちに、
主が呼ばれる者がいる。
と記されています。ここでは、契約の神である主、ヤハウェが備えてくださる救いにあずかる者たちのことが記されています。主がご自身の契約に基づいて備えてくださった罪の贖いを信じて「主の名を呼ぶ者はみな救われる」のです。「みな救われる」と言われていますように、その救いは確かなものです。
そして、この救いはイエス・キリストにおいて成就しています。ローマ人への手紙10章9節ー13節に、
なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。聖書はこう言っています。「彼に信頼する者は、失望させられることがない。」ユダヤ人とギリシヤ人との区別はありません。同じ主が、すべての人の主であり、主を呼び求めるすべての人に対して恵み深くあられるからです。「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる」のです。
と記されているとおりです。
旧約聖書に記されている栄光の主の御臨在は、主が贖いの御業を遂行される歴史の中で起こったことです。その栄光の主の御臨在には、救いとさばきの二つの意味、二つの面があります。ある御臨在は救いのためであり、別の御臨在はさばきのためであるというのではなく、栄光の主の御臨在には、常に救いとさばきの両方の意味、両方の面があります。ただ、ある場合には、救いの方が前面に出ていて、別の場合には、さばきの方が前面に出ているという違いがあるのです。それは契約の神である主、ヤハウェの贖いの御業にそのような意味、そのような面があるからです。
ノアの時代に神さまは大洪水によるさばきを執行されました。それは人類が罪によって堕落してしまった後の歴史の中でただ一度だけ執行された、それまでの歴史のすべてを清算してしまうさばきで、その意味で、終末的なさばきでした。そのような恐るべきさばきが執行されたときにも、それをも越える恵みによって、救いが示されました。そして、実際に、ノアとその家族がその恵みによる備えを信じて、ノアとともにいた生き物たちとともに救われました。
また、無限、永遠、不変の栄光の主であられる御子イエス・キリストが、私たちの罪のために贖いの御業を成し遂げてくださるために、人としての性質を取って来てくださいました。言うまでもなく、それは私たちご自身の民の救いのためです。御子イエス・キリストはご自身の権威によって十字架におかかりになって、私たちの罪に対する父なる神さまの聖なる御怒りによるさばきを、私たちに代わってすべて受けてくださいました。それで、私たちの罪に対する神さまの聖なる御怒りによるさばきは、すでに御子イエス・キリストに対して執行されて終わっています。これによって、福音のみことばにあかしされている、十字架におかかりになった御子イエス・キリストを贖い主として信じている私たちは、もはやさばかれることがないものとなりました。
この、御子イエス・キリストによる圧倒的な救いの御業においても、私たちの罪に対する神さまの聖なる御怒りによるさばきは啓示されています。御子イエス・キリストの十字架において、私たちの罪に対する最終的なさばきは執行されているからです。御子イエス・キリストは、そこで、私たちの罪に対する地獄の刑罰を、私たちに代わってお受けになったのです。
ですから、イエス・キリストの十字架は、私たちにとっては神さまの私たちに対するこの上ない愛の現れですが、同時に、それは私たちの罪に対する神さまの聖なる御怒りの恐ろしさの現れでもあります。ただ、その時は、神さまの聖なる御怒りがもっぱら御子イエス・キリストだけに注がれていたので、そして、御子イエス・キリストおひとりがその御怒りをすべてお受けになったので、そこにいた人々のだれも、私たちの罪に対する神さまの聖なる御怒りの恐ろしい実体に触れることはありませんでした。またそれで、その時には、先ほど引用しました、黙示録6章12節ー14節に記されているような天変地異に相当するような恐怖が人々を襲うことはなく、いくつかのことが記録されているだけです。いくつかある中で、マルコの福音書に記されているものを取り上げてみましょう。15章25節には、
彼らがイエスを十字架につけたのは、午前九時であった。
と記されています。それから3時間ほど後のことを記している33節ー34節に、
さて、十二時になったとき、全地が暗くなって、午後三時まで続いた。そして、三時に、イエスは大声で、「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」と叫ばれた。それは訳すと「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。
と記されています。ここに記されていますように、3時間に及ぶ暗やみが全地にありました。この暗やみがどれほど人々を恐れさせたかは分かりませんが、その当時の人々にとっては、相当の衝撃であったはずです。けれども、この暗やみは、ただ人々を驚かせ、恐れさせただけのものではありません。この暗やみは、その時そこで神さまの聖なる御怒りによるさばきが執行されていたことを現しています。実際、イエス・キリストはその暗やみの3時間の最後に、
わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか
と叫ばれました。父なる神さまは私たちの罪に対する聖なる御怒りを御子イエス・キリストの上に注がれて、御子イエス・キリストを御怒りのうちにお見捨てになりました。
また、37節ー38節には、
それから、イエスは大声をあげて息を引き取られた。神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。
と記されています。「神殿の幕」とは、「地上的なひな型」としての意味をもっていた、エルサレム神殿の聖所を仕切る垂れ幕のことです。その垂れ幕には、契約の神である主の栄光の御臨在がそこにあることを表示しつつ、その聖さを守っているケルビム(ケルブの複数形)が織り出されていました。これによって、罪ある者が主の栄光の御臨在の御前に近づいてはならないということと、もし、罪あるままで主の栄光の御臨在に近づくような者があれば、主の聖さを冒す者としてさばかれるということが示されていました。けれども、イエス・キリストの十字架の死によって、私たち主の民の罪は完全に贖われました。それで、私たちにとっては、私たちを主の栄光の御臨在の御前から退けていた「神殿の幕」はもはや無用のものとなったのです。実際、今ここで、私たちは生きておられる栄光の主の御臨在の御前に、恐れなく立って、主を礼拝しています。
終わりの日にイエス・キリストが再び来られることは、私たち主の民にとっては、この救いが完全な形で実現することを意味しています。それで、黙示録の中では、繰り返し、栄光のキリストが再び来られることを待ち望むことばが響いています。最後の章である22章の最後の節である21節には、
主イエスの恵みがすべての者とともにあるように。アーメン。
と記されています。これは、結びの祝祷です。そして、この前の20節には、
これらのことをあかしする方がこう言われる。「しかり。わたしはすぐに来る。」アーメン。主イエスよ、来てください。
と記されています。これはいわば黙示録の本文の結びのことばで、イエス・キリストが再び来てくださることを約束してくださっているものであり、イエス・キリストが再び来られることを待ち望む私たち主の民の希望の告白であり、祈りです。
このように、終わりの日にイエス・キリストが再び来てくださることは、私たちイエス・キリストの十字架の死による罪の贖いにあずかり、イエス・キリストの復活にあずかって、御霊によって、新しく生まれ、父なる神さまと信仰の家族の兄弟姉妹たちとの愛の交わりのうちに生きている者にとっては、救いの完全な実現の時です。けれども、イエス・キリストが十字架の死によって成し遂げてくださった罪の贖いの外にある人々にとっては、同じ栄光のキリストの再臨が、先ほど引用しました黙示録6章17節に記されている「地上の王、高官、千人隊長、金持ち、勇者、あらゆる奴隷と自由人」のことばで言いますと、「御怒りの大いなる日」となっています。
ここに出てくる「地上の王、高官、千人隊長、金持ち、勇者」は「地上の王」(複数形)たちを初めとする、あらゆる面での有力者たちのことです。この人々は自分たちが得ている権力や地位や物質的な豊かさのために、自分たちは安全であり安心であると信じている人々です。ここでは、さらにこれに「あらゆる奴隷と自由人」が連ねられています。これによって、あらゆる種類の人々が例外なくということを示しています。
その日には、これらの人々がこの世で得ていた権力や地位や物質的な豊かさが、真の安心をもたらすものではなかったことがあらわになってしまいます。そのような事態になっても、この人々は、
ほら穴と山の岩間に隠れ、山や岩に向かってこう言った。「私たちの上に倒れかかって、御座にある方の御顔と小羊の怒りとから、私たちをかくまってくれ。御怒りの大いなる日が来たのだ。だれがそれに耐えられよう。」
と記されています。この人々は、なおも、自分たちの目から見てより安心をもたらしてくれそうなものと思われた「山や岩」に心を寄せて、それに頼っています。この「山や岩」はその当時の文化の中にある人々にとりましては、今日の私たちが感じる以上に避け所、拠り所としての意味をもっていました。それでも、このような事態になって、それらも頼りにならないことを予感していたことでしょう。
この姿は、私たちには愚かなことと写るでしょう。「どうして、最後までそのようなものに頼り、神さまが遣わしてくださったまことの救い主に信頼しないのか」と言いたくなります。しかし、私たちはこの人々を見下すことはできません。コリント人への手紙第一・1章22節ー24節には、
ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシヤ人は知恵を追求します。しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが、しかし、ユダヤ人であってもギリシヤ人であっても、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです。
と記されています。私たちも、かつては、ローマ人の手によって十字架につけられて殺されたナザレのイエスのことを聞いてはいても、また、そのようにして死んだ人が、敵をも愛しなさいと教えた偉人であり、聖人であると思っていたとしても、自分とは関係のないお話のようにしか聞こえなかったのです。そのような状態にあった私たちが、天変地異に巻き込まれたからといって、急に、イエス・キリストのことを信頼すべき救い主であると思えるようになるわけではありませんでした。
そのような者でしかなかった私たちが、神さまの一方的な愛とあわれみにあずかって、御霊によって心を開いていただいて、福音のみことばにあかしされている十字架にかかって死なれたイエス・キリストこそが、神さまが与えてくださった贖い主であられることを信じるようになりました。それは、ただ神さまの恵みによることです。
いずれにしましても、ここ黙示録16章15節には、終わりの日に栄光のキリストが再臨されることに伴う天変地異に巻き込まれて、それが「御怒りの大いなる日が来た」ことを悟るようになる人々の筆頭に、「地上の王たち」が挙げられています。
また、黙示録19章19節には、
また私は、獣と地上の王たちとその軍勢が集まり、馬に乗った方とその軍勢と戦いを交えるのを見た。
と記されています。ここでは、「地上の王たち」は「獣」、すなわち、終わりに日に現れてくると言われている反キリストと一つになって、「馬に乗った方」と戦います。また、ここでは双方に「軍勢」が従っていることも記されています。この「馬に乗った方」については、これに先だって11節ー16節に、
また、私は開かれた天を見た。見よ。白い馬がいる。それに乗った方は、「忠実また真実」と呼ばれる方であり、義をもってさばきをし、戦いをされる。その目は燃える炎であり、その頭には多くの王冠があって、ご自身のほかだれも知らない名が書かれていた。その方は血に染まった衣を着ていて、その名は「神のことば」と呼ばれた。天にある軍勢はまっ白な、きよい麻布を着て、白い馬に乗って彼につき従った。この方の口からは諸国の民を打つために、鋭い剣が出ていた。この方は、鉄の杖をもって彼らを牧される。この方はまた、万物の支配者である神の激しい怒りの酒ぶねを踏まれる。その着物にも、ももにも、「王の王、主の主」という名が書かれていた。
と記されています。言うまでもなく、これは栄光のキリストのことです。ここでは、霊的な戦いを戦われ、最終的なさばきを執行される栄光の主として描かれています。
ここで大切なことは、11節で、この方は、
「忠実また真実」と呼ばれる方であり、義をもってさばきをし、戦いをされる。
とあかしされていることです。これは軍事力や経済力などの血肉の戦いではなく、霊的な戦いであり、神さまの真実と真理を巡る戦いです。それで、この方のさばきも「義」に基づくものであり、公正で聖いさばきです。
「地上の王たち」は「獣」と一つになって、この栄光のキリストと戦いますが、霊的な戦いに敗北し、最終的なさばきを受けることになります。
1章5節においてイエス・キリストのことが、
地上の王たちの支配者
と呼ばれていることは、このことにかかわっています。イエス・キリストは「地上の王たち」を最終的におさばきになられる方です。そして、「アジヤにある七つの教会」にとって、「地上の王たち」とは自分たちを迫害しているローマ帝国の皇帝とその下にある属州の支配者としての王たちです。イエス・キリストは、
地上の王たちの支配者
として、この「王たち」をおさばきになります。
けれども、このことは、先週お話ししましたように、「アジヤにある七つの教会」の信徒たちが、自分たちに激しい迫害を加えている「王たち」への憎しみをつのらせて、イエス・キリストがその憎しみを晴らしてくださるという意味ではありません。私たちの憎しみには罪の自己中心の腐臭が漂っています。しかし、先ほど触れましたように、「白い馬」に乗った方は、ご自身の完全な義に基づいてさばきを執行されます。もし、私たちの罪の自己中心性から出た憎しみや恨みを晴らすためのさばきであれば、そのさばきは聖いものではなく、私たちの罪に誘発されたもの、その意味で、汚染されたものとなってしまいます。
このこととの関連で、テモテへの手紙第一・2章1節ー6節を見てみましょう。そこには、
そこで、まず初めに、このことを勧めます。すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人たちのために願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい。それは、私たちが敬虔に、また、威厳をもって、平安で静かな一生を過ごすためです。そうすることは、私たちの救い主である神の御前において良いことであり、喜ばれることなのです。神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自身をお与えになりました。これが時至ってなされたあかしなのです。
と記されています。
今お話ししていることと関連していることだけを取り上げますが、ここでは、
王とすべての高い地位にある人たちのために願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい。
と言われています。この祈りは「王とすべての高い地位にある人たち」が教会を迫害するようになっても続けられるべきものです。マタイの福音書5章44節に記されていますように、教会のかしらであられるイエス・キリストご自身が
しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。
と教えておられるとおりです。また、イエス・キリストご自身が、ご自分を十字架につけた人々のために、とりなし祈られました。
このテモテへの手紙第一・2章では、さらに4節において、
神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。
と記されています。当然、この「すべての人」の中には「王とすべての高い地位にある人たち」が含まれています。神の子どもたちは、たとえ「王とすべての高い地位にある人たち」が自分たちを迫害する者であっても、その人たちが福音のみことばに心を開き、イエス・キリストを信じて救いにあずかるようになることを願って、執り成し、祈るのです。それは、その人々への憎しみや恨みをつのらせることとは相容れないことです。
より広い適用を示している、ローマ人への手紙12章19節ー21節には、
愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。」もしあなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい。渇いたなら、飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃える炭火を積むことになるのです。悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。
と記されています。霊的な戦いにおいて「白い馬」に乗った方の「軍勢」としてこの方に従う神の子どもたちには、自分たちに敵対して迫害する人たちのために執り成し祈ることにおいて、また可能であれば、
もしあなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい。渇いたなら、飲ませなさい。
と言われていますように、具体的に愛を表すことによって、霊的な戦いに勝利する道しかありません。
かつてはキリストのからだである教会を迫害していたパウロが、主の恵みにあずかって使徒に変えられたように、主は神の子どもたちの祈りに答えてくださって、人々をご自身の救いにあずからせてくださることがあります。それが、神さまのみこころに沿ったことです。また、霊的な戦いおいて、暗やみの陣営に属していて、主の聖なる御怒りを引き起こしていた人々が、主の贖いの御業にあずかって、衆徒の愛の交わりに生きるものに変えられること、それこそが、真に私たちが願うべき、聖なる「復讐」であるはずです。
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