黙示録講解

(第87回)


説教日:2012年9月9日
聖書箇所:ヨハネの黙示録1章1節ー8節
説教題:地上の王たちの支配者(10)


 ヨハネの黙示録1章4節ー5節前半には、

ヨハネから、アジヤにある七つの教会へ。今いまし、昔いまし、後に来られる方から、また、その御座の前におられる七つの御霊から、また、忠実な証人、死者の中から最初によみがえられた方、地上の王たちの支配者であるイエス・キリストから、恵みと平安が、あなたがたにあるように。

と記されています。
 これは黙示録の著者であるヨハネが「アジヤにある七つの教会」に宛てた挨拶です。ヨハネは「アジヤにある七つの教会」の牧会者でした。この時は、ローマ帝国において、クリスチャンたちに対する迫害が激しくなっていた時で、ヨハネもローマ帝国による迫害を受けて、パトモスという島に流刑になっていました。
 流刑の地であるパトモスにいたヨハネに、イエス・キリストがご自身を現してくださり、ヨハネがこの黙示録に記していることを啓示してくださり、それを記すようにお命じになりました。このようにして黙示録が記されましたが、これは、基本的に、ヨハネが牧会していた「アジヤにある七つの教会」に対して語ってくださったイエス・キリストのみことばです。そして、ヨハネは黙示録を記しながら、ここで、牧会者としての自分に委ねられている「アジヤにある七つの教会」に挨拶を記しています。
 この挨拶は、その当時の手紙の挨拶文の形式で記されていますが、決して形式的な挨拶ではありません。「アジヤにある七つの教会」から引き離されて流刑の地であるパトモスにいたヨハネにできたことは、自分に委ねられた群れのために執り成し祈ることでした。この挨拶にもそれは表れていて、ヨハネはローマ帝国による厳しい迫害にさらされている「アジヤにある七つの教会」に御父、御子、御霊からの「恵みと平安」があるようにと祈っています。
 その祈り中で、ヨハネは父なる神さまのことを、

 今いまし、昔いまし、後に来られる方

と呼んでおり、御霊のことを、

 御座の前におられる七つの御霊

と呼んでおり、イエス・キリストのことを、

忠実な証人、死者の中から最初によみがえられた方、地上の王たちの支配者

と呼んでいます。


 これまで、これらの呼び方の一つ一つについて、順次お話ししてきました。今は、最後に出てきます、

 地上の王たちの支配者

というイエス・キリストに対する呼び方についてお話ししています。
 普通、イエス・キリストが、

 地上の王たちの支配者

であられるということから想像されるのは、イエス・キリストが「地上の王たち」の上におられて「地上の王たち」のすべてを従わせておられるということです。イエス・キリストが「地上の王たち」の権力の序列の頂点に立って支配しておられるということです。
 しかし、これまでイエス・キリストが、

 地上の王たちの支配者

であられるということは、そのようなことではないということをお話ししてきました。イエス・キリストの権威は、「地上の王たち」の権威、権力とは本質的に違います。
 「地上の王たち」はその主権の下にある人々の上に立って、その人々を支配します。自分の野望の実現のために人々を犠牲にします。さまざまな形での「教育」をとおして、自分の野望の実現のために犠牲となることは意味あることであるということを、人々の心に吹き込みます。人々は後の時代の目から見れば空しいことでしかないと思われることに、いのちを懸けていくようにさえなります。そして、実際に、多くの血が流され、悲しみの涙が流されました。それは必ずしも遠い昔のことではありません。また、遠い外国の話でもありません。
 しかし、イエス・キリストの権威はそのような権威ではありません。イエス・キリストの権威は、私たちご自身の民のためにご自分のいのちをお捨てになったことに最も豊かに、またはっきりと現れている権威です。そのことは、すでに繰り返し取り上げましたヨハネの福音書10章11節に記されている、イエス・キリストの、

わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。

というみことばと、18節に記されている、

だれも、わたしからいのちを取った者はいません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、それをもう一度得る権威があります。わたしはこの命令をわたしの父から受けたのです。

というみことばに示されています。
 イエス・キリストは、ご自身の権威を発揮して、ご自身に敵対していたユダヤ人の指導者たちのねたみなどの思いや、ローマの総督ピラトの自己保身の思惑などをもお用いになり、ご自身の意志で十字架におかかりになって、私たちご自身の民の罪に対する神さまの聖なる御怒りによるさばきを、私たちに代わってすべて受けてくださいました。それによって、私たちの罪を完全に贖ってくださり、私たちを罪の結果である死と滅びから救い出してくださいました。
 このように、イエス・キリストの権威は「地上の王たち」の権威、権力とは本質的に違います。
 それでは、黙示録1章5節に記されているヨハネの挨拶で、イエス・キリストが、

 地上の王たちの支配者

と呼ばれているのはどうしてでしょうか。

 今日は、このこととの関連で、一つのことを考えておきたいと思います。
 もしヨハネや「アジヤにある七つの教会」の信徒たちが、イエス・キリストが、

 地上の王たちの支配者

であられるということを、イエス・キリストが「地上の王たち」の権力の序列のいちばん上に立って支配しているということだと理解していたとしますと、どうなるでしょうか。
 このような権力の序列において上に立つことを競う世界では、上に立って支配する者がその権力を誇り、その下にある者たちを搾取し虐げます。これに対して、下に置かれて虐げられる者が恨みをつのらせます。ヨハネや「アジヤにある七つの教会」の信徒たちにとって「地上の王たち」とは、自分たちを迫害しているローマ帝国であり、皇帝(カエサル)です。そうしますと、この場合は、ヨハネや「アジヤにある七つの教会」の信徒たちは、自分たちを迫害して苦しめているローマ皇帝を初めとするローマ帝国への恨みをつのらせて、「地上の王たち」の権力の序列のいちばん上に立って支配しているイエス・キリストが、ローマ皇帝を初めとしてローマ帝国を打ち破って、自分たちの恨みを晴らしてくれるというようなことを考えたり、期待したりしかねません。
 けれども、それでは、ルカの福音書23章34節に記されていますように、

 地上の王たちの支配者

であられるイエス・キリストが、十字架の上で、

父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。

と祈られたことはどうなるのでしょうか。この、

 彼らをお赦しください。

という祈りのなかで言われている「彼ら」とは、イエス・キリストの十字架刑を執行したローマの兵士たちやそこにいたユダヤ人の群衆たちだけを指しているわけではありません。ねたみからイエス・キリストをローマに引き渡したユダヤ社会の当局者たち、イエス・キリストを十字架において処刑することを決定したローマの総督ピラトたちも含まれているはずです。また、マタイの福音書5章44節に記されていますように、イエス・キリストが、

しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。

と教えられたことはどうなるのでしょうか。
 さらに、マタイの福音書16章24節ー25節に記されていますように、イエス・キリストは、

それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。

と教えられたのではないでしょうか。
 「自分を捨て、自分の十字架を負い」イエス・キリストについていくことは、ローマ人への手紙6章4節に、

私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。

と記されていますように、イエス・キリストの十字架の死にあずかって、古い自分に死んで、新しいいのちに生きるようになっていて初めて可能なことです。そのことが、ガラテヤ人への手紙2章20節では、

私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。

と言われています。
 確かに、広く認められていますように、

だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。

というイエス・キリストの教えは、たとえば、黙示録12章11節において、

兄弟たちは、小羊の血と、自分たちのあかしのことばのゆえに彼に打ち勝った。彼らは死に至るまでもいのちを惜しまなかった。

とあかしされている「兄弟たち」のように、もしそのような事態になったなら、地上のいのちさえも捨てるようになることを意味しています。
 けれども、これには二つのことがかかわっています。
 一つは、イエス・キリストの十字架の死によって成し遂げられた罪の贖いにあずかっていなければ、そもそも、イエス・キリストに従っていくことができないということです。仮に、ある人がキリスト教主義的な主張のためにいのちを懸けたとしても、イエス・キリストの十字架の死によって成し遂げられた罪の贖いにあずかっていなければ、そしてイエス・キリストの復活にあずかって新しく生まれていなければ、イエス・キリストの御足の跡に従っていくことにはならないのです。
 もう一つのことは、そのように、自分の肉体的ないのちをも捨てなければならないようになる事態は、常にあるわけではないということです。
 これは、迫害や試練のことではありませんが、ヨハネの手紙第一・3章16節には、

キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。

と記されています。ここでは、私たちは「兄弟のために、いのちを捨てる」用意ができていなければならないことが教えられています。そして、この原則的なことが示された後、これに続いて17節ー18節で、

世の富を持ちながら、兄弟が困っているのを見ても、あわれみの心を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっているでしょう。子どもたちよ。私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行いと真実をもって愛そうではありませんか。

と言われています。「兄弟のために、いのちを捨てる」ということは、それが愛から出ているのであれば、常日頃の生活の中で「行いと真実をもって」兄弟姉妹を愛することに現れてくるということが示されています。常日頃、兄弟姉妹を「行いと真実をもって」愛していない人が、まさかの折りに、急に自分のいのちを捨てるというようなことではないのです。
 ここで、

 世の富を持ちながら、兄弟が困っているのを見ても、あわれみの心を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっているでしょう。

と言われていますが、この場合の「神の愛」が何を意味するかについては見方が分かれています。一つは(「神の」を主格的属格と取って)神さまがその人を愛してくださる愛であるという理解の仕方です。つまり、この場合は、神さまがそのように兄弟に心を閉ざす人を愛してはくださらないということです。もう一つは、(「神の」を目的的属格と取って)そのような人には神さまを愛する愛はないという理解です。さらにもう一つは、(「神の」を質を示す属格と取って)、そのような人のうちには神さまの愛のような愛はないということです。言い換えますと、神さまから出た本来の愛はないということです。
 ヨハネは一つのことばにいくつかの意味を込めることがあります。そのことからしますと、この場合の「神の愛」にはこれら三つの意味があると考えられますが、16節との関連では、神さまの愛に倣う愛、あるいは、神さまから出た本来の愛のことが中心にあると考えられます。具体的には、そのような人のうちには、私たちのためにいのちを捨ててくださったイエス・キリストの愛のような愛はないということです。
 このことを逆に言いますと、このヨハネの手紙第一・3章16節ー18節に記されている教えは、イエス・キリストの十字架の死にあずかってイエス・キリストとともに古い自分に死んで、イエス・キリストの死者の中からのよみがえりにあずかって新しく生まれている神の子どもたちには、当然のこととして、私たちのためにいのちを捨ててくださったイエス・キリストの愛のような愛があるということを踏まえています。ガラテヤ人への手紙5章22節ー23節には

御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。

と記されています。イエス・キリストが成し遂げられた贖いの御業に基づいてお働きになる御霊によって、新しく生まれている神の子どもたちには、「御霊の実」の第一の現れである愛が宿っているのです。
 私たちがイエス・キリストの贖いの御業にあずかって神の子どもとなっていることの現れは、兄弟姉妹たちを愛することです。同じヨハネの手紙第一・4章7節には、

愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。

と記されており、16節には、

私たちは、私たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにいる者は神のうちにおり、神もその人のうちにおられます。

と記されています。また、19節ー20節には、

私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。

と記されています。

 話を、マタイの福音書5章44節に記されています、

しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。

というイエス・キリストの教えに戻しますと、この教えから、イエス・キリストの十字架の死にあずかってイエス・キリストとともに古い自分に死んで、イエス・キリストの死者の中からのよみがえりにあずかって新しく生まれている神の子どもたちの愛は、信仰の家族の兄弟姉妹たちに限られていないことが分かります。神の子どもたちの愛は「自分の敵」にまで注がれるのです。このイエス・キリストの教えはさらに続いていまして、続く45節には、

それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。

と記されています。
 これは敵をも愛することによって神さまの御前に「功績」を積み上げて、神の子どもとしていただくことができるという意味ではありません。私たちが神の子どもとしていただいているのは、神さまの一方的な愛と恵みによって、御子イエス・キリストがその十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げてくださった罪の贖いにあずからせていただいていることによっています。そのようにして神の子どもとしていただいている者は、罪を赦されているだけでなく、イエス・キリストの復活にあずかって新しく生まれ、父なる神さまの特質である愛を映し出すいのちに生きるものです。そして、実際に、その愛のうちに生きることによって、私たちのうちに神の子どもとしての実質が豊かに育つようになります。
 もちろん、「自分の敵」に対する愛と、信仰の家族の兄弟姉妹たちに対する愛は現れ方が違います。「自分の敵」に対する愛は、その人たちに対する執り成しの祈りとなって現れてきます。それは、十字架という最も残酷な刑に処せられているイエス・キリストが、ご自身を十字架につけた人々のために執り成し祈られたことに現れた愛にあずかることです。なぜなら、そのような愛に生きることにおいてこそ、

私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。

というみことばがその人のうちに現実となっているからです。
 このイエス・キリストの教えにおいて、「自分の敵」(直訳「あなたがたの敵」)や「迫害する者」(直訳「あなたがたを迫害する者」)が取り上げられているのは、神の子どもたちの愛はそのような人々にまで及ぶということを示すためです。信仰の家族の兄弟姉妹たちから始まって、「自分の敵」や自分を「迫害する者」にまで及ぶということです。ガラテヤ人への手紙6章10節には、

ですから、私たちは、機会のあるたびに、すべての人に対して、特に信仰の家族の人たちに善を行いましょう。

と記されています。
 これに対しまして、必ずしも迫害という形ではないとしても、自分を苦しみや不幸に陥れている人々への恨みをつのらせて生きることは、そのような人々を、少なくとも、心の中で抹殺して生きることです。それは「自分の敵」や自分を「迫害する者」をも愛するイエス・キリストの愛を映し出す愛に生きる神の子どもたちの生き方ではではありません。というより、神の子どもたちはイエス・キリストとともに十字架にかかって死んで、イエス・キリストとともに新しいいのちに生きるものとしていただいたことによって、そのような恨みや憎しみから解放されているはずです。
 このようなことをお話しすることをご本人は望んでおられないことでしょうが、伊藤兄弟が入院しておられたときに、さまざまな治療や処置をお受けになりました。中には、とても苦痛に感じることもありました。また、必ずしも皆さんが上手になさるわけではありませんでした。それでも、兄弟は、いっさい愚痴を言われませんでしたし、かえって、いつも処置してくださった方に、お礼を述べておられました。それも一時的なことではなく、数ヶ月に及ぶ入院中変わることがありませんでした。それが看護士の方々にとても印象深いことであったとうかがっています。
 イエス・キリストはご自身に敵対して歩んでいた私たちを愛してくださり、その愛に基づいてご自身の権威を働かせてくださり、ご自身の意志で十字架におかかりになり、私たちの罪に対する神さまの聖なる御怒りによるさばきをすべて受けてくださいました。そのようにして、私たちの罪のための贖いを成し遂げてくださいました。それで、私たちは、ヨハネの手紙第一・3章16節に記されているみことばにしたがって、

キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。

と告白しているのです。「自分を捨て、自分の十字架を負い」イエス・キリストについていく生き方とは、このような、イエス・キリストの愛を映し出す生き方です。

 マタイの福音書16章24節に記されている、

だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。

という教えに続いて25節に記されてる教えにおいてイエス・キリストが、

いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。

と教えておられるときの「いのち」とは、そのような、イエス・キリストの愛を映し出す愛に生きるいのちです。
 実は、ここで「いのち」と訳されていることばは、「いのち」を表わす一般的なことば(ゾーエー)ではなく、しばしば「魂」と訳されることば(プシュケー)です。[注] この場合は、この前の24節に記されている、

だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。

という教えに出てくる「自分」(直訳では「自分自身」)に近いものであると考えられます。



[注]先ほど引用しましたヨハネの福音書10章11節に記されています、イエス・キリストの、
わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。
というみことばと、18節に記されています、
だれも、わたしからいのちを取った者はいません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、それをもう一度得る権威があります。わたしはこの命令をわたしの父から受けたのです。
というみことばに出てくる「いのち」と訳されていることばもプシュケーです(ただし、18節では17節に出てくるプシュケーを受ける代名詞です)。さらに、ヨハネの手紙第一・3章16節に記されています、
キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。
という教えに出てくる「いのち」と訳されていることばもプシュケーです。



 いのちを救おうと思う者はそれを失い、

というイエス・キリストの教えの主旨は、この世において、この世の価値尺度にしたがって、自分を肥やすために生きていくなら、イエス・キリストに従う者としての真の自分を失うことになるということです。また、

 わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。

という教えの主旨は、イエス・キリストのために、この世の価値の尺度にしたがって自分を肥え太らせる生き方を捨てて生きるなら、これまでお話ししてきたことにかかわらせて言いますと、イエス・キリストの愛を映し出す愛に生きるなら、イエス・キリストに従う者としての真の自分であることができるようになるということです。
 大切なことは、ここで、

 いのちを救おうと思う者はそれを失い、

と言われていることは、この世で自分の罪の自己中心性に動かされて、人をけ落としてまで自分を高めようとしたことに対する刑罰を受けて、いのちを失うようになるという意味ではないということです。もちろん、そのような生き方に対するさばきが執行されるということは、みことばの教えです。ただ、ここではそのことが教えられているわけではないのです。ここで教えられていることは、この世の価値尺度にしたがって、自分を肥やすために生きていくこと自体が、イエス・キリストに従う者、すなわち、神の子どもとしての真の自分を失わせてしまっているということです。そのような生き方によって、イエス・キリストが私たちのうちに生み出してくださっているはずの御霊の実としての愛が歪められ、損なわれてしまうようになるということです。
 少し前にお話ししましたが、ルカの福音書9章53節ー54節には、サマリヤの人々がイエス・キリストを受け入れなかったことに対して、ヤコブとヨハネが、

主よ。私たちが天から火を呼び下して、彼らを焼き滅ぼしましょうか。

と言ったこと、そして、イエス・キリストがそれを戒められたことが記されています。ヨハネは、これらの苦い経験をとおして、対立する者や都合の悪い者を抹殺してしまうということがイエス・キリストのみこころではないことを深く悟っていたはずです。ヨハネは後に、そのヨハネの手紙第一・4章7節ー11節で、

愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。

と記していますように、愛を説いて止まない使徒となっています。そのヨハネが、自分が愛をもって牧会している群れである「アジヤにある七つの教会」に宛てた挨拶の中でイエス・キリストのことを、

 地上の王たちの支配者

と呼んでいます。それは、決して、イエス・キリストがその権力を揮って、自分たちを迫害している者たちに対して、自分たちの恨みを晴らしてくれると期待してのことではないはずです。


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