黙示録講解

(第86回)


説教日:2012年9月2日
聖書箇所:ヨハネの黙示録1章1節ー8節
説教題:地上の王たちの支配者(9)


 ヨハネの黙示録1章4節ー5節前半には、

ヨハネから、アジヤにある七つの教会へ。今いまし、昔いまし、後に来られる方から、また、その御座の前におられる七つの御霊から、また、忠実な証人、死者の中から最初によみがえられた方、地上の王たちの支配者であるイエス・キリストから、恵みと平安が、あなたがたにあるように。

という、黙示録の著者であるヨハネが「アジヤにある七つの教会」に宛てた挨拶が記されています。
 今は、この挨拶の中で、イエス・キリストが、

 地上の王たちの支配者

と呼ばれていることについてお話ししています。今日はこれまでお話ししてきたことから少し観点を変えて、「地上の王たち」のことを、みことばの教えに照らして見てみましょう。日を改めてお話しますが、黙示録のなかでは「地上の王たち」は否定的なイメージをもつものとして描かれています。「地上の王たち」にそのような面があることは確かですが、その一方で、「地上の王たち」には、神さまから委ねられた一定の役割があります。今日はそのことをお離ししたいと思います。


 まずお話ししたいことは、人の権威の起源です。人の権威は人が罪によって堕落したから生まれてきたものではありません。人の権威の起源は、神さまが創造の御業において人を神のかたちにお造りになって、人に歴史と文化を造る使命をお委ねになったことにあります。
 創世記1章27節ー28節には、

神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」

と記されています。ここには、神さまが人を神のかたちにお造りになったことと、神のかたちに造られた人に歴史と文化を造る使命をお委ねになったことが記されています。
 神さまの本質的な特性は愛です。それで、神のかたちに造られた人の本質的な特性も愛です。もちろん、そこには違いがあります。神さまはあらゆる点において無限、永遠、不変の栄光の主であられます。それで、神さまの愛も無限、永遠、不変です。神さまは愛そのものであられます。神さまが人を神のかたちに造ってくださったので、人は愛を本質的な特性とする人格的な存在であるのです。人は神さまによって造られたものとして、あらゆる点において有限であり、時間的に経過し、変化するものです。それで、神のかたちに造られた人の愛も、有限であり、時間的に経過し、変化するものです。よい意味で言えば、愛が成長するということですし、悪い意味で言えば、愛が変質したり、なくなってしまうことがあるということです。しかし、神さまの愛は無限であり完全な愛です。常に無限に豊かであり、増えたり減ったりすることはありませんし、変わってしまうこともありません。
 神のかたちに造られた人の本性には、造り主である神さまについてのわきまえが与えられており、契約の神である主と契約共同体の隣人を愛する愛を導く律法が心に記されています。それで、人は最も自然なこととして、造り主である神さまを神として礼拝することを中心として、神さまとの愛の交わりのうちに生きるものですし、同じく神のかたちに造られている隣り人との愛の交わりのうちに生きるものです。それが神のかたちに造られた人の本来の姿です。
 さらに、神のかたちに造られた人には、自らと世界の歴史性へのわきまえ、すなわち、この世界が造り主である神さまのみこころとのかかわりで意味ある世界であるとともに、歴史の進展とともに造り主である神さまの栄光をより豊かに現す、歴史的な世界として造られているということへのわきまえが与えられていました。また、神さまのみこころにしたがって歴史と文化を形成するために必要な、さまざまな能力が与えられていました。
 神さまが創造の御業において、人を神のかたちにお造りになって、歴史と文化を造る使命をお委ねになったことよって、人は、造り主である神さまのみこころに従って、神さまの愛といつくしみに満ちた栄光を現す歴史と文化、神さまの愛といつくしみを映し出す歴史と文化を造り出すように召されています。そのことの中心に、造り主である神さまを神として礼拝することがあります。
 それは昔話の世界のことではなく、実際に、最初の人であるアダムとその妻エバによって、そのような歴史と文化が造り出されていたと考えられます。そのことは、創世記2章15節に、

神であるは人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。

と記されていますように、アダムが神である主のみこころにしたがってエデンの園を耕していたことに現れています。歴史と文化を造る使命によって、

 地を従えよ。

と命令されていた人が実際にしていたことは、自分が置かれたエデンの園の土地を耕すことでした。それは、そこに生えていたあらゆる果樹や草花の手入れをすることです。
 また、同じ創世記2章の19節ー20節前半には、

神であるは土からあらゆる野の獣と、あらゆる空の鳥を形造り、それにどんな名を彼がつけるかを見るために、人のところに連れて来られた。人が生き物につける名はみな、それがその名となった。人はすべての家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名をつけた。

と記されています。ここには、人が、神である主が連れてこられた生き物たちに名をつけたことが記されています。聖書において名をつけることにはいろいろな意味がありますが、この場合は、名をつけた人が名をつけられた生き物たちに対して権威を発揮していることを意味しています。また、それによって、神のかたちに造られて歴史と文化を造る使命を委ねられた人と生き物たちとの関係が確立し、始まっています。聖書では名は、その名をもつものの特質を表わします。ですから、この場合、人はそれぞれの生き物の特質を観察して、その特質を表示する名をつけたのです。それによって、神のかたちに造られた人はそれぞれの生き物たちがよりよい環境の中でいのちの営みをすることができるように、お世話をすることができるようになったと考えられます。それが、神のかたちに造られた人が、実際に、

 海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。

という造り主である神さまから委ねられた使命を果たしている姿です。
 このようにして、神さまは創造の御業において人を神のかたちにお造りになり、人に神さまがお造りになったこの世界の歴史と文化を造る使命をお委ねになりました。それは、神のかたちに造られた人に、「地を従え」、「海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配」する権威を委ねられたということです。その権威は、何よりも、見えない神さまの愛といつくしみを、この造られた世界の具体的な状況の中で映し出し、あかししていく権威でした。地を耕し、そこに生えている草花や果樹の手入れをし、生き物たちのいのちを育むようにお世話をするために、神さまが与えてくださったあらゆる能力を傾けていくことに現れてくる権威でした。その権威を発揮することは、造り主である神さまの愛といつくしみに満ちたご栄光を現わすことでした。

 しかし、そのように神のかたちに造られ、歴史と文化を造る使命を委ねられた人が、造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまいました。それによって、人が神のかたちに造られたものでなくなってしまったのではありませんし、歴史と文化を造り出さないものになってしまったのでもありません。人が神のかたちに造られたことと、神のかたちに造られた人に歴史と文化を造る使命が委ねられたことは、神さまの創造の御業によることですので、人が人であるかぎり変わることはありません。神のかたちに造られた人は罪によって堕落する前も、歴史と文化を造りましたし、堕落後も歴史と文化を造ってきました。
 人が神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまったことによって、変わってしまったことはあります。それは、人が造り主である神さまのみこころに従って、神さまを礼拝することを中心として、神さまの愛といつくしみに満ちた栄光を映し出す歴史と文化を造らなくなってしまったことです。人は、自らの罪の自己中心性を映し出す歴史と文化を造り出すようになってしまったのです。
 今お話ししていることとのかかわりで言いますと、神さまは創造の御業において、人を神のかたちにお造りになり、人に歴史と文化を造る使命をお委ねになりました。それは、神さまが神のかたちに造られた人に権威をお委ねになったということです。このことは、人が神さまに対して罪を犯して、御前に堕落しても変わりません。神のかたちに造られた人は、自分に与えられた能力を傾けて、神のかたちの本質的特質である愛といつくしみを、自分に委ねられたものたちに注ぐことによって、さらには、お互いに愛をもって仕え合うことによって、神のかたちとしての権威を発揮するものです。これが、神のかたちに造られた人の本来のあり方です。しかし、人が造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまったことによって、その権威も自己中心的に腐敗してしまいました。
 人類の歴史の中で、この罪の腐敗が極まってしまった時がありました。それが、すでにいろいろな機会にお話ししましたが、ノアの時代の大洪水によるさばきが執行される前の人類の状態です。創世記6章5節には、

は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。

と記されています。ここでは、「みな」、「いつも」、「悪いことだけに」というように、人の悪が徹底化してしまっていたことが示されています。
 創造の御業において、神のかたちに造られた人の本質的な特性は愛です。それで、人は神さまから委ねられた歴史と文化を造る使命を果たすことの中で、神さまの愛といつくしみを映し出すのです。この5節に記されていることは、そのような栄光と尊厳性を与えられいる神のかたちに造られた人が、自ら、その神のかたちとしての栄光を尊厳性を否定し、損なうものになってしまっていることを意味しています。これは、神のかたちに造られた人の内側の本性の腐敗が極まってしまったことを示しています。
 これとともに、神のかたちに造られた人が造り出している世界のあり方が、同じ6章の11節ー12節においては、

地は、神の前に堕落し、地は、暴虐で満ちていた。神が地をご覧になると、実に、それは、堕落していた。すべての肉なるものが、地上でその道を乱していたからである。

と記されています。ここでは「」ということばが3回繰り返されて強調されています。それで「堕落した」と訳されていることば(シャーハト)は「荒廃した」と訳したほうがいいと思われます。これは創造の御業において神のかたちに造られた人に委ねられた歴史と文化を造る使命の遂行にかかわっています。

 地を従えよ。

という使命を委ねられた人が、自分に委ねられた「」を耕し整えて、豊かなものとしていくのではなく、かえって、荒廃させてしまったのです。さらに、

 地は、暴虐で満ちていた。

と言われています。愛を本質的な特性とする神のかたちに造られた人が地に満ちていくことによって、愛がこの「」に満ちたはずですが、実際には、暴虐が満ちてしまいました。
 このことには歴史的な背景があると考えられます。
 聖書がある重大なことを記しているとき、その背景となっていることを先に述べることがあります。創世記4章19節ー24節には、アダムからカインを通って7代目に記されているレメクのこと記されています。その中の23節ー24節には、

 私の受けた傷のためには、ひとりの人を、
 私の受けた打ち傷のためには、
 ひとりの若者を殺した。

というレメクのことばが記されています。自分に少しでも危害を加えるものがあれば、抹殺してしまうということを誇っています。これは、レメクが暴力に基づく強大な支配権を確立していたことの現れであると考えられます。このこととのかかわりで注目されるのは、このすぐ前の22節で「青銅と鉄のあらゆる用具の鍛冶屋であった」と言われているトバル・カインの存在です。彼の指導・指揮の下に、農耕器具の開発がなされて、経済的な繁栄がもたらされるとともに、武器の開発がなされて軍事力が飛躍的に増強され、強大な権力が出現する基盤となっていったと考えられます。
 このようなことがノアの時代に至る歴史を特徴づけるようになり、6章11節ー12節において、

地は、神の前に堕落し、地は、暴虐で満ちていた。神が地をご覧になると、実に、それは、堕落していた。すべての肉なるものが、地上でその道を乱していたからである。

と記されているようなな時代状況が生み出されたと考えられます。ここに、人の罪による腐敗が極まってしまったのです。
 創造の御業において人を神のかたちにお造りになって、人に歴史と文化を造る使命をお委ねになったのは神さまです。当然、神さまは歴史と文化を造る使命を委ねられた人がどのようにその使命を果たしたかを評価されます。その評価は、人が造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまってからは、人の罪に対するさばきとなっています。そして、ノアの時代には、人の罪による本性の腐敗が極まってしまい、人は「」を荒廃させ、「暴虐」で満たしていまいました。それで、神さまは大洪水によるさばきを執行され、すべての人と、人と一つに結ばれている生き物たちを滅ぼされるとともに、それまでの人類が築いてきた歴史と文化を空しいものとして清算してしまわれました。
 これは、神さまが創造の御業において神のかたちに造られた人にお委ねになった歴史と文化を造る使命を巡るさばきを執行されることを指し示す「地上的なひな型」としての意味をもっています。

 これには、もう一つの重大な問題がかかわっています。それは霊的な戦いです。
 神さまは創造の御業において、この世界を歴史的な世界としてお造りになり、神のかたちに造られた人にこの世界の歴史と文化を造る使命をお委ねになりました。その意味では、神のかたちに造られた人は、神さまがお造りになったこの世界の歴史の鍵を握っています。
 暗やみの主権者であるサタンは、神さまに造られた被造物であり、あらゆる点において有限な存在です。ですから、いくらサタンが神さまに逆らって働いているといっても、直接、神さまと戦うことはできません。サタンは主の栄光の御臨在の御前にそのまま立つことはできません。聖書の中にはサタンが神さまの御前に立って、神さまとやり取りをしていることが記されています。けれども、それは神さまが、御子にあって、贖いの御業を遂行される中で、限りなく身を低くされてご自身を現しておられる御前におけることです。先週取り上げました、イザヤが接した栄光の主の御臨在の御前、そこでは、最も聖い生き物であるセラフィムさえもその足と顔を覆い、主の聖さを讚え続けるほかはない栄光の主の御臨在の御前にサタンが立てるということではありません。
 けれども、サタンは、神さまがお造りになったこの歴史的な世界の鍵を握っている人に働きかけて、神さまに背くように誘惑することはできます。もし、神のかたちに造られて歴史と文化を造る使命を委ねられた人が、神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまうなら、創造の御業における神さまのご計画は実現しないことになってしまいます。創造の御業における神さまのみこころは、サタンによって挫かれてしまうことになります。
 そして、ご存知のように、そのサタンの企ては成功したように見えました。最初の人アダムとその妻エバが神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまったのです。
 これに対して、契約の神である主はサタンの思いを越えたみこころを示されました。それが、創世記3章15節に、

 わたしは、おまえと女との間に、
 また、おまえの子孫と女の子孫との間に、
 敵意を置く。
 彼は、おまえの頭を踏み砕き、
 おまえは、彼のかかとにかみつく。

と記されている「最初の福音」です。
 実際には、これはサタンに対するさばきのことばです。より具体的には、サタンが人を誘惑するために用いた「蛇」を、神である主がお用いになって、サタンへのさばきの宣言をされたのです。神である主は、このとき、ご自身に対して罪を犯して、御前に堕落した人を直接的におさばきになりませんでした。もし主が、このとき、サタンに対する最終的なさばきを執行されたなら、罪によってサタンと一つになってしまった、人をもおさばきになったことでしょう。そうなれば、この世界の歴史と文化を造る使命を果たす人は滅ぼされてしまって、創造の御業における神さまのみこころは挫かれてしまうことになります。サタンはそのさばきによって滅ぼされますが、サタンは神さまのみこころを挫き、創造の御業における神さまのご計画の実現を阻止したことに満足したことでしょう。つまり、そうなることは霊的な戦いにおけるサタンの勝利を意味しています。
 しかし、実際には、そうなりませんでした。神である主はこのとき最終的なさばを執行しませんでした。まず、

 わたしは、おまえと女との間に、
 また、おまえの子孫と女の子孫との間に、
 敵意を置く

と言われたように、神である主が、「」と「女の子孫」と、「おまえ」と呼ばれているサタンと「おまえの子孫」と呼ばれているサタンの霊的な子孫との間を「敵意」によって引き裂いてしまわれるというのです。その時、罪によってサタンと一つになってしまった「」と「女の子孫」が、神である主が置かれる「敵意」によって、サタンに対する霊的な戦いを展開するようになるということです。その「敵意」は「女の子孫」と「おまえの子孫」にまで受け継がれていきます。
 神である主が置いてくださる「敵意」によって「」と「女の子孫」が神である主に敵対しているサタンとその霊的な子孫に敵対して立つようになるということは、霊的な戦いにおいて「」と「女の子孫」が神である主の側につくようになるということを意味しています。それが「」と「女の子孫」の救いを意味しています。もちろん、それがどのように実現するかということは、この段階では示されてはいません。
 この「女の子孫」と「おまえの子孫」は単数形ですが、集合名詞で、共同体を指しています。そして、それぞれの共同体には「かしら」があります。「おまえ」と「おまえの子孫」の共同体の「かしら」は、「おまえ」と呼ばれているサタンです。ところが、「」と「女の子孫」の共同体の「かしら」は「」ではなく、「女の子孫」の中にいて、

 彼は、おまえの頭を踏み砕き、
 おまえは、彼のかかとにかみつく。

と言われています。先ほどお話ししましたように、これは神である主によるサタンに対するさばきの宣言です。主はこのときにサタンに対する最終的なさばきを執行されないで、後に「女の子孫」の「かしら」として来られる方によって、最終的なさばきを執行されるというみこころを示されたのです。

 このようにして、人類の歴史がなおも続くことになりました。それはいたずらに続くのではなく、「女の子孫」の「かしら」として来られる方によって、サタンに対する最終的なさばきが執行され、その方を「かしら」とする共同体の民が、神である主の側に立ち、主の民となるというみこころが実現するようになるために続くのです。
 サタンとしましては、このようにして示された神である主のみこころをも挫こうとして働く余地ができたことになります。最終的に、「女の子孫」の「かしら」として来られるはずの方が、来られないようにしてしまえば、「最初の福音」に示された神である主のご計画は無に帰してしまいます。
 このことを念頭に置きますと、大洪水によるさばきが執行されたノアの時代において、「最初の福音」に示された神さまのみこころが挫かれてしまいそうになったということが分かります。もしそこで全人類がさばかれて滅びてしまっていたら、創造の御業において神さまが示されたみこころが挫かれてしまうだけでなく、「最初の福音」において示されたみこころも挫かれてしまうことになってしまいます。
 しかし、神さまはノアとその家族を残してくださいました。創世記6章8節には、

 ノアは、の心にかなっていた。

と記されています。これは、直訳調に訳しますと、

 ノアは、の御目の中に恵みを見出した。

となり、ノアが契約の神である主の恵みを信じていたことを示しています。ノアは神である主が一方的な恵みによって与えてくださった、「女の子孫」の「かしら」として来られる方による救いの約束を信じていたのです。
 このノアとその家族によって、洪水後の人類の歴史が再出発します。その際に、神さまはいくつかの備えをしてくださっています。その一つが、創世記9章5節ー6節に記されている、

わたしはあなたがたのいのちのためには、あなたがたの血の価を要求する。わたしはどんな獣にでも、それを要求する。また人にも、兄弟である者にも、人のいのちを要求する。
 人の血を流す者は、
 人によって、血を流される。
 神は人を神のかたちに
 お造りになったから。

という神さまのみことばです。
 5節に記されている,

わたしはあなたがたのいのちのためには、あなたがたの血の価を要求する。わたしはどんな獣にでも、それを要求する。また人にも、兄弟である者にも、人のいのちを要求する。

というみことばは、神のかたちに造られた人のいのちの尊厳性を、神さまご自身が守られるというみこころを示しています。神のかたちに造られた人の栄光と尊厳性は、神さまご自身の栄光にかかわっています。それで、それは神さまが守られるのです。
 そして、6節に記されている、

 人の血を流す者は、
 人によって、血を流される。
 神は人を神のかたちに
 お造りになったから。

というみことばは、神さまはそのために人をお用いになられるということを示しています。
 これは私的な復讐を許可するものではありません。申命記32章35節には、

 復讐と報いとは、わたしのもの

という主のみことばが記されています。このみことばはローマ人への手紙12章19節に記されている、

愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。」

という教えの中で引用されています。それで、これは神さまが神のかたちに造られた人のいのちの尊厳性を守るために社会的な権威をお用いになるというみこころを示されたものであると考えられます。これによって、先ほど触れました、

 私の受けた傷のためには、ひとりの人を、
 私の受けた打ち傷のためには、
 ひとりの若者を殺した。

と豪語したレメクに典型的に見られるような暴虐が極まってしまい、神のかたちに造られた人のいのちの尊厳性が踏みにじられてしまうような事態に至らないように備えてくださったということです。
 これには、もう一つの面があります。そのレメクもその当時の社会的な権力者でした。しかし、レメクは神さまに逆らって自分の権力を積み上げています。そのような権力者であれば、いくら神さまが、神のかたちに造られた人のいのちの尊厳性はご自身が守られるというみこころを示されたとしても、それをまったく無視してしまうことでしょう。ですから、この神さまのみこころが実現するためには、神さまが一般恩恵に基づく御霊のお働きによって人の心を啓発してくださって、神のかたちに造られた人のいのちの尊厳性に当たるもの、今日のことばでいえば、基本的人権に当たるものの大切さを自覚するようにしてくださる必要があります。
 このような神さまの備えによって、洪水後の人類の歴史が保たれていくために、神さまは社会的な権力者に一定の役割を委ねておられます。これが、黙示録1章5節に出てくる「地上の王たち」に神さまがお委ねになった役割です。
 このような背景があって、新約聖書には社会的な権威を委ねられた人々についての教えがいくつか記されています。その一つであるローマ人への手紙13章1節ー7節には、

人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。したがって、権威に逆らっている人は、神の定めにそむいているのです。そむいた人は自分の身にさばきを招きます。支配者を恐ろしいと思うのは、良い行いをするときではなく、悪を行うときです。権威を恐れたくないと思うなら、善を行いなさい。そうすれば、支配者からほめられます。それは、彼があなたに益を与えるための、神のしもべだからです。しかし、もしあなたが悪を行うなら、恐れなければなりません。彼は無意味に剣を帯びてはいないからです。彼は神のしもべであって、悪を行う人には怒りをもって報います。ですから、ただ怒りが恐ろしいからだけでなく、良心のためにも、従うべきです。同じ理由で、あなたがたは、みつぎを納めるのです。彼らは、いつもその務めに励んでいる神のしもべなのです。あなたがたは、だれにでも義務を果たしなさい。みつぎを納めなければならない人にはみつぎを納め、税を納めなければならない人には税を納め、恐れなければならない人を恐れ、敬わなければならない人を敬いなさい。

と記されています。
 より広い視野で見ますと、これは洪水後の世界の歴史が続いていくための神さまの備えの一つです。それはまた、「最初の福音」から始まる一連の契約において約束され、預言されてきた贖い主によるご自身の民のための贖いの御業が成し遂げられ、終わりの日において救いの御業が完成するようになるためのことです。


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