黙示録講解

(第85回)


説教日:2012年8月26日
聖書箇所:ヨハネの黙示録1章1節ー8節
説教題:地上の王たちの支配者(8)


 先主日は、私が夏期休暇をいただきましたので、黙示録からのお話は中断いたしました。今日は再び黙示録からのお話を続けます。
 ヨハネの黙示録1章4節ー5節前半には、

ヨハネから、アジヤにある七つの教会へ。今いまし、昔いまし、後に来られる方から、また、その御座の前におられる七つの御霊から、また、忠実な証人、死者の中から最初によみがえられた方、地上の王たちの支配者であるイエス・キリストから、恵みと平安が、あなたがたにあるように。

という、黙示録の著者であるヨハネが「アジヤにある七つの教会」に送った挨拶が記されています。
 ヨハネは「アジヤにある七つの教会」の牧会者でした。しかしこの時は、ローマ帝国による迫害を受けて、パトモスという島に流刑となっていました。このことは、ローマ帝国において、クリスチャンたちに対する迫害が激しくなっていて、それが「アジヤにある七つの教会」にまで及んでいたことを意味しています。
 このように、自分が牧会している「アジヤにある七つの教会」と引き裂かれて流刑の地であるパトモスにいたヨハネに、栄光のキリストがご自身を現してくださり、ヨハネがこの黙示録に記していることを啓示してくださいました。それで、ヨハネはこの黙示録を記しました。それは、基本的に、「アジヤにある七つの教会」に対して語ってくださった栄光のキリストのみことばです。それで、ヨハネはここで、牧会者としての思いをもめて、「アジヤにある七つの教会」に対する挨拶を記しています。
 この挨拶で、ヨハネはローマ帝国による厳しい迫害にさらされている「アジヤにある七つの教会」に御父、御子、御霊からの「恵みと平安」があるようにと祈っています。その際に、その「恵みと平安」の源である、父なる神さまのことを、

 今いまし、昔いまし、後に来られる方

と呼んでおり、御霊のことを、

 御座の前におられる七つの御霊

と呼んでおり、イエス・キリストのことを、

忠実な証人、死者の中から最初によみがえられた方、地上の王たちの支配者

と呼んでいます。
 これまで、これらの呼び方の一つ一つについて、お話ししてきまして、今は、最後に出てきます、

 地上の王たちの支配者

というイエス・キリストに対する呼び方についてお話ししています。


 これまで、

 地上の王たちの支配者

という呼び方が、この、

 地上の王たちの支配者

ということばから普通に想像されるであろうこととは、本質的に異なったことを意味しているということをお話ししてきました。普通、イエス・キリストが、

 地上の王たちの支配者

であられるということばを聞けば、「地上の王たち」がたくさんいて、それぞれが王としての権力を振るっているけれど、イエス・キリストはそのどの王よりも大きくて強い権力をもっていて、「地上の王たち」のすべてを従わせているということだと考えます。しかし、これまでお話ししてきたことは、イエス・キリストが、

 地上の王たちの支配者

であられるということはそのようなことではないということです。
 マルコの福音書10章42節ー43節には、

あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者と認められた者たちは彼らを支配し、また、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。しかし、あなたがたの間では、そうでありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。

というイエス・キリストの教えが記されています。ここでイエス・キリストが述べておられるように、「地上の王たち」はその主権の下にある人々を「支配し」、「彼らの上に権力をふるいます」。王たちの野望の実現のために多くの人々が犠牲になり、多くの血が流されました。しかし、黙示録1章5節で、

 地上の王たちの支配者

と呼ばれているイエス・キリストは違います。続く5節後半ー6節には、

イエス・キリストは私たちを愛して、その血によって私たちを罪から解き放ち、また、私たちを王国とし、ご自分の父である神のために祭司としてくださった方である。

と記されています。私たちの主であられるイエス・キリストが、その民であり、その主権の下にある私たちご自身の民のために血を流してくださり、私たちの罪を贖ってくださいました。イエス・キリストが十字架におかかりになって、私たちの罪に対する神さまの聖なる御怒りによるさばきを、私たちに代わってすべて受けてくださったのです。それによって、私たちを「罪から解き放」ってくださり、罪の結果である死と滅びから私たちを救い出してくださいました。
 ヨハネの手紙第一・3章16節には、

キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。

と記されています。これはいわば、過去におけるイエス・キリストのお働きです。現在のお働きの一つとしては、ローマ人への手紙8章34節に、

罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。

と記されています。イエス・キリストは十字架の死に至るまで父なる神さまのみこころに従いとおされたことへの報いとして栄光をお受けになり、死者の中からよみがえられて、父なる神さまの右の座に着座されました。その栄光のキリストが「私たちのためにとりなしていてくださるのです」。そして、将来のこととしては、終わりの日にイエス・キリストが私たちのための救いを完全に実現してくださるときのことを記している黙示録7章17節には、

御座の正面におられる小羊が、彼らの牧者となり、いのちの水の泉に導いてくださる

と記されています。私たちを永遠のいのちのうちに生かしてくださるのは「御座の正面におられる小羊」、私たちの罪のためにほふられた小羊であられるイエス・キリストです。

 このように、イエス・キリストは、

 地上の王たちの支配者

と呼ばれていますが、イエス・キリストの権威は「地上の王たち」の権威と本質的に違います。
 このこととの関連で、もう一つのことを取り上げておきたいと思います。以前お話ししたことがありますが、イザヤ書6章1節ー7節には、

ウジヤ王が死んだ年に、私は、高くあげられた王座に座しておられる主を見た。そのすそは神殿に満ち、セラフィムがその上に立っていた。彼らはそれぞれ六つの翼があり、おのおのその二つで顔をおおい、二つで両足をおおい、二つで飛んでおり、互いに呼びかわして言っていた。
 「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の
 その栄光は全地に満つ。」
その叫ぶ者の声のために、敷居の基はゆるぎ、宮は煙で満たされた。そこで、私は言った。
 「ああ。私は、もうだめだ。
 私はくちびるの汚れた者で、
 くちびるの汚れた民の間に住んでいる。
 しかも万軍のである王を、
 この目で見たのだから。」
すると、私のもとに、セラフィムのひとりが飛んで来たが、その手には、祭壇の上から火ばさみで取った燃えさかる炭があった。彼は、私の口に触れて言った。
 「見よ。これがあなたのくちびるに触れたので、
 あなたの不義は取り去られ、
 あなたの罪も贖われた。」

と記されています。
 ここは、イザヤが幻の中で経験したことが記されています。ここでイザヤは、

 私は、高くあげられた王座に座しておられる主を見た。

と述べています。この「」ということばは、契約の神である主の御名であるヤハウェではなく、アドナイ(アドーナーイ)です。この「アドナイ」ということばは、神さまをあがめて使うことばですが[注]、特に、神さまがすべてのものの主として、すべてのものを所有しておられ、ご自身のみこころにしたがって治めておられる方であられることを表わしています。

[注]立場において上にあるの人に対しても用いられる「主」あるいは「主人」ということば(アードーン)を用いて、「私の主」あるいは「私の主人」というときには「アドーニー」となります。神さまについて「私の主」というときには「アドナイ」を用います。

 このことは、イザヤが、この方のことを、「高くあげられた王座に座しておられる主」と言っていることによっても表わされています。王座に座しているということは、治めているということを意味しています。この「高くあげられた王座」の「高くあげられた」は、直訳では「高い、そして上げられた」というように、高いことを表わす二つのことばを連ねて表わされていて、非常に高いことを示しています。「」は非常に高く上げられた「王座に座しておられる」方です。このことも、「」が、すべてのものを、ご自身のみこころにしたがって治めておられる方であることを表わしています。
 この「」(アドナイ)は、契約の神である主、ヤハウェです。というのは、その御前で仕えている聖い生き物であるセラフィムがこの「」を讚えて、

 聖なる、聖なる、聖なる、万軍の
 その栄光は全地に満つ。

と叫んでいますし、イザヤが、

 ああ。私は、もうだめだ。
 私はくちびるの汚れた者で、
 くちびるの汚れた民の間に住んでいる。
 しかも万軍のである王を、
 この目で見たのだから。

と叫んでいるからです。ちなみに、セラフィム(セラーフィーム)は(サーラーフの)複数形です。
 ここには「万軍の」(ヤハウェ・ツェバーオート)という呼び名が出てきます。「万軍の」の「」は新改訳で太字になっていますように、契約の神である主、ヤハウェです。
 けれども、セラフィムたちもイザヤも、主のことを、ただ単に「」と呼んでいるのではなく、「万軍の」と呼んでいます。このことには意味があります。
 この「万軍の」の「万軍」(ツェバーオート)は複数形ですが、その単数形(ツァーバー)は、基本的に、「軍隊」を表わしています。それは、地上の国家の軍隊ばかりでなく、主の御座の回りで仕えている御使いの群れや、神さまがお造りになった天体などをも表わすことがあります。そして「万軍の」という場合には、この「万軍」(ツェバーオート)には、これらすべての意味が込められていると考えられます。
 このことから、「万軍の」という御名には、いくつかの意味が込められていると考えられます。
 まず、「万軍の」という御名の「」(ヤハウェ)に注目しますと、「万軍の」は、契約の神である主、ヤハウェが、ご自身の契約の民であるイスラエルを治めておられる王であることを表わしています。
 また、「万軍の」という御名は、契約の神である主、ヤハウェが、ご自身の民であるイスラエルだけでなく、エジプト、アッシリヤ、バビロンなど、強大な軍隊をもって地上を征服しようとする国々をも、御手のうちに治めておられることを示しています。この意味では、黙示録1章5節に出てくる

 地上の王たちの支配者

に相当します。
 けれども、それだけではありません。「万軍の」という御名は、契約の神である主、ヤハウェが、御使いたちの群れや、ご自身がお造りになった広大な宇宙の全ての天体ををも御手のうちに治めておられることも示しています。セラフィムたちからすれば、「万軍の」は自分たちの主でもあられるということになります。その意味でも、絶えることなく、

 聖なる、聖なる、聖なる、万軍の
 その栄光は全地に満つ。

と讚えているわけです。

 このセラフィムの讃美では、

 聖なる、聖なる、聖なる、万軍の

というように、「聖い」(カードーシュ)ということばが3回繰り返されて強調されています。聖い生き物であるセラフィムも「万軍の」の「聖さ」に触れて、その顔と足を隠して、

 聖なる、聖なる、聖なる、万軍の

と叫んで、その「聖さ」を讚えるほかはないのです。
 そればかりでなく、この「万軍の」の「聖さ」はダイナミックな「聖さ」で、いわば、絶えず押し寄せてくる波のように「万軍の」の「聖さ」の現実がセラフィムたちに絶えず迫ってきていたと考えられます。そのために、セラフィムたちはひたすら、

 聖なる、聖なる、聖なる、万軍の

と叫び続けて、「万軍の」の「聖さ」を讚え続けるほかはなかったと考えられます。もちろん、それはセラフィムたちにとっては、無上の祝福と感じられていたはずです。セラフィムたちがその讃美の声を上げることを止めるときは、6節ー7節に記されているように、主ご自身が別の任務をお与えになったときでしょう。
 イザヤは、そのような栄光の主の御臨在の御前に立たせられたのです。けれども、それはイザヤにとってはまことに恐ろしいことでした。セラフィムにとってはこの上ない喜びに満ちた祝福であったことが、イザヤにとっては、まさに、身の毛もよだつというべきことでした。その恐ろしい現実の中から、イザヤは、

ああ。私は、もうだめだ。
私はくちびるの汚れた者で、
くちびるの汚れた民の間に住んでいる。
しかも万軍のである王を、
この目で見たのだから。

と叫びました。イザヤは自分の罪の汚れの絶望的な深さを思い知らされることになったのです。自分は最も聖なる「万軍の」の御臨在の御前で、その「聖さ」を汚すものであり、たちどころに御前で滅び去るべきものであるという、恐ろしい現実を直観したのです。
 この時イザヤは、罪の贖いを求めたと主張している方々がいますが、とてもそのような心の余裕があったとは思われません。そのように、たちどころに滅ぼされてしまうほかはないという恐ろしい現実にさらされた、イザヤは思いがけない経験をします。その時に起こったことが6節ー7節に、

すると、私のもとに、セラフィムのひとりが飛んで来たが、その手には、祭壇の上から火ばさみで取った燃えさかる炭があった。彼は、私の口に触れて言った。
 「見よ。これがあなたのくちびるに触れたので、
 あなたの不義は取り去られ、
 あなたの罪も贖われた。」

と記されています。
 もちろん、イザヤは自分も含めてすべての者が罪を犯しており、その罪は主の聖さを冒すものであることを知っていました。しかし、それがこのように恐ろしいものであり、絶望的なものであることを、これほど現実的に知ってはいなかったと思われます。さらに、イザヤは契約の神である主はいけにえの制度をとおして、ご自身の民の罪の贖いのための備えがあることをあかししてくださっていることを知っていました。しかし、それが、自分は最も聖なる「万軍の」の御臨在の御前で、その「聖さ」を汚すものであり、たちどころに御前で滅び去るべきものであるという、恐ろしくて、絶望的な現実の中にある自分を、なおも贖ってくださるものであるという、驚くべき恵みであったことを、これほどリアルに知ってはいなかったと思われます。最も聖なる「万軍の」の御臨在の御前では、自分は「」の「聖さ」を汚すものであり、たちどころに御前で滅び去るべきものであるという恐ろしく絶望的な現実がありました。その最も聖なる「万軍の」の御臨在の御許には、そのような自分を、なおも滅びから救い出してくださる罪の贖いが備えられていたのです。

 このような、驚くべき恵みを最も現実的な形で知ったイザヤは、後に、さらに驚くべき恵みを啓示されて知るようになります。それが、イザヤ書52章13節ー53章12節に記されている「主のしもべの第四の歌」です。これは、52章13節に記されている、

 見よ。わたしのしもべは栄える。
 彼は高められ、上げられ、非常に高くなる。

ということばで始まっています。前半の「栄える」と訳されたことばには、新改訳欄外注にありますように、「敬虔にふるまう」とか「賢くふるまう」という別の訳の可能性もあります。ここで用いられている動詞(サーカルのフィフィール語幹)が「賢くする」、「洞察を与える」、「理解する」、「洞察する」、「賢い」というような意味があることによっています。後半の、

 彼は高められ、上げられ、非常に高くなる。

ということばは、主のしもべの栄光を語っています。前半がこの後半と並行しているということからすれば、先ほどの動詞に「成功する」という意味もありますので、新改訳本文のように、

 見よ。わたしのしもべは栄える。

と訳すこともできると思われます。
 注目したいのは、後半の、

 彼は高められ、上げられ、非常に高くなる。

ということばです。ここでは、「高められ」、「上げられ」、「非常に高くなる」というように、同じような意味のことばを三つ連ねて、この上なく高く上げられることを示しています。そして、この「高められ」、「上げられ」という最初の二つのことばの組み合わせは、先ほど取り上げました6章1節で、

 ウジヤ王が死んだ年に、私は、高くあげられた王座に座しておられる主を見た。

と言われているときの「高くあげられた王座」の「高く」と「あげられた」ということばの組み合わせと同じです。「主のしもべの第四の歌」を記している52章13節では、この二つのことばの組み合わせの上に、さらに「非常に高くなる」が加えられています(これには「非常に」ということばがついています)。
 このことは、6章1節において、

 私は、高くあげられた王座に座しておられる主を見た。

と言われているときの「高くあげられた王座に座しておられる主」は、52章13節において、

 見よ。わたしのしもべは栄える。
 彼は高められ、上げられ、非常に高くなる。

と言われている方であることを示唆してます。
 このようなことばの組み合わせだけからこのように言うのには、無理があると言われることでしょう。けれどもそれだけではないのです。6章に記されているイザヤの経験では、9節、10節には、イザヤが栄光の主の御臨在の御前において経験した、主の恵みをあかしするために遣わされるときに告げられたことが記されています。そこには、

すると仰せられた。
 「行って、この民に言え。
 『聞き続けよ。だが悟るな。
 見続けよ。だが知るな。』
 この民の心を肥え鈍らせ、
 その耳を遠くし、その目を堅く閉ざせ。
 自分の目で見ず、自分の耳で聞かず、
 自分の心で悟らず、
 立ち返っていやされることのないように。」

と記されています。
 イザヤが自分の経験の中で示されたことをあかししても、人々は理解しないし、受け入れないというのです。人々は自分によいところがあるので、主は受け入れてくださるという発想を持っています。それで、イザヤがあの経験の中で示された主の栄光の御臨在の御前では自分たちは滅びるほかない者であるということを受け入れようとはしません。そのために、主の御臨在の御許に罪の贖いのための備えがあり、まったくの恵みによって、それにあずからせてくださるということも理解されないのです。それはまた、そのように、一方的な恵みによって、罪に汚れた者のために贖いを備えてくださることにこそ主の栄光が現わされているということは、人々に理解されず、受け入れられないことであるということです。
 これと同じことは、「主のしもべの第四の歌」においても、見られます。52章13節で、

 見よ。わたしのしもべは栄える。
 彼は高められ、上げられ、非常に高くなる。

と言われている主のしもべのことは、その少し後の53章3節ー6節に、

 彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、
 悲しみの人で病を知っていた。
 人が顔をそむけるほどさげすまれ、
 私たちも彼を尊ばなかった。
 まことに、彼は私たちの病を負い、
 私たちの痛みをになった。
 だが、私たちは思った。
 彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。
 しかし、彼は、
 私たちのそむきの罪のために刺し通され、
 私たちの咎のために砕かれた。
 彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、
 彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。
 私たちはみな、羊のようにさまよい、
 おのおの、自分かってな道に向かって行った。
 しかし、は、私たちのすべての咎を
 彼に負わせた。

と記されています。

 見よ。わたしのしもべは栄える。
 彼は高められ、上げられ、非常に高くなる。

と言われている主のしもべが私たちのために打たれ、苦しめられることによって、私たちは癒され救われるというのです。それは「」が「私たちのすべての咎を彼に負わせた」ことによっています。この方は、

 私たちのそむきの罪のために刺し通され、
 私たちの咎のために砕かれた。

のです。
 このような、主のしもべの苦難のことを記すための導入のことばが、53章1節に、

 私たちの聞いたことを、だれが信じたか。
 の御腕は、だれに現れたのか。

と記されています。主のしもべの苦難のことを聞く人々は、それを信じることができないと言われています。

 彼は高められ、上げられ、非常に高くなる。

と言われている主のしもべが自分たちのために打たれ、苦しめられることによって、自分たちは癒され救われるというということは、人々にはまったく理解できないことであるというのです。このことも、「主のしもべの第四の歌」に記されていることと、6章に記されているイザヤの経験がつながっていることを示しています。
 この二つの個所のつながりを示すものは、このほかにも、ヨハネの福音書12章37節ー41節に記されているみことばに見られます。37節ー40節には、

イエスが彼らの目の前でこのように多くのしるしを行われたのに、彼らはイエスを信じなかった。それは、「主よ。だれが私たちの知らせを信じましたか。また主の御腕はだれに現されましたか」と言った預言者イザヤのことばが成就するためであった。

と記されています。ここでは、先ほど引用しました、イザヤ書53章1節のみことばが引用されています。また続く39節ー40節には、

彼らが信じることができなかったのは、イザヤがまた次のように言ったからである。「主は彼らの目を盲目にされた。また、彼らの心をかたくなにされた。それは、彼らが目で見ず、心で理解せず、回心せず、そしてわたしが彼らをいやすことのないためである。」

と記されています。ここでは、やはり、先ほど引用しました、イザヤ書6章10節のみことばが引用されています。そして、これに続く41節では、

イザヤがこう言ったのは、イザヤがイエスの栄光を見たからで、イエスをさして言ったのである。

と説明されています。このようにして、ユダヤ人の不信仰に関連しまして、今お話ししました、イザヤ書6章に記されているイザヤが経験したことと、52章13節ー53節12節に記されている「主のしもべの第四の歌」が結びつけられていています。
 このようなつながりを考え合わせますと、6章1節で、イザヤが、

ウジヤ王が死んだ年に、私は、高くあげられた王座に座しておられる主を見た。

とあかししている、「高くあげられた王座に座しておられる主」は、52章13節において、

 見よ。わたしのしもべは栄える。
 彼は高められ、上げられ、非常に高くなる。

とあかしされている「主のしもべ」のことであると言うことができます。
 イザヤは、最も聖なる「万軍の」の御臨在の御前では、自分は「」の「聖さ」を汚すものであり、たちどころに滅び去るべきものであるけれども、その「万軍の」の御臨在の御許には、そのような自分を、なおも滅びから救い出してくださる罪の贖いが備えられていたことを、啓示していただいて知りました。そのイザヤに示された「万軍の」の御臨在の御許に備えられていた罪の贖いは、

 見よ。わたしのしもべは栄える。
 彼は高められ、上げられ、非常に高くなる。

と言われている主のしもべなる御方、すなわち、イザヤに「万軍の」としてご自身を現してくださっておられた方ご自身が、

 私たちのそむきの罪のために刺し通され、
 私たちの咎のために砕かれた。

ことによって成し遂げられたものであったのです。
 ここでも、私たちは「万軍の」、それゆえに「地上の王たちの支配者」であられる御方の栄光と権威は、私たちご自身の民の罪の贖いのためにご自身のいのちを捨ててくださったことに現れているということを知るのです。


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