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説教日:2012年8月12日 |
ここで改めて、最初に引用しました、 わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。 というイエス・キリストの教えに注目したいと思います。これは、ヨハネの福音書のイエス・キリストの教えの中に7回出てくる強調形の「わたしは・・・です」(エゴー・エイミ・・・)という教えの一つです。このほかの6つの教えを見てみますと、6章35節に出てくる、 わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。 という教え(さらに48節に「わたしはいのちのパンです。」という教えがあります。)、8章12節に出てくる、 わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。 という教え、10章9節に出てくる、 「わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます。 という教え(さらに7節に「わたしは羊の門です。」という教えがあります。)、11章25節ー26節に出てくる、 わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。 という教え、14章6節に出てくる、 わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。 という教え、そして、15章5節に出てくる、 わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。 という教え(さらに1節に「わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。」という教え)があります。 この強調形の「わたしは・・・です」という教えの根底には、出エジプト記3章14節に記されています、契約の神である主、ヤハウェがモーセに示してくださった、 わたしは、「わたしはある」という者である。 というご自身の御名があります。この、 わたしは、「わたしはある」という者である。 という御名はヘブル語で記されていますが、この御名のギリシャ語訳である七十人訳では、強調形の「わたしは・・・です」(エゴー・エイミ・・・)という形(エゴー・エイミ・ホ・オーン、「わたしは存在している者です」)となっています。 このように、この強調形の「わたしは・・・です」(エゴー・エイミ・・・)という形のイエス・キリストの教えは、これを語っておられるイエス・キリストが契約の神である主、ヤハウェであられることを示唆しています。そして、そのイエス・キリストが「いのちのパン」、「世の光」、「門」、「良い牧者」、「よみがえりであり、いのち」、「道であり、真理であり、いのち」、「ぶどうの木」であられることが、イエス・キリストを信じる私たちにとってどのような意味をもっているかが明らかにされています。たとえば、最初の教えである、 わたしがいのちのパンです。 ということは、イエス・キリストを信じている私たちにとっては、私たちが「決して飢えることがなく・・・どんなときにも、決して渇くことが」ないという祝福となって現れてきます。 今私たちが取り上げています、 わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。 という教えで示されているのは、契約の神である主、ヤハウェであられるイエス・キリストが、私たちご自身の民の「良い牧者」となってくださって、私たちのためにご自身のいのちをも捨ててくださるということです。 旧約聖書をとおして一貫して示されていることは、契約の神である主、ヤハウェは、ご自身の契約に基づいて、ご自身の民の間にご臨在され、ご自身の民のために贖いの御業を遂行される主です。イエス・キリストはまさに、そのような方として、人としての性質を取って来てくださり、私たちの間にご臨在してくださって、私たちのために贖いの御業を遂行されました。ですから、イエス・キリストが、 だれも、わたしからいのちを取った者はいません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、それをもう一度得る権威があります。わたしはこの命令をわたしの父から受けたのです。 と言われたように、私たちご自身の民のためにご自分のいのちをお捨てになったことにおいて、契約の神である主、ヤハウェの権威が現されました。 このこととのかかわりで、古い契約の下における「地上的なひな型」としてのダビデ王朝の王たちのことを記しているエゼキエル書34章に記されているみことばを見てみましょう。 1節ー6節には、 次のような主のことばが私にあった。「人の子よ。イスラエルの牧者たちに向かって預言せよ。預言して、彼ら、牧者たちに言え。神である主はこう仰せられる。ああ。自分を肥やしているイスラエルの牧者たち。牧者は羊を養わなければならないのではないか。あなたがたは脂肪を食べ、羊の毛を身にまとい、肥えた羊をほふるが、羊を養わない。弱った羊を強めず、病気のものをいやさず、傷ついたものを包まず、迷い出たものを連れ戻さず、失われたものを捜さず、かえって力ずくと暴力で彼らを支配した。彼らは牧者がいないので、散らされ、あらゆる野の獣のえじきとなり、散らされてしまった。わたしの羊はすべての山々やすべての高い丘をさまよい、わたしの羊は地の全面に散らされた。尋ねる者もなく、捜す者もない。」 と記されています。 ここで語っておられるのは、 次のような主のことばが私にあった。 と記されているときの「主」が新改訳では太字になっていることから分かりますが、契約の神である主、ヤハウェです。ここには「イスラエルの牧者たち」が出てきます。これが誰を指しているかについてはいくつかの可能性がありますが、結論的には、イスラエルの王たちを指しています。王を初めとする指導者たちを「牧者」と呼ぶことは、古代オリエントの文化においては一般的なことでした。古代オリエントの文化においては、主が述べておられるように、 牧者は羊を養わなければならない という考え方があったわけです。けれども、言うまでもなく、そのような考え方があったということは、実際に、そのように行われていたということを意味しているわけではありません。さらに、より厳密に言いますと、少し前に引用しましたが、マタイの福音書20章25節には、 あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者たちは彼らを支配し、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。 と記されています。これはイエス・キリストが弟子たちに教えられた教えの一部で、「異邦人の支配者たち」の現実、黙示録1章5節のことばで言いますと「地上の王たち」の現実を指摘するものです。それでは「地上の王たち」は、自分たちがそのように、その支配下にある民の上に権力を振るっていると思っているかと言いますと、そうではないのです。いつの時代においても、支配者たちは、それが自分の国のため、自分の民のためであるという大義名分を掲げています。けれどもこの世界をお造りになり、その歴史を治めておられる契約の神である主、ヤハウェは、そのような大義名分に隠れている「地上の王たち」の現実を見通しておられます。 もちろん、「地上の王たち」にも言い分はあります。そのように権力を発揮して民を支配しなければ、自分たちの国は強くなれないし、繁栄することができないというのです。それが「地上の王たち」が支配する国々の現実です。それらの国々にはそのような言い分があり、国家の存続と繁栄に関する論理があります。けれども、イエス・キリストは、 あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者たちは彼らを支配し、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。 という「地上の王たち」が支配する国々の現実実を示された後、続いて、26節に記されていますように、 あなたがたの間では、そうではありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。 と教えておられます。神さまが創造の御業において神のかたちに造られた人に委ねてくださった権威は、「みなに仕える」ことに現れてくる権威です。「地上の王たち」が支配する国々においては、その権威が、根本から、罪によって腐敗し、自己中心的に歪んでしまっています。すべての人が自らのうちに宿す罪によって自己中心的に腐敗してしまっていますので、どの国においても、その権威は根本から、罪によって腐敗し、自己中心的に歪んでしまっています。そのために、国々は覇権を争い、さまざまな戦いが生み出されてしまっています。そのような状況では、権力を発揮して民を支配しなければ、自分たちの国は強くなれないし、繁栄することができないという言い分や論理が通っているのです。 これに対しまして、契約の神である主、ヤハウェは、造り主である神さまが創造の御業において神のかたちに造られた人にお委ねになった本来の権威を回復されます。その際に、契約の神である主が「剣」の力すなわち軍事力や経済力などの血肉の力にものを言わせて「地上の王たち」を打ち砕き、その上に君臨するとしたら、それはもう一つの「地上の王たち」の国を打ち立てるだけのことになってしまいます。 マタイの福音書26章47節ー54節には、ユダヤ人の指導者たちである「祭司長、民の長老たちから差し向けられた」群衆が、イエス・キリストを逮捕しに来たときのことが記されています。そのとき、弟子のひとりがそれを阻止しようとして、剣をもって大祭司のしもべに切りかかり、その耳を切り落としました。ヨハネの福音書18章10節では、それはペテロであったと言われています。これに対してイエス・キリストは、ルカの福音書22章51節によりますと、そのしもべの耳をおいやしになり、マタイの福音書26章52節ー54節に記されていますように、 剣をもとに納めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます。それとも、わたしが父にお願いして、十二軍団よりも多くの御使いを、今わたしの配下に置いていただくことができないとでも思うのですか。だが、そのようなことをすれば、こうならなければならないと書いてある聖書が、どうして実現されましょう。 と言われました。イエス・キリストはご自分を守るためであれば、「十二軍団よりも多くの御使い」を従えて、ユダヤ人たちの指導者たちはおろか、ローマ帝国さえも打ち砕くことはできました。しかし、それによって打ち立てられるのは、奇跡的な力によって打ち立てられる国家ではありますが、もう一つの「地上の王たち」の国でしかありません。いくら奇跡的な力が働いたとしても、神のかたちに造られた人の罪が贖われることがなければ、神さまが神のかたちに造られた人に委ねてくださった本来の権威は回復されることはありません。何であっても、神さまの奇跡的な力が働けばよいというわけではありません。自らのうちに宿す罪によって自己中心的に腐敗してしまっている人間は、自らの国が神さまの奇跡的な力によって打ち立てられたということを誇り、ほかの国々を支配し、その上に権力を振るうようになるに決まっています。 イエス・キリストが言っておられる、「こうならなければならないと書いてある聖書」が実現することとは、言うまでもなく、イエス・キリストご自身が十字架におかかりになって、私たちご自身の民の罪の贖いのために、ご自分のいのちをお捨てになることです。 先ほど引用しました、エゼキエル書34章2節ー4節には、 ああ。自分を肥やしているイスラエルの牧者たち。牧者は羊を養わなければならないのではないか。あなたがたは脂肪を食べ、羊の毛を身にまとい、肥えた羊をほふるが、羊を養わない。弱った羊を強めず、病気のものをいやさず、傷ついたものを包まず、迷い出たものを連れ戻さず、失われたものを捜さず、かえって力ずくと暴力で彼らを支配した。 という契約の神である主、ヤハウェのことばが記されていました。 これは、イスラエルの王の現実を示し、彼らを糾弾することばです。イスラエルの王たちも、「異邦人の支配者たち」、「地上の王たち」と同じように、自分に委ねられた民を「力ずくと暴力で・・・支配した」のです。 しかし、イスラエルの王たちは、本来、そのような権威を委ねられたのではありませんし、そのような権力を振るうようなことがあってはならないと戒められていました。イスラエルの王たちは契約の神である主、ヤハウェのしもべとして、主から権威を委ねられています。そのようにして、主の契約の民イスラエルの王として立てられたのが、ダビデであり、ダビデの子孫です。それで、ダビデとダビデの子孫であるイスラエルの王たちは主、ヤハウェの権威を身をもってあかしし、現さなければなりませんでした。主からダビデとダビデの子孫であるイスラエルの王たちに委ねられた権威は、ここで主が述べておられるように、主から委ねられた羊を養い、弱った羊を強め、病気のものをいやし、傷ついたものを包み、迷い出たものを連れ戻し、失われたものを捜すことに現れてくる権威です。 実際、エゼキエル書34章では、「イスラエルの牧者たち」がその羊たちを「力ずくと暴力で・・・支配した」ために、羊たちが散らされてしまったことを受けて、11節ー16節に、 まことに、神である主はこう仰せられる。見よ。わたしは自分でわたしの羊を捜し出し、これの世話をする。牧者が昼間、散らされていた自分の羊の中にいて、その群れの世話をするように、わたしはわたしの羊を、雲と暗やみの日に散らされたすべての所から救い出して、世話をする。わたしは国々の民の中から彼らを連れ出し、国々から彼らを集め、彼らを彼らの地に連れて行き、イスラエルの山々や谷川のほとり、またその国のうちの人の住むすべての所で彼らを養う。わたしは良い牧場で彼らを養い、イスラエルの高い山々が彼らのおりとなる。彼らはその良いおりに伏し、イスラエルの山々の肥えた牧場で草をはむ。わたしがわたしの羊を飼い、わたしが彼らをいこわせる。――神である主の御告げ――わたしは失われたものを捜し、迷い出たものを連れ戻し、傷ついたものを包み、病気のものを力づける。わたしは、肥えたものと強いものを滅ぼす。わたしは正しいさばきをもって彼らを養う。 という、契約の神である主のみことばが記されています。 何と、契約の神である主ご自身が、イスラエルのまことの牧者となられるというのです。 そして、その少し後の23節ー24節には、契約の神である主が、それを具体的にどのように実現してくださるかということが、 わたしは、彼らを牧するひとりの牧者、わたしのしもべダビデを起こす。彼は彼らを養い、彼らの牧者となる。主であるわたしが彼らの神となり、わたしのしもべダビデはあなたがたの間で君主となる。主であるわたしがこう告げる。 と記されています。 ここには「わたしのしもべダビデ」が出てきます。エゼキエルはダビデ王より4百年ほど後の人ですから、これはダビデ王のことではなく、ダビデに与えられた契約に約束された永遠の王座に着座されるダビデの子のことです。 先ほど引用しました11節ー16節の初めの部分である11節ー12節に記されていますように、契約の神である主は、 見よ。わたしは自分でわたしの羊を捜し出し、これの世話をする。牧者が昼間、散らされていた自分の羊の中にいて、その群れの世話をするように、わたしはわたしの羊を、雲と暗やみの日に散らされたすべての所から救い出して、世話をする。 と言われました。契約の神である主ご自身がイスラエルのまことの牧者となられるということです。そしてここでは、契約の神である主は、ダビデに与えられた契約に約束された永遠の王座に着座されるダビデの子をとおして、そのことを実現されることを明らかにしておられます。 それで、このダビデの子こそが、主から委ねられた羊を養い、弱った羊を強め、病気のものをいやし、傷ついたものを包み、迷い出たものを連れ戻し、失われたものを捜すことに現れてくる権威を発揮される方です。 実際、この権威は、ご自身が契約の神である主、ヤハウェなるお方であり、人としては、ダビデの子としてお生まれになった、イエス・キリストが、 わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。 と教えられ、さらに、 だれも、わたしからいのちを取った者はいません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、それをもう一度得る権威があります。わたしはこの命令をわたしの父から受けたのです。 と教えておられることに、さらには、ただ教えられただけでなく、実際に、十字架におかかりになって私たちご自身の民の罪を完全に贖ってくださり、栄光を受けて死者の中からよみがえってくださって、私たちを永遠のいのち、すなわち、父なる神さまとの愛の交わりのうちに生きるものとしてくださったことに、最もはっきりと、また豊かに現れています。 また、エゼキエル書34章において、契約の神である主、ヤハウェご自身が、ご自身の民の牧者となられると言われていることと、そのことがダビデに与えられた契約に約束されている永遠の王座に着座されるダビデの子を通して実現されるという、二つの別々のことのように思われることが、イエス・キリストにおいて一つのことになっていることが分かります。 これらのことと関連して、触れておきたいことがあります。黙示録1章5節において、イエス・キリストは、 忠実な証人、死者の中から最初によみがえられた方、地上の王たちの支配者 と呼ばれていました。すでに「死者の中から最初によみがえられた方」という呼び方を取り上げたときにお話しましたが、この「死者の中から最初によみがえられた方」は、直訳では「死者たちの長子」です。そして、この「死者たちの長子」という呼び方と、私たちが今取り上げています「地上の王たちの支配者」という呼び方は、詩篇89篇27節に記されている、 わたしもまた、彼をわたしの長子とし、 地の王たちのうちの最も高い者としよう。 というみことばを背景としています。 これは27節ですが、このみことばはさらに続いていて、28節ー29節には、 わたしの恵みを彼のために永遠に保とう。 わたしの契約は彼に対して真実である。 わたしは彼の子孫をいつまでも、 彼の王座を天の日数のように、続かせよう。 と記されています。さらに、その少し後の34節ー37節には、 わたしは、わたしの契約を破らない。 くちびるから出たことを、わたしは変えない。 わたしは、かつて、わが聖によって誓った。 わたしは決してダビデに偽りを言わない。 彼の子孫はとこしえまでも続き、 彼の王座は、太陽のようにわたしの前にあろう。 それは月のようにとこしえに、堅く立てられる。 雲の中の証人は真実である。 と記されています。 これらの引用から分かりますように、契約の神である主が、 わたしもまた、彼をわたしの長子とし、 地の王たちのうちの最も高い者としよう。 と言われる方は、ダビデに与えられた契約とのかかわりで語られています。そして、そのダビデに与えられた契約は、最終的には、その契約において約束されている永遠の王座に着座されるダビデの子において成就しています。その方は、黙示録1章5節において、 忠実な証人、死者の中から最初によみがえられた方、地上の王たちの支配者 と呼ばれているイエス・キリストです。 これまでお話ししてきたことのまとめになりますが、この方は、メシヤとしての権威によって、私たちご自身の民のために十字架のおかかりになって、私たちの罪を贖い、私たちを罪の結果である死と滅びの中から救い出してくださいました。そればかりでなく、栄光を受けてくださって、私たちを復活のいのち、すなわち、永遠のいのちに生きるものとしてくださいました。そして、今も、父なる神さまの右の座に着座されている私たちの大祭司として、私たちを御霊によって導いてくださり、父なる神さまを礼拝することを中心として、父なる神さまと神の家族の兄弟姉妹たちとの愛の交わりのうちに生きるものとしてくださっています。まさに、ご自身の羊を養い、弱った羊を強め、病気のものをいやし、傷ついたものを包み、迷い出たものを連れ戻し、失われたものを捜し出してくださっておられます。 |
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