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説教日:2012年8月5日 |
このように、イエス・キリストは神の御国の王としての権威を発揮されて、私たちご自身の民の罪を贖い、私たちを永遠のいのちに生きるものとしてくださるために、ご自身のいのちをお捨てになりました。これがイエス・キリストの権威の本質的な特徴で、「地上の王たち」の権威、権力とは本質的に違います。 「地上の王たち」は自らの野望を実現するために、その支配下にある人々を犠牲にします。この世の国々の栄華の陰では多くの血が流され、虐げられ、搾取された人々の涙が流れており、うめきの声が響いています。そして、真のリーダーはそれだけの強さをもっていなければならないとされていて、そのような権力を巧みに発揮した王たちが常に讚えられ、模範とされてきました。 これが「地上の王たち」権力の現実です。そしてこれは、神のかたちに造られた人が造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落したことによって、本質的に腐敗してしまった権威の現れです。 このことは、今日お話ししたいことにかかわっています。 これまで、イエス・キリストの権威が「地上の王たち」の権威、権力と本質的に違うということを、みことばの教えに基づいて、いろいろな面からお話ししてきました。そのことから、イエス・キリストの権威はきわめて特殊で特異な権威であるという感じがしないでしょうか。 確かにそれは「地上の王たちの支配者」ということばから、普通に想像されるであろう権威とは本質的に違っているという点では、特殊な権威です。けれども、ご自身の御国の民のためにご自分のいのちをもお捨てになることに現れている、イエス・キリストの権威は、神のかたちに造られた人に造り主である神さまが委ねてくださった本来の権威なのです。 創世記1章1節に、 初めに、神が天と地を創造した。 と記されていますように、神さまはこの世界のすべてのものをお造りになりました。今日分かっている限りでは137億光年の彼方に広がって、なおも膨張し続けていると言われている大宇宙とその中のすべてのもの、さらには、御使いたちのように物質的な面がないために目には見えないものも、神さまが創造の御業によって造り出されたものです。その意味で、神さまは造られたすべてのものの主権者です。 その造られたすべてのものの主権者であられる神さまは、ご自身がお造りになったすべてのものを、真実に支え、導いておられます。造られたものが今日に至るまで、それぞれの特性を発揮しながら、存在し続けてきたのは、造り主である神さまが、その一つ一つの特性を生かすように支え、導いてくださっているからです。今日のように宇宙大の視野が開けていなかった時代、クオークやレプトンのような素粒子の世界も分からなかった時代においては、次のような例による教えがあります。マタイの福音書6章26節には、 空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。 というイエス・キリストの教えが記されています。このことに、神さまの権威がどのようなものであるかが現れています。イエス・キリストが地上を歩まれた時代では、鳥はあちこちにたくさんいる、ごくありふれたものでした。神さまはそのような鳥にも、お心を注いでくださっていることが教えられています。 神さまはご自身がお造りになったすべてのものがそれぞれの特性を発揮するように、一つ一つのものを真実に支えておられますが、ご自身は造られたものから、ご自身の益のために、何も得てはおられません。 ヨハネの手紙第一・4章16節に、 神は愛です。 と記されていますように、神さまの本質は愛です。主権者であられる神さまの権威は、この神さまの本質である愛によって特徴づけられ、愛を具体的に現すように働く権威です。 創世記1章27節ー28節には、 神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」 と記されています。 神さまは創造の御業において、人を愛を本質的な特性とする神のかたちにお造りになりました。そして、その人に「地を従え」、「海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配」する権威をお委ねになりました。このことを指して、キリスト教文化は神の名によって自然を征服して搾取する文化だというような批判がなされることがあります。けれども、これは聖書の教えに対する誤解によっています。実際にどうであったかということをみことばから見てみますと、創世記2章15節には、 神である主は人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。 と記されています。実際には、 地を従えよ。 という使命とともに権威を委ねられた人は、その「地」を耕しています。2章10節に、 一つの川が、この園を潤すため、エデンから出ており、そこから分かれて、四つの源となっていた。 と記されていますように、豊かに潤っていたエデンの園の土地を耕していました。いわば、その「地」に仕え、「地」のお世話をしているのです。そのように潤っていたエデンの園では植物が繁茂していたと考えられますが、その植物には意思がありませんから、どんどん生長していきます。放っておけば「ジャングル状態」になってしまったことでしょう。これに対して、人は、エデンの園を耕し、草木の生長を整理し、それらが豊かな実を結ぶようにしていたと考えられます。これによって、 海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。 という使命とともに、自分に委ねられた生き物たちが十分に食べて成長することができるようになったと考えられます。これが、 地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。 という使命とともに権威を委ねられた人が、実際にしていたことです。それが、本来の、権威を行使するということであったのです。 さらに、創世記2章18節ー23節には、 神である主は仰せられた。「人が、ひとりでいるのは良くない。わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう。」神である主は土からあらゆる野の獣と、あらゆる空の鳥を形造り、それにどんな名を彼がつけるかを見るために、人のところに連れて来られた。人が生き物につける名はみな、それがその名となった。人はすべての家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名をつけた。しかし人には、ふさわしい助け手が見つからなかった。神である主は深い眠りをその人に下されたので、彼は眠った。そして、彼のあばら骨の一つを取り、そのところの肉をふさがれた。神である主は、人から取ったあばら骨をひとりの女に造り上げ、その女を人のところに連れて来られた。人は言った。 「これこそ、今や、私の骨からの骨、 私の肉からの肉。 これを女と名づけよう。 これは男から取られたのだから。」 と記されています。 ここには、 海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。 という使命とともに権威を委ねられた人が、生き物たちとの関係を築いたことが記されています。 聖書において、名をつけるということには、いくつかの意味があります。いまお話ししていることとの関連で考えられることの一つは、その基本的な意味ですが、名をつけた側が名をつけられたものに対して権威を発揮することを意味しています。私たちの間で、犬に「ポチ」という名をつける場合でも、その名をつけた人がその犬の所有者であり、その犬に対して責任をもち、お世話をしていきます。それと同じように、人は一つ一つの生き物たちに名をつけることによって、その生き物たちとの親しい関係を築いていったのです。 さらに、聖書においては、基本的に、「名」はその名をもつものの本質的な特徴を表します。それで、この場合、人が生き物たちに名をつけたことは、犬に「ポチ」という愛称をつけるということとは、少し違って、その生き物の本質的な特徴を表す名をつけることを意味しています。そのためには、その生き物そのものをよく知ることが必要です。さらにそのためには、人はその生き物と親しく交わる必要があります。やはり、人は一つ一つの生き物との親しい関係を築いていったのです。 この聖書の記事では、このことは、神である主が人に「ふさわしい助け手」を与えてくださることとのかかわりでなされたと言われています。人は神である主が自分のところに連れてこれらた生き物の一つ一つと親しい関係を築いてその名をつけていったのですが、そのどれも、「ふさわしい助け手」にはなりえなかったということです。これには大切な意味がいくつかあるのですが、いまお話ししていることとのかかわりに限って言いますと、 海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。 という使命とともに権威を委ねられた人が、実際にしていたことは、自分に委ねられた生き物の一つ一つの特徴を知り、その名をつけたということです。それはそのようにして一つ一つの生き物たちとの親しい関係を築き、さらには、それぞれの生き物の特徴にしたがって、生き物たちのお世話をしていくということを意味しています。それは、神のかたちに造られた人が造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまった後の世界である今日においても、人が生き物の世話をし、植物の手入れをすることに見られることです。お花を育てている人は、その花の特徴をよく知って、それにしたがってお世話をします。 さらに、人は神である主が連れてこられた「女」に出会ったときに、彼女を「女」と名づけました。これは人が権威を発揮したことですが、それは、 これこそ、今や、私の骨からの骨、 私の肉からの肉。 という愛のこばをもってなされたことでした。 神である主は深い眠りをその人に下されたので、彼は眠った。 と記されていますように、人は「女」が自分のあばら骨から取られたことを見てはいません。ですから、これは「女」の素材のことを言っているのではなく、彼女と出会って始めて、真の意味で自分と一つになることができる存在と出会ったことを実感するようになったということを意味しています。 これが神のかたちに造られた人が神さまから委ねられた権威を発揮することの本来の姿です。その権威は、神のかたちの本質的な特質である愛を具体的な形で表現することととして現れてきます。さらに、そのようにして、神のかたちに造られた人をとおして、造り主である神さまご自身が愛であられることが、あかしされるようになるのです。 教会のかしらであられるイエス・キリストの権威は、私たちご自身の民を愛してくださって、私たちのためにご自分のいのちをもお捨てになったことに現れている権威です。それは、創造の御業において神さまが神のかたちに造られた人に委ねてくださった本来の権威が神のかたちの本質的な特性である愛を表すための権威であるということを、最も豊かに、また、鮮明に表しているものでもあります。ですから、神のかたちに造られた人が造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまった後の世界においては、イエス・キリストの権威は特殊な権威であるように感じられますが、それは、本来の権威です。むしろ、「地上の王たち」の権力の方が、造り主である神さまが神のかたちに造られた人に委ねてくださった本来の権威からすると、罪によって腐敗し、自己中心的に歪んでしまっているものです。 神のかたちに造られた人が造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまったことによって、神のかたちに造られた人の本質的な特質である愛さえも、罪によって自己中心的なものに腐敗してしまいました。そのために、神さまが神のかたちに造られた人に委ねてくださった権威も罪によって自己中心的に歪められてしまっています。 そのことは、私たちそれぞれが心を痛めることとして経験していることです。私たちの愛には罪の自己中心性が潜んでいます。それが、何らかのことで表面に現れてくることがあります。私たちは人を押しのけてまで人の上に立ちたいとは思わないかもしれません。しかし、自分の思い通りにならないときの憤り、自分より優れていると思える人への妬み、逆に、自分より劣ると思われる人がいると安心することなど、それが屈折した形で現れてくることがあります。このようなことは、神のかたちの本質的な特性である愛が罪の自己中心性によって腐敗し歪められてしまっていることの身近な現れであり、造り主である神さまが神のかたちに造られた人に委ねてくださった権威が、罪の自己中心性によって腐敗し歪められてしまっていることの発芽した芽のような現れでもあります。 仮に、そのような現実を宿している私たちが「地上の王たち」のような権力を手にしていたとしたらどうでしょうか。その権力を誇り、当然のことのように、人を踏みつけていたのではないでしょうか。さらには、人を踏みつけることを、自ら掲げた大義名分の実現のためには必要なことだとさえ言っていなかったでしょうか。 コリント人への手紙第一・1章26節ー29節には、 兄弟たち、あなたがたの召しのことを考えてごらんなさい。この世の知者は多くはなく、権力者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。これは、神の御前でだれをも誇らせないためです。 と記されています。 神さまは「この世の愚かな者」、「この世の弱い者」、「この世の取るに足りない者や見下されている者」、「無に等しいもの」をお選びになりました。すべて、「地上の王たち」の権力の序列からはほど遠い人たちです。 もちろん、その人たちにも罪の性質はあります。それで罪の自己中心性がその本性に根差しています。そのために、人を押しのけ、人の上にのし上がろうとしたこともあったでしょう。そのようなことができないと分かったときに、絶望的な思いになったり、嫉妬にかられたこともあったでしょう。けれども、神さまがその人たちを御子イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりにあずからせてくださり、新しく生まれさせてくださったとき、その人たちは、幸いにも、自分によいところがあるので、神さまは自分を選んでくださったとはとても思えないことが多いのです。また、そのことから、神さまの一方的な愛と恵みを悟ることへと導かれることが多いのです。 このみことばに示されているように、教会には「この世の愚かな者」、「この世の弱い者」、「この世の取るに足りない者や見下されている者」、「無に等しいもの」がたくさんいるはずです。 今から2千年前に、イエス・キリストはご自身の権威によって、私たち「この世の愚かな者」、「この世の弱い者」、「この世の取るに足りない者や見下されている者」、「無に等しいもの」のためにご自身のいのちをお捨てになり、復活のいのちを獲得してくださいました。そのイエス・キリストは、今は、やはりご自身の権威によって、私たちとともにいて、導いてくださって、私たちを父なる神さまの御臨在の御許にあるいのちの祝福にあずからせてくださっています。 そのような「この世の取るに足りない者や見下されている者」である私たちが、それでも、永遠の神の御子イエス・キリストが自分のために十字架にかかっていのちを捨ててくださり、父なる神さまの子どもとしてくださったことを信じて、父なる神さまの御臨在の御許にある神の家族として生きていくなら、それは、ご自身の民のためにご自分のいのちを捨ててくださったイエス・キリストが、その権威を発揮されて、その人たちを導いてくださっているからにほかなりません。 また、重い病に冒されて、詩篇23篇4節のことばで言えば、「死の陰の谷を歩く」ような日々を送っている人たちは、この世では、それは罰が当たったと言われるかもしれません。それでも、その人たちが永遠の神の御子イエス・キリストが自分のために十字架にかかって死んでくださったことによって、自分の罪に対するさばきはすでに終わっていることを信じ、むしろ、私たちを愛して御子をも賜った父なる神さまが、御子イエス・キリストにあって、「死の陰の谷を歩く」自分とともにいてくださることを信じて、父なる神さまとの愛の交わりのうちに歩み続けるなら、それも、ご自身の民のためにご自分のいのちを捨ててくださったイエス・キリストが、その権威を発揮されて、その人たちを導いてくださっているからにほかなりません。 さらには、自分の罪の深さを思い知らされて、それに涙し、絶望的な思いに沈んでいる人たちがいることでしょう。それでも、その人たちが、永遠の神の御子であられるイエス・キリストが、そのような罪深い自分のためにこそ十字架にかかって、自分の罪を贖ってくださったと信じ、悔い改めて、父なる神さまの御臨在の御許に近づいて行くとしたら、それも、また、ご自身の民のためにご自分のいのちを捨ててくださったイエス・キリストがその権威を発揮されて、その人たちを導いてくださっているからにほかなりません。 このようなイエス・キリストの権威によるお働きが完全な形で実現することが、途中からの引用になりますが、黙示録7章13節ー17節に、 長老のひとりが私に話しかけて、「白い衣を着ているこの人たちは、いったいだれですか。どこから来たのですか」と言った。そこで、私は、「主よ。あなたこそ、ご存じです」と言った。すると、彼は私にこう言った。「彼らは、大きな患難から抜け出て来た者たちで、その衣を小羊の血で洗って、白くしたのです。だから彼らは神の御座の前にいて、聖所で昼も夜も、神に仕えているのです。そして、御座に着いておられる方も、彼らの上に幕屋を張られるのです。彼らはもはや、飢えることもなく、渇くこともなく、太陽もどんな炎熱も彼らを打つことはありません。なぜなら、御座の正面におられる小羊が、彼らの牧者となり、いのちの水の泉に導いてくださるからです。また、神は彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださるのです。」 と記されています。 |
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