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説教日:2012年7月29日 |
これまでお話ししてきたことから、 地上の王たちの支配者 という呼び方について、二つの対称的なイメージが浮かんできます。 一つは、「地上の王たちの支配者」という呼び方の前の部分の「地上の王たち」の典型としての海から上ってきた獣です。この獣のことは13章1節ー2節に、 また私は見た。海から一匹の獣が上って来た。これには十本の角と七つの頭とがあった。その角には十の冠があり、その頭には神をけがす名があった。私の見たその獣は、ひょうに似ており、足は熊の足のようで、口は獅子の口のようであった。竜はこの獣に、自分の力と位と大きな権威とを与えた。 と記されています。 この海から上ってきた獣には「十本の角と七つの頭」がありました。この「十本の角」をもつ獣は、ダニエル書7章1節ー14節に記されているダニエルが見た幻の中に出てくる「第四の獣」を背景としています。この「第四の獣」の頭に「十本の角」がありました。 ダニエル書7章に出てくる四つの獣は、ダニエルが仕えていたバビロンとそれに続く三つの帝国をモデルとして記されています。この「四」という数は完全数の一つで、それら四つの帝国によって、この世の国々が全体的に表されています。それも、これら四つの帝国が順次現れてくるということから、この世の国々の歴史を全体的に表わしていると考えられます。さらに、これら四つの獣が次々と現れてくるだけでなく、だんだんと凶暴さを増していくことをとおして、この世の国々がその凶暴さを増していき、ついには「第四の獣」においてその頂点に達するということが示されていました。 この「第四の獣」については、ダニエル書7章7節に、 その後また、私が夜の幻を見ていると、突然、第四の獣が現れた。それは恐ろしく、ものすごく、非常に強くて、大きな鉄のきばを持っており、食らって、かみ砕いて、その残りを足で踏みつけた。これは前に現れたすべての獣と異なり、十本の角を持っていた。 と記されています。「角」は権力の象徴ですが、それが十本あるということは、その獣の権力がこの上なく強大なものであることを示しています。そして、ここに記されている獣の描写は、これが徹底的に食らい尽くし、破壊し尽くすことを示しています。 さらに、黙示録13章2節前半には、この海から上ってきた獣のことが、 私の見たその獣は、ひょうに似ており、足は熊の足のようで、口は獅子の口のようであった。 と記されています。これによって、この海から上ってきた獣がダニエル書7章に出てくる、ほかの三つの獣の特徴をも合せ持っていることが示されています。ダニエル書7章では第一の獣が「獅子」と関連づけられ、第二の獣が「熊」と関連づけられ、第三の獣が「ひょう」と関連づけられていました。 このように、海から上ってきた獣はダニエル書7章に記されているダニエルが見た幻において示されている「第四の獣」を頂点とする四つの獣を背景として示されています。同時に、これにはもう一つのことがかかわっています。 この海から上ってきた獣には「十本の角」だけでなく「七つの頭」があります。この「十本の角と七つの頭」は、黙示録の中では、この13章に出てくる海から上ってきた獣と、その前の12章に出てくる「竜」とのつながりを示しています。12章1節ー4節には、 また、巨大なしるしが天に現れた。ひとりの女が太陽を着て、月を足の下に踏み、頭には十二の星の冠をかぶっていた。この女は、みごもっていたが、産みの苦しみと痛みのために、叫び声をあげた。また、別のしるしが天に現れた。見よ。大きな赤い竜である。七つの頭と十本の角とを持ち、その頭には七つの冠をかぶっていた。その尾は、天の星の三分の一を引き寄せると、それらを地上に投げた。また、竜は子を産もうとしている女の前に立っていた。彼女が子を産んだとき、その子を食い尽くすためであった。 と記されています。 3節に、 別のしるしが天に現れた。見よ。大きな赤い竜である。七つの頭と十本の角とを持ち、その頭には七つの冠をかぶっていた。 と記されている中で、「大きな赤い竜」には「七つの頭と十本の角」があったと言われています。この「大きな赤い竜」は、天における霊的な戦いの結果を記している9節で、 こうして、この巨大な竜、すなわち、悪魔とか、サタンとか呼ばれて、全世界を惑わす、あの古い蛇は投げ落とされた。彼は地上に投げ落とされ、彼の使いどもも彼とともに投げ落とされた。 と言われていますように、サタンのことです。 この「竜」が「赤い」と言われていることは、バビロニアやエジプトの文書において竜が赤色と関連づけられていることに現れている、その当時の文化的な発想を背景としています。この「赤」は血と関連していて、「竜」の凶暴さ、特に主の契約の民を殺戮するものであることを象徴的に表しています。ヨハネの福音書8章44節には、 悪魔は初めから人殺しであり、真理に立ってはいません。 というイエス・キリストの教えが記されています。 1節ー2節に記されている「女」については、 太陽を着て、月を足の下に踏み、頭には十二の星の冠をかぶっていた と言われています。詳しい説明は省きますが、このように描写されている「女」は、まことのイスラエルを指していると考えられます。このまことのイスラエルを表す「女」については、さらに、17節で、 すると、竜は女に対して激しく怒り、女の子孫の残りの者、すなわち、神の戒めを守り、イエスのあかしを保っている者たちと戦おうとして出て行った。 と言われています。これは、新約の教会を表しています。そのようなわけで、この「女」は旧約と新約の教会からなる、まことのイスラエルを表していると考えられます。 2節では、 この女は、みごもっていたが、産みの苦しみと痛みのために、叫び声をあげた。 と言われています。これは、旧約聖書のさまざまな背景が考えられますが、突き詰めていきますと、創世記3章15節に、 わたしは、おまえと女との間に、 また、おまえの子孫と女の子孫との間に、 敵意を置く。 彼は、おまえの頭を踏み砕き、 おまえは、彼のかかとにかみつく。 と記されている契約の神である主、ヤハウェの、サタンへのさばきの宣言に示されている「女の子孫」のかしらとして約束されている贖い主の誕生と、16節に記されている、 わたしは、あなたのうめきと苦しみを 大いに増す。 あなたは、苦しんで子を産まなければならない。 という「女」に対するさばきのことばが背景となっていると考えられます。[注 この「最初の福音」が背景となっているという理解は、私が調べたかぎりでは、一つの注解書に見られるだけですが、私はいくつかの理由によって、このように理解しています。] 黙示録13章1節ー2節に記されている、海から上ってきた獣に「十本の角と七つの頭」があったということは、この獣と「大きな赤い竜」すなわちサタンとの結びつきを表し、この獣が「大きな赤い竜」を体現し、映し出すものであることを意味しています。実際、黙示録13章2節後半には、 竜はこの獣に、自分の力と位と大きな権威とを与えた。 と記されています。 この「大きな赤い竜」は、天における霊的な戦いに破れて、天から落とされてしまいました。その「大きな赤い竜」について、さらに、12章17節ー18節には、 すると、竜は女に対して激しく怒り、女の子孫の残りの者、すなわち、神の戒めを守り、イエスのあかしを保っている者たちと戦おうとして出て行った。そして、彼は海べの砂の上に立った。 と記されています。このときから、「竜」の怒りは、 女の子孫の残りの者、すなわち、神の戒めを守り、イエスのあかしを保っている者たち に向けられていることが明らかにされています。 これをもって12章は終わっています。そして、13章1節には、 また私は見た。海から一匹の獣が上って来た。これには十本の角と七つの頭とがあった。 と記されています。海から上ってきた獣は「大きな赤い竜」として示されているサタンから権威を授けられ、サタンと一つとなり、サタンのために働くようになります。そのことが、ヨハネの時代においては、ローマ帝国におけるクリスチャンたちへの迫害となって現れてきました。ヨハネはその迫害の中で、パトモス島に流刑になっていました。 海から上ってきた獣は、ただ単にローマ帝国を表しているだけではありません。確かに、黙示録は基本的に「アジヤにある七つの教会」に与えられて啓示です。それで、海から上ってきた獣とその働きのことは、ローマ帝国になぞらえる形で記されています。けれども、その海から上ってきた獣は、ダニエルが幻のうちに見た、徹底的に食い尽くし、破壊し尽くすものである「第四の獣」を頂点とする四つの獣の特徴を合わせもつものとして描かれています。その四つの獣は、この世界の歴史の中に起こっては消え去っていく国々を代表的に表していました。このことから、海から上ってきた獣は、ローマ帝国をモデルとして描写されながら、その後に続くこの世のさまざまな国々を象徴的に表しつつ、最終的には、終わりの日に現れてくるであろう帝国、ヨハネの手紙第一・2章18節のことばで言えば「反キリスト」の帝国、テサロニケ人への手紙第二・2章3節のことばで言えば「不法の人、すなわち滅びの子」の帝国を表示していると考えられます。 ヨハネの時代すなわち初代教会の時代から、終わりの日に至るまで、この世の国々は起こっては消滅していきます。けれども、その全体を最終的に支配している「大きな赤い竜」、すなわちサタンは、終わりの日に至るまで変わることなく、神さまに逆らい、そのご計画が実現することを阻止しようとして働き続けます。そして、この世の国々はその「大きな赤い竜」すなわちサタンから権力を受け、サタンと一つになって、サタンのために働くことにおいて、海から上ってきた獣の特徴を表すようになります。この世の国々は起こっては消滅していきますが、サタンの働きに変わりがないために、そこに一貫したものが現れるようになるのです。 もちろん、このことの根底には、神のかたちに造られた人が造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落しているという事実があります。 また、この世の国々のすべてが同じように、この海から上ってきた獣の特徴を現すわけではなく、その現れ方や程度は国によって違います。しかし、人が造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまっているために、この世の国々は罪の本質をどうしても現してしまいますし、罪をとおして巧妙に働き掛ける暗やみの主権者の影響を受けることになってしまいます。 このように、ヨハネの挨拶の中に出てくる、 地上の王たちの支配者 というイエス・キリストの呼び方の「地上の王たち」のイメージは、栄光のキリストがヨハネに与えてくださった啓示である黙示録においては、海から上ってきた獣のイメージと結びついています。それは、ヨハネの時代においては、ローマ帝国による主の契約の民に対する迫害において、その獣としての特徴を表しています。 このような黙示録の啓示の光の下で見ますと、ローマ帝国による厳しい迫害にさらされている「アジヤにある七つの教会」の信徒たちは、その迫害の隠れた意味を汲み取ることができます。それは、その迫害は「大きな赤い竜」すなわちサタンが、天における霊的な戦いに破れて、地に落とされたことの現れであるということです。黙示録12章12節のことばで言いますと、「大きな赤い竜」すなわちサタンは天における霊的な戦いに破れ、「自分の時の短いことを知り、激しく怒って」地に下ってきました。そのために、海から上ってきた獣による迫害がより激しいものとなっているのです。 このように、ヨハネの挨拶の中に出てくる、 地上の王たちの支配者 というイエス・キリストの呼び方の「地上の王たち」のイメージは、海から上ってきた獣と結びついています。これに対して、 地上の王たちの支配者 という呼び方の「支配者」が意味するイエス・キリストのイメージは、黙示録の中では、5章6節に出てくる、 ほふられたと見える小羊 であり、12節に出てくる、 ほふられた小羊 です。この5章6節ー14節を見てみますと、そこには、 さらに私は、御座――そこには、四つの生き物がいる――と、長老たちとの間に、ほふられたと見える小羊が立っているのを見た。これに七つの角と七つの目があった。その目は、全世界に遣わされた神の七つの御霊である。小羊は近づいて、御座にすわる方の右の手から、巻き物を受け取った。彼が巻き物を受け取ったとき、四つの生き物と二十四人の長老は、おのおの、立琴と、香のいっぱい入った金の鉢とを持って、小羊の前にひれ伏した。この香は聖徒たちの祈りである。彼らは、新しい歌を歌って言った。 「あなたは、巻き物を受け取って、その封印を解くのにふさわしい方です。あなたは、ほふられて、その血により、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から、神のために人々を贖い、私たちの神のために、この人々を王国とし、祭司とされました。彼らは地上を治めるのです。」 また私は見た。私は、御座と生き物と長老たちとの回りに、多くの御使いたちの声を聞いた。その数は万の幾万倍、千の幾千倍であった。彼らは大声で言った。 「ほふられた小羊は、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美を受けるにふさわしい方です。」 また私は、天と地と、地の下と、海の上のあらゆる造られたもの、およびその中にある生き物がこう言うのを聞いた。 「御座にすわる方と、小羊とに、賛美と誉れと栄光と力が永遠にあるように。」 また、四つの生き物はアーメンと言い、長老たちはひれ伏して拝んだ。 と記されています。 ここには「ほふられた小羊」に対する礼拝と讃美が満ちています。そして、この礼拝をとおして「御座にすわる方」すなわち父なる神さまの栄光が讚えられています。 最初の讃美においては小羊が、 あなたは、巻き物を受け取って、その封印を解くのにふさわしい方です。 と言われて讚えられています。この「巻き物」は同じ5章の1節に、 また、私は、御座にすわっておられる方の右の手に巻き物があるのを見た。それは内側にも外側にも文字が書きしるされ、七つの封印で封じられていた。 と記されている巻物で、旧約聖書エゼキエル書2章9節ー10節に記されている、 そこで私が見ると、なんと、私のほうに手が伸ばされていて、その中に一つの巻き物があった。それが私の前で広げられると、その表にも裏にも字が書いてあって、哀歌と、嘆きと、悲しみとがそれに書いてあった。 というみことばが背景となっています。そして、黙示録5章3節には、 しかし、天にも、地にも、地の下にも、だれひとりその巻き物を開くことのできる者はなく、見ることのできる者もいなかった。 と記されています。そのことを知ったヨハネは激しく泣きます。それに対して、5節に記されているように、24人の長老のひとりがヨハネに、 ユダ族から出た獅子、ダビデの根が勝利を得たので、その巻き物を開いて、七つの封印を解くことができます。 と告げます。 「ユダ族から出た獅子、ダビデの根」とはイエス・キリストのことです。そして、 ユダ族から出た獅子、ダビデの根が勝利を得た と言われているときの「勝利」は、イエス・キリストが十字架にかかってご自身の民のために罪の贖いを成し遂げられたこと、そして、ご自身の民を父なる神さまとの愛の交わりのうちに生きるもの、永遠のいのちに生きるものとしてくださるために、栄光を受けて死者の中からよみがえられたことを指しています。 このことを受けて、先ほど引用しました「ほふられたと見える小羊」に対する礼拝と讃美が記されています。その中で、小羊は、 あなたは、巻き物を受け取って、その封印を解くのにふさわしい方です。 と讚えられています。 これらのことから、小羊すなわちイエス・キリストは、ご自身の民を罪の結果である死と滅びから贖い出してくださるために十字架にかかって死なれたから、また、ご自身の民を父なる神さまとの愛の交わりのうちに生きるものとしてくださるために、栄光を受けて死者の中からよみがえられたから、「巻き物を受け取って、その封印を解くのにふさわしい方」であるということが分かります。 このことは、さらに、その巻物に記されていることが、小羊の十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げられた贖いの御業に基づいて展開していく、神さまの救いとさばきの御業の歴史、あるいはまた、その歴史についての神さまのみこころであることを意味しています。小羊がその封印を解くと、それににしたがって、神さまの救いとさばきの御業の歴史が展開していくのです。[注 この理解の仕方には反論がありますが、それは、この個所に来たときに取り上げます。] そのようにして展開される神さまの救いとさばきの御業の歴史が最終的に至る所を記している7章9節ー17節には、 その後、私は見た。見よ。あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、だれにも数えきれぬほどの大ぜいの群衆が、白い衣を着、しゅろの枝を手に持って、御座と小羊との前に立っていた。彼らは、大声で叫んで言った。 「救いは、御座にある私たちの神にあり、小羊にある。」 御使いたちはみな、御座と長老たちと四つの生き物との回りに立っていたが、彼らも御座の前にひれ伏し、神を拝して、言った。 「アーメン。賛美と栄光と知恵と感謝と誉れと力と勢いが、永遠に私たちの神にあるように。アーメン。」 長老のひとりが私に話しかけて、「白い衣を着ているこの人たちは、いったいだれですか。どこから来たのですか」と言った。そこで、私は、「主よ。あなたこそ、ご存じです」と言った。すると、彼は私にこう言った。「彼らは、大きな患難から抜け出て来た者たちで、その衣を小羊の血で洗って、白くしたのです。だから彼らは神の御座の前にいて、聖所で昼も夜も、神に仕えているのです。そして、御座に着いておられる方も、彼らの上に幕屋を張られるのです。彼らはもはや、飢えることもなく、渇くこともなく、太陽もどんな炎熱も彼らを打つことはありません。なぜなら、御座の正面におられる小羊が、彼らの牧者となり、いのちの水の泉に導いてくださるからです。また、神は彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださるのです。」 と記されています。 これこそが、小羊が「勝利」を得られたために、すなわち、私たちご自身の民の贖いのために十字架にかかって死なれ、栄光を受けて死者の中からよみがえられたために、私たちにもたらされた祝福です。私たちご自身の民がこのような父なる神さまとの愛の交わりのうちに生きるものとされることにおいて、小羊の「勝利」はまったきものとして実現します。 先ほど、「大きな赤い竜」として示されているサタンが、天における霊的な戦いに破れて、天から落とされたことをお話ししました。それは、小羊の「勝利」を意味しています。言うまでもなく、その「勝利」は、先ほどの天における最初の讃美で、 あなたは、ほふられて、その血により、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から、神のために人々を贖い、私たちの神のために、この人々を王国とし、祭司とされました。彼らは地上を治めるのです。 と告白されているように、小羊がその十字架の死と死者の中からのよみがえりによって、ご自身の民のために贖いの御業を成し遂げてくださったことによっています。 このようにして、ヨハネの挨拶の中に出てくる、 地上の王たちの支配者 という呼び方においては、「地上の王たち」が生み出す、自分の前にあるものを徹底的に食い尽くし、破壊し尽くす獣のイメージと、その「支配者」であられるイエス・キリストが生み出す、ご自身の民の罪の贖いのために十字架にかかって死なれた小羊のイメージが結び合わされています。 この二つのイメージが示している、凶暴な獣と小羊のどちらが「支配者」なのでしょうか。どう考えても獣の方です。けれども、それは獣の支配する世界、さらにその奥にある「大きな赤い竜」が支配する世界の見方です。私たちもその見方に慣れてしまっているために、つい、そのように考えてしまいやすいものです。しかし、栄光のキリストがヨハネに啓示してくださった黙示録のみことばの光の下では、それは逆転しています。あるいは、天における父なる神さまと小羊の御前では、逆転しています。 凶暴な獣は「大きな赤い竜」が象徴的に表示している殺戮を実行します。「ほふられた小羊」はその獣の手によって殺戮されました。イエス・キリストはローマの兵士たちによって十字架につけられ、殺されました。しかし、イエス・キリストは、それによって、ご自身の民のための罪の贖いを成し遂げられ、ご自身の民を死と滅びの中から贖い出されました。 また、これによって、「最初の福音」において示された、サタンすなわち「大きな赤い竜」への最終的なさばきの執行の条件が整えられるようになりました。「最初の福音」は、サタンへのさばきの宣言として与えられました。そこでは、「女の子孫」のかしらとして来られる贖い主が、サタンに対する最終的なさばきを執行することが示されています。しかし、それに先立って、主の契約の民のための罪の贖いが成し遂げられるのです。 黙示録12章12節には、「悪魔が自分の時の短いことを」知ったことが記されていました。サタンがどこまで神さまの贖いの御業を理解しているかは分かりません。けれども、確かに、小羊がほふられたことによって、サタンの時は短くなっています。 |
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