黙示録講解

(第81回)


説教日:2012年7月22日
聖書箇所:ヨハネの黙示録1章1節ー8節
説教題:地の王たちの支配者(4)


 ヨハネの黙示録1章4節ー5節前半には、

ヨハネから、アジヤにある七つの教会へ。今いまし、昔いまし、後に来られる方から、また、その御座の前におられる七つの御霊から、また、忠実な証人、死者の中から最初によみがえられた方、地上の王たちの支配者であるイエス・キリストから、恵みと平安が、あなたがたにあるように。

と記されています。
 これは、黙示録の著者ヨハネが「アジヤにある七つの教会」に宛てた挨拶です。ヨハネは「アジヤにある七つの教会」の牧会者でしたが、この時は、ローマ帝国からの迫害を受け、犯罪人として「パトモスという島」に流刑となっていました。ローマ帝国による迫は、牧会者であるヨハネだけでなく、「アジヤにある七つの教会」にも及んでいました。
 このようにして、パトモス島にいたヨハネに、栄光のキリストがご自身を現してくださり、ヨハネが黙示録に記していることを啓示してくださいました。1章11節に、

あなたの見ることを巻き物にしるして、七つの教会、すなわち、エペソ、スミルナ、ペルガモ、テアテラ、サルデス、フィラデルフィヤ、ラオデキヤに送りなさい。

という栄光のキリストのみことばが記されています。このとき栄光のキリストがヨハネに啓示してくださったことは、基本的に、「アジヤにある七つの教会」に対して示されたものです。同時に、「アジヤにある七つの教会」の「」は、黙示録の中でしばしば用いられている完全数です。それで、「アジヤにある七つの教会」は、終わりの日に至るまで地上に存在する、すべての教会を表しています。黙示録に記されていることは、そのすべての教会に当てはまります。
 ヨハネは自分が牧会する「アジヤにある七つの教会」に送った挨拶拶の中で、御父、御子、御霊からの「恵みと平安」があるようにと祈っています。その際に、父なる神さまのことを、

 今いまし、昔いまし、後に来られる方

と呼んでいます。また、御霊のことを、

 御座の前におられる七つの御霊

と呼んでいます。そして、イエス・キリストのことを、

忠実な証人、死者の中から最初によみがえられた方、地上の王たちの支配者であるイエス・キリスト

と呼んでいます。
 これまで、これらの呼び方についてお話ししました。今は、

忠実な証人、死者の中から最初によみがえられた方、地上の王たちの支配者であるイエス・キリスト

というイエス・キリストに対する呼び方のうち、最後の、

 地上の王たちの支配者

という呼び方についてお話ししています。
 これまで3回にわたって、この、

 地上の王たちの支配者

という呼び方は、このことばから普通に想像されるであろう意味合いを示していないということをお話ししてきました。
 繰り返しになりますが、この時、ヨハネを初めとする「アジヤにある七つの教会」は、ローマ帝国からの激しい迫害にさらされていました。そのような状況にあるヨハネに、また、ヨハネを通して「アジヤにある七つの教会」に、栄光のキリストが黙示録に記されていることを啓示してくださいました。ヨハネはその啓示に基づいて、栄光のキリストのことを、

 地上の王たちの支配者

と呼んでいます。そして、イエス・キリストが、

 地上の王たちの支配者

であられることはローマ帝国からの激しい迫害にさらされている自分にも、自分が牧会している「アジヤにある七つの教会」にとっても意味をもっており、慰めや励ましをもたらすものであると考えていたはずです。
 このような状況を踏まえますと、栄光のキリストのことを、

 地上の王たちの支配者

と呼んでいるとき、ヨハネは、イエス・キリストの権威が「地上の王たち」の権威の最上位にあるということを「アジヤにある七つの教会」に伝えようとしているのではないかと思いたくなります。具体的には、ローマ帝国がどれほど強大な権力をもっていたとしても、イエス・キリストの権力はさらにその上にあるということを伝えようとしているのではないかと思いたくなります。
 けれども、そのような考え方は、イエス・キリストの権威を、「地上の王たち」の権威、権力と同列に置いて比べるものであり、イエス・キリストの権威は「地上の王たち」の権威、権力と同質のものであるとすることになります。そのような権威、権力は人々の上に立って支配し、自らの野望を実現しようとするものです。そのために、多くの人々が犠牲となります。
 これまでのお話の最初(第1回)にお話ししましたように、ヨハネは約束のメシヤとして来られたイエス・キリストの権威はそのようなものと考え、自分もイエス・キリストの権力にあずかって、人々の上に立って支配したいと考えたことがありました。そのことは、その時引用しましたマタイの福音書20章20節ー28節に記されています。冒頭の20節ー21節には、

そのとき、ゼベダイの子たちの母が、子どもたちといっしょにイエスのもとに来て、ひれ伏して、お願いがありますと言った。イエスが彼女に、「どんな願いですか」と言われると、彼女は言った。「私のこのふたりの息子が、あなたの御国で、ひとりはあなたの右に、ひとりは左にすわれるようにおことばを下さい。」

と記されています。


 この記事についてはすでにお話ししましたので、説明はいたしませんが、きょうは、これとは別の記事を見てみたいと思います。お話が進まなくて申し訳ありませんが、もう少しお付き合いください。
 ルカの福音書9章51節ー55節には、

さて、天に上げられる日が近づいて来たころ、イエスは、エルサレムに行こうとして御顔をまっすぐ向けられ、ご自分の前に使いを出された。彼らは行って、サマリヤ人の町に入り、イエスのために準備した。しかし、イエスは御顔をエルサレムに向けて進んでおられたので、サマリヤ人はイエスを受け入れなかった。弟子のヤコブとヨハネが、これを見て言った。「主よ。私たちが天から火を呼び下して、彼らを焼き滅ぼしましょうか。」しかし、イエスは振り向いて、彼らを戒められた。

と記されています。
 これはイエス・キリストが、

 天に上げられる日が近づいて来たころ

のことであると言われています。新改訳の「天に上げられる日」の「天に」は補足です。ここに用いられていることば(名詞・アナレームプシス)は基本的に「取り(引き)上げること」や「回復すること」を表しています。このことばは、新約聖書ではここだけに出てくるものですが、これの動詞の形が、同じルカが記した使徒の働き2章2節、11節、22節に出てきて、イエス・キリストが天に上げられることを表しています。それで、新改訳はルカの福音書9章51節で「天に上げられること」と訳していると思われます。けれども、聖書以外の文献の示すところでは、このことばは「死」、「死ぬこと」をも表します(BAGD、EDNT)。また、天に上げられる日」の「」」は複数です。それで、これはイエス・キリストが死なれることと、栄光を受けて死者の中からよみがえり、天に上られることを意味していると考えられます。
 イエス・キリストは私たちご自身の民の罪を贖ってくださり、私たちを死と滅びの中から救い出してくださるために、十字架にかかって死んでくださいました。そして、私たちを父なる神さまとの愛にある交わりのうちに生きるものとしてくださるために、栄光を受けて死者の中からよみがえってくださり、天に上られ、父なる神さまの右の座に着座されました。ルカの福音書9章51節では、この時、イエス・キリストは、その贖いの御業を成し遂げてくださるために、

 エルサレムに行こうとして御顔をまっすぐ向けられ、

と言われており、53節でも、

 御顔をエルサレムに向けて進んでおられた

と言われています。これは、イエス・キリストが固い決意をもって、エルサレムに行こうとしておられたことを意味しています。その理由に当たることとして、13章33節には、

だが、わたしは、きょうもあすも次の日も進んで行かなければなりません。なぜなら、預言者がエルサレム以外の所で死ぬことはありえないからです。

というイエス・キリストのみことばが記されています。
 9章53節では、イエス・キリストが固い決意をもってエルサレムに向かって進んでおられたために、サマリヤの人々はイエス・キリストを受け入れなかったと言われています。
 それに対して、ヤコブとヨハネが、

 主よ。私たちが天から火を呼び下して、彼らを焼き滅ぼしましょうか。

と言ったと記されています。これはもう少し直訳調に訳しますと、

 主よ。あなたは私たちに、火に向かって、天から下って、彼らを焼き滅ぼすようにと命じてほしいですか。

というようになります。
 ヤコブとヨハネは形としてはイエス・キリストにお伺いを立てていますが、もう、サマリヤの人々をさばいてしまっています。

主よ。あなたは私たちに、火に向かって、天から下って、彼らを焼き滅ぼすようにと命じてほしいですか。

という、ヤコブとヨハネのことばは、当然イエス・キリストも、自分たちと同じように、サマリヤの人々をおさばきになると思っていたことを示しています。
 これに対して、55節には、

 しかし、イエスは振り向いて、彼らを戒められた。

と記されています。この「戒められた」と訳されていることば(エピティマオー)は、「叱る」こと、「叱責する」ことや、「とがめる」ことなどを表します。ここには、イエス・キリストがどのように言われたか、具体的なことは記されていません。

 問題は、イエス・キリストがなぜヤコブとヨハネを「戒められた」のかということです。
 これについては、確かにイエス・キリストを受け入れない者たちはさばかれるけれども、それは今この時ではないからであるという見方があります(Bock, p. 971)。
 この見方には問題があります。確かに、この時は、さばきの時ではありませんでした。さばきが執行されるのは後の日のことです。コリント人への手紙第二・6章2節に、

神は言われます。
 「わたしは、恵みの時にあなたに答え、
 救いの日にあなたを助けた。」
確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。

と記されているとおりです。けれども、それがここでイエス・キリストがヤコブやヨハネを「戒められた」こと、叱責されたことの意味であるかどうかは別問題です。
 ここで、イエス・キリストがヤコブとヨハネを「戒められた」理由が、さばきの時の問題ではないと考えられる理由が二つあります。
 一つは、ヤコブとヨハネがイエス・キリストに言った、

主よ。私たちが天から火を呼び下して、彼らを焼き滅ぼしましょうか。

ということばから汲み取ることができることです。
 先ほどお話ししましたように、この時、ヤコブとヨハネはサマリヤの人々をさばいてしまっています。そして、直ちにさばきが執行されるべきであると考えています。それも、天から火が下って、彼らをたちどころに滅ぼしてしまうというほど激しいものです。ヤコブとヨハネは、サマリヤの人々はこのようなさばきに相当すると考えているのです。それは冷静な判断というより、激しい憤りとも言うべきものです。
 このようなヤコブとヨハネの激しい憤りの裏には、サマリヤ人たちへのさげすみがあると考えられます。というのは、サマリヤ人たちをさげすむことは、広くその当時のユダヤ人の間に見られたことです。ヨハネの福音書4章9節に、

 ユダヤ人はサマリヤ人とつきあいをしなかった

と記されているとおりです。また、イエス・キリストを非難したユダヤ人たちが、イエス・キリストに、

私たちが、あなたはサマリヤ人で、悪霊につかれていると言うのは当然ではありませんか。

と言ったことも、サマリヤ人へのさげすみがあってのことです。それで、この時のヤコブとヨハネのうちにもそのようなさげすみがあった可能性があります。
 そればかりではありません。ユダヤにもイエス・キリストを受け入れない人々は、律法学者やパリサイ人など、たくさんいました。けれども、そのユダヤ人に対して、ヤコブとヨハネがこのような激しいことを言ったという痕跡はありません。同じルカの福音書9章の5節には、イエス・キリストが十二弟子を、ユダヤ人たちへのあかしのためにお遣わしになったときに、

人々があなたがたを受け入れない場合は、その町を出て行くときに、彼らに対する証言として、足のちりを払い落としなさい。

と言われたことが記されています。この十二弟子の中には、ヤコブとヨハネもいました。その時、彼らが自分たちを受け入れない人々に対してしたことは、

その町を出て行くときに、彼らに対する証言として、足のちりを払い落とし

たことだけでしょう。天からの火によるさばきの執行などは思いもよらないことであったでしょう。
 このようなことから、この時の、ヤコブとヨハネには、サマリヤ人に対するさげすみの思いが潜んでおり、それがヤコブとヨハネの憤りを激しいものとしていたと考えられます。
 このようなサマリヤ人へのさげすみはどこから生まれてきているのでしょうか。もちろん、それは北王国イスラエルがアッシリヤによって滅ぼされたときに、アッシリヤの民族混交政策によって、サマリヤに、ほかのいくつかの民族が入植し、そこに残っていたイスラエル人と結婚し、サマリヤ人が誕生したことによっています。イスラエル人が純血でなくなっただけでなく、サマリヤでは、契約の神である主、ヤハウェとともに、そこに入植してきた民族が持ち込んだ神々も礼拝されていました。
 しかし、それが、ヤコブやヨハネがサマリヤ人をさげすんだ根本原因ではありません。というのは、そのような事実があるにもかかわらず、イエス・キリストはサマリヤ人たちをさげすまれることはなかったからです。ルカの福音書では10章30節ー35節に、「善きサマリヤ人」のことが記されています。また、17章12節ー19節には、「十人のツァラアトに冒された人」がイエス・キリストによってきよめられたことが記されています。そのうちイエス・キリストの許に帰ってきて感謝したのは、サマリヤ人だけであったことが記されています。その時、イエス・キリストはそのサマリヤ人がまことに神さまを讚えるために帰ってきたことを明らかにしておられます。
 さらに、ヨハネの福音書4章には、イエス・キリストがサマリヤのスカルという町で、人目をはばかって生活していた女性に親しく語りかけられて、13節ー14節に記されている,

この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。

という教えや、23節ー24節に記されている、

しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。

という、イエス・キリストの教えの中でも、特に深遠で大切な教えを語られたことが記されています。さらに、イエス・キリストがその女性のあかしを聞いた町の人々の願いに応えて、そこに2日留まって、人々を教えられたこと、そして、人々がイエス・キリストは「ほんとうに世の救い主だ」と信じるようになったことが記されています。「たった2日間か」と言われるかもしれませんが、その間に、イエス・キリストはサマリヤの人々の心を開いて、ご自身を信じるように導いてくださっています。
 このように、イエス・キリストには、サマリヤ人に対するさげすみはありませんでした。ヤコブとヨハネにサマリヤ人をさげすむ思いがあったのは、彼らが民族を自分たちの尺度で測った序列によって理解していたからです。その序列に従えば、サマリヤ人はさげすむべきものとして位置づけられていました。

 これにはもう一つのことがかかわっています。
 この個所、ルカの福音書9章51節ー55節のすぐ前の、46節ー50節には、

さて、弟子たちの間に、自分たちの中で、だれが一番偉いかという議論が持ち上がった。しかしイエスは、彼らの心の中の考えを知っておられて、ひとりの子どもの手を取り、自分のそばに立たせ、彼らに言われた。「だれでも、このような子どもを、わたしの名のゆえに受け入れる者は、わたしを受け入れる者です。また、わたしを受け入れる者は、わたしを遣わされた方を受け入れる者です。あなたがたすべての中で一番小さい者が一番偉いのです。」ヨハネが答えて言った。「先生。私たちは、先生の名を唱えて悪霊を追い出している者を見ましたが、やめさせました。私たちの仲間ではないので、やめさせたのです。」しかしイエスは、彼に言われた。「やめさせることはありません。あなたがたに反対しない者は、あなたがたの味方です。」

と記されています。
 ここには、二つのことが記されています。
 両方取り上げたいところですが、時間の関係で、注目したいのは、前の方の46節ー48節です。そこには、先ほど触れましたマタイの福音書20章20節ー28節に記されている出来事と同じようなことが記されています。46節では、

さて、弟子たちの間に、自分たちの中で、だれが一番偉いかという議論が持ち上がった。

と言われています。このような「議論が持ち上がった」のは、弟子たちの中に、メシヤの御国の序列を考える発想があって、その序列の最上位にメシヤであるイエス・キリストが立っているという発想です。そして、それでは、その序列においてメシヤの次にくるのは誰かという論争があったのです。このような発想は、より広い視野から見ますと、この世のすべての国々をその権力と栄華によって序列を付けるなら、メシヤの御国がそのいちばん上にあるという発想を背景にもっています。その上で、弟子たちは、この世界の国々の世界のいちばん上にあるメシヤの御国の中の序列を考えているわけです。
 これに対して、イエス・キリストは「ひとりの子ども」(「子ども」の単数形)をご自身のそばに立たせて、

だれでも、このような子どもを、わたしの名のゆえに受け入れる者は、わたしを受け入れる者です。また、わたしを受け入れる者は、わたしを遣わされた方を受け入れる者です。あなたがたすべての中で一番小さい者が一番偉いのです。

とお教えになりました。
 イエス・キリストは、その「子ども」と一つになっておられます。そして、父なる神さまもイエス・キリストにあって、その「子ども」と一つになっておられることを示しておられます。
 ここで、

だれでも、このような子どもを、わたしの名のゆえに受け入れる者は、わたしを受け入れる者です。

と言われているときの「わたしの名のゆえに」ということは、その子どもがイエス・キリストに属するものであるので受け入れるというようにも、自分がイエス・キリストに属するものであるので、その子どもを受け入れるというにも理解することができます。このどちらを取るべきかの判断は難しいのですが、おそらく、ここでは、イエス・キリストがその子どもと一つになっておられますから、その子どもがイエス・キリストに属していることを意味していると考えられます。これと同じようなこととしては、マタイの福音書25章40節に、

まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。

というイエス・キリストの教えが記されています。
 その当時は、「子ども」の社会的な地位はとても低いものでした。社会的な序列の下の方にあるのです。イエス・キリストの教えでは、このことが踏まえられています。そして、メシヤの御国の王であられるイエス・キリストが、そのような「子ども」と一つであられることをお示しになることによって、さらには、父なる神さまが、イエス・キリストにあって、そのような「子ども」と一つであられることをお示しになることによって、メシヤの御国においては、弟子たちが当然のこととしている序列が根底から崩れてしまうことを教えておられるのです。あえてこの世の尺度で測られた序列をメシヤの御国に当てはめるとしたら、メシヤの御国の王であられるイエス・キリストは、その最も低いところにおられることになります。それも、不承不承ではなく、ご自身のご意志によってそこにおられ、同じようにそこにいるとされる者たちと一つになってくださっているのです。
 弟子たちはこのことを悟ることができませんでした。その原因は43節ー45節に、

イエスのなさったすべてのことに、人々がみな驚いていると、イエスは弟子たちにこう言われた。「このことばを、しっかりと耳に入れておきなさい。人の子は、いまに人々の手に渡されます。」しかし、弟子たちは、このみことばが理解できなかった。このみことばの意味は、わからないように、彼らから隠されていたのである。また彼らは、このみことばについてイエスに尋ねるのを恐れた。

と記されていることにあります。弟子たちはイエス・キリストの十字架の意味が分からなかったのです。そのために、イエス・キリストが治めておられるメシヤの御国をも、この世界の国々と同列に置いて比較し、序列をつけて、そのいちばん上にあると考えてしまいました。
 このことを考えますと、サマリヤでの出来事を記している51節ー55節が、

 さて、天に上げられる日が近づいて来たころ

という、イエス・キリストが十字架におかかりになる日と、栄光を受けられる日のことを記すことばで始まっていることに意味があることが分かります。
 ヤコブとヨハネはイエス・キリストの十字架の死の意味を悟ることができなかったために、サマリヤ人をさげすんでいました。そのために、サマリヤ人を受け入れ、サマリヤ人と一つになろうとしておられるイエス・キリストの御思いをまったく汲み取ることができませんでした。イエス・キリストはそのことをご存知であられて、ヤコブとヨハネを戒められたのだと考えられます。
 もちろん、今お話ししました弟子たちの現実を考えますと、それはただヤコブとヨハネだけの問題ではなかったはずです。この場合も、ヤコブとヨハネがほかの弟子たちを出し抜くようにして、

 主よ。私たちが天から火を呼び下して、彼らを焼き滅ぼしましょうか。

と言ったのだと考えられます。
 このような苦い経験を重ねたヨハネは、後に、御霊のお働きによって、イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げられた贖いの御業にあるかって、新しく生まれました。そして、メシヤの御国の王であられるイエス・キリストの権威と栄光がどのようなものであるかを悟るようになりました。そのヨハネが、イエス・キリストのことを、

 地上の王たちの支配者

と呼ぶとき、それは、イエス・キリストがこの世の王たちの序列のいちばん上にあるという意味ではないことが了解されます。


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