ヨハネの黙示録1章4節ー5節前半には、
ヨハネから、アジヤにある七つの教会へ。今いまし、昔いまし、後に来られる方から、また、その御座の前におられる七つの御霊から、また、忠実な証人、死者の中から最初によみがえられた方、地上の王たちの支配者であるイエス・キリストから、恵みと平安が、あなたがたにあるように。
という、黙示録の著者ヨハネが「アジヤにある七つの教会」に宛てた挨拶が記されています。
ヨハネはこの「アジヤにある七つの教会」の牧会者でした。この時、ヨハネは1章9節に記されていることばで言いますと、「神のことばとイエスのあかしとのゆえに」ローマ帝国からの迫害を受け、犯罪人として「パトモスという島」に流刑となっていました。ローマ帝国による迫害はヨハネだけでなく、ヨハネが牧会している「アジヤにある七つの教会」にまで及んでいました。
1章10節ー16節に記されていますように、パトモス島にいたヨハネに、栄光のキリストがご自身を現してくださり、ヨハネが黙示録に記していることを啓示してくださいました。そのとき栄光のキリストが啓示してくださったことは、基本的に、ヨハネが牧会していた「アジヤにある七つの教会」に対して啓示されたものです。同時に、「アジヤにある七つの教会」の「七」は完全数で、終わりの日に至るまで地上に存在する、すべての教会を表しています。
ヨハネは栄光のキリストが啓示してくださったことを記すに当たって、自分も「アジヤにある七つの教会」に挨拶を記しています。そして、その挨拶の中で、御父、御子、御霊からの「恵みと平安」が「アジヤにある七つの教会」にあるようにと祈っています。その際に、父なる神さまのことを、
今いまし、昔いまし、後に来られる方
と呼んでおり、御霊のことを、
御座の前におられる七つの御霊
と呼んでいます。そして、イエス・キリストのことを、
忠実な証人、死者の中から最初によみがえられた方、地上の王たちの支配者であるイエス・キリスト
と呼んでいます。
これまで、父なる神さまに対する、
今いまし、昔いまし、後に来られる方
という呼び方と、御霊に対する、
御座の前におられる七つの御霊
という呼び方につきましてお話ししました。そして、
忠実な証人、死者の中から最初によみがえられた方、地上の王たちの支配者であるイエス・キリスト
というイエス・キリストに対する呼び方のうちの「忠実な証人」という呼び方と「死者の中から最初によみがえられた方」という呼び方についてお話ししました。今は、
地上の王たちの支配者
という呼び方についてお話ししています。
これまで2回にわたって、この、
地上の王たちの支配者
という呼び方は、この
地上の王たちの支配者
ということばから、私たちが普通にイメージする、イエス・キリストの権威が「地上の王たち」の権威の最上位にあるということを意味しているのではない、ということをお話ししてきました。この世界の歴史の中にさまざまな国家が起こっては消えていきました。その中には強大な権力を誇った帝国がいくつもありました。しかし、それらの帝国の王がが誰であっても、またその王がどれほど強大な権力をもっていたとしても、イエス・キリストの権力はさらにその上にある、というようなことではないのです。
どんなに強大な権力をもつ王がいたとしても、イエス・キリストはそれよりはるかに大きな権力をもっているというような考え方は、イエス・キリストの権威を、「地上の王たち」の権威、権力と同列に置いて比べるものです。そこでは、イエス・キリストの権威は「地上の王たち」の権威、権力と同質のものであるということになってしまいます。違うのはその強大さであって、イエス・キリストの権威がいちばん強大なものであるということになってしまいます。
しかし、聖書のみことばは、イエス・キリストの権威は、「地上の王たち」の権威、権力とは本質的に違っているということを示しています。イエス・キリストの権威と「地上の王たち」の権威、権力は、量的に違っているのではなく、質的に違っているのです。そのことは、この
地上の王たちの支配者
という呼び方についての最初のお話において取り上げました、マタイの福音書20章25節ー28節に記されている、
あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者たちは彼らを支配し、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。あなたがたの間では、そうではありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、あなたがたのしもべになりなさい。人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。
というイエス・キリストの教えに示されています。
「異邦人の支配者たち」、「偉い人たち」は人々の上に立って支配し、権力を振るいます。それが「地上の王たち」の権威、権力の特質です。けれどもイエス・キリストの権威は、私たちご自身の民のために仕えてくださり、私たちの罪を贖って、私たちを死と滅びから救い出してくださるために、ご自身のいのちを捨ててくださったことに現れている権威です。
ヨハネの福音書10章11節には、
わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。
というイエス・キリストの教えが記されています。その少し後の、18節には、
だれも、わたしからいのちを取った者はいません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、それをもう一度得る権威があります。わたしはこの命令をわたしの父から受けたのです。
というイエス・キリストの教えが記されています。
イエス・キリストは、
だれも、わたしからいのちを取った者はいません。
と言われました。この新改訳の訳は「わたしからいのちを取った」というように、過去形(不定過去時制)になっています。直訳調に訳せば、
だれも、わたしからいのちを取りませんでした。
となります。この時、イエス・キリストはまだ十字架におかかりになっていないのに、どうして過去のこととして語られたのかという問題があります。
実は、これには写本の上から、別の読み方があって、それによりますと、現在時制で、
だれも、わたしからいのちを取りません。
となります。写本や古代訳、著作家たちの引用などを「外的証拠」と呼びますが、「外的証拠」は、この現在時制の読み方を支持しています。けれども、これを不定過去時制とする読み方は不自然なものですので、ごく早い時期に、現在時制による読み方に変えられてしまった可能性もあります。それで、このどちらの読み方を取るべきか学者たちの意見は分かれています。おそらくこれは、新改訳のように、不自然と思える不定過去時制による読み方の方を取るべきだと思いますが、その場合は、ここで言われていることの確かさを伝えるための不定過去時制であると考えられます。つまり、すでに起こってしまったことは変えることができません。その意味で、それは確かなことです。それで、将来のことでも、それが確かであること伝えるために、過去のことのように表すという手法があるのです。いわゆる「預言的な過去」はこの手法によるものです。将来のことを預言しているのに、それが確かなことであることを伝えるために過去形(ヘブル語であれば完了時制、ギリシャ語であれば不定過去時制)で表わすわけです。
いずれにしましても、ここでイエス・キリストは、ご自身の十字架の死について重大なことを教えておられます。目に見える形としては、イエス・キリストはユダヤ人の指導者たちによってローマに引き渡され、ローマの兵士たちによって十字架につけられ、殺されました。イエス・キリストは、そのすべてはご自身のご意志によることであったと教えておられます。それにかかわる人々の思いや思惑をイエス・キリストが用いて、ご自身が十字架におかかりになるようにされたということです。
イエス・キリストは望んでおられなかったのに、ことの成り行きによって十字架につけられてしまったのではありません。イエス・キリストがご自身の民の罪を贖い、ご自身の民を死と滅びから救ってくださるために、苦しみを受けて死なれることは、すでに、旧約聖書において預言されていたことです。
わたしはこの命令をわたしの父から受けたのです。
と言われていますように、イエス・キリストは父なる神さまのみこころにしたがって、すべてのことを働かせ、ご自身がご自身のご意志で、十字架におかかりになったのです。それは、私たちに代わって私たちの罪に対する父なる神さまの聖なる御怒りによるさばきを受けてくださることによって、私たちの罪を贖ってくださり、私たちを私たちの罪の結果である死と滅びから救い出してくださるためでした。そればかりでなく、イエス・キリストは、その十字架の死に至るまで父なる神さまのみこころに従いとおされたことに対する報いとして、栄光を受けて死者の中からよみがえられました。それは、私たちをご自身の復活にあずからせてくださり、私たちを父なる神さまとの愛の交わりのうちに生きるものとしてくださるためのことでした。
このようにイエス・キリストは、父なる神さまのみこころにしたがって、すべてのことを働かせて、私たちのためにご自身のいのちをお捨てになり、私たちのために栄光あるいのち、すなわち永遠のいのちを獲得してくださる権威があると教えられ、実際に、私たちのための贖いの御業を成し遂げてくださいました。
イエス・キリストはご自身を肥え太らせるために権威を発揮されませんでした。ローマ人への手紙15章3節には、
キリストでさえ、ご自身を喜ばせることはなさらなかったのです。むしろ、「あなたをそしる人々のそしりは、わたしの上にふりかかった」と書いてあるとおりです。
と記されています。ひたすら、父なる神さまのみこころにしたがって、私たちご自身の民を永遠のいのちに生きるようにしてくださるために、権威を発揮され、そのためにいっさいのことを働かせて、ご自身が十字架におかかりになりました。
そのような生き方は人々の賞賛を得るものではありませんでした。ヨハネの福音書10章18節に記されているイエス・キリストの教えを聞いた人々のことが、続く19節ー21節に記されています。そこには、
このみことばを聞いて、ユダヤ人たちの間にまた分裂が起こった。彼らのうちの多くの者が言った。「あれは悪霊につかれて気が狂っている。どうしてあなたがたは、あの人の言うことに耳を貸すのか。」ほかの者は言った。「これは悪霊につかれた人のことばではない。悪霊がどうして盲人の目をあけることができようか。」
と記されています。多くの人はその教えのために、
あれは悪霊につかれて気が狂っている。
と言って、イエス・キリストをあざけり、
どうしてあなたがたは、あの人の言うことに耳を貸すのか。
と言って、その教えは聞くに価しないとしました。ほかの人々は、イエス・キリストの味方をしているように見えます。しかし、その人々も、イエス・キリストがなさった奇跡のことを考えていて、必ずしも、そこで語られたイエス・キリストの教えを理解して、それに心を動かされているわけではありません。
実際、イエス・キリストは人々から捨てられ、あざけられ、十字架につけられました。地上で、そのことのために賞賛されたことはありません。
これに対して、人々の上に立って人々を支配していた「地の王たち」は、その権力を振るうことにおいて、人々の賞賛を得ました。そのために搾取され、踏みつけられた人々が多くいました。そのようにして振るった権力が大きければ大きいほど、王として讚えられました。
これに対しては、一つの疑問がわいてきます。でも、イエス・キリストが人々から捨てられたのは、地上における生涯においてのことであって、イエス・キリストは栄光を受けて死者の中からよみがえられ、父なる神さまの右の座に着座されたのだから、今は、あらゆる権力の上にあるのではないかということです。
このことに関しては注意深く考えなければなりません。
先ほど引用しました、ヨハネの福音書10章18節に記されていましたイエス・キリストの教えは、イエス・キリストが、私たちご自身の民の罪を贖い、私たちを死と滅びから救い出してくださるために十字架におかかりになって、ご自身のいのちをお捨てになる権威をもっておられることを示していました。それがイエス・キリストの権威の特質でした。イエス・キリストの権威はそのような権威です。
それでは、栄光を受けて死者の中からよみがえられ、天に上って父なる神さまの右の座に着座されたイエス・キリスト、すなわち、栄光のキリストの権威は、どのような権威なのでしょうか。その、栄光のキリストの権威は、ご自身が、地上の生涯において、
だれも、わたしからいのちを取った者はいません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、それをもう一度得る権威があります。わたしはこの命令をわたしの父から受けたのです。
とあかしされた権威と、本質的には変わっていません。そのことを示すみことばをいくつか見てみましょう。
ローマ人への手紙8章34節には、
罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。
と記されています。
同じように、ヘブル人への手紙2章17節ー18節には、
そういうわけで、神のことについて、あわれみ深い、忠実な大祭司となるため、主はすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。それは民の罪のために、なだめがなされるためなのです。主は、ご自身が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることがおできになるのです。
と記されていますし、4章14節ー16節には、
さて、私たちのためには、もろもろの天を通られた偉大な大祭司である神の子イエスがおられるのですから、私たちの信仰の告白を堅く保とうではありませんか。私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。
と記されています。
イエス・キリストが地上の生涯においてさまざまな試練にあわれて苦しまれたことが、栄光をお受けになって、天に上られ、父なる神さまの右の座に着座されたことによって、きれいさっぱりと忘れ去られてしまったのではありません。むしろ、イエス・キリストはその苦しみの経験を生かしてくださって、私たちのための「あわれみ深い、忠実な大祭司」となってくださったのです。
このように、イエス・キリストが父なる神さまの右の座に着座されたのは、私たちの上に立って私たちを支配するためではなく、私たちのために「あわれみ深い、忠実な大祭司」となってくださり、私たちのために執り成してくださり、私たちを父なる神さまの御臨在の御許へと導き入れてくださり、私たちを父なる神さまとの愛にあるいのちの交わりのうちに生きるものとしてくださるためでした。ヘブル人への手紙10章19節ー22節には、
こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所に入ることができるのです。イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい生ける道を設けてくださったのです。また、私たちには、神の家をつかさどる、この偉大な祭司があります。そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。
と記されています。
それでは、イエス・キリストはこのことのために、地上で「地上の王たち」が受けているような賞賛を受けているでしょうか。決してそのようなことはありません。
パウロは栄光のキリストから使徒として召される前、イエス・キリストを信じる人々を迫害していました。そのことを記している使徒の働き9章1節ー5節には、
さてサウロは、なおも主の弟子たちに対する脅かしと殺害の意に燃えて、大祭司のところに行き、ダマスコの諸会堂あての手紙を書いてくれるよう頼んだ。それは、この道の者であれば男でも女でも、見つけ次第縛り上げてエルサレムに引いて来るためであった。ところが、道を進んで行って、ダマスコの近くまで来たとき、突然、天からの光が彼を巡り照らした。彼は地に倒れて、「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか」という声を聞いた。彼が、「主よ。あなたはどなたですか」と言うと、お答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。」
と記されています。
ここに「サウロ」という名前が出てきますが、これはパウロのヘブル名です。「パウロ」は、ローマ名です。ローマ名は、たとえば、ガイウス・ユリウス・カエサルというように、三つの名(あるいは四つの名)がありますが、「パウロ」という名は第一名としては用いられていなくて、おそらく、第三名ではないかと考えられています。
いずれにしましても、この時のパウロはイエス・キリストを信じている人々を、迫害し、殺害しようとしていました。そのパウロに対して、栄光のキリストは、
サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか
と言われました。
サウロ、サウロ。
というように、名前を2度呼ぶことは、主の呼びかけに典型的なことです。実際、パウロはそれが主の呼びかけであることを悟って、
主よ。あなたはどなたですか。
と問いかけています。これに対して、栄光のキリストは、
わたしは、あなたが迫害しているイエスである。
とお答えになりました。栄光のキリストはご自身の民と一つになられて迫害を受けておられます。栄光のキリストはその権威を働かせて、私たちご自身の民と一つとなってくださっているのです。そして、私たちの痛みや苦しみをご自身のことととして知ってくださっているのです。それは、私たち人間の同情、同感をはるかに越えたことです。
ヨハネの福音書15章18節には、
もし世があなたがたを憎むなら、世はあなたがたよりもわたしを先に憎んだことを知っておきなさい。
というイエス・キリストが弟子たちに語られた教えが記されており、20節にも、
しもべはその主人にまさるものではない、とわたしがあなたがたに言ったことばを覚えておきなさい。もし人々がわたしを迫害したなら、あなたがたをも迫害します。もし彼らがわたしのことばを守ったなら、あなたがたのことばをも守ります。
という教えが記されています。この教えにおいても弟子たちが迫害を受けるとき、イエス・キリストご自身が弟子たちと一つとなられて迫害を受けられることが示されています。そのことは、イエス・キリストが栄光をお受けになって、父なる神さまの右の座に着座された後も変わっていません。それは今も変わってはいません。
イエス・キリストは今も、地上にあるご自身の民と一つとなられて、その辱めをご自身のこととして負っておられ、その痛みや苦しみをご自身のこととして負ってくださっておられます。イエス・キリストは、決して、「地上の王たち」が受けるような賞賛を受けてはおられません。
それでは、黙示録において、栄光のキリストがどのようにご自身を啓示しておられるかを見てみましょう。すでに何回か引用しましたが、5章6節には、
さらに私は、御座――そこには、四つの生き物がいる――と、長老たちとの間に、ほふられたと見える小羊が立っているのを見た。これに七つの角と七つの目があった。その目は、全世界に遣わされた神の七つの御霊である。
と記されています。
これは栄光のキリストがヨハネに啓示してくださったことです。栄光のキリストはご自身のことを「ほふられたと見える小羊」として啓示しておられます。それは、イエス・キリストがご自身の民の罪の贖いのために十字架におかかりになって死んでくださったことを映し出すものです。「ほふられたと見える小羊」こそが、栄光のキリストのアイデンティティでありました。
さらに、7節ー14節には、
小羊は近づいて、御座にすわる方の右の手から、巻き物を受け取った。彼が巻き物を受け取ったとき、四つの生き物と二十四人の長老は、おのおの、立琴と、香のいっぱい入った金の鉢とを持って、小羊の前にひれ伏した。この香は聖徒たちの祈りである。彼らは、新しい歌を歌って言った。
「あなたは、巻き物を受け取って、その封印を解くのにふさわしい方です。あなたは、ほふられて、その血により、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から、神のために人々を贖い、私たちの神のために、この人々を王国とし、祭司とされました。彼らは地上を治めるのです。」
また私は見た。私は、御座と生き物と長老たちとの回りに、多くの御使いたちの声を聞いた。その数は万の幾万倍、千の幾千倍であった。彼らは大声で言った。
「ほふられた小羊は、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美を受けるにふさわしい方です。」
また私は、天と地と、地の下と、海の上のあらゆる造られたもの、およびその中にある生き物がこう言うのを聞いた。
「御座にすわる方と、小羊とに、賛美と誉れと栄光と力が永遠にあるように。」
また、四つの生き物はアーメンと言い、長老たちはひれ伏して拝んだ。
と記されています。
天においては栄光のキリストが讚えられています。しかもそれは、「ほふられた小羊」として讚えられているのです。
あなたは、ほふられて、その血により、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から、神のために人々を贖い、私たちの神のために、この人々を王国とし、祭司とされました。
という讃美のことばは、栄光のキリストの権威の栄光がどのようなものであるかのあかしです。
ここで告白され、讚えられている、栄光のキリストの権威と栄光は、ヨハネの福音書10章11節に記されている、
わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。
という教えや、18節に記されている、
だれも、わたしからいのちを取った者はいません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、それをもう一度得る権威があります。わたしはこの命令をわたしの父から受けたのです。
という教えに示されていた、イエス・キリストの権威と栄光と本質的に同じ権威であり栄光です。
黙示録1章5節に記されているヨハネの挨拶に出てくる、
地上の王たちの支配者
という呼び方は、栄光のキリストの権威と栄光を表す呼び名です。けれども、それは「地上の王たち」が人々の上に立って人々を支配し、自らの野望の実現のために人々を搾取したことに現れてきた権威や栄光とは、本質的に違っています。
このように、栄光のキリストの権威と栄光が「ほふられた小羊」としての栄光と権威であれば、この方が、その栄光と権威において本質的に違っている「地上の王たち」の支配者であられるということは、どういうことでしょうか。このことについては、改めてお話しします。
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