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説教日:2012年7月8日 |
先主日には、この、 地上の王たちの支配者 という呼び方は、このことばから私たちが普通に感じる印象とは異なった意味合いがあるということをお話ししました。私たちがこのことばから感じる印象は、イエス・キリストが「地上の王たち」の上にあって、「地上の王たち」を支配しているというものです。この考え方はおそらく次のようなものでしょう。この世界の歴史の中では、さまざまな国家が興っては消えていきました。それには、エジプト、アッシリヤ、バビロニヤ、ペルシャ、ギリシャ、ローマなどの古代オリエントや地中海世界の帝国ばかりでなく、ユーラシア大陸の東側の中国やモンゴールなどの帝国、南北アメリカ大陸の帝国や、アフリカの帝国、さらには、中世や近世のさまざまな専制君主国家、近代の帝国主義的な国家や現代のさまざまな国家に至るまで、すべての国家が含まれます。イエス・キリストはこれらすべての国々を治めている主権者たちの上にある「支配者」であられるということになります。これらの中で、史上最強の帝国がどれであったとしても、その王がどれだけの権勢を誇っていたとしても、イエス・キリストはそれ以上の権勢をもって支配しておられるということになります。それを要約しますと、この世界の歴史の中で興ってきたあらゆる国家の王たちを、その権力の強大さにしたがって序列をつけるとすると、イエス・キリストがその最上位にくるということになります。そして、イエス・キリストはそれらすべての権力者たちを屈服させ、おさばきになるということになります。 先主日には、イエス・キリストの権威はそのような権威ではないということをお話ししました。 ところが、黙示録の中には、イエス・キリストの権威はそのように、この世界のすべての権力者のいちばん上にある権威であるということを示しているのではないかと思われる記述があります。 たとえば、6章12節ー17節には、 私は見た。小羊が第六の封印を解いたとき、大きな地震が起こった。そして、太陽は毛の荒布のように黒くなり、月の全面が血のようになった。そして天の星が地上に落ちた。それは、いちじくが、大風に揺られて、青い実を振り落とすようであった。天は、巻き物が巻かれるように消えてなくなり、すべての山や島がその場所から移された。地上の王、高官、千人隊長、金持ち、勇者、あらゆる奴隷と自由人が、ほら穴と山の岩間に隠れ、山や岩に向かってこう言った。「私たちの上に倒れかかって、御座にある方の御顔と小羊の怒りとから、私たちをかくまってくれ。御怒りの大いなる日が来たのだ。だれがそれに耐えられよう。」 と記されています。 15節に、 地上の王、高官、千人隊長、金持ち、勇者、あらゆる奴隷と自由人 が出てきます。これには、七つの区分によって分類された人々があげられています。最初の五つの区分である「地上の王、高官、千人隊長、金持ち、勇者」は、それぞれ複数形で、権力の大きな順に記されています。最後の二つの区分である「あらゆる奴隷と自由人」は単数で表されていて、「あらゆる」ということばでまとめられています。この場合の「七」も黙示録によく見られる完全数で、これらによって、地に住むすべての人々が示されています。この最初に出てくる「地上の王」(複数)は、1章5節でイエス・キリストのことが、 地上の王たち と呼ばれているのと同じことばです。 この6章12節ー17節では、まず、12節ー14節において、 大きな地震が起こった。そして、太陽は毛の荒布のように黒くなり、月の全面が血のようになった。そして天の星が地上に落ちた。それは、いちじくが、大風に揺られて、青い実を振り落とすようであった。天は、巻き物が巻かれるように消えてなくなり、すべての山や島がその場所から移された。 というように、宇宙的な規模における大変動、天変地異が記されています。 ここに描かれていることには旧約聖書の背景があります。今は引用する時間がありませんので、後ほど、イザヤ書2章19節、21節、13章10節ー13節、24章4節、18節ー20節、34章4節、51章6節、エレミヤ書4章23節ー24節、エゼキエル書32章6節ー8節、ヨエル書2章10節、30節ー32節、3章15節ー16節、アモス書8章8節ー10節、ナホム書1章5節ー6節、ハガイ書2章6節などを見てください。また、これらのみことばを背景として、イエス・キリストは終わりの日についての教えを語られました。マタイの福音書24章29節ー30節には、 だが、これらの日の苦難に続いてすぐに、太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は天から落ち、天の万象は揺り動かされます。そのとき、人の子のしるしが天に現れます。すると、地上のあらゆる種族は、悲しみながら、人の子が大能と輝かしい栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見るのです。 と記されています。このイエス・キリストの教えからも分かりますように、これらの宇宙的規模の変動、天変地異は、終わりの日の栄光のキリストの再臨に伴うしるしです。 黙示録6章では続いて15節ー17節に、 地上の王、高官、千人隊長、金持ち、勇者、あらゆる奴隷と自由人が、ほら穴と山の岩間に隠れ、山や岩に向かってこう言った。「私たちの上に倒れかかって、御座にある方の御顔と小羊の怒りとから、私たちをかくまってくれ。御怒りの大いなる日が来たのだ。だれがそれに耐えられよう。」 と記されています。このことの中に、先ほどの「地上の王たち」が出てきます。彼らは終わりの日に再臨される栄光のキリストの御前でのさばきに服することになります。その意味で、この「地上の王たち」は終わりの日において、この世界の国々を治めている王たちです。 この「地上の王たち」のことをもう少し見てみましょう。この「地上の王たち」のことは、17章12節ー14節に、 あなたが見た十本の角は、十人の王たちで、彼らは、まだ国を受けてはいませんが、獣とともに、一時だけ王の権威を受けます。この者どもは心を一つにしており、自分たちの力と権威とをその獣に与えます。この者どもは小羊と戦いますが、小羊は彼らに打ち勝ちます。なぜならば、小羊は主の主、王の王だからです。また彼とともにいる者たちは、召された者、選ばれた者、忠実な者だからです。 と記されています。 今お話ししていることと関連していることしか取り上げることはできませんが、ここに記されている「十本の角」は、以前、1章1節の「すぐに起こるはずの事」についてお話ししたときに取り上げました、ダニエル書7章7節ー8節に出てきて、19節ー27節において説明されている「第四の獣」を背景としています。この「第四の獣」の頭に「十本の角」がありました。 その時お話ししましたが、ダニエル書7章に出てくる四つの獣は、ダニエルが仕えていたバビロンとそれに続く三つの帝国をモデルとしながら、それら四つの帝国によって、この世の国々の歴史の全体を代表的に表わしていました。そして、この世の国々がその凶暴さを増していき、ついには「第四の獣」においてその頂点に達するということになっていました。これは、契約の神である主の御目から見ますと、主の御前に、その腐敗の度合いを深めていって、ついには「第四の獣」においてその頂点に達するということです。この世の国々の歴史について、人の目には、その歴史は進歩すると写るのですが、契約の神である主の御前には、人の罪による腐敗の度合いが深まっていくことが示されています。 この「第四の獣」と関連して、黙示録13章1節には、 また私は見た。海から一匹の獣が上って来た。これには十本の角と七つの頭とがあった。その角には十の冠があり、その頭には神をけがす名があった。 と記されています。 これはダニエル書7章の「第四の獣」を受けています。しかし、この海から上ってきた獣のことをさらに記している2節前半には、 私の見たその獣は、ひょうに似ており、足は熊の足のようで、口は獅子の口のようであった。 と記されていて、ダニエル書7章に出てくる、ほかの三つの獣の特徴をも兼ね備えていることが示されています。ダニエル書7章では第一の獣が「獅子」と関連づけられ、第二の獣が「熊」と関連づけられ、第三の獣が「ひょう」と関連づけられていました。黙示録13章に出てくる海から上ってきた獣は、それらすべての特徴を合わせ持つ、さらに凶暴な獣です。 そして、黙示録13章2節後半には、 竜はこの獣に、自分の力と位と大きな権威とを与えた。 と記されています。この「竜」は12章に出てくる「竜」で、天における戦いに敗れて、地上に投げ落とされたサタンのことです。12章の終わりの17節ー18節には、 すると、竜は女に対して激しく怒り、女の子孫の残りの者、すなわち、神の戒めを守り、イエスのあかしを保っている者たちと戦おうとして出て行った。そして、彼は海べの砂の上に立った。 と記されています。このときから、「竜」の怒りの矛先は、 女の子孫の残りの者、すなわち、神の戒めを守り、イエスのあかしを保っている者たち に向けられていることが明らかにされています。その上で、これに続く13章1節に、 また私は見た。海から一匹の獣が上って来た。これには十本の角と七つの頭とがあった。 と記されているわけです。海から上ってきた獣はこのサタンから権威を授けられ、サタンと一つとなり、サタンのために働くようになります。そのことが、初代教会においては、ローマ帝国におけるクリスチャンたちへの迫害となって現れてきました。ヨハネはその迫害の中で、パトモス島に流刑になっていました。 黙示録17章に戻りますが、12節ー14節には、 あなたが見た十本の角は、十人の王たちで、彼らは、まだ国を受けてはいませんが、獣とともに、一時だけ王の権威を受けます。この者どもは心を一つにしており、自分たちの力と権威とをその獣に与えます。この者どもは小羊と戦いますが、小羊は彼らに打ち勝ちます。なぜならば、小羊は主の主、王の王だからです。また彼とともにいる者たちは、召された者、選ばれた者、忠実な者だからです。 と記されていました。 「十人の王たち」は、ローマ帝国の統治の形態を背景として記されていると考えられています。具体的にどれかということでは意見が分かれていますが、おそらく、これは、ローマ帝国によって占領された地方において権威を委ねられて、それぞれの地方を治めていた王たちのことだと考えられます。 そのことは、黙示録が基本的にはローマ帝国からの厳しい迫害にさらされている「アジヤにある七つの教会」に対して示されたことを考え合わせますと、意味のあることであると思われます。この王たちはローマ帝国の権威を帯びて主の契約の民を迫害していました。12節では、彼らのことが、 獣とともに、一時だけ王の権威を受けます。 と言われています。これによって、彼らの権威は「一時だけ」のものであることが明らかにされています。ローマ帝国からの厳しい迫害にさらされている「アジヤにある七つの教会」の信徒たちは、このことを心に刻みながら、その迫害の中を主とともに歩むことができました。 この「十人の王たち」はローマ帝国の統治の形態を背景として記されていると考えられますが、同時に、この「十」は完全数で、終わりの日に反キリストと一つになって契約の神である主に逆らって立つようになるこの世の王たちをも代表的に表わしています。 ここで、「十人の王たち」は 獣とともに、一時だけ王の権威を受けます。 と言われており、続いて13節で、 この者どもは心を一つにしており、自分たちの力と権威とをその獣に与えます。 と言われています。この二つのことは、少し後の17節で、 それは、神が、みことばの成就するときまで、神のみこころを行う思いを彼らの心に起こさせ、彼らが心を一つにして、その支配権を獣に与えるようにされたからです。 と説明されています。「十人の王たち」に、 獣とともに、一時だけ王の権威を お与えになったのは神さまでした。そして、 神が、みことばの成就するときまで、神のみこころを行う思いを彼らの心に起こさせ、 と言われていますように、彼らが獣と心を合わせて、小羊と戦うようになることも、神さまのみこころによることでした。神さまがすべてのことを、ご自身のみこころにしたがって導いておられるのです。ローマ帝国からの厳しい迫害にさらされている「アジヤにある七つの教会」の信徒たちは、さらにこのことをも心に刻みながら、その迫害の中を、主とともに歩むことができました。それはまた、終わりの時代を生きる私たち神の子どもたちにも、そのまま当てはまることです。 先ほどの引用の最後の14節には、 この者どもは小羊と戦いますが、小羊は彼らに打ち勝ちます。なぜならば、小羊は主の主、王の王だからです。また彼とともにいる者たちは、召された者、選ばれた者、忠実な者だからです。 と記されています。 ここでは「十人の王たち」が獣と心を合わせて、小羊と戦うようになることが記されています。けれども、 小羊は彼らに打ち勝ちます。 と記されています。これによって、「小羊」の最終的な勝利が明らかにされています。そして、その勝利の理由の一つとして、 なぜならば、小羊は主の主、王の王だからです。 と言われています。この「主の主、王の王」という称号、呼び方は1章5節に出てくる、 地上の王たちの支配者 という呼び方を思い起こさせます。 これらのことを見ますと、イエス・キリストについての、 地上の王たちの支配者 という呼び方は、イエス・キリストが「地上の王たち」の上に立って、彼らを支配しておられ、その圧倒的な力によって、彼らを打ち破り、最終的なさばきを執行されるという印象を強くします。 けれども、繰り返しになりますが、イエス・キリストの権威はそのようなものではありません。そのことは、これまでお話ししてきたみことばの中では、一つのことばに注目することから理解することができます。きょう取り上げました6章12節ー17節に記されているみことばにおいても、それをさらに別の角度から記している17章12節ー18節に記されているみことばでも、イエス・キリストは「小羊」として示されています。 黙示録の中で最初に「小羊」が出てくるのは5章6節です。そこには、 さらに私は、御座――そこには、四つの生き物がいる――と、長老たちとの間に、ほふられたと見える小羊が立っているのを見た。これに七つの角と七つの目があった。その目は、全世界に遣わされた神の七つの御霊である。 と記されています。イエス・キリストは「ほふられたと見える小羊」であられます。ここでは、1章4節ー5節前半に記されているヨハネの挨拶の中で、 御座の前におられる七つの御霊 と呼ばれている御霊が「ほふられたと見える小羊」と密接に結びつけられて表わされています。御霊は「ほふられたと見える小羊」の御霊として全世界に遣わされています。 17章14節で、 主の主、王の王 と呼ばれているイエス・キリストは、ご自身の民のために十字架におかかりになった「ほふられたと見える小羊」であられます。また、1章5節において、 地上の王たちの支配者 と呼ばれているイエス・キリストについては、これに続いて、5節後半ー6節において、その栄光が、 イエス・キリストは私たちを愛して、その血によって私たちを罪から解き放ち、また、私たちを王国とし、ご自分の父である神のために祭司としてくださった方である。キリストに栄光と力とが、とこしえにあるように。アーメン。 と告白され、讚えられています。 さらに、天における礼拝のことを記している5章9節ー10節には、 彼らは、新しい歌を歌って言った。 「あなたは、巻き物を受け取って、その封印を解くのにふさわしい方です。あなたは、ほふられて、その血により、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から、神のために人々を贖い、私たちの神のために、この人々を王国とし、祭司とされました。彼らは地上を治めるのです。」 と記されています。やはり、「ほふられたと見える小羊」の愛と恵みに満ちた栄光が讚えられています。 これに対して、先ほど引用しました6章15節ー17節には、 地上の王、高官、千人隊長、金持ち、勇者、あらゆる奴隷と自由人が、ほら穴と山の岩間に隠れ、山や岩に向かってこう言った。「私たちの上に倒れかかって、御座にある方の御顔と小羊の怒りとから、私たちをかくまってくれ。御怒りの大いなる日が来たのだ。だれがそれに耐えられよう。」 と記されていました。何と、「地上の王、高官、千人隊長、金持ち、勇者、あらゆる奴隷と自由人」たちもイエス・キリストのことを「小羊」と呼んでいるのです。けれども、この人々にとって「小羊」は怒りの源であり、恐怖の対象です。 これはどういうことなのでしょうか。それは、イエス・キリストの十字架がどのようなものであるかを物語っています。 私たちにとっては、イエス・キリストの十字架は、父なる神さまと御子イエス・キリストの愛と恵みのこの上ない現れです。神さまに対して罪を犯して御前に堕落し、本性が腐敗してしまっているために、どうしても罪を犯してしまう状態にあった私たちを、死と滅びの中から贖い出してくださるために、父なる神さまは御子イエス・キリストを遣わしてくださいました。御子はそのような私たちのために十字架におかかりになって、私たちの罪に対する神さまの聖なる御怒りによるさばきを、私たちに代わって受けてくださいました。神さまの愛と恵みは。このイエス・キリストの十字架において、この上なく豊かに現されています。 しかし、イエス・キリストの十字架には、もう一つの面があります。イエス・キリストの十字架は、父なる神さまがすべての罪をその聖なる御怒りをもって厳正におさばきになられることのあかしでもあります。福音のみことばのあかしの光の下でイエス・キリストの十字架を見れば、それは、父なる神さまと御子イエス・キリストの愛と恵みのこの上ない現れです。しかし、福音のみことばの光なしにイエス・キリストの十字架を見れば、それは人間の罪に対する父なる神さまの聖なる御怒りのこの上ない現れです。その御怒りのために、地は揺らぎ、天体も光を失い、揺れ落ちます。 このようにして、6章12節ー17節に、「地上の王、高官、千人隊長、金持ち、勇者、あらゆる奴隷と自由人」が「御座にある方の御顔と小羊の怒り」への恐怖でおののいている理由が明らかになります。それは、17章12節ー18節に記されているように、彼らが獣と一つになって「ほふられたと見える小羊」を敵としているからです。ピリピ人への手紙3章18節ー19節には、 私はしばしばあなたがたに言って来たし、今も涙をもって言うのですが、多くの人々がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです。彼らの最後は滅びです。彼らの神は彼らの欲望であり、彼らの栄光は彼ら自身の恥なのです。彼らの思いは地上のことだけです。 というパウロの涙ながらの嘆きが記されています。 ヨハネが挨拶の中で、 地上の王たちの支配者 と呼んでいるイエス・キリストは、やはり「ほふられたと見える小羊」であられます。その十字架の死において表わされた愛と恵みに満ちた栄光のゆえに讚えられる御方であって、決して、この世の主権者たちの序列の最上位に立っているとして、この世の賞賛を受けられる方ではありません。 |
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