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説教日:2012年7月1日 |
ヨハネが「アジヤにある七つの教会」送った挨拶において、ヨハネは三位一体の御父、御子、御霊からの「恵みと平安」があることを祈り求めています。その際に、ヨハネは、栄光のキリストがヨハネに啓示してくださったこと、すなわち、ヨハネがこの黙示録に記していることに基づいて、父なる神さまのことを、 今いまし、昔いまし、後に来られる方 と呼んでおり、御霊のことを、 御座の前におられる七つの御霊 と呼んでいます。そして、イエス・キリストのことを、 忠実な証人、死者の中から最初によみがえられた方、地上の王たちの支配者であるイエス・キリスト と呼んでいます。 今私たちが取り上げているのは、 忠実な証人、死者の中から最初によみがえられた方、地上の王たちの支配者であるイエス・キリスト というイエス・キリストについての呼び方です。これまで最初の、 忠実な証人 という呼び方と2番目の、 死者の中から最初によみがえられた方 という呼び方についてお話ししてきました。きょうから、これに続く、 地上の王たちの支配者 という呼び方についてお話しします。 まず、ここで「支配者」と訳されていることば(アルコーン)のことですが、このことばは新約聖書の中で37回用いられています。それらがどのように用いられているかを見てみますと、基本的に、三つに分類されます。 第一にこのことばは、ローマやユダヤの社会を治めている支配者や特別な立場にある人々を表すのに用いられています。 マタイの福音書20章25節には、 あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者たちは彼らを支配し、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。 というイエス・キリストの教えが記されています。ここに「異邦人の支配者たち」が出てきますが、これがこのことばで表されています。同じように、国家の権力者のことを述べているローマ人への手紙13章3節に出てくる「支配者」(複数)もこのことばで表されています。 また、ルカの福音書12章58節に記されているイエス・キリストの教えの中で、 あなたを告訴する者といっしょに役人の前に行くときは と言われていますが、ここに出てくる「役人」がこのことばで表されています。 さらに、マタイの福音書9章18節、23節、また、これと同じことを記しているルカの福音書8章41節に出てくる「会堂管理者」(ヤイロのこと)は、このことばで表されています。 また、ルカの福音書14章1節、23章13節、35節、24章20節に出てくる「指導者たち」や、ヨハネの福音書3章1節に出てくる「ユダヤ人の指導者」(ニコデモのこと)の「指導者」も、このことばで表されています。この場合の「指導者たち」は、一般的には、サンヘドリンの議員を指すと考えられていますが、それ以外の可能性もあります。 第二に、このことばは霊的な権力、特に、暗やみの主権者を表すのに用いられています。このことばが、この意味で用いられているときには、曖昧な個所(見方が分かれているコリント人への手紙第一・2章6節、8節)以外では、常に単数形で用いられています。 エペソ人への手紙2章1節ー2節には、 あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。 と記されています。ここに出てくる「空中の権威を持つ支配者」の「支配者」がこのことばで表されています。これは、サタンのことです。 マタイの福音書9章34節と12章24節で、パリサイ人たちが、イエス・キリストは「悪霊どものかしら」(9章34節)「悪霊どものかしらベルゼブル」(12章24節)によって悪霊たちを追い出していると言ったときの「かしら」がこのことばです。 またヨハネの福音書には、イエス・キリストがサタンのことを「この世を支配する者」(12章31節、14章30節、16章11節)と呼んでおられることが記されています。この「支配する者」がこのことばで表されています。 第三に、このことばは、今取り上げています、黙示録1章5節でイエス・キリストのことが「地上の王たちの支配者」と呼ばれているときに用いられています。新約聖書の中で、このことばがイエス・キリストに当てはめられているのはここだけです。 新約聖書の中でこのことばがイエス・キリストに当てはめられているのは、この黙示録1章5節で、イエス・キリストのことが「地上の王たちの支配者」と呼ばれているときだけです。このことは、イエス・キリストが私たちご自身の民を治めておられる主であられることを表わすのに、このことばが用いられていないことを意味しています。それが意図的なことなのか、つまり、新約聖書を記した人々が、イエス・キリストのことを記すときに、このことばを用いることを避けたのか、あるいは、たまたまそうなったのかは、よく分かりません。 そのことがいずれであっても、実際に、この世の国々の支配者たちや支配的な立場にある人々が支配することと、イエス・キリストが私たちご自身の民を治めてくださることには、本質的な違いがあります。この黙示録1章5節でイエス・キリストが「地上の王たちの支配者」と呼ばれていることの意味を考えるためにも、福音のみことばにあかしされているイエス・キリストのメシヤとしての権威と栄光についてお話ししたいと思います。 先ほどその初めの部分を引用しましたが、マタイの福音書20章25節ー28節には、 あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者たちは彼らを支配し、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。あなたがたの間では、そうではありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、あなたがたのしもべになりなさい。人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。 というイエス・キリストの教えが記されています。この教えに如実に示されていますように、 異邦人の支配者たちは彼らを支配し、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。 しかし、イエス・キリストは、決して私たちの上に立って権力を振るわれることはなく、むしろ、私たちご自身の民の罪を贖ってくださるために、ご自身のいのちをもお捨てになられました。そのように、この世の支配者たちが支配することと、イエス・キリストが私たちご自身の民を治めてくださることには、本質的な違いがあります。 このイエス・キリストの教えについては、疑問が出されるかもしれません。それは、このイエス・キリストの教えにおいては、「異邦人の支配者たちは」と言われているように、上に立って支配するのは「異邦人の支配者たち」であると言われているということです。それで、ユダヤ人の社会において支配的な立場にある人々のことは問題になっていないのではないかという疑問です。実際、この「支配者」と訳されていることばは、ユダヤの社会の「役人」や「指導者」たちを表わすのにも用いられていました。それで、ユダヤの社会の「役人」や「指導者」たちが治めることと「異邦人の支配者たち」が支配することの間には違いがあったのではないかという疑問です。 これについては、二つのことが考えられます。 一つは、ことばの問題です。ここで「異邦人の支配者たちは」と言われているときの「異邦人」と訳されていることば(エスノスの複数)は、ユダヤ人と区別された「異邦人」を意味するだけでなく、より一般的に、「諸国民」をも意味します。レキシコン(古代語の辞典)を引きますと、最初にこの「諸民族」、「諸国民」などの訳語が出てきます。ここでは、このような一般的な意味での「諸国民」を意味している可能性があります。その場合には、イエス・キリストは「諸国民の支配者たちは」と語り出されたことになります。それは、一般的な支配者たちの支配の仕方を述べていることになります。ただ、ことばの意味だけでは、決定的なことは言えません。これは、次にお話しすることとのかかわりで考えるべきことです。 もう一つのことは、より大切なことです。それは、どうしてイエス・キリストは、マタイの福音書20章25節ー28節に記されている教えを、弟子たちに教えられたのか、ということです。これには、その理由となる背景があります。これに先立って、20節ー21節には、 そのとき、ゼベダイの子たちの母が、子どもたちといっしょにイエスのもとに来て、ひれ伏して、お願いがありますと言った。イエスが彼女に、「どんな願いですか」と言われると、彼女は言った。「私のこのふたりの息子が、あなたの御国で、ひとりはあなたの右に、ひとりは左にすわれるようにおことばを下さい。」 と記されています。 ここに出てくる「ゼベダイの子たち」とは、これより前にしるされている記事から分かりますが、ヤコブとヨハネのことです。ここでは「ゼベダイの子たちの母」がその子らとともに、イエス・キリストにお願いをしています。しかし、彼女のことは、この後には記されていません。引用はしませんが、この後には、イエス・キリストがヤコブとヨハネに語られたことが記されています。それで、この願いは、基本的に、ヤコブとヨハネの願いであったと考えられます。そのことは、同じことを記しているマルコの福音書には母のことが出てこないこととも合致しています。 イエス・キリストに召されて、これまでイエス・キリストに従ってきたヤコブとヨハネは、すでに、イエス・キリストが約束のメシヤであることを信じていました。そして、やがてメシヤが栄光の御座に着座されることを信じていました。それで、自分たちをメシヤの栄光の御座の右と左に座る者としていただきたいと願い出たのでした。メシヤの御国の序列の中で、王であるメシヤの次の座に着座したいという願いです。 ちなみに、ここに突然のように「ゼベダイの子たちの母」が出てきますが、おかしなことではありません。イエス・キリストが十字架につけられたときに、そこにいた女性たちのことを記している、27章55節ー56節には、 そこには、遠くからながめている女たちがたくさんいた。イエスに仕えてガリラヤからついて来た女たちであった。その中に、マグダラのマリヤ、ヤコブとヨセフとの母マリヤ、ゼベダイの子らの母がいた。 と記されています。イエス・キリストに仕えて「ガリラヤからついて来た女たち」と言われている女性たちの中に、「ゼベダイの子らの母」がいました。それはこのイエス・キリストの地上の生涯の最後の時のことだけではなく、継続的になされていたことであったと考えられます。それで、「ゼベダイの子たちの母」もイエス・キリストがメシヤであることを信じ、栄光の御座に着座されることを信じていて、この時、その子たちとともに、イエス・キリストにお願いをしたと考えられます。 これに対して、24節には、 このことを聞いたほかの十人は、このふたりの兄弟のことで腹を立てた。 と記されています。このことは「ほかの十人」もヤコブとヨハネたちと同じことを考え、同じ願いをもっていたことを意味しています。 実際、マタイの福音書では、これより前の18章1節に、 そのとき、弟子たちがイエスのところに来て言った。「それでは、天の御国では、だれが一番偉いのでしょうか。」 と記されています。これとほぼ同じ時のことが、マルコの福音書では9章33節ー34節に、 カペナウムに着いた。イエスは、家に入った後、弟子たちに質問された。「道で何を論じ合っていたのですか。」彼らは黙っていた。道々、だれが一番偉いかと論じ合っていたからである。 と記されています。ですから、すでに弟子たちの間では「だれが一番偉いか」ということが論じられていたのです。マタイの福音書20章24節には、 このことを聞いたほかの十人は、このふたりの兄弟のことで腹を立てた。 と記されていました。このことから、この論争をしていたのは「十二弟子」であったと考えられます。彼らは、約束のメシヤであるイエス・キリストの弟子たちの中でも、自分たち「十二弟子」がいちばん偉いと考えたのでしょう。そして、それでは、この「十二弟子」の中で誰がいちばん偉いのだろうかということが、ずっと問題になっていたのだと考えられます。そのような状況の中で、ヤコブとヨハネがほかの弟子たちを出し抜いて、またお母さんまで駆り出して、自分たちをメシヤの栄光の御座の右と左に座らせていただきたいと願い出たのでした。 22節には、イエス・キリストがヤコブとヨハネに、 あなたがたは自分が何を求めているのか、わかっていないのです。 と教えられたことが記されています。もちろん、ヤコブとヨハネは自分たちが求めているものが何であるかを知っています。メシヤの御国の権力の序列の第二の位に座りたいということです。しかし、それは、イエス・キリストの目から見ますと、まったく見当違いのものであったのです。メシヤの御国の権威や栄光がどのようなものであるかについて、まったく誤解したうえでの願いであったのです。 これは、ヤコブやヨハネや、その他の弟子たちだけのことではありません。それは、その当時のユダヤの社会で一般的なメシヤの理解を反映しています。その当時のユダヤの社会で一般的なメシヤの理解は、メシヤがその力をもってこの世界の国々を征服し、モーセ律法の上に立ってすべてを支配する体制を造り出すというものでした。そこには、やはり、メシヤを頂点とする権力の序列があるのです。ヤコブとヨハネはその序列の第二の位に着きたいと願ったわけです。それは、その序列の下にあるすべての人々の上に立って、治めるということを意味しています。弟子たちが考えていたメシヤの権威や栄光とはそのようなものでした。 これに対してイエス・キリストは、先ほど引用しました教えを弟子たちに語られました。そして、その教えは、 あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者たちは彼らを支配し、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。 ということばで始まっています。これまでお話ししてきたことを考え合わせますと、この教えで、イエス・キリストは新改訳の「異邦人の支配者たちは」という訳が示すほどには、ユダヤ人と「異邦人」を区別していないと考えられます。広く、諸国民の支配者たちは人々の上に立って支配し、権力を振るっているという現実を、改めて説明するまでもないこととして語っておられるのです。 そのような権力のあり方についての理解は、その当時のユダヤ人たちの間にも見られたことでした。それで、イエス・キリストはご自身のことを表わすのに、そのような政治的な意味合いがついてしまっている「メシヤ」という呼び方を用いないで、そのような意味合いが染みついていない「人の子」という呼び方をされたと考えられています。 ヨハネの福音書6章1節ー15節には、イエス・キリストが大麦のパン五つと2匹の魚で、男たちだけで5千人の人々に十分食べさせてくださったことが記されています。そのことを受けて、14節ー15節には、 人々は、イエスのなさったしるしを見て、「まことに、この方こそ、世に来られるはずの預言者だ」と言った。そこで、イエスは、人々が自分を王とするために、むりやりに連れて行こうとしているのを知って、ただひとり、また山に退かれた。 と記されています。人々はイエス・キリストが、自分たちのメガネにかなったメシヤであると考えて、王として立てようとしていました。イエス・キリストはそれに応えて、王として立とうとはなさいませんでした。イエス・キリストは人々が考えているような意味での王ではありませんでした。そのことが、ヨハネの福音書では、この後のイエス・キリストとユダヤ人たちとのやり取りをとおして示されていきます。その教えの最後には、51節に記されている、 わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。またわたしが与えようとするパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。 という教えや、きょうも執り行われます聖餐式においてしばしば読まれますが、53節ー55節に記されている、 まことに、まことに、あなたがたに告げます。人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物だからです。 という教えが語られました。そして、これを聞いたユダヤ人たちはイエス・キリストの教えにつまずいて、イエス・キリストの許を去っていくようになります。 先ほど引用しましたマタイの福音書20章26節ー28節に、 あなたがたの間では、そうではありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、あなたがたのしもべになりなさい。の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。 と記されているように、イエス・キリストはこの世の国々の支配者たちのように、人々の上に立って人々を支配されることはありません。むしろ、私たちご自身の民のために仕えてくださる立場に立たれました。そして、十字架におかかりになって、私たちのための罪の贖いの代価として、ご自身のいのちをお与えになりました。ここにメシヤとしてのイエス・キリストの栄光があります。先ほどのヨハネの福音書6章に記されている教えに沿って言えば、私たちのために、「まことの食物」であるご自身の肉と「まことの飲み物」であるご自身の血を与えてくださったのです。 これらのことを念頭において、黙示録1章5節でイエス・キリストのことが「地上の王たちの支配者」と呼ばれていることを考えますと、どうなるでしょうか。どうもこれは、イエス・キリストが「地上の王たち」の権力の序列の最上位にあるというようなことではないのではないかということが見えてきます。 その当時、最強の帝国はローマ帝国でした。その権力の頂点にあったのはローマ皇帝でした。そして、ローマ皇帝は自分を神として礼拝することを求めるようになりました。そして、皇帝礼拝を拒んでいる主の契約の民を迫害していました。その迫害がヨハネにまで及んできて、ヨハネはパトモス島に流刑となっていました。そのヨハネがイエス・キリストのことを「地上の王たちの支配者」と呼んでいます。そして、そのヨハネは「ゼベダイの子たち」のひとりで、メシヤとしてのイエス・キリストの権威と栄光について誤解していた苦い経験から学んでいました。あの時の自分はメシヤの御国の栄光と権威をまったく誤解していたということを、決して忘れたことはなかったはずです。ですから、ローマ帝国からの迫害を受けて、パトモス島に島流しになっていたヨハネにとっては、イエス・キリストの権威と栄光は、この世の権力の序列の最上位にあって、ローマ帝国をもしのぐというようなものではないのです。 それでは、ヨハネがイエス・キリストを「地上の王たちの支配者」と呼んでいるのは、どういう意味なのでしょうか。 このことにつきましては、続いてお話しします。 |
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