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説教日:2012年6月24日 |
以上はこれまでお話ししてきたことの復習です。きょう取り上げたいのは、コロサイ人への手紙1章15節ー20節に記されているみことばです。そこには、 御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。御子は、万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っています。また、御子はそのからだである教会のかしらです。御子は初めであり、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、ご自身がすべてのことにおいて、第一のものとなられたのです。なぜなら、神はみこころによって、満ち満ちた神の本質を御子のうちに宿らせ、その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、御子のために和解させてくださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです。 と記されています。 最初の15節に記されている、 御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。 というみことばにつきましては、「長子」(プロートトコス)ということばの意味についてお話ししたときに取り上げました。ここで、 造られたすべてのものより先に生まれた方 と訳されていることばは、直訳では、 造られたすべてのものの長子 となります。そして、これに続く16節において、 なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。 と言われていていて、御子が「造られたすべてのものの長子」であられることの意味が説明されています。この16節をより直訳調に訳しますと、 なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。 となります。(この16節に限らず、引用しました15節ー20節において新改訳が「御子」と訳していることばは、文字通りには「彼」あるいは「この方」です。それらが13節に出てくる「御子」を受けていますので、新改訳では、「御子」と訳されています。以下はこれに従います。) 新改訳は、真中の部分である、 天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も ということばの後に、 すべて御子によって造られたのです。 ということばを補足しています。これは原文にはないことばです。ここでは、 天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も ということばは、その前で、 なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。 と言われているときの「万物」をさらに説明していると考えられます。それで、ここでは、 天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も 「御子によって」造られたというよりは、「御子にあって」造られた、と言おうとしていると考えられます。 ここには「天にあるもの、地にあるもの」、「見えるもの、また見えないもの」、「王座も主権も支配も権威も」という、三つの組み合わせがあります。 このうちの「天にあるもの、地にあるもの」という組み合わせは、これだけで「万物」を表すことができます。創世記1章1節に、 初めに、神が天と地を創造した。 と記されているときの「天と地」は造られたこの世界の「すべてのもの」すなわち「万物」を意味しています。実際、20節では「地にあるものも天にあるものも」という組み合わせしか出てきません。ここ(16節)では、さらに「見えるもの、また見えないもの」という組み合わせを加えています。やはり、これだけでも「万物」を表すことができます。この「見えるもの、また見えないもの」は、その前の「天にあるもの、地にあるもの」と同じものを別の観点から述べています。「天にあるもの、地にあるもの」は、空間的・場所的に区別されるものを組み合わせて「すべてのもの」を表しています。「見えるもの、また見えないもの」は、性質において異なっているものを組み合わせて「すべてのもの」を表しています。これら二つの組み合わせを重ねることによって、文字通り、これが「万物」であり、そこに例外がないことを示しています。 もう一つの「王座も主権も支配も権威も」という組み合わせについてはいろいろな理解がありますが、これらのことばがパウロの手紙の中で用いられている事例に照らして見ますと、霊的な存在を表していると考えられます。これらのことばは、しばしば、暗やみの主権者たちを表すのに用いられています。けれども、この場合は、この前後で述べられていることが包括的なことですので、悪霊たちばかりでなく御使いたちをも含めての霊的な存在のことであると考えられます。このような霊的な存在のことがここに取り上げられていることは、コロサイにある教会が、2章18節に、 あなたがたは、ことさらに自己卑下をしようとしたり、御使い礼拝をしようとする者に、ほうびをだまし取られてはなりません。 と記されているような戒めを必要としている状態にあったことからしますと、意味あることであったと考えられます。御使いたちでさえも「御子にあって造られた」のであって、御子と並べて比べられるような存在ではないということです。 そして、ここ(1章16節)では、このように説明された「万物」を受けて、改めて「万物は」と語り出されて、 万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。 と言われています。これは「万物」の起源と目的を明らかにしています。「万物は、御子によって造られ」たことによって存在し始め、御子を目的としています。 「御子のために造られた」と言われているときの「ために」と訳されたことば(前置詞・エイス)は、基本的に、目的を表すことばです。 万物は・・・御子のために造られたのです。 ということは、一般的な意味で、「万物」が御子の栄光のために造られたということを意味している可能性もあります。しかし、ここでは、「起源」すなわち「初め」と「終わり」という観点から、エペソ人への手紙1章10節に、父なる神さまの「みこころの奥義」について、 いっさいのものがキリストにあって、天にあるもの地にあるものがこの方にあって、一つに集められるのです。 と記されていることが、終わりの日に完全に実現するようになることに相当することを指していると考えられます。 このようなことから、ここで、 万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。 と言われていることは、黙示録1章17節で、栄光のキリストがヨハネに、 わたしは、最初であり、最後である。 と言われたことばが示していること、また、22章13節で、 わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。初めであり、終わりである。 と言われたことばが示していることに相当することです。これは御子イエス・キリストが「万物」とかかわってくださっていることを述べているものです。御子イエス・キリストは「万物」を始められた方であられ、「万物」を完成に至らせてくださる方です。もちろん、「最初」と「最後」の組み合わせによって、その間の過程のすべてを支え、導いてくださっていることを意味しています。 コロサイ人への手紙1章では、続く17節で、 御子は、万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っています。 と言われています。 この場合の「御子は」と訳されたことばは、文字通りには「彼自身が」という強調のことばです。ギリシャ語では主語は、通常、動詞の3人称単数形で表されますが、ここでは強調のための代名詞(アウトス)があります。これは、前後関係から、「御子は」ということとともに「御子以外にはこのようなことが当てはまる方はいない」という意味合いを伝えています。 御子は、万物よりも先に存在し ということばは、御子が天地創造の御業に先立って存在しておられることを意味しています。新改訳ではあいまいですが、ここでは、御子が「万物よりも先に存在し」ておられたというように過去のことを述べているのではありません。これは現在時制で表されています。 御子は、万物よりも先に存在しておられます。 ということです。それは当然のことです。というのは、時間はこの変化する世界の時間ですから、この造られた世界がなければ時間もありません。それで、時間は創造の御業とともに始まっています。けれども、御子は創造の御業に先だって存在しておられます。ですから、御子は時間とともに経過される方ではありません。御子は永遠の存在です。御子は常に「万物」に先だって存在しておられます。この、 御子は、万物よりも先に存在しておられます。 ということばは、また、「万物」との関係において見ています。御子は「万物」との関係において、常に、「万物」に先だって存在しておられます。これがどのようなことを意味しているか、どうしてこのようなことが言われているかは、これに続いて、 万物は御子にあって成り立っています。 と言われていることによってはっきりします。15節では、 万物は御子にあって造られた と言われていました。これは創造の御業におけることです。ここ(17節)ではさらに、御子がお造りになった「万物」が「御子にあって」調和のうちに存在し、安定しているということが示されています。そればかりでなく、この17節の直前の16節の最後で、 万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。 と言われていていて、「万物」の起源と目的が示されていることからしますと、この「万物」とは歴史的な世界の「万物」のことです。それで、ここでは、「万物」が「御子にあって」、それぞれに与えられた意味と価値を発揮し、役割を果たしつつ、契約の神である主が定められた目的に向かってゆくものとして保たれていることを示しています。 このように、「万物」が「御子にあって」調和のうちに存在し、安定しているだけでなく、「御子にあって」、それぞれに与えられた意味や価値を発揮し、役割を果たしつつ、目的に向かってゆくものとして保たれているのは、御子が「万物」に先だって存在しておられる方であるからです。御子は「万物」に先だって存在しておられる方として、「万物」の存在の源であり、根拠であり、目的であられます。 このように、コロサイ人への手紙1章15節ー17節では、御子が、 造られたすべてのの長子 であられることの意味が明らかにされています。 このことを踏まえて18節には、 また、御子はそのからだである教会のかしらです。御子は初めであり、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、ご自身がすべてのことにおいて、第一のものとなられたのです。 と記されています。 ここでは、まず、 また、御子はそのからだである教会のかしらです。 と言われています。 この場合の「御子は」も17節と同じように、文字通りには「彼自身が」という強調のことばです。このことは、この18節に記されていることが、その前の17節に述べられていることとつながっていることを示しています。このことにつきましては、また後ほど触れます。 17節に記されていますように、御子は「万物」に先だって存在しておられます。それで、「万物」は「御子にあって」調和のうちに存在し、安定しているだけでなく、「御子にあって」、それぞれに与えられた価値や意味を発揮し、役割を果たしつつ、目的に向かってゆくものとして保たれています。ここ(18節)では、ほかならぬその御子が、 そのからだである教会のかしらです。 と言われています。 ここに「教会」が出てきます。そして「教会」は御子の「からだである」と言われています。このように言われている「教会」は単なる「集い」ではなく、栄光のキリストご自身が注いでくださった御霊によって、十字架にかかって死んでくださり、死者の中からよみがえってくださった御子イエス・キリストを主と告白している、主の契約の民全体を指しています。先ほど使徒信条において告白しました「聖なる公同の教会」のことです。 そして、御子イエス・キリストはこの 教会のかしらです。 と言われています。御子イエス・キリストが「教会のかしら」であるということは、御子イエス・キリストが「教会」を治めておられることを意味していることはもちろんのことですが、それだけではありません。さらに、御子イエス・キリストが「教会」のいのちの源であり、その存在を支え、ご自身が遂行される贖いの御業の歴史の中で、委ねてくださった使命を果たして実を結ぶように導いてくださることをも意味しています。ここには、より深く親密ないのちの関係があります。 コリント人への手紙第二・5章17節には、 だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。 と記されています。 ここでは「だれでも」(ティス)というように、個人個人のことが取り上げられています。そして、 だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。 と言われています。これは原文のギリシャ語では、とても簡潔に記されていて、条件節にも主節にも、動詞がありません。 その人は新しく造られた者です と訳された部分(カイネー・クティシス)は、新改訳のように「新しく造られた者」とも「新しい創造」とも訳せます。つまり、誰かが「キリストのうちにあるなら」、それは、その人が「新しく造られた者」であることを意味しているとも、そこに「新しい創造」があるとも理解できるのです。二つは同じことを別の角度から述べていますから、どちらかを選ばなければならないわけではありません。 いずれにしましても、コロサイ人への手紙1章18節において、「教会」は御子の「からだである」と言われているとき、そこには「新しい創造」があります。御子が、ご自身が十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げられた贖いの御業に基づいてお働きになる御霊によって、「教会」を新しく創造されたのです。御子はこの「新しい創造」の御業を遂行される主であられます。そればかりでなく、新しく創造されたご自身の「からだである教会」を生かし、その存在を支え、ご自身が遂行される贖いの御業の歴史の中で、委ねてくださった使命を果たして実を結ぶように導いてくださる「かしら」であられます。 このことを受けて、コロサイ人への手紙1章18節では、さらに、 御子は初めであり、死者の中から最初に生まれた方です。 と記されています。 御子は初めであり、 と言われているときの「初め」(アルケー)は、基本的に、時間的に「最初である」ことを意味しています。これは、17節に、 御子は、万物よりも先に存在し と記されていることと同じように現在時制で表されています。その点でも、また内容的にも、これと対応しています。17節では、御子が「万物」に先だって存在しておられますので、「万物」は「御子にあって」調和のうちに存在し、安定しているだけでなく、「御子にあって」、それぞれに与えられた意味を発揮し、役割を果たしつつ、目的に向かってゆくものとして保たれていることが示されていました。これは最初の天地創造の御業のことです。 これに対して、18節で、 御子は初めであり、 と言われているのは、「新しい創造」のことです。御子は「新しい創造」によって造り出される世界にとって「初め」であられます。 先ほどお話ししましたように、17節と18節はともに「彼自身が」という強調の言い方で始まっていて、つながっています。「新しい創造」は最初の創造の御業を受け継いでいます。神のかたちに造られた人が罪によって堕落したことによって、この世界に虚無が入り込んでしまいました。「新しい創造」はそれを、贖いの御業をとおして回復し、完成するものとしての意味をもっているのです。 そして、この「新しい創造」によって造り出される世界にとって「初め」であられる御子のことが、続いて、 死者の中から最初に生まれた方です。 と言われています。この「最初に生まれた方」と訳されていることば(プロートトコス)が、文字通りには「長子」を意味することばです。 黙示録1章5節では、イエス・キリストのことが、直訳では、 死者たちの長子 と言われていました。このコロサイ人への手紙1章18節では、直訳で、 死者たちの中からの長子 と言われています。言い回しは微妙な違いがありますが、言おうとしていることは、基本的に同じです。どちらも、イエス・キリストが、時間的に「死者たちの中から最初に」よみがえられた方であられることを意味しているだけではありません。微妙な違いを生かして言うとしますと、黙示録1章5節の、 死者たちの長子 ということばは、イエス・キリストが「死者たち」の領域をも治めておられる主であられることを意味していました。イエス・キリストは「死者たち」の領域をも治めておられる主として、ご自身の契約の民を「死者たち」の中からよみがえらせてくださいますし、「死者たち」をおさばきになられる方でもあられます。コロサイ人への手紙1章18節の、 死者たちの中からの長子 ということばは、15章からここまでに言われてきたことの流れで言いますと、イエス・キリストは「新しい創造」によって造り出される「万物」の「長子」であられるということを意味しています。 この二つのことは補足し合うものです。 「死者たち」の領域をも治めておられる御子イエス・キリストは、「新しい創造」によって造り出される世界の主として、「万物」を支え、導いてくださり、終わりの日に、ご自身の契約の民をよみがえらせてくださり、新しい天と新しい地を再創造されることによって、すべてを完成へと至らせてくださいます。 |
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