黙示録講解

(第76回)


説教日:2012年6月10日
聖書箇所:ヨハネの黙示録1章1節ー8節
説教題:死者たちの長子(2)


 ヨハネの黙示録1章4節ー5節前半には、

ヨハネから、アジヤにある七つの教会へ。今いまし、昔いまし、後に来られる方から、また、その御座の前におられる七つの御霊から、また、忠実な証人、死者の中から最初によみがえられた方、地上の王たちの支配者であるイエス・キリストから、恵みと平安が、あなたがたにあるように。

という、黙示録の著者であるヨハネの挨拶が記されています。ここに出てくる「アジヤにある七つの教会」は、ローマ帝国の属州であるアジア、今日の小アジアにある教会で、ヨハネはその牧会者でした。黙示録1章9節に記されていますように、この時、ヨハネはローマ帝国からの迫害を受け、「パトモスという島」に流刑となっていました。このパトモス島は、その当時、流刑になった犯罪人たちが収容されていた島で、ヨハネもそのひとりでした。ヨハネは私たちが普通に考えるような犯罪を犯したのではありません。福音のみことばに啓示されているイエス・キリストを信じて、イエス・キリストをあかししていたために、犯罪人として流刑に処せられていたのです。このことはローマ帝国からの迫害がヨハネという牧会者ひとりだけでなく、「アジヤにある七つの教会」に及んでいたことの現れです。
 1章10節に記されていますように、パトモス島で流刑に服していたヨハネに、栄光のキリストがご自身を現してくださいました。そして、ヨハネがこの黙示録に記していることを啓示してくださいました。
 その最初の部分である2章ー3章に記されているのは「アジヤにある七つの教会」のそれぞれの群れに対して語られた栄光のキリストのみことばです。そのみことばをとおして、栄光のキリストは、「アジヤにある七つの教会」の一つ一つの群れの実情を明らかにしてくださり、それぞれの群れに必要なみことばをもって導いてくださっています。そのような栄光のキリストの直接的な語りかけのみことばだけでなく、その後の4章ー22章に記されていることも、基本的に、「アジヤにある七つの教会」に示されたものです。このようにして、栄光のキリストは、ご自身がみことばをもって「アジヤにある七つの教会」を養い育ててくださるまことの牧者であられることを示しておられます。
 このような啓示を受けたヨハネは、流刑の地であるパトモス島にいながら、「アジヤにある七つの教会」の牧会者として、一つ一つの群れを、この啓示のみことばに基づいて、まことの牧者であられる栄光のキリストにお委ねするようになったと考えられます。
 そのことが、この、

ヨハネから、アジヤにある七つの教会へ。今いまし、昔いまし、後に来られる方から、また、その御座の前におられる七つの御霊から、また、忠実な証人、死者の中から最初によみがえられた方、地上の王たちの支配者であるイエス・キリストから、恵みと平安が、あなたがたにあるように。

という挨拶に表れています。
 この挨拶でヨハネは、「アジヤにある七つの教会」に三位一体の御父、御子、御霊からの「恵みと平安」があることを祈り求めています。その際に、ヨハネは、父なる神さまのことを、

 今いまし、昔いまし、後に来られる方

と呼んでおり、御霊のことを、

 御座の前におられる七つの御霊

と呼んでいます。そして、イエス・キリストのことを、

忠実な証人、死者の中から最初によみがえられた方、地上の王たちの支配者であるイエス・キリスト

と呼んでいます。この呼び方はヨハネが自分で考えたものではなく、栄光のキリストから受けた啓示、すなわち、黙示録に記されているみことばに基づくものです。
 このようにして、ヨハネは栄光のキリストの啓示に基づいて、「アジヤにある七つの教会」に三位一体の御父、御子、御霊からの「恵みと平安」があることを祈り求めています。これによってヨハネは、自分が牧会している「アジヤにある七つの教会」を、三位一体の御父、御子、御霊の御手に、特に、最後により詳しく記している栄光のキリストの御手にお委ねしているのです。


 今は、この挨拶の中でヨハネが用いている御父、御子、御霊の呼び方のうち、イエス・キリストに対する、

忠実な証人、死者の中から最初によみがえられた方、地上の王たちの支配者であるイエス・キリスト

という呼び方についてお話ししています。
 最初の「忠実な証人」という呼び方については、すでにお話ししました。そして、先主日には、それに続く、

 死者の中から最初によみがえられた方

という呼び方についてお話ししました。きょうは、さらに、そのお話を続けたいと思います。
 まず、先週お話ししたことを復習しておきます。
 この呼び方は、新改訳では、

 死者の中から最初によみがえられた方

と訳されていますが、この呼び方は、

 死者の中から最初によみがえられた方

ということばから私たちが普通に考えることよりも豊かな意味合いをもっています。
 この呼び方を直訳調に訳しますと、

 死者たちの長子

となります。この呼び方で「長子」と訳されることば(プロートトコス)には、基本的に、二つの意味合いがあります。
 一つは、文字通りの意味で、時間的に「最初に生まれた男子」ということです。
 もう一つの意味は、その当時の文化において、「長子」には特別な権利があったことと関連しています。「長子」は、ほかの兄弟たちより多くの財産を相続し、やがて、その家のかしらになります。このことから、比喩的な意味で、立場において、ほかの者たちよりも優位で、特権的な立場、さらには、主権的な立場にある者を表します。
 この比喩的な意味で用いられる場合には、「長子」は、必ずしも、ほかの者たちの兄弟であるわけではありません。けれども、これは大切なことですが、この「長子」は、ほかの者たちと何らかのつながりがあります。
 黙示録1章5節において、イエス・キリストのことが、

 死者たちの長子

と呼ばれているのは、新改訳の、

 死者の中から最初によみがえられた方

ということばが示すように、時間的に、イエス・キリストが最初に、死者の中からよみがえられた方であることを意味しているだけでなく、この比喩的な意味での「長子」という意味合いが前面に出てきています。
 そのことは、先週お話ししましたように、イエス・キリストについての、

 死者たちの長子

という呼び方と、これに続く、

 地上の王たちの支配者

という呼び方の背景に、詩篇89篇27節に記されている、

 わたしもまた、彼をわたしの長子とし、
 地の王たちのうちの最も高い者としよう。

というみことばがあることから考えられます。
 この詩篇89篇27節に出てくる「」とは、20節に出てくるダビデのことです。そして、最初の、

 わたしもまた、彼をわたしの長子とし、

というみことばと次の、

 地の王たちのうちの最も高い者としよう。

というみことばは、ヘブル詩の特徴である並行法で表されていて、同じことを、別の角度から述べています。つまり、主がダビデをご自身の「長子」としてくださるということは、ダビデを「地の王たちのうちの最も高い者」としてくださるということであると説明されているのです。
 けれども、ダビデは「地の王たち」の兄弟ではありませんし、「地の王たち」のうちで最初に王となったわけでもありません。また、「地の王たち」のうちで最強の帝国を築いたわけでもありません。それなら、ダビデが主の「長子」とされ、「地の王たちのうちの最も高い者」とされたというのはどういうことだったのでしょうか。それは、ダビデが軍事力や経済力などの血肉の力によって成り立っているこの世の国々の王たちとは異なった特質をもった国の王であることによっています。

 このこととの関連で「長子」であることの意味をもう少し考えるために、出エジプト記4章21節ー23節を、見てみましょう。そこには、

はモーセに仰せられた。「エジプトに帰って行ったら、わたしがあなたの手に授けた不思議を、ことごとく心に留め、それをパロの前で行え。しかし、わたしは彼の心をかたくなにする。彼は民を去らせないであろう。そのとき、あなたはパロに言わなければならない。はこう仰せられる。『イスラエルはわたしの子、わたしの初子である。そこでわたしはあなたに言う。わたしの子を行かせて、わたしに仕えさせよ。もし、あなたが拒んで彼を行かせないなら、見よ、わたしはあなたの子、あなたの初子を殺す。』」

と記されています。
 ここでは、イスラエルが主から「わたしの初子である」と言われています。この「初子」と訳されていることば(ベコール)は、先ほどの詩篇89篇27節で「長子」と訳されていることばと同じことば(ギリシャ語訳である七十人訳ではプロートトコス)です。ですから、イスラエルは主の「長子」であると言われているわけです。
 この時のイスラエルはエジプトの奴隷となっていました。ここでは、イスラエルをエジプトの奴隷の状態から解放してから「長子」とすると言われているのではありません。このエジプトの奴隷の状態にあるイスラエルが主の「長子」であると言われています。イスラエルが主の「長子」とされているのは、主の一方的な愛と恵みによることであって、イスラエルの価値によってはいないのです。
 申命記7章6節ー8節に、

あなたは、あなたの神、の聖なる民だからである。あなたの神、は、地の面のすべての国々の民のうちから、あなたを選んでご自分の宝の民とされた。があなたがたを恋い慕って、あなたがたを選ばれたのは、あなたがたがどの民よりも数が多かったからではない。事実、あなたがたは、すべての国々の民のうちで最も数が少なかった。しかし、があなたがたを愛されたから、また、あなたがたの先祖たちに誓われた誓いを守られたから、は、力強い御手をもってあなたがたを連れ出し、奴隷の家から、エジプトの王パロの手からあなたを贖い出された。

と記されているとおりです。
 このことは、詩篇89篇27節において、ダビデが主の「長子」とされると言われていることにも当てはまります。それは、主の一方的な愛と恵みによることです。実際、ダビデが主の「長子」とされることは、イスラエルが主の「長子」とされていることの延長線上にあります。

 もう一つ注目したいことは、主がモーセをとおしてエジプトの王パロに、

 わたしの子を行かせて、わたしに仕えさせよ。

と言われたということです。イスラエルは身分において、主から「わたしの子、わたしの初子」と呼ばれています。そして、ここでは、その使命において、主に仕えるものであることが示されています。そのとき、エジプトの奴隷としてパロに仕えていたイスラエルが、主の贖いの御業をとおして主に仕えるようになるということです。
 ここで、

 わたしに仕えさせよ。

と言われているときの「仕える」ということば(アーバド)は基本的に「仕える」ことを意味していますが、「礼拝する」という意味もあります。主を礼拝することを中心として、より広く主に仕えるようになるということです。イスラエルは主の一方的な愛と恵みによって、主の「長子」として選ばれました。そして、その一方的な愛と恵みによって、主の御臨在の御前において、主を礼拝することを中心として、主に仕える民とされました。
 先ほど触れたことですが、「長子」ということば(ヘブル語ベコール、ギリシャ語プロートトコス)が用いられているとき、「長子」は何らかの意味で、ほかの者たちとかかわっています。この場合、イスラエルが主の「長子」であるということは、イスラエルが主の贖いの御業の歴史の中で大切な役割を負っており、その役割が、ほかの民族とも深くかかわっているということを意味しています。そのことは、やがて、主がイスラエルをエジプトの奴隷の状態から贖い出してくださって、イスラエルに契約を与えてくださったときのことを記している、19章3節ー6節に、

モーセは神のみもとに上って行った。は山から彼を呼んで仰せられた。「あなたは、このように、ヤコブの家に言い、イスラエルの人々に告げよ。
 あなたがたは、わたしがエジプトにしたこと、また、あなたがたを鷲の翼に載せ、わたしのもとに連れて来たことを見た。今、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはすべての国々の民の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。あなたがたはわたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。
 これが、イスラエル人にあなたの語るべきことばである。」

と記されていることにおいて明らかになります。イスラエルは主の御臨在の御前において仕える「祭司の王国」となるということです。
 それは、創世記12章3節に記されています、主がアブラハムに与えられた、

 地上のすべての民族は、
 あなたによって祝福される。

という祝福を受け継ぎ、主のみこころを実現するために主に仕えることを意味しています。イスラエルは「地上のすべての民族」が主の祝福にあずかるようになるために「祭司の王国」として召されています。そのために、まず自らが主の一方的な愛と恵みによって備えられた贖いの御業にあずかって、エジプトの奴隷の状態から贖い出されました。その上で、主の一方的な愛と恵みによって備えられた贖いの御業を「地上のすべての民族」にあかしする「祭司の王国」として召されたのです。

 出エジプト記4章21節ー23節において、イスラエルが主の「長子」であると言われていることには、このような意味があります。
 注目すべきことに、ここでは「長子」ということばが、個人ではなく、イスラエルという民族に当てはめられています。これは、古い契約のひな型におけることですが、新しい契約のもとでは、これは、御子イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりにあずかって死と滅びの中から贖い出された主の契約の民に当てはめられます。
 先週取り上げましたが、ヘブル人への手紙1章6節では、

さらに、長子をこの世界にお送りになるとき、こう言われました。
 「神の御使いはみな、彼を拝め。」

と言われていていて、御子イエス・キリストが「長子」と呼ばれています。そして、同じヘブル人への手紙12章22節ー24節には、

しかし、あなたがたは、シオンの山、生ける神の都、天にあるエルサレム、無数の御使いたちの大祝会に近づいているのです。また、天に登録されている長子たちの教会、万民の審判者である神、全うされた義人たちの霊、さらに、新しい契約の仲介者イエス、それに、アベルの血よりもすぐれたことを語る注ぎかけの血に近づいています。

と記されています。23節には「天に登録されている長子たちの教会」が出てきます。これは、同じヘブル人への手紙2章9節ー12節に、

ただ、御使いよりも、しばらくの間、低くされた方であるイエスのことは見ています。イエスは、死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠をお受けになりました。その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです。神が多くの子たちを栄光に導くのに、彼らの救いの創始者を、多くの苦しみを通して全うされたということは、万物の存在の目的であり、また原因でもある方として、ふさわしいことであったのです。聖とする方も、聖とされる者たちも、すべて元は一つです。それで、主は彼らを兄弟と呼ぶことを恥としないで、こう言われます。
 「わたしは御名を、わたしの兄弟たちに告げよう。
  教会の中で、わたしはあなたを賛美しよう。」

と記されているみことばを受けています。
 まことの「長子」であられる御子イエス・キリストは、ご自身の十字架の死の苦しみによって、私たちを死と滅びの中から贖い出してくださり、ご自身の復活にあずからせてくださって、私たちを栄光に導き入れてくださいました。先週お話ししましたように、このことのゆえに、御子イエス・キリストは

 死者たちの長子

と呼ばれるのです。そして、そのすべてが父なる神さまから出ていることであるので、主イエス・キリストは、私たちを「兄弟と呼ぶことを恥としない」と言われています。その意味では、御子イエス・キリストご自身が私たちの「長子」です。ローマ人への手紙8章29節、30節に、

なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。

と記されているとおりです。
 ヘブル人への手紙2章9節ー12節の最後の11節後半ー12節には、

それで、主は彼らを兄弟と呼ぶことを恥としないで、こう言われます。
 「わたしは御名を、わたしの兄弟たちに告げよう。
  教会の中で、わたしはあなたを賛美しよう。」

と記されていました。ここで、

 教会の中で、わたしはあなたを賛美しよう。

と言われているときの「教会」が、先ほど引用しました12章23節に出てくる「天に登録されている長子たちの教会」の「教会」に当たります。ヘブル人への手紙では、この「教会」と訳されていることば(エクレーシア)は、2章12節に出てきてから、この12章23節まで出てきません。また、この後にも出てきません。ですから、この「教会」は、

 教会の中で、わたしはあなたを賛美しよう。

というみことばが示しているように、主の一方的な愛と恵みによって備えられた罪の贖いにあずかって、主の契約の民としていただいた者たちが、主イエス・キリストにしたがって、父なる神さまを讃美し、礼拝する集いのことです。
 また、2章11節後半ー12節において主イエス・キリストの「兄弟たち」と呼ばれていた主の契約の民が、ここ12章23節では「長子たち」と呼ばれています。主イエス・キリストの「兄弟たち」は、まことの「長子」であられる主イエス・キリストの贖いにあずかって、「栄光に導」き入れていただき、「長子」の特権にあずかっているのです。これは、エペソ人への手紙2章4節ー6節に、

しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、――あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです――キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。

と記されていることに当たります。黙示録では、同じことが、2章26節ー27節に、

勝利を得る者、また最後までわたしのわざを守る者には、諸国の民を支配する権威を与えよう。彼は、鉄の杖をもって土の器を打ち砕くようにして彼らを治める。わたし自身が父から支配の権威を受けているのと同じである。

と記されています。また、3章21節に、

勝利を得る者を、わたしとともにわたしの座に着かせよう。それは、わたしが勝利を得て、わたしの父とともに父の御座に着いたのと同じである。

と記されています。

 これらのことを踏まえますと、詩篇89篇27節に記されている、

 わたしもまた、彼をわたしの長子とし、
 地の王たちのうちの最も高い者としよう。

というみことばにおいて、ダビデが主の「長子」とされたということの意味が見えてきます。
 すでにお話ししましたように、主がダビデをご自身の「長子」とされたのは、ダビデを「地の王たちのうちの最も高い者」とされるということを意味していました。しかし、それはこの世の国々の中で最強の帝国を築き上げるという意味ではありません。主は最も弱く、奴隷の民であったイスラエルをご自身の「長子」とされました。ダビデも地上で最強の帝国を築くことはありませんでした。
 イスラエルが主の「長子」とされたことは、主の一方的な愛と恵みによることでした。そして、その愛と恵みによって奴隷の状態から贖い出されて、主の御臨在の御前に住まう民とされました。このようにして、ともにご臨在される主との愛の交わりのうちに生きることが、主の「長子」であることの特権の中心にあります。
 さらに、主の「長子」とされたイスラエルは、アブラハムに与えられた、

 地上のすべての民族は、
 あなたによって祝福される。

という祝福を受け継ぐものとして、「地上のすべての民族」が主の祝福にあずかるようになるために主に仕える「祭司の王国」として主に召されています。
 詩篇89篇27節に記されている、

 わたしもまた、彼をわたしの長子とし、
 地の王たちのうちの最も高い者としよう。

というみことばにおいて、主がダビデをご自身の「長子」とされたことには、このような背景があります。
 先週お話ししましたように、詩篇89篇27節に記されていることは、主がダビデに与えてくださった契約の約束に関連しています。その約束は、詩篇89篇では、27節に続く28節ー29節に記されている、

 わたしの恵みを彼のために永遠に保とう。
 わたしの契約は彼に対して真実である。
 わたしは彼の子孫をいつまでも、
 彼の王座を天の日数のように、続かせよう。

というみことばに示されています。それは、主がダビデの子孫が着座する永遠の王座を確立してくださるということです。
 これは「地上的なひな型」としては、ユダ王国を治めたダビデ王朝がその当時のほかの王朝に比べて長く続いたということに現れています。けれども、それも永遠のものではありませんでした。「地上的なひな型」は本体ではありませんので、それとしての限界がありました。実際に、ダビデの子孫である王たちの不信と背教によって主のさばきを招き、ダビデ王朝はバビロンの王ネブカデネザルによって滅ぼされてしまいます。
 このことは、主がダビデに与えてくださった契約の約束が不真実なものであったということではありません。主の約束は「地上的なひな型」を越えて、また、主の契約のみことばと「地上的なひな型」によってあかしされている、真のダビデの子孫が着座する永遠の王座を約束してくださっていたのです。最終的にダビデに約束された永遠の王座に着座された方は栄光のキリストです。その永遠の王座に着座された栄光のキリストは、主がダビデに与えてくださった契約を成就されただけでなく、主がアブラハムに与えてくださった祝福を成就してくださいました。御子イエス・キリストは「地上のすべての民族」の中に散っているご自身の民を死と滅びの中から贖い出してくださるために、そして、父なる神さまとの愛の交わりのうちに生きる者としてくださるために、十字架におかかりになって、いのちをお捨てになりました。
 黙示録1章では4節ー5節前半に記されているヨハネの挨拶に続いて、5節後半ー6節には、

イエス・キリストは私たちを愛して、その血によって私たちを罪から解き放ち、 また、私たちを王国とし、ご自分の父である神のために祭司としてくださった方である。キリストに栄光と力とが、とこしえにあるように。アーメン。

と記されています。
 このようにして、栄光のキリストは私たちご自身の民のために最も低くなられました。この世の王国の尺度では、最も弱い王です。しかし、その方こそが、主の御前では「長子」として選ばれた方であり、「地の王たちのうちの最も高い者」であられます。


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