黙示録講解

(第74回)


説教日:2012年5月27日
聖書箇所:ヨハネの黙示録1章1節ー8節
説教題:忠実な証人(2)


 先主日には、春の伝道集会を開催しましたので、ヨハネの黙示録からのお話はありませんでした。きょうは、黙示録からの話に戻ります。黙示録1章4節ー5節前半には、

ヨハネから、アジヤにある七つの教会へ。今いまし、昔いまし、後に来られる方から、また、その御座の前におられる七つの御霊から、また、忠実な証人、死者の中から最初によみがえられた方、地上の王たちの支配者であるイエス・キリストから、恵みと平安が、あなたがたにあるように。

と記されています。
 これは、黙示録の著者であるヨハネが「アジヤにある七つの教会」に対して書き記した挨拶です。「アジヤにある七つの教会」とは、1章11節に出てきます「エペソ、スミルナ、ペルガモ、テアテラ、サルデス、フィラデルフィヤ、ラオデキヤ」にある教会です。これらの教会はローマ帝国の属州であるアジア、今日の小アジアにありました。ヨハネはこれらの教会の牧会者でしたが、この時、ローマ帝国からの迫害を受け、「パトモスという島」に流刑となっていました。この迫害はヨハネだけでなく、ヨハネが牧会していた「アジヤにある七つの教会」にも及んでいました。
 このような事情により、流刑の地である「パトモス」にいたヨハネに、栄光のキリストがご自身を現してくださいました。栄光のキリストは、1章1節のことばで言いますと「すぐに起こるはずの事」をヨハネに啓示してくださいました。それが今私たちが手にしている黙示録に記されています。
 栄光のキリストは、その啓示の中で、まず、ご自身が「アジヤにある七つの教会」のまことの牧者であられることを示してくださっています。そのことが2章ー3章に記されています、「アジヤにある七つの教会」のそれぞれの群れに対して語られた栄光のキリストのみことばに表れています。栄光のキリストは、その群れの一つ一つの実情をつぶさに知っていてくださり、推賞すべきことを賞賛してくださるとともに、悔い改めることがある場合には、それを指摘してくださっています。そして、約束のみことばをもって、一つ一つの群れを救いの完成に至るまで導いてくださっていることを示しておられます。
 そのような啓示を受けたヨハネは、黙示録を記すに当たって、「アジヤにある七つの教会」の牧会者として、自らの挨拶を記しています。牧会者の基本的な務めは、自分がその牧会する群れとともにあるときも、ヨハネのように、物理的にその群れから引き裂かれてしまっているときでも、常に、自分に委ねられた群れのために執り成し祈りつつ、その群れを神さまにお委ねすることです。この挨拶は、まさにそのような意味をもっている挨拶です。
 この挨拶は、厳しい迫害にさらされている「アジヤにある七つの教会」に三位一体の神さまからの「恵みと平安」があることを祈り求めるものです。ほかの挨拶のことばを記している中で、その導入として、あるいは締めくくりとして、三位一体の神さまから、

 恵みと平安が、あなたがたにあるように

と祈っているのではなく、三位一体の神さまからの「恵みと平安」があることを祈り求めることが、ヨハネの挨拶のすべてです。
 この挨拶でヨハネは、父なる神さまのことを、

 今いまし、昔いまし、後に来られる方

と呼んでおり、御霊のことを、

 御座の前におられる七つの御霊

と呼んでいます。そして、イエス・キリストのことを、

忠実な証人、死者の中から最初によみがえられた方、地上の王たちの支配者であるイエス・キリスト

と呼んでいます。
 この1章4節ー5節前半に記されている挨拶の中で、イエス・キリストのことが最後に記されているのは、これに続く5節後半ー6節に、イエス・キリストが成し遂げられた贖いの御業についての説明とイエス・キリストへの頌栄が記されているからです。このことは、ヨハネが祈り求めている「アジヤにある七つの教会」に対する「恵みと平安」の源として、特に御子イエス・キリストが強調されていることを意味しています。


 前回から、イエス・キリストが、

忠実な証人、死者の中から最初によみがえられた方、地上の王たちの支配者であるイエス・キリスト

と呼ばれていることについてお話しし始めました。そして、イエス・キリストが「忠実な証人」であられることについてお話ししました。きょうも、そのお話を続けます。
 ここで「忠実な証人」と言われているときの「証人」ということば(マルテュス)は、英語のmartyr、「殉教者」を表わすことばのもととなったことばです。
 この「証人」ということば(マルテュス)とそれに関連することばである「あかし」(マルテュリア)や「あかしする」(マルテュレオー)は、黙示録の中では、15章5節において「天にある、あかしの幕屋」と言われている中に出てくる以外は、イエス・キリストについて記されている中に出てくる場合と、主の契約の民について記されている中に出てくる場合があります。
 前回は、イエス・キリストについて記されている中で、この「証人」ということば(マルテュス)と、これに関連する「あかし」(マルテュリア)や「あかしする」(マルテュレオー)ということばが用いられている個所を取り上げてお話ししました。きょうは、これらのことばが主の契約の民のことを記している中で用いられている個所を取り上げてお話ししたいと思います。
 先に結論的なことをお話ししますと、それらの個所のほとんどにおいて、これらのことばは迫害との関連で用いられています。もし間接的に迫害との関連を示す個所も含めれば、すべての個所において迫害との関連が認められます。

 その例を見てみましょう。
 1章9節においては、

私ヨハネは、あなたがたの兄弟であり、あなたがたとともにイエスにある苦難と御国と忍耐とにあずかっている者であって、神のことばとイエスのあかしとのゆえに、パトモスという島にいた。

と記されています。
 これは先ほどお話ししましたように、黙示録を記したヨハネが「パトモスという島」に流刑になっていることを記しています。辞典によって多少の違いがありますが、いくつかの辞典がほぼ一致して示しているところでは、「パトモス」はエーゲ海南東部の南スポラデス群島南部のドデカニソス諸島の島の一つで、小アジアのミレトから西方約70キロメートルほど離れたところにある、長さが約16キロメートル、幅は約9キロメートルほどの火山岩の島です。
 2章13節には、

わたしは、あなたの住んでいる所を知っている。そこにはサタンの王座がある。しかしあなたは、わたしの名を堅く保って、わたしの忠実な証人アンテパスがサタンの住むあなたがたのところで殺されたときでも、わたしに対する信仰を捨てなかった。

と記されています。
 これは栄光のキリストがペルガモにある教会に対して語っておられるみことばです。

 そこにはサタンの王座がある。

と言われているのは、ペルガモの町のことです。そこでは、「忠実な証人アンテパス」が殺されたと言われています。ペルガモにある教会の信徒たちは、その町の人々やローマの役人たちから迫害を受けていました。その最もはっきりとした現れが「忠実な証人アンテパス」が殺されたことでした。ここでは、それでも、ペルガモにある教会の信徒たちはイエス・キリストに対する「信仰を捨てなかった」と言われています。とはいえ、この後にペルガモにある教会の問題点が指摘されています。

 6章9節には、

小羊が第五の封印を解いたとき、私は、神のことばと、自分たちが立てたあかしとのために殺された人々のたましいが祭壇の下にいるのを見た。

と記されています。
 6章では、「小羊」が六つの「封印」を次々と解いていくことが記されています。「封印」は全部で七つありますが、そのうちの六つが解かれたことが6章に記されています。この9節では、「第五の封印」が解かれたことが記されています。これに先立って4つの封印が解かれています。それぞれが解かれていくと、「白い馬」、「赤い馬」、「黒い馬」、「青ざめた馬」と呼ばれている4つの馬が、順次、登場してきます。そして、それぞれの馬に乗っている騎手によって、地に住む人々の上に戦争や飢饉や疫病や野獣などによる災いが下るようになっていきます。
 今お話ししていることとのかかわりで注目したいのは、「赤い馬」です。この「赤い馬」については4節に、

すると、別の、火のように赤い馬が出て来た。これに乗っている者は、地上から平和を奪い取ることが許された。人々が、互いに殺し合うようになるためであった。また、彼に大きな剣が与えられた。

と記されています。ここで、

 人々が、互いに殺し合うようになる

と言われているときの「殺す」と訳されていることば(スファゾー)は「殺す」ことより強い意味合いをもっていて、「殺戮する」こと、「むごたらしく殺すこと」を表します。ここでは、

 人々が、互いに殺し合うようになる

ということが、「互いに」ということばと相まって、戦争をして互いに殺戮するようになることを意味しています。そして、9節において、

神のことばと、自分たちが立てたあかしとのために殺された人々

と言われているときの「殺された」ということばは、これと同じことばが用いられています。この場合は、むごたらしく殺されたことを表しています。神さまのさばきが執行されてさまざまな災いが降りかかってくる中で、「神のことば」を宣べ伝え、イエス・キリストをあかししたことによって、人々から憎まれて、殺されてしまった人々です。
 このことと関連しているのですが、マタイの福音書24章7節ー9節には、

民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、方々にききんと地震が起こります。しかし、そのようなことはみな、産みの苦しみの初めなのです。そのとき、人々は、あなたがたを苦しいめに会わせ、殺します。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての国の人々に憎まれます。

というイエス・キリストの教えが記されています。

神のことばと、自分たちが立てたあかしとのために殺された人々

と言われている人々は、このようにして殺された人々です。けれども、マタイの福音書24章7節ー9節に記されているイエス・キリストの教えはこれで終ってイエスはいません。続く10節ー14節には、

また、そのときは、人々が大ぜいつまずき、互いに裏切り、憎み合います。また、にせ預言者が多く起こって、多くの人々を惑わします。不法がはびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなります。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます。この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから、終わりの日が来ます。

と記されています。そのような困難な事情にもかかわらず、主の契約の民の忍耐とともに、

 この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて

いくと教えられています。そして、今日に至るまでの神である主の救いとさばきの御業の歴史の中で、実際に、そのようになってきました。
 ついでながら、黙示録の中では、この6章9節で初めて、天にある「祭壇」のことが記されています。そして、この小羊が第5の封印を解いたことが転機となって、天への視野が開けてきて、小羊が第6の封印を解いたときには、天と地すなわち宇宙的な規模の災いが啓示されるようになります。それとともに、7章に記されていますが、終わりの日における主の契約の民の救いの完成が啓示されています。

 黙示録11章3節には、

それから、わたしがわたしのふたりの証人に許すと、彼らは荒布を着て千二百六十日の間預言する。

と記されています。
 ここには、「わたしのふたりの証人」が出てきます。言うまでもなく、この二人はイエス・キリストをあかしする証人です。この二人についてさらに4節には、

彼らは全地の主の御前にある二本のオリーブの木、また二つの燭台である。

と記されています。これは、少し前(5月6日)に、1章4節に出てくる「その御座の前におられる七つの御霊」についてお話ししたときに取り上げました、ゼカリヤ書4章2節ー3節に出てきます「全体が金でできている一つの燭台」と、そのそばにある「二本のオリーブの木」を背景としています。
 すでにお話ししたことですので結論的なことをお話ししますと、ゼカリヤ書4章に出てくる金の燭台は、栄光の主がご臨在される主の契約の民を表していると考えられます。また、「二本のオリーブの木」はゼカリヤ書4章14節において、

これらは、全地の主のそばに立つ、ふたりの油そそがれた者だ。

と説明されています。ゼカリヤ書では「ふたりの油そそがれた者」とは大祭司ヨシュアと政治的な指導者ゼルバベルです。
 黙示録ではこれらを背景として、この「ふたりの証人」は、イエス・キリストをあかしし、契約の神である主の御前で王的な役割と祭司的な役割を果たす主の契約の民、キリストのからだである教会を表していると考えられます。
 この「ふたりの証人」については、さらに7節、8節に、

そして彼らがあかしを終えると、底知れぬ所から上って来る獣が、彼らと戦って勝ち、彼らを殺す。彼らの死体は、霊的な理解ではソドムやエジプトと呼ばれる大きな都の大通りにさらされる。彼らの主もその都で十字架につけられたのである。

と記されています。
 この「底知れぬ所から上って来る獣」は、13章1節に、

また私は見た。海から一匹の獣が上って来た。これには十本の角と七つの頭とがあった。その角には十の冠があり、その頭には神をけがす名があった。

と記されている「」のことです。この13章1節に出てくる「海から・・・上って来た」「」は、ダニエル書7章に出てくる「海から上がって来た」「四頭の大きな獣」を背景としています。この黙示録13章1節に出てくる「」は、続く2節に記されていることから分かりますが、ダニエル書7章に出てくる4つの獣の特徴を合わせ持つような、恐ろしい「」です。黙示録11章ではこの「」が「ふたりの証人」を殺します。それは「彼らがあかしを終えると」と言われていますように、「ふたりの証人」すなわち、栄光の主のご臨在の御許にある主の契約の民は、御霊のお働きによって、最後まであかしを続けるのです。そのあかしは途中でかき消されてしまうことはありません。しかし、そのことのゆえに、主の契約の民、キリストのからだである教会は迫害を受け、殺されてしまいます。それは、

 彼らの主もその都で十字架につけられたのである。

と言われていますように、死に至るまでもイエス・キリストの御足の跡を踏み行くことです。
 マタイの福音書16章24節には、

だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。

というイエス・キリストの招きがあります。この「ふたりの証人」すなわち、栄光の主のご臨在の御許にある主の契約の民は、最後まで主イエス・キリストに従っていくのです。
 けれども、ことは、この「ふたりの証人」が殺されて終わってしまうのではありません。黙示録11章11節ー12節には、

しかし、三日半の後、神から出たいのちの息が、彼らに入り、彼らが足で立ち上がったので、それを見ていた人々は非常な恐怖に襲われた。そのときふたりは、天から大きな声がして、「ここに上れ」と言うのを聞いた。そこで、彼らは雲に乗って天に上った。彼らの敵はそれを見た。

と記されています。これはエゼキエル書37章に記されている「干からびた骨の谷」の幻を背景として記されています。

 神から出たいのちの息が、彼らに入り

と言われていますように、「ふたりの証人」は御霊のお働きによって、主イエス・キリストの復活の栄光にあずかるのです。この場合は、イエス・キリストが栄光を受けて死者の中からよみがえられたことは、イエス・キリストが十字架の死に至るまで父なる神さまのみこころに従いとおされたことを、父なる神さまが承認されたことを意味しているのと同じように、主が「ふたりの証人」のあかしをみこころにかなったものとして承認してくださり、公に確証してくださったことを意味していると考えられます。
 この「ふたりの証人」についてのみことばはとても大切なことを示しています。イエス・キリストの証人として、イエス・キリストをあかしする者は、自分の十字架を背負って、イエス・キリストの御足の跡を踏みつつ、イエス・キリストに従っていく者であるということです。そのように、私たちを歩ませてくださるのは、御霊です。ゼカリヤ書4章において「二本のオリーブの木」にたとえられている大祭司ヨシュアと政治的な指導者であったゼルバベルを支えて、エルサレム神殿の再建を実現に至らせたのは、6節に、

 「権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって」と万軍のは仰せられる。

と記されていますように、主の御霊です。
 私たち主の民がイエス・キリストをあかしすることができるのは、黙示録1章5節に記されていますように、イエス・キリストこそが「忠実な証人」であられるからです。イエス・キリストが御霊によって私たちを導いてくださり、私たちにご自身をあかししてくださるとともに、私たちをとおしてご自身のあかしをしてくださいます。マタイの福音書10章18節ー20節には、

また、あなたがたは、わたしのゆえに、総督たちや王たちの前に連れて行かれます。それは、彼らと異邦人たちにあかしをするためです。人々があなたがたを引き渡したとき、どのように話そうか、何を話そうかと心配するには及びません。話すべきことは、そのとき示されるからです。というのは、話すのはあなたがたではなく、あなたがたのうちにあって話されるあなたがたの父の御霊だからです。

と記されています。

 黙示録12章11節には、

兄弟たちは、小羊の血と、自分たちのあかしのことばのゆえに彼に打ち勝った。彼らは死に至るまでもいのちを惜しまなかった。

と記されています。
 ここで「兄弟たち」と言われているのは、言うまでもなく、主の契約の民のことです。そして、この「兄弟たち」が「彼に打ち勝った」と言われているときの「」とは、この前の9節で、

こうして、この巨大な竜、すなわち、悪魔とか、サタンとか呼ばれて、全世界を惑わす、あの古い蛇は投げ落とされた。彼は地上に投げ落とされ、彼の使いどもも彼とともに投げ落とされた。

と言われている、サタンです。
 この9節に 記されていることを、その前の7節から見てみますと、

さて、天に戦いが起こって、ミカエルと彼の使いたちは、竜と戦った。それで、竜とその使いたちは応戦したが、勝つことができず、天にはもはや彼らのいる場所がなくなった。こうして、この巨大な竜、すなわち、悪魔とか、サタンとか呼ばれて、全世界を惑わす、あの古い蛇は投げ落とされた。彼は地上に投げ落とされ、彼の使いどもも彼とともに投げ落とされた。

と記されていますように、サタンの敗北は天における戦いの結果です。この7節ー9節に記されている天における霊的な戦いの描写には、地上にある主の契約の民のことは出てきません。けれども、このこととを受けて、11節では、

兄弟たちは、小羊の血と、自分たちのあかしのことばのゆえに彼に打ち勝った。彼らは死に至るまでもいのちを惜しまなかった。

と言われています。このことは、地にあって「小羊の血」にあずかって罪を贖っていただき、御霊によってイエス・キリストと一つに結ばれている主の民も、天における霊的な戦いに参加していたということを意味しています。エペソ人への手紙6章12節には、

私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。

と記されています。
 「小羊の血」にあずかって罪を贖っていただいて、イエス・キリストと一つに結ばれている主の民は、御霊によって歩みます。ローマ人への手紙8章14節には、

神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。

と記されています。神の御霊に導かれて歩む私たち主の民の、神の子どもとしての歩みそのものがあかしとなります。そのあかしは、思いとことばと行いのすべてにおいてなされます。
 霊的な戦いにおいて、サタンとその陣営は、神の子どもたちのあかしを阻止しようとして働きます。それは、神の子どもたちがあかしする福音を歪めてしまうことによる場合もあります。私たちも福音を耳障りのいいものにしようとする誘惑にさらされ続けます。それでも、「忠実な証人」であられるイエス・キリストの御霊に導かれて真実にまた忠実に福音のみことばをあかしし続ける主の民のあかしを止めるために、サタンとその陣営は、「忠実な証人」であられるイエス・キリストにしたように、そのいのちを奪って、あかしを阻止しようとします。そのことが、「兄弟たち」にも起こりました。

 彼らは死に至るまでもいのちを惜しまなかった。

というみことばは、霊的な戦いにおける不思議な勝利をあかししています。地上にある主の契約の民は、サタンとその陣営による誘惑、不安を煽っての脅し、そして「こんな罪を犯してしまって、それでも神の子どもだというのか」というような罪の告発、さらには、現実的な苦難にさらされています。そのような中で、最後まで、御霊によって導いていただいて、御子イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いの完全さを信じて、神の子どもとしての歩みを続けることが、そして、それだけが霊的な戦いにおける勝利をもたらすのです。

 黙示録の中には、「証人」、「あかし」、「あかしする」ということばが主の民のことを表すのに用いられる個所は、このほかにも、1章2節、12章17節、17章6節、19章10節、20章4節などがあります。これらの個所に記されているみことばは、直接的ではないとしても、すべて、そのあかしのために迫害を受けていることにかかわっています。
 直接的に迫害を受けていることに触れられていない個所は、1章2節と19章10節です。最後にそれに触れておきましょう。
 1章2節には、

ヨハネは、神のことばとイエス・キリストのあかし、すなわち、彼の見たすべての事をあかしした。

と記されています。ここには迫害を思わせることばは出てきません。しかし、「彼の見たすべての事をあかしした」と言われているヨハネは、この時、1章9節に、

 神のことばとイエスのあかしとのゆえに、パトモスという島にいた

と記されていますように、迫害のさ中にいました。
 また、19章10節には、

そこで、私は彼を拝もうとして、その足もとにひれ伏した。すると、彼は私に言った。「いけません。私は、あなたや、イエスのあかしを堅く保っているあなたの兄弟たちと同じしもべです。神を拝みなさい。

と記されています。ここに出てくる「」は、ヨハネに語りかけている御使いのことです。ここで御使いはヨハネに、

 あなたや、イエスのあかしを堅く保っているあなたの兄弟たち

と述べています。ここには明確に迫害のことを述べることばは出てきません。しかし、すでに引用しましたみことばが一貫して示していることに照らしてみますと、「イエスのあかしを堅く保っているあなたの兄弟たち」ということばは、迫害のさ中で、「イエスのあかしを堅く保っているあなたの兄弟たち」のことであるということは、十分、予想できます。
 以上の引用で、黙示録の中で主の契約の民が「証人」であること、また、「あかしする」こと、さらにはその「あかし」がどのようなものであるかが明らかになったと思います。それは、主の御霊によって、イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりにあずかって、神の子どもとなることによって初めて実現するものです。そして、そのあかしは、私たちが神の子どもとして、御霊に導いていただいて、自分の十字架を負いつつ、「忠実な証人」であられる栄光のキリストの御足の跡を踏みながら、イエス・キリストに従って生きることの中で立てられます。


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