黙示録講解

(第73回)


説教日:2012年5月13日
聖書箇所:ヨハネの黙示録1章1節ー8節
説教題:忠実な証人(1)


 ヨハネの黙示録1章4節ー5節前半には、

ヨハネから、アジヤにある七つの教会へ。今いまし、昔いまし、後に来られる方から、また、その御座の前におられる七つの御霊から、また、忠実な証人、死者の中から最初によみがえられた方、地上の王たちの支配者であるイエス・キリストから、恵みと平安が、あなたがたにあるように。

と記されています。
 これは、ヨハネが「アジヤにある七つの教会」に送った挨拶です。ヨハネはこれらの教会の牧会者でしたが、この時、ローマ帝国からの迫害を受け、「パトモスという島」に流刑となっていました。この迫害はヨハネだけでなく、ヨハネが牧会していた「アジヤにある七つの教会」にも及んでいました。
 このようにして、流刑の地である「パトモス」にいたヨハネに、栄光のキリストがご自身を現してくださいました。栄光のキリストは、1章1節のことばで言いますと「すぐに起こるはずの事」をヨハネに啓示してくださいました。そして、ご自身が啓示してくださったことを書き記すように、ヨハネにお命じになりました。ヨハネは栄光のキリストのみことばにしたがってこのヨハネの黙示録を記しました。その意味で、黙示録に記されていることは、やはり1章1節のことばで言いますと、「イエス・キリストの黙示」です。
 1章4節ー5節前半に記されています挨拶の中で、ヨハネは、厳しい迫害にさらされている「アジヤにある七つの教会」に三位一体の神さまからの「恵みと平安」があることを祈り求めています。その際に、ヨハネは父なる神さまのことを、

 今いまし、昔いまし、後に来られる方

と呼んでおり、御霊のことを、

 御座の前におられる七つの御霊

と呼んでいます。そして、イエス・キリストのことを、

忠実な証人、死者の中から最初によみがえられた方、地上の王たちの支配者であるイエス・キリスト

と呼んでいます。
 この挨拶の中では、御父、御子、御霊という通常の(三位一体の位格的な)順序ではなく、イエス・キリストのことが最後に記されています。それは、この後の5節後半ー6節に、イエス・キリストが成し遂げられた贖いの御業についての説明と頌栄が続いているからです。このことは、「アジヤにある七つの教会」に与えられる「恵みと平安」の源として、特に御子イエス・キリストが強調されていることを意味しています。
 これまで3回にわたって、父なる神さまが、

 今いまし、昔いまし、後に来られる方

と呼ばれていることについてお話ししました。そして、2回にわたって、御霊が、

 御座の前におられる七つの御霊

と呼ばれていることについてお話ししました。きょうから、御子イエス・キリストが、

忠実な証人、死者の中から最初によみがえられた方、地上の王たちの支配者であるイエス・キリスト

と呼ばれていることについてお話しします。


 ギリシャ語の原文では、この、

忠実な証人、死者の中から最初によみがえられた方、地上の王たちの支配者であるイエス・キリスト

という呼び方では、「イエス・キリストから」ということばが最初に置かれていて、その後に、「忠実な証人」、「死者の中から最初によみがえられた方」、「地上の王たちの支配者」という三つの呼び方が(同格として)続いています。このように、ここではイエス・キリストのことが「忠実な証人」、「死者の中から最初によみがえられた方」、「地上の王たちの支配者」という三つの呼び方で示されています。
 父なる神さまのことを表す、

 今いまし、昔いまし、後に来られる方

という呼び方も「存在される方」、「存在された方」、「来られる方」という三つの呼び方で呼ばれています。そこには、その意味合いを生かした、新改訳の、

 今いまし、昔いまし、後に来られる方

という訳が示していますように、時間的な観点から記されているという統一性があります。これに対して、イエス・キリストについての、

忠実な証人、死者の中から最初によみがえられた方、地上の王たちの支配者

という呼び方は、そこにどのような統一性があるのか、すぐには分かりません。けれども、これら三つの呼び方にも、統一性があると考えられます。それは、この一つ一つの呼び方についてお話ししながら、明らかにしていきたいと思います。
 きょうは、最初の呼び方である、

 忠実な証人

についてお話しします。[注]

[注]これは「証人」ということば(ホ・マルテュス)と「忠実な者」ということば(ホ・ピストス)の組み合わせで表されています。それで、これを二つに分けて、「証人、忠実な者」というように訳すこともできます。けれども、最初の父なる神さまについての呼び方が、

 今いまし、昔いまし、後に来られる方

というように、三つの呼び方によって構成されており、次の御霊についてのみことばは、

 その御座の前におられる七つの御霊

というように、一つの呼び方ですが、そこに「」という数字が出てきています。そして、このイエス・キリストについての呼び方が、新改訳のように、

忠実な証人、死者の中から最初によみがえられた方、地上の王たちの支配者

という三つの呼び方であれば、「3」ー「7」ー「3」あるいは「3」ー「1」ー「3」というように揃うことになります。
 ただ、この説明は決定的なものではないと思います。というのは、イエス・キリストについては、まさにその「イエス・キリスト」という御名を除外しているからです。
 これも決定的なこととは言えないと思いますが、2章13節に出てくる「わたしの忠実な証人アンテパス」(直訳「アンテパス、わたしの証人、わたしの忠実な者」ということばが新改訳のように「わたしの忠実な証人アンテパス」と訳される可能性が高いことから、1章5節でも「忠実な証人」の可能性が高いと思われます。

 「忠実な証人」と言われているときの「証人」ということば(マルテュス)は、英語のmartyr、「殉教者」を表わすことばのもととなったことばです。この点につきましては、日を改めてお話ししたいと思います。
 この「証人」ということば(マルテュス)とそれに関連することばである「あかし」(マルテュリア)や「あかしする」(マルテュレオー)は、黙示録の中では、イエス・キリストに当てはめられる場合と、主の契約の民に当てはめられる場合があります。それ以外には、15章5節において「天にある、あかしの幕屋」と言われている中に出てきます。
 きょうは、これらのことばがイエス・キリストに当てはめられている個所を取り上げて、お話を進めていきます。その際に、今取り上げている1章5節は、改めて引用することはいたしません。
 1章2節には、

ヨハネは、神のことばとイエス・キリストのあかし、すなわち、彼の見たすべての事をあかしした。

と記されています。この「イエス・キリストのあかし」と訳されていることばは、「イエス・キリストの」という属格を主格的属格と理解して「イエス・キリストがあかししてくださったこと」という意味にも、目的格的属格と理解して「イエス・キリストをあかしするもの」という意味にも取れます。この場合は、1節に、

イエス・キリストの黙示。これは、すぐに起こるはずの事をそのしもべたちに示すため、神がキリストにお与えになったものである。そしてキリストは、その御使いを遣わして、これをしもべヨハネにお告げになった。

と記されていることを受けていることから、「イエス・キリストがあかししてくださったこと」という意味が前面に出ていると考えられます。
 このほか、黙示録には「イエスのあかし」ということばが、5回出てきます。1章9節には、

私ヨハネは、あなたがたの兄弟であり、あなたがたとともにイエスにある苦難と御国と忍耐とにあずかっている者であって、神のことばとイエスのあかしとのゆえに、パトモスという島にいた。

と記されています。
 12章17節には、

すると、竜は女に対して激しく怒り、女の子孫の残りの者、すなわち、神の戒めを守り、イエスのあかしを保っている者たちと戦おうとして出て行った。

と記されています。
 19章10節には、

そこで、私は彼を拝もうとして、その足もとにひれ伏した。すると、彼は私に言った。「いけません。私は、あなたや、イエスのあかしを堅く保っているあなたの兄弟たちと同じしもべです。神を拝みなさい。イエスのあかしは預言の霊です。」

と記されています。この「」は、ヨハネに語りかけている御使いのことです。ここには「イエスのあかし」ということばが2回出てきます。そして、20章4節には、

また私は、多くの座を見た。彼らはその上にすわった。そしてさばきを行う権威が彼らに与えられた。また私は、イエスのあかしと神のことばとのゆえに首をはねられた人たちのたましいと、獣やその像を拝まず、その額や手に獣の刻印を押されなかった人たちを見た。彼らは生き返って、キリストとともに、千年の間王となった。

と記されています。
 これらにおいて、その「イエスのあかし」ということばは、「神のことば」(1章9節、20章4節)あるいは、それと同じような「神の戒め」(12章17節)、「預言の霊」(19章10節)ということばと結びつけられて用いられています。
 これらは、主の民たちが「イエスのあかし」を保っていることを示しています。しかし、その主の民たちが保っている「イエスのあかし」が「イエス・キリストをあかしするもの」を意味しているのか、それとも、「イエス・キリストがあかししてくださったこと」を意味しているのか、あるいは、そのどちらをも意味しているのか、必ずしもはっきりしません。
 とはいえ、これらの個所で、主の民が「イエスのあかし」を保っていると言われているときの、「イエスのあかし」が「イエス・キリストをあかしするあかし」であっても、そのあかしは、イエス・キリストがご自身を啓示してくださったみことばに基づくあかしであることは確かです。その意味では、いずれの場合にも、イエス・キリストがあかししてくださった、ご自身についてのあかしということが考えられます。そして、それぞれの場合において、どちらかが前面に出てきているということであると考えられます。
 これらの個所以外で、イエス・キリストがあかしをしておられることを記している個所は、黙示録22章に三つあります。まず、22章16節には、

わたし、イエスは御使いを遣わして、諸教会について、これらのことをあなたがたにあかしした。わたしはダビデの根、また子孫、輝く明けの明星である。

と記されています。また、18節には、

私は、この書の預言のことばを聞くすべての者にあかしする。もし、これにつけ加える者があれば、神はこの書に書いてある災害をその人に加えられる。

と記されています。そして、20節に、

これらのことをあかしする方がこう言われる。「しかり。わたしはすぐに来る。」アーメン。主イエスよ、来てください。

と記されています。
 これらのみことばは、イエス・キリストがあかしをされる方であることを示していますが、すべて、黙示録に記されていることをあかししておられることを意味しています。
 イエス・キリストが黙示録に記されていることをあかししておられるのは、イエス・キリストが黙示録に記されている救いとさばきの御業を遂行される方であるからです。イエス・キリストは、ご自身が父なる神さまのみこころに従って遂行される救いとさばきの御業を、黙示録をとおして前もってあかししておられるのです。言い換えますと、イエス・キリストはご自身が黙示録であかししておられるように、救いとさばきの御業を遂行され、終わりの日には、最終的なさばきをもってすべての罪を一掃されるとともに、主の民のための救いを完成させてくださり、新しい天と新しい地を再創造されます。
 このように、黙示録に記されていることは、イエス・キリストのあかしですが、それは、終わりの日に至るまで栄光のキリストが遂行される救いとさばきの御業をあかししています。その意味で、イエス・キリストのあかしは確かなものであり、信ずべきものです。
 1章5節でイエス・キリストのことが「忠実な証人」と言われているときの「忠実な」と訳されたことば(ピストス)は、「忠実な」ということとともに「真実な」とか、「信頼できる」とか、「信ずべき」ということをも意味しています。これらのことばは、同時に、一人の人に当てはまるものです。「忠実な」人は、「真実な」人であり、「信頼できる」人であり、「信ずべき」人です。このことは、特に、イエス・キリストに当てはまります。イエス・キリストは終わりの日に至るまで、父なる神さまのみこころに対して忠実に、また、黙示録に示されたご自身のあかしに対して真実に、救いとさばきの御業を遂行されます。また、それゆえに、ご自身のあかしは真実であり、信頼すべきものです。
 これらのことは、イエス・キリストのあかしのみことばとしての黙示録に記されていることから言えることです。それは、初代教会から世の終わりに至るまでの歴史を治めておられる栄光のキリストの、救いとさばきの御業にかかわることです。

 イエス・キリストが「忠実な証人」であると言われることは、また、イエス・キリストの地上の生涯にも当てはまります。それは、同じヨハネがイエス・キリストの地上の生涯を記している福音書においてあかししていることです。
 ヨハネの福音書1章18節には、

いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。

と記されています。
 神さまはこの世界をお造りになった方であり、神さまはこの世界と絶対的に区別されます。私たちの目に見えるものは、光を反射して、私たちの目の網膜に像を結ぶものだけです。それは、少なくとも、ある程度の物質的な大きさをもっているものです。神さまは物質的な方ではありませんので、目で見ることはできません。
 しかしこのことは、神さまを見ることができない理由のほんの一つに過ぎません。さらに、テモテへの手紙第一・6章15節後半ー16節には、

神は祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主、ただひとり死のない方であり、近づくこともできない光の中に住まわれ、人間がだれひとり見たことのない、また見ることのできない方です。誉れと、とこしえの主権は神のものです。アーメン。

と記されています。神さまは存在においても、その豊かさにおいても無限の方です。それで、神さまは、私たち神さまによって造られたものの想像をはるかに越えた方です。また、神さまは栄光において無限の主です。それで、私たちは神さまを直接的に知ることはおろか、想像することさえできないのです。もちろん、人はいくらでも想像することはできますが、人が想像するものは、神さまとはかけ離れたものでしかありません。
 しかし、神さまは御子イエス・キリストをとおしてご自身を私たちにお示しになりました。それで、

父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。

と言われています。また、ヨハネの福音書14章9節には、イエス・キリストがピリポに語られた、

 わたしを見た者は、父を見たのです。

という教えが記されています。
 このように、イエス・キリストは、ただ父なる神さまについて教えられた方ではありません。ご自身の存在そのものが、父なる神さまがどなたであるかをあかししているのです。それで、イエス・キリストの教えはそのまま父なる神さまの教えであり、イエス・キリストの御業はそのまま父なる神さまの御業です。先ほど引用しました、ピリポに対して語られたイエス・キリストの教えに続いて、イエス・キリストが彼に語られた教えを記している14章10節には、

わたしが父におり、父がわたしにおられることを、あなたは信じないのですか。わたしがあなたがたに言うことばは、わたしが自分から話しているのではありません。わたしのうちにおられる父が、ご自分のわざをしておられるのです。

と記されています。また、
 イエス・キリストがなしておられる御業については、ヨハネの福音書5章19節に、

そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分からは何事も行うことができません。父がなさることは何でも、子も同様に行うのです。

というイエス・キリストの教えが記されています。
 このように、イエス・キリストの教えも、イエス・キリストの御業も、そして、何よりも、イエス・キリストご自身が、父なる神さまを忠実にあかししています。
 そして、そのあかしは、イエス・キリストの十字架の死において最もはっきりと示されました。文脈を無視して引用しますが、ヨハネの福音書12章23節、24節には、

すると、イエスは彼らに答えて言われた。「人の子が栄光を受けるその時が来ました。まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。」

と記されています。言うまでもなく「人の子」とは、ご自身の民の贖い主として来られたイエス・キリストのことです。この時、イエス・キリストは、ご自身が「栄光を受けるその時」がきたということを明らかにされました。そして、そのことと関連して、有名な、

一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。

という教えを語られました。これは、ご自身の苦難の死、つまり、十字架の死のことを述べています。ご自身が十字架にかかって死なれることによって、私たちご自身の民の罪を贖って、私たちを罪の結果である死と滅びの中から贖い出してくださり、私たちを永遠のいのちに生かしてくださることを指しています。
 これがイエス・キリストの苦難の死のことであるということは、その後の27節と28節前半に、

今わたしの心は騒いでいる。何と言おうか。「父よ。この時からわたしをお救いください」と言おうか。いや。このためにこそ、わたしはこの時に至ったのです。父よ。御名の栄光を現してください。

というイエス・キリストのことばが記されていることにも表れています。
 このことから分かりますように、イエス・キリストが、

人の子が栄光を受けるその時が来ました。

と言われたときの「栄光」とは、イエス・キリストが、私たちご自身の民のために十字架にかかって死なれ、私たちの罪を完全に贖ってくださって、私たちを永遠のいのちに生かしてくださることに現れている栄光です。
 ヨハネの福音書1章14節には、

ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。

と記されています。この場合、

 この方は恵みとまことに満ちておられた。

と訳されているときの、「この方は」はイエス・キリストを指しています。しかし、これはイエス・キリストの栄光のことを述べている[「満ちて」を表すプレーレースが不変化詞として、「栄光」を説明している]可能性が高いと考えられます。つまり、イエス・キリストの栄光は「恵みとまことに満ち」た栄光であるということです。
 それはまた、父なる神さまの栄光でもあります。先ほど引用しました27節と28節前半のイエス・キリストのことばの最後に、

 父よ。御名の栄光を現してください。

という祈りのことばが記されていました。これに続いて、28節後半には、

そのとき、天から声が聞こえた。「わたしは栄光をすでに現したし、またもう一度栄光を現そう。」

と記されています。これは、イエス・キリストが私たちご自身の民のために十字架にかかって死なれることをとおして、イエス・キリストの栄光が現わされるだけでなく、そのことをとおして、父なる神さまが栄光を現されるということを意味しています。父なる神さまは、イエス・キリストの十字架の死をとおして、ご自身の栄光を現されるのです。言い換えますと、イエス・キリストはその十字架の死をとおして、ご自身の栄光を現されますが、それはそのまま父なる神さまの栄光なのです。
 このことにおいて、黙示録1章5節において、イエス・キリストが「忠実な証人」と言われていることのいちばん奥深くにある意味が明らかにされています。そして、黙示録では、このようなイエス・キリストの御業のことは、その1章5節の後半ー6節において、

イエス・キリストは私たちを愛して、その血によって私たちを罪から解き放ち、また、私たちを王国とし、ご自分の父である神のために祭司としてくださった方である。キリストに栄光と力とが、とこしえにあるように。アーメン。

と記されて、その栄光が讚えられています。
 そして、ご自身の十字架の死をとおして、父なる神さまの栄光を現したイエス・キリストは、その十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げられた贖いの御業に基づいて、終わりの日に至るまで、救いとさばきの御業を遂行されます。それも、ご自身の十字架の死において表わされた父なる神さまの栄光を、さらに豊かに現されるためです。それはまた、私たちご自身の民のためにいのちをお捨てになったご自身の栄光が現れることでもあります。
 ですから、「イエス・キリストの黙示」である黙示録の中で、イエス・キリストは「ほふられた小羊」としてご自身をあかししておられますし、「ほふられた小羊」として栄光を讚えられています。5章11節ー14節には、

また私は見た。私は、御座と生き物と長老たちとの回りに、多くの御使いたちの声を聞いた。その数は万の幾万倍、千の幾千倍であった。彼らは大声で言った。
 「ほふられた小羊は、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美を受けるにふさわしい方です。」
また私は、天と地と、地の下と、海の上のあらゆる造られたもの、およびその中にある生き物がこう言うのを聞いた。
 「御座にすわる方と、小羊とに、賛美と誉れと栄光と力が永遠にあるように。」
また、四つの生き物はアーメンと言い、長老たちはひれ伏して拝んだ。

と記されています。
 私たちも今ここで、

御座にすわる方と、小羊とに、賛美と誉れと栄光と力が永遠にあるように。

という天上の礼拝における讃美に呼応する讃美をもって、父なる神さまと御子イエス・キリストを礼拝しています。そして、そのようにして、私たちが讃美をもって告白する栄光は、御子イエス・キリストが私たちのために十字架にかかってくださったことをとおして現された、御子イエス・キリストの栄光であり、父なる神さまの栄光です。


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