黙示録講解

(第72回)


説教日:2012年5月6日
聖書箇所:ヨハネの黙示録1章1節ー8節
説教題:御座の前におられる七つの御霊(2)


 ヨハネの黙示録1章4節ー5節前半には、
ヨハネから、アジヤにある七つの教会へ。今いまし、昔いまし、後に来られる方から、また、その御座の前におられる七つの御霊から、また、忠実な証人、死者の中から最初によみがえられた方、地上の王たちの支配者であるイエス・キリストから、恵みと平安が、あなたがたにあるように。
と記されています。これは、その当時の手紙の挨拶の形式に従って記されているもので、ヨハネが「アジヤにある七つの教会」に送った挨拶です。
 ヨハネはこれらの教会の牧会者でした。しかし、この時、ローマ帝国においてクリスチャンに対する迫害が激しくなっていて、ヨハネも迫害を受け、「パトモスという島」に流刑となっていました。そのヨハネに、栄光のキリストがご自身を現してくださいました。栄光のキリストは、ご自身が啓示してくださったことを書き記すように、ヨハネにお命じになりました。そのようにしてヨハネが書き記したのが、このヨハネの黙示録です。
 この挨拶の中でヨハネは、厳しい迫害にさらされている「アジヤにある七つの教会」に神さまからの「恵みと平安」があることを祈り求めています。
 これまで3回にわたって、父なる神さまが、
 今いまし、昔いまし、後に来られる方
と呼ばれていることについてお話ししました。そして、先主日には、これに続いて記されています、
 御座の前におられる七つの御霊
が誰のことを指しているかについてお話ししました。この「七つの御霊」と訳されていることばは、「七つの霊」とも訳すことができます。
 先主日は、新約聖書、特に黙示録に記されていることに照らして見ると、この「七つの御霊」あるいは「七つの霊」は神さまの御霊を指しているとということをお話ししました。きょうは、このことを踏まえつつ、この「七つの御霊」ということばの背景となっている旧約聖書のみことばを取り上げてお話しします。


 この「七つの御霊」ということばの背景となっているのはゼカリヤ書4章です。それについてお話しする前に、ゼカリヤが預言をした時代の状況についてお話しします。
 ゼカリヤ書1章1節には、
ダリヨスの第二年の第八の月に、イドの子ベレクヤの子、預言者ゼカリヤに、次のようなのことばがあった。
と記されています。ここには「ダリヨス」が出てきます。これはペルシアの王で、「ダリヨス」1世・ヒュスタスペスのことで、その治世は紀元前522年ー486年です。ですから、「ダリヨスの第二年」は520年のことです。
 ゼカリヤは、バビロンの捕囚から帰還したユダヤ人がエルサレム神殿を再建することを、預言のみことばをもって支え、導きました。それで、エルサレム神殿の再建にかかわる歴史を見ておきましょう。
 エズラ記1章1節ー4節に記されていることから、「ペルシヤの王クロスの第一年」に、主がクロスに働きかけて、エルサレムに主の宮を建設するようにという「おふれ」、勅令を出すように導かれたことが分かります。クロスがバビロンを打ち破り、バビロンに入ったのは539年の10月29日で、公式には、クロスの第1年は538年のニサンの月です(ZEB1巻、865頁、1125頁 ニサンの月は太陰暦によるもので、太陽暦では3月から4月にかけての時期です。ちなみに、この月の14日が過越の祭りの日です)。それで、クロスがエルサレム神殿を再建するようにとの勅令を出したのは、538年であると考えられます。
 エズラ記1章7節、8節には、クロスはネブカデネザルが略奪したエルサレム神殿の用具を「ユダの君主シェシュバツァルに渡した」と記されています。この「シェシュバツァル」についてはよく分からない点があります。新改訳欄外注には「『ゼルバベル』のこと」とありますが、それは一つの可能性です。「シェシュバツァル」が早くに召されて、その後継者がゼルバベルである可能性もありますし、それぞれが別の立場で指導をしていた可能性もあります。
 クロスの勅令を受けて、ユダとエルサレムに帰還した人々のことが、エズラ記2章64節、65節には、
全集団の合計は四万二千三百六十名であった。このほかに、彼らの男女の奴隷が七千三百三十七名いた。また彼らには男女の歌うたいが二百名いた。
と記されています。つまり、約5万人の人がエルサレムとユダに帰ったのです。エズラ記3章7節、8節に記されていますように、その人々は主の神殿を建設するための材料などを準備し、翌年の第2の月に工事を始めました。
 しかし、エズラ記4章に記されていますように、外部からの妨害工作がなされ、神殿建設は中止させられてしまいます。その妨害工作をしたのは、サマリヤの住人たちでした。列王記第二・17章23節には、北王国イスラエルを滅ぼしたアッシリヤの王が、北王国イスラエルの民をサマリヤの地から移し、
バビロン、クテ、アワ、ハマテ、そして、セファルワイムから人々を連れて来て、イスラエルの人々の代わりにサマリヤの町々に住ませた
と記されています。続く24節ー33節に記されていますように、この人々は自分たちの神々を拝みながら、同時に、主、ヤハウェも自分たち流の仕方で拝んでいました。エズラ記4章に記されていますように、この人々の子孫が、自分たちもエルサレム神殿の建設に参加したいと申し出ましたが、ゼルバベルたちはそれを断りました。4章4節、5節には、
すると、その地の民は、建てさせまいとして、ユダの民の気力を失わせ、彼らをおどした。さらに、議官を買収して彼らに反対させ、この計画を打ちこわそうとした。このことはペルシヤの王クロスの時代からペルシヤの王ダリヨスの治世の時まで続いた。
と記されています。実際に、このエルサレム神殿建設が中断したのは、4章7節ー24節に記されていますように、アルタシャスタ王の命令によるものです。4章最後の23節、24節には、
こアルタシャスタ王の書状の写しがレフムと、書記官シムシャイと、その同僚の前で読まれると、彼らは急いでエルサレムのユダヤ人のところに行って、武力をもって彼らの働きをやめさせた。うして、エルサレムにある神の宮の工事は中止され、ペルシヤの王ダリヨスの治世の第二年まで中止された。
と記されています。
 先ほどお話ししましたように、クロスがエルサレム神殿を再建するようにとの勅令を出したのが538年で、「ダリヨスの第二年」は520年ですので、クロスの勅令が出てから18年の年が経っても、神殿建設は中断した状態であったことになります。しかも、それは、悪意ある者たちのはかりごとによるとはいえ、その当時最強の帝国であるペルシャの王の命令によることでした。そのような状態が続いてしまいますと、絶望感やあきらめのような思いがわいてきたこともあったでしょう。
 もう一つお話ししておきますと、クロスは530年に戦死しますが、その子であるカンビュセスが王位に就きます。彼はエジプトに遠征してこれを制圧しますが、その間に謀反の知らせが入り、エジプトでいのちを絶ってしまいます。ただし、カンビュセスの死は、自分の剣によるものであるけれど、事故であるという見方もあります。それは522年のことです。その王位を略奪したのは、カンビュセスの弟であると僭称した、ガウマタです。ダリヨスはカンビュセスの家来ですが、2ヶ月後にはガウマタを撃ち殺します。さらに、続く2年ほどの間に、9人の王と16回の戦いをして、王位を確立しました。ですから、「ダリヨスの第二年」というのは、ようやく彼がその王位を確立した時期に当たります。
 エズラ記5章1節、2節には、
さて、預言者ハガイとイドの子ゼカリヤの、ふたりの預言者は、ユダとエルサレムにいるユダヤ人に、彼らとともにおられるイスラエルの神の名によって預言した。そこで、シェアルティエルの子ゼルバベルと、エホツァダクの子ヨシュアは立ち上がり、エルサレムにある神の宮を建て始めた。神の預言者たちも彼らといっしょにいて、彼らを助けた。
と記されています。
 ここに「シェアルティエルの子ゼルバベルと、エホツァダクの子ヨシュア」が出てきます。ゼルバベルは政治的な指導者で、ヨシュアは大祭司です。この二人がエルサレム神殿の再建の指導者となっています。それで、再建された神殿のことは、一般に、「ゼルバベルの神殿」と呼ばれます。
 続く3節以下に記されていますように。エルサレム神殿の建設が始まっているということが「川向こうの総督タテナイと、シェタル・ボズナイと、その同僚の川向こうにいる知事たち」によって、ダリヨスに報告され、その指示を仰ぐことになりました。ゼカリヤが預言をし、神殿の再建が始まったのはダリヨスの第2年で、ようやく反乱が収まろうとしていた時期ですから、総督たちの警戒は当然のものであったでしょう。これを受けて、ダリヨスは古い文書の記録を調べさせ、クロスがエルサレム神殿を再建する勅令を出していることを知るようになります。それで、6章6節ー12節に記されていますように、ダリヨスはエルサレム神殿の建設を経済的にも援助し、進めさせるように命令しました。そして、6章15節には、
こうして、この宮はダリヨス王の治世の第六年、アダルの月の三日に完成した。
と記されています。
 ゼカリヤが預言をしたのは、妨害工作がなされていた厳しい状況においてのことでした。
 黙示録の背景となっているゼカリヤ書4章は、全体で14節あります。そのすべてを引用しますと、そこには、
私と話していた御使いが戻って来て、私を呼びさましたので、私は眠りからさまされた人のようであった。彼は私に言った。「あなたは何を見ているのか。」そこで私は答えた。「私が見ますと、全体が金でできている一つの燭台があります。その上部には、鉢があり、その鉢の上には七つのともしび皿があり、この上部にあるともしび皿には、それぞれ七つの管がついています。また、そのそばには二本のオリーブの木があり、一本はこの鉢の右に、他の一本はその左にあります。」さらに私は、私と話していた御使いにこう言った。「主よ。これらは何ですか。」私と話していた御使いが答えて言った。「あなたは、これらが何か知らないのか。」私は言った。「主よ。知りません。」すると彼は、私に答えてこう言った。「これは、ゼルバベルへののことばだ。『権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって』と万軍のは仰せられる。大いなる山よ。おまえは何者だ。ゼルバベルの前で平地となれ。彼は、『恵みあれ。これに恵みあれ』と叫びながら、かしら石を運び出そう。」ついで私に次のようなのことばがあった。「ゼルバベルの手が、この宮の礎を据えた。彼の手が、それを完成する。このとき、あなたは、万軍のが私をあなたがたに遣わされたことを知ろう。だれが、その日を小さな事としてさげすんだのか。これらは、ゼルバベルの手にある下げ振りを見て喜ぼう。これらの七つは、全地を行き巡るの目である。」私はまた、彼に尋ねて言った。「燭台の右左にある、この二本のオリーブの木は何ですか。」私は再び尋ねて言った。「二本の金の管によって油をそそぎ出すこのオリーブの二本の枝は何ですか。」すると彼は、私にこう言った。「あなたは、これらが何か知らないのか。」私は言った。「主よ。知りません。」彼は言った。「これらは、全地の主のそばに立つ、ふたりの油そそがれた者だ。」
と記されています。
 これはゼカリヤが見た幻による啓示についての、ゼカリヤと御使いのやり取りです。ゼカリヤは自分が見たものについて、
私が見ますと、全体が金でできている一つの燭台があります。その上部には、鉢があり、その鉢の上には七つのともしび皿があり、この上部にあるともしび皿には、それぞれ七つの管がついています。
と述べています。この「燭台」は金でできているという点では、主の聖所にある燭台と同じです。しかし、二つの燭台は形が違っています。主の聖所にあった燭台のことは、出エジプト記25章31節ー35節に記されています。それは、よくその画像を見ることがありますが、燭台から左右に三つずつの枝が出ていて、それぞれが上の方に延びていて、上で高さがそろっています。それぞれの先と燭台の支柱自体の先に花弁の形をした「ともしび皿」受けがあり、そこに置かれた七つの「ともしび皿」に灯がともるというものです。これに対して、ゼカリヤが見た燭台は、細かい点はよく分からないのですが、おそらく筒状の燭台で、その上に鉢があり、その鉢の縁に七つのともしび皿があって、それに灯がともるという形です。新改訳が、
 それぞれ七つの管がついています
と訳している「」は、おそらく、お湯を沸かすやかんの「口」のように、まっすぐ突き出た丸い「口」であると考えられます。「口」と訳しても何のことか分かりませんので、その形から「」と訳しているのではないかと思われます。古代のランプにそのような「口」がついていて、そこで灯がともされました。
 ゼカリヤの見た幻では、その燭台の両脇に「二本のオリーブの木」がありました。
 4節に記されていますように、ゼカリヤは自分が見たこれらのものについて、御使いに、
 主よ。これらは何ですか。
と問いかけます。この場合の「」(アドーニー)は、契約の神である主、ヤハウェではなく、人間の主人にも用いられることばです。
 もちろん、2節、3節に記されていますように、ゼカリヤは、それらが金の燭台であり、「二本のオリーブの木」であることは分かっています。それで、ゼカリヤはこれらのものの意味を問いかけていることになります。これに対して、御使いはゼカリヤに、
 あなたは、これらが何か知らないのか。
と問い返します。これも、これらのものの意味していることが何かを問い返すものです。これに対してゼカリヤは、
 主よ。知りません。
と答えます。
 しかし、それについての説明は与えられていません。ただ、「二本のオリーブの木」については、最後の14節に記されていますように、御使いによって、
 これらは、全地の主のそばに立つ、ふたりの油そそがれた者だ。
と説明されています。この「ふたりの油そそがれた者」は、先ほど取り上げました、政治的な指導者であるゼルバベルと大祭司ヨシュアです。
 けれども、その燭台が何であるかは説明されてはいません。黙示録1章20節には、
わたしの右の手の中に見えた七つの星と、七つの金の燭台について、その秘められた意味を言えば、七つの星は七つの教会の御使いたち、七つの燭台は七つの教会である。
という栄光のキリストのみことばが記されています。ここでは、
 七つの燭台は七つの教会である。
と言われていますが、それは栄光のキリストの「右の手の中に」あるとも言われています。また、1章13節には、
それらの燭台の真ん中には、足までたれた衣を着て、胸に金の帯を締めた、人の子のような方が見えた。
と記されています。栄光のキリストは「七つの教会」の間にご臨在しておられ、それを確かな御手をもって守り、支え、導いておられます。
 もしヨハネに与えられた啓示に出てくる燭台が、このゼカリヤの見た幻を背景としているとしますと、それは主の栄光の御臨在を中心とした、主の契約の民を象徴的に表すことになります。けれども、栄光のキリストのみことばに出てくる「燭台」は主の聖所にあって、そこに主の栄光の御臨在があることを象徴的に示していた「燭台」を背景としていると考えられますので、それとは形が違うゼカリヤが幻のうちに見た燭台も主の契約の民を意味するかははっきりしません。
 そうではあっても、一つのことが考えられます。主がゼカリヤにこの幻を示してくださったのは、ゼカリヤに啓示を与えてくださるためであって、それを隠すためではありません。そうであれば、御使いが「二本のオリーブの木」が表しているものについて説明をしながら、燭台が表しているものについて説明していないのは、それをゼカリヤに説明する必要がなかったからであると考えられます。
 また、ゼカリヤが最後に尋ねているのは、
燭台の右左にある、この二本のオリーブの木は何ですか。
という問いかけであり、さらに重ねてなされた、
二本の金の管によって油をそそぎ出すこのオリーブの二本の枝は何ですか。
という問いかけです。ここからは、「二本のオリーブの木」のことをどうしても知りたいというゼカリヤの思いが読み取れます。しかし、ゼカリヤは金の燭台が何であるかを問いかけてはいません。このことも、ゼカリヤが分からなかったのは「二本のオリーブの木」のことであって、金の燭台のことは理解していたということを示唆しています。
 このようなことから、金の燭台は、それが主の聖所にあった金の燭台とは形が違っていたとしても、同じもの、すなわち、主の栄光の御臨在を中心とした、主の契約の民を表していたと考えられます。
 御使いは、ゼカリヤが見た幻に示されていることの説明をする前に、6節に記されていますように、エルサレムに主の神殿を再建するための指導者である「ゼルバベルへののことば」をゼカリヤに示しています。それは、
「権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって」と万軍のは仰せられる。
というものです。ここで「権力」と訳されていることば(ハイル)は基本的に力や強さを表します。そして、これとのかかわりで「富」とか「軍隊」をも意味しています。また「能力」(コァハ)は、この訳のとおり、基本的に、物事をなす力を表しています。ここでは、この二つの同義語を重ねて、人のあらゆる力を表しています。主の神殿が建てられるのは、巨万の富や軍事的な力をも含めた人間のあらゆる力をもってしても成し遂げられるものではなく、ただ、「万軍の」の御霊によっているというのです。
 創世記1章2節に、
地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた。
と記されていますように、主の御霊は、天地創造の御業の初めに、この世界にご臨在しておられて、この世界をご自身が臨在される神殿として整え、これを「人の住みか」として形造られました。詩篇104篇30節には、さまざまな生き物たちについて、
 あなたが御霊を送られると、彼らは造られます。
 また、あなたは地の面を新しくされます。
と記されています。また、エゼキエル書36章25節ー27節には、
わたしがきよい水をあなたがたの上に振りかけるそのとき、あなたがたはすべての汚れからきよめられる。わたしはすべての偶像の汚れからあなたがたをきよめ、あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。わたしの霊をあなたがたのうちに授け、わたしのおきてに従って歩ませ、わたしの定めを守り行わせる。
と記されています。主の御霊はご自身の契約の民を罪の汚れからきよめ、その内側の本性から新しく造り変えてくださいます。また、同じエゼキエル書37章1節ー14節に記されているエゼキエルが見た幻では、干からびた骨を生き返らせたのは主の御霊です。
 もちろん、巨万の富を用いて、高価な材料を揃え、有能な人材を結集させてことに当たれば、壮大で華麗な建物としての神殿はできます。しかし、それは「万軍の」ヤハウェがその栄光のうちにご臨在される神殿ではありません。栄光の主は御霊によって、主の神殿にご臨在されます。また、栄光の主はご自身がご臨在される神殿を、ご自身の御霊によって建設されます。
 ゼカリヤ書4章に記されています、ゼカリヤが見た幻による啓示の中心は、この6節の、
「権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって」と万軍のは仰せられる。
というみことばにあります。
 このことを踏まえたうえで、黙示録1章4節に記されているヨハネの挨拶に出てくる「御座の前におられる七つの御霊」の背景となっているのは、ゼカリヤ書4章10節に記されているみことばを見てみましょう。それは、
 これらの七つは、全地を行き巡るの目である。
という御使いによって語られたことばです。
 これは直接的には、ヨハネの挨拶に出てくる「御座の前におられる七つの御霊」とはつながりません。しかし、先週引用しました黙示録5章6節に記されています、
さらに私は、御座――そこには、四つの生き物がいる――と、長老たちとの間に、ほふられたと見える小羊が立っているのを見た。これに七つの角と七つの目があった。その目は、全世界に遣わされた神の七つの御霊である。
というみことばとのかかわりが考えられます。ここに出てくる小羊の「七つの目」は、ゼカリヤ書4章10節で、
 これらの七つは、全地を行き巡るの目である。
と言われている「の目」に対応しています。また、先週お話ししましたように、黙示録5章6節の「全世界に遣わされた」ということばは、文字通りには「全地に遣わされた」ということで、ゼカリヤ書4章10節で「全地を行き巡るの目」と言われているときの「全地を行き巡る」と対応しています。
 このように、黙示録5章6節出てくる「全地に遣わされた神の七つの御霊」の背景には、ゼカリヤ書4章10節に記されている、
 これらの七つは、全地を行き巡るの目である。
というみことばがあると考えられます。このみことばは、その前の9節から記されている、
ゼルバベルの手が、この宮の礎を据えた。彼の手が、それを完成する。このとき、あなたは、万軍のが私をあなたがたに遣わされたことを知ろう。だれが、その日を小さな事としてさげすんだのか。これらは、ゼルバベルの手にある下げ振りを見て喜ぼう。これらの七つは、全地を行き巡るの目である。
という主のみことばの最後に出てきます。これは、ゼルバベルがエルサレムにある主の神殿、契約の神である主がご臨在してくださるための神殿を完成させるようになることを述べたものです。それは、6節に記されていますように、
 権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって
なされることでした。このことから、9節、10節に記されている、主の神殿の完成にかかわる主のみことばの最後に出てくる、
 これらの七つは、全地を行き巡るの目である。
というみことばは主の御霊のことを述べていると考えられます。
 ゼルバベルがエルサレムに主の神殿を再建するようになるために、主はクロスをお用いになって、捕囚になっていたユダの民を解放してくださいました。さらに、クロスの心を動かされ、主の神殿を再建する勅令を出すようにされました。そして、主の神殿を再建しようと志した5万人ほどのユダヤ人たちを起こしてくださいました。そして、さまざまな妨害工作によって、18年間も中断を余儀なくされていた神殿の建設を再開するために、ゼカリヤやハガイをとおして、預言のみことばを与えてくださいました。また、「川向こうの総督」たちの訴えを用いて、ダリヨスがクロスの勅令を発見して、主の神殿の再建を推進するようにとの勅令を出すように導かれました。これらすべては、主の御霊によることでした。
 このようにして、主はご自身の御霊によって、かつて主のさばきを受けてバビロンという世界最強の帝国の捕囚となっていたユダの民を、ご自身の契約の約束に基づいて解放してくださり、主のご臨在を中心として生きる祝福のうちへと導き入れてくださいました。ヨハネはこのことをゼカリヤの預言のみことばに照らして理解していました。それで、ローマ帝国の厳しい迫害にさらされている「アジヤにある七つの教会」のために、その牧会者として、契約の神である主の御霊のお働きによる「恵みと平安」を祈り求めています。
 契約の神である主は、ゼカリヤの時代においても、ヨハネの時代においても、ご自身の契約に対して真実であられました。主は今日においても真実に、私たち主の契約の民をご自身の御霊によって、ご自身の御臨在の御許に生きることができるように支え、導いてくださっています。


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