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説教日:2012年4月29日 |
これまで3回にわたって、ヨハネが、この挨拶の中で、父なる神さまのことを、 今いまし、昔いまし、後に来られる方 と呼んでいることについてお話ししました。きょうは、これに続いて記されています、 また、その御座の前におられる七つの御霊から、 ということばについてお話しします。 この「七つの御霊」が誰を指しているかにつきましては、見方が分かれています。 具体的なことをお話しする前に、お話ししておきたいことがあります。新改訳が「七つの御霊」と訳したことば(タ・ヘプタ・プネウマタ)は「七つの御霊」とも訳せますし、「七つの霊」とも訳せます。新改訳は、これは神の御霊のことであると理解して「七つの御霊」と訳しています。けれども、もしこれが神の御霊でないとしたら、「七つの霊」と訳すことになります。 ここでは代表的な二つの見方を取り上げてお話ししたいと思います。一つは、新改訳のように、これは「七つの御霊」すなわち、神の御霊のことであると理解するものです。もう一つは、これは「七つの霊」で、御使いたちを表していると理解するものです。 最初に、これは御使いたちのことであるという見方を取り上げます。これにも、さらに二つの見方があります。 一つは、旧約聖書の啓示が最後の預言者であるマラキとともに終わって、御子イエス・キリストが約束の贖い主として来られるまでの間に、約4百数十年年の時が過ぎました。正確なマラキ書の年代が分かりませんので確かなことは言えませんが、マラキ書に記されていることから、それは430年ー450年くらいの期間であろうと考えられています。その期間を「中間時代」と呼びます。その中間時代に、ユダヤ人共同体において、さまざまな文書が記されました。その一つに、「第一エノク書」があります。これはさまざまな部分が寄せ集められたものであると考えられています。また、バビロニアの神話や天体に関連する宗教などの影響を受けたものでもあると考えられています。その第一エノク書の20章に、ウリエル、ラファエル、ラグエル、ミカエル、サラカエル、ガブリエル、レミエルという七人の天使たちが出てきます。その一人一人に「聖なる天使たちの一人」ということばが付けられており、それぞれは、それぞれに異なったものの見張り番としての役割を果たしているとされています。たとえば、黙示録にその名が出てくるミカエルは、人類のほとんどすべてと混沌の見張り番をしているとされています(ZEB、第1巻・185頁、2巻・335ー338頁)。 この見方は、黙示録1章4節に記されている、新改訳で「七つの御霊」と訳されていることばは、第一エノク書に出てくる七人の天使たちを表しているというものです。 この見方には問題があります。 ヨハネはこの挨拶を記したとき、すでに、ヨハネにご自身を現してくださった栄光のキリストから与えられた啓示を受けていて、その啓示に基づいて、この挨拶を記していると考えられます。というのは、新改訳が「七つの御霊」と訳していることば(タ・ヘプタ・プネウマタ)は、ここだけに出てくるものではなく、この後にも3回出てくるからです。順次それを見てみますと、3章1節には、 また、サルデスにある教会の御使いに書き送れ。 「神の七つの御霊、および七つの星を持つ方がこう言われる。・・・ と記されています。また、4章5節には、 御座からいなずまと声と雷鳴が起こった。七つのともしびが御座の前で燃えていた。神の七つの御霊である。 と記されています。そして、5章6節には、 さらに私は、御座――そこには、四つの生き物がいる――と、長老たちとの間に、ほふられたと見える小羊が立っているのを見た。これに七つの角と七つの目があった。その目は、全世界に遣わされた神の七つの御霊である。 と記されています。 このように、ヨハネが栄光のキリストから与えられた啓示の中に「七つの御霊」(「七つの霊」)が出てきています。それで、ヨハネが「アジヤにある七つの教会」に、 今いまし、昔いまし、後に来られる方から、また、その御座の前におられる七つの御霊から、また、忠実な証人、死者の中から最初によみがえられた方、地上の王たちの支配者であるイエス・キリストから、恵みと平安が、あなたがたにあるように。 という自分の挨拶を記したときに「七つの御霊」(「七つの霊」)に触れているのは、栄光のキリストから与えられたこれらの啓示に基づいてのことであったと考えられます。 ですから、ヨハネの挨拶の中に出てくる「七つの御霊」(「七つの霊」)が誰であるかは、その後に出てくるみことばの中で用いられている「七つの御霊」(「七つの霊」)ということばが誰を指しているかが分かれば、おのずから明らかになります。 このことについてお話しする前に、今取り上げている見方の問題の一つをお話しします。それは、黙示録には第一エノク書に出てくる七人の天使たちのことが出てこないということです。確かに、12章7節、8節には、 さて、天に戦いが起こって、ミカエルと彼の使いたちは、竜と戦った。それで、竜とその使いたちは応戦したが、勝つことができず、天にはもはや彼らのいる場所がなくなった。 と記されていて、「ミカエル」が出てきます。ちなみに、黙示録に「ミカエル」が出てくるのはここだけですし、それ以外の天使の名前は、黙示録には出てきません。「ミカエル」という名は、先ほど触れました第一エノク書に出てくる七人の天使たちの一人の名です。しかし、黙示録12章7節に出てくる「ミカエル」の背景になっているのは、旧約聖書のダニエル書です。ダニエル書10章13節では、ミカエルのことが「第一の君のひとり、ミカエル」と言われていますし、21節では「あなたがたの君ミカエル」と呼ばれていて、ミカエルが主の契約の民を守る御使いであることが示されています。そして、ダニエル書の最後の章である12章の1節には、 その時、あなたの国の人々を守る大いなる君、ミカエルが立ち上がる。国が始まって以来、その時まで、かつてなかったほどの苦難の時が来る。しかし、その時、あなたの民で、あの書にしるされている者はすべて救われる。 と記されています。これは、神話的な世界の話ではなく、実際に起こってくる歴史的な状況を預言的に踏まえつつ、終わりの日のことを指し示すみことばです。そしてこれが、黙示録12章7節に記されていることの背景となっています。その意味で、実質的に、黙示録には、第一エノク書の七つの天使たちのことは出てきません。 ヨハネは、自分の牧会する群れである「アジヤにある七つの教会」に向けて、実に切実な思いをもって、挨拶を記しています。その挨拶の中で、栄光のキリストから与えられた啓示に基づいて、「アジヤにある七つの教会」に「恵みと平安」が与えられることを祈り求めています。そして、その「恵みと平安」の源は、「今いまし、昔いまし、後に来られる方」すなわち父なる神さまと「忠実な証人、死者の中から最初によみがえられた方、地上の王たちの支配者であるイエス・キリスト」だけでなく、「御座の前におられる七つの御霊」(「御座の前にいる七つの霊」)でもあると理解しています。このように見ますと、「御座の前におられる七つの御霊」(「御座の前にいる七つの霊」)は父なる神さまと御子イエス・キリストと並べられるほどの存在であることが分かります。これは、「御座の前におられる七つの御霊」(「御座の前にいる七つの霊」)が誰であるかを理解するうえでとても大切なことです。そのような存在が、もし第一エノク書に出てくる七人の天使たちであるとしたら、彼らのことが黙示録のどこかに明確に、少なくとも、それと分かる形で出てくるはずです。しかし、黙示録には、彼らのことをそれと分かる形で示すことばはありません。 「七つの御霊」(「七つの霊」)は御使いたちのことであるとする見方には、もう一つの理解の仕方があります。黙示録2章ー3章には「アジヤにある七つの教会」のそれぞれに対して語られた栄光のキリストのみことばが記されています。たとえば、2章1節ー7節には、エペソにある教会に対して語られた栄光のキリストのみことばが記されています。その最初のことばは、 エペソにある教会の御使いに書き送れ。 となっています。この後に記されています、6つの教会に対して語られた栄光のキリストのみことばも、すべて、「・・・にある教会の御使いに書き送れ。」ということばで始まっています。それで、「アジヤにある七つの教会」のそれぞれに「御使い」がいて、それは合わせると七人の御使いになります。この見方は、「七つの御霊」(「七つの霊」)は、「アジヤにある七つの教会」のそれぞれの「御使い」たちを指していると理解するものです。 この見方にも問題があります。 これらの「御使い」が誰であるかについても見方が分かれていますが、それは措いておきます。それが誰であれ、これらの「御使い」は「アジヤにある七つの教会」のそれぞれに属していて、それを代表的に表しています。その意味では、これらの「御使い」は、むしろ、契約の神である主からの「恵みと平安」にあずかる側にいるのであって、「恵みと平安」を与える側にはいないと考えられます。 また、2章ー3章においては、これらの「御使い」ははっきりと「御使い」と言われているのですから、ヨハネが自分の挨拶の中で、これらの「御使い」たちからの「恵みと平安」を祈り求めているのであれば、はっきりと、「それぞれの教会の『御使い』たちから」と言うことができたはずです。それを、曖昧な「七つの霊」からと言い換えることはおかしなことです。また、何よりも、黙示録の中では、このほかに、「御使い」が「霊」として表されている事例がありません。 さらに、先ほど引用しました黙示録5章6節には、 さらに私は、御座――そこには、四つの生き物がいる――と、長老たちとの間に、ほふられたと見える小羊が立っているのを見た。これに七つの角と七つの目があった。その目は、全世界に遣わされた神の七つの御霊である。 と記されています。ここでは「七つの御霊」のことが「全世界に遣わされた神の七つの御霊」と言われていました。もし、ヨハネの挨拶の中に出てくる「七つの御霊」(「七つの霊」)が、「アジヤにある七つの教会」のそれぞれの「御使い」たちを指しているとしますと、彼らはまた「全世界に遣わされた」ものでもあるという、おかしなことになってしまいます。 この「全世界に遣わされた」と訳されていることばは、直訳では「全地に遣わされている」となります。この「全地」の「地」(ゲー)は「世界」をも意味しますが、基本的には、「地」を意味しています。ここでは、これが天における御座の前ことが記されています。その意味で、これは「天」との対比で見られた「地」を意味していると考えられます。そして、この「七つの御霊」(「七つの霊」)は、その意味での「全地」に遣わされています。厳密に言いますと、このようなことに当てはまるのは、その存在において無限であられる御霊であると考えられますが、七人の御使いが順次「全地」を行き巡っているというようにも考えられます。それで、このこと自体からは、この「七つの御霊」(「七つの霊」)が御霊なのか御使いなのかを決定することは難しいのですが、これには、もう一つのことがかかわっています。 この5章6節では、この「七つの御霊」(「七つの霊」)が「全地に遣わされている」と言われているときの「遣わされている」ということは(完了時制分詞で表されていて)、すでに遣わされていて、その状態が、ヨハネが黙示録を記した時も、ずっと続いているという意味合いを伝えています。ところが、1章4節に記されているヨハネの挨拶においては、「七つの御霊」(「七つの霊」)は、父なる神さまの「御座の前に」いると言われています(エイミ動詞が省略されています)。これは、「七つの御霊」(「七つの霊」)は、常に、父なる神さまの「御座の前に」いるという意味合いを伝えています。この二つのことは、矛盾するという気がします。しかし、「七つの御霊」(「七つの霊」)が空間的、時間的な限界を越えた方であれば、その方は同時にどこにでも御臨在することができる方ですので、その矛盾はなくなります。 さらに、「七つの御霊」(「七つの霊」)が御使いであるとすることには、もう一つの大きな問題があります。それは、聖書の中では、一貫して、「恵みと平安」は契約の神である主ご自身から与えられるものであるということ、「恵みと平安」の源は契約の神である主であるということが示されています。少し前に、新約聖書の書簡の挨拶がどのように記されているかを具体的に見たことがあります。最も標準的なことばは、ローマ人への手紙1章7節に記されています、 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安があなたがたの上にありますように。 という祈りのことばです。コリント人への手紙第一、第二、ガラテヤ人への手紙、エペソ人への手紙、ピリピ人への手紙、テサロニケ人への手紙第二、テモテへの手紙第一、第二、テトスへの手紙、ピレモンへの手紙でほ、このローマ人への手紙に記されています祈りのことばと、ほぼ同じです。コロサイ人への手紙1章2節には、 どうか、私たちの父なる神から、恵みと平安があなたがたの上にありますように。 と記されていて、「主イエス・キリストから」に相当することばがありません。また、テサロニケ人への手紙第一、ペテロの手紙第一、そしてユダの手紙では「私たちの父なる神と主イエス・キリストから」に相当することばはありません。ペテロの手紙第二・1章2節には、 神と私たちの主イエスを知ることによって、恵みと平安が、あなたがたの上にますます豊かにされますように。 と記されています。また、ヤコブの手紙には挨拶のことばはありますが、これらのように、恵みと平安を祈り求めることばはありません。 これらの用例から、新約聖書の書簡の挨拶において「恵みと平安」の源が記されるときには、父なる神さまと主イエス・キリスト、あるいは、父なる神さまに限られていることが分かります。それで、黙示録でヨハネが「恵みと平安」の源として御使いたちを加えているということは考えにくいことです。 これらすべてのことは、黙示録に出てくる「七つの御霊」(「七つの霊」)ということばが、神の御霊のことであるということを示唆しています。 これに対しまして、この「七つの御霊」(「七つの霊」)については、「今いまし、昔いまし、後に来られる方」すなわち父なる神さまの「御座の前に」いると言われていることから、これは、天上の極めて高い地位にいる存在ではあるけれども、仕えるもののことであって、父なる神さまや御子イエス・キリストと同列に並べられる存在ではないという見方があります(佐竹明『ヨハネの黙示録』中巻、51頁)。 しかし、この見方には問題があります。というのは、このヨハネの挨拶の中で、イエス・キリストのことは、 忠実な証人、死者の中から最初によみがえられた方、地上の王たちの支配者であるイエス・キリスト と言われています。これは確かに栄光のキリストのことを記しています。しかし、それも、約束のメシヤとして、父なる神さまのみこころに従って贖いの御業を成し遂げてくださり、さらに、この時も、まことの牧者として、「アジヤにある七つの教会」のためにお働きくださっておられるイエス・キリストのことを記しています。 さらに、この後の描写において、この栄光のキリストのことがどのように描かれているかを見ましょう。 まず、この挨拶の続きを記している5節後半と6節には、 イエス・キリストは私たちを愛して、その血によって私たちを罪から解き放ち、また、私たちを王国とし、ご自分の父である神のために祭司としてくださった方である。キリストに栄光と力とが、とこしえにあるように。アーメン。 と記されています。栄光のキリストが讃美されているのは、イエス・キリストが父なる神さまのみこころに従って、すなわち仕える者として、贖いの御業を成し遂げられたことを受けてのことです。 イエス・キリストの栄光は、上から押さえつけるような威圧的な栄光ではなく、私たちご自身の民のためにいのちをお捨てになったことに現れている栄光で、ヨハネの福音書1章14節のことばで言えば、「恵みとまことに満ちた栄光」です。それはまた、父なる神さまがどのような方であるかを現している栄光です。 さらに、天上の光景のことを記している5章6節ー14節には、 さらに私は、御座――そこには、四つの生き物がいる――と、長老たちとの間に、ほふられたと見える小羊が立っているのを見た。これに七つの角と七つの目があった。その目は、全世界に遣わされた神の七つの御霊である。小羊は近づいて、御座にすわる方の右の手から、巻き物を受け取った。彼が巻き物を受け取ったとき、四つの生き物と二十四人の長老は、おのおの、立琴と、香のいっぱい入った金の鉢とを持って、小羊の前にひれ伏した。この香は聖徒たちの祈りである。彼らは、新しい歌を歌って言った。 「あなたは、巻き物を受け取って、その封印を解くのにふさわしい方です。あなたは、ほふられて、その血により、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から、神のために人々を贖い、私たちの神のために、この人々を王国とし、祭司とされました。彼らは地上を治めるのです。」 また私は見た。私は、御座と生き物と長老たちとの回りに、多くの御使いたちの声を聞いた。その数は万の幾万倍、千の幾千倍であった。彼らは大声で言った。 「ほふられた小羊は、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美を受けるにふさわしい方です。」 また私は、天と地と、地の下と、海の上のあらゆる造られたもの、およびその中にある生き物がこう言うのを聞いた。 「御座にすわる方と、小羊とに、賛美と誉れと栄光と力が永遠にあるように。」 また、四つの生き物はアーメンと言い、長老たちはひれ伏して拝んだ。 と記されています。 ここでは、父なる神さまが「御座にすわる方」として示されており、イエス・キリストは「ほふられたと見える小羊」あるいは「ほふられた小羊」として示されています。そして、イエス・キリストは父なる神さまの御座の前に立っています。まさに、イエス・キリストは仕える者として立っています。しかし、13節に記されている讃美では、 御座にすわる方と、小羊とに、賛美と誉れと栄光と力が永遠にあるように。 というように、父なる神さまとまったく同じ讃美がイエス・キリストに帰せられています。ですから、天上において、仕える者としてあるということ自体は、必ずしも、その存在が、父なる神さまと並べられる存在ではないということを意味しているわけではありません。ヨハネは、ご自身のことを「ほふられた小羊」としてお示しになった栄光のキリストが与えてくださった啓示を通して、このことを理解していたはずです。その上で、1章4節と5前半に記されている挨拶を記しています。 最後に、それではどうして、御霊のことが「御座の前におられる七つの御霊」と言われているのかという問題が残ります。実は、これには旧約聖書の背景があります。そのことは日を改めてお話ししたいと思いますが、ここでは、これまでお話ししてきたこととの関連で、二つのことをお話しします。 ここで、御霊が「御座の前におられる」と言われていることは、まさに、御霊が、「今いまし、昔いまし、後に来られる方」として示されている父なる神さまのみこころに従って、お働きになられる方であるということを意味しています。実際に、父なる神さまと御子イエス・キリストから与えられる「恵みと平安」が、激しい迫害という試練の中にある「アジヤにある七つの教会」の一つ一つの群れに、そして、その群れの一人一人に当てはめられるのは、御霊のお働きによることです。 また、御霊が「七つの御霊」と言われているときの「七」は完全数です。それは、御霊のお働きが完全であることを表しています。また、それとともに、先ほど引用しました5章6節で「全世界に遣わされた神の七つの御霊」と言われていますように、御霊が時と場所を越えて、どの時代のどこにいる主の民にも、父なる神さまと御子イエス・キリストから与えられる「恵みと平安」を、完全に当てはめてくださる方であることを示しています。 御霊がこのような意味で「御座の前におられる七つの御霊」であられるので、黙示録が記されてから2千年後の私たちも、この困難な時代状況の中にあって、なお、父なる神さまと御子イエス・キリストからの「恵みと平安」にあずかって生きる神の子どもとして歩むことができるのです。 |
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