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説教日:2012年4月22日 |
ヨハネの挨拶は、 今いまし、昔いまし、後に来られる方から、また、その御座の前におられる七つの御霊から、また、忠実な証人、死者の中から最初によみがえられた方、地上の王たちの支配者であるイエス・キリストから、恵みと平安が、あなたがたにあるように。 というものです。これは、ローマ帝国による迫害の中にある「アジヤにある七つの教会」に、契約の神である主からの「恵みと平安」があることを祈り求めるものです。 この挨拶の中で、ヨハネは、その「恵みと平安」の源であられる神さまのことを、 今いまし、昔いまし、後に来られる方から、また、その御座の前におられる七つの御霊から、また、忠実な証人、死者の中から最初によみがえられた方、地上の王たちの支配者であるイエス・キリストから と述べています。ヨハネは「アジヤにある七つの教会」に与えられる「恵みと平安」の源が、三位一体の御父、御子、御霊であることを示しています。「今いまし、昔いまし、後に来られる方」であられる父なる神さま、「その御座の前におられる七つの御霊」、そして、「忠実な証人、死者の中から最初によみがえられた方、地上の王たちの支配者」であられる栄光のキリストが「恵みと平安」を与えてくださるので、厳しい試練と困難な問題に直面している「アジヤにある七つの教会」の一つ一つの群れに真の「恵みと平安」がもたらされるということを信じてのことです。 ヨハネがこの挨拶をいつ記したのか、確かなことは分かりません。黙示録に記されている順序に従えば、ヨハネは黙示録を記し始めて、この個所に来たときに、この挨拶を記したと考えられます。しかし、ある人々は、ヨハネは黙示録を記してしまった後に、自らの挨拶を書き加えたと考えています。そのいずれの場合であっても、ヨハネは、この時に、栄光のキリストがヨハネに示してくださったことに基づいて、父なる神さまのことを「今いまし、昔いまし、後に来られる方」として理解し、御霊のことを「その御座の前におられる七つの御霊」として理解し、そして、栄光のキリストのことを「忠実な証人、死者の中から最初によみがえられた方、地上の王たちの支配者」として理解したと考えられます。そして、その上で、 今いまし、昔いまし、後に来られる方から、また、その御座の前におられる七つの御霊から、また、忠実な証人、死者の中から最初によみがえられた方、地上の王たちの支配者であるイエス・キリストから、恵みと平安が、あなたがたにあるように。 という挨拶を記していると考えられます。 これまで、2回にわたって、父なる神さまのことを表す、 今いまし、昔いまし、後に来られる方 ということばについてお話ししてきました。きょうも、この父なる神さまを表すことばについて、もう少しお話しします。実は、このことばについてお話ししたいと思っていたことが、一つだけ残ってしまいました。それはお話ししないで次に進もうかとも思いましたが、やはり、お話ししたほうがいいかと思い、もう一度、この父なる神さまを表わすことばを取り上げることにしました。 いつものように、まず、すでにお話ししたことを補足しながら、復習しておきます。 今いまし、昔いまし、後に来られる方 ということばのそれぞれの頭についている「今」と「昔」と「後に」ということばは、ギリシャ語の原文にはなく、意味合いを伝えるために補足されていることばです。これをより直訳調に訳しますと、 存在しておられる方、そして存在しておられた方、そして来られる方 となります。 ここでは、過去・現在・未来という時間の流れに従わないで、「今いまし、昔いまし」というように、現在のことを表すことばが過去のことを表すことばの前に来ています。これによって、最初に出てくる「今いまし」ということを強調しています。 この「今いまし」と訳されていることば(ホ・オーン)は、直訳としては「存在しておられる方」です。この「存在しておられる方」(ホ・オーン)という呼び方は、契約の神である主、ヤハウェという御名を指しています。出エジプト記3章13節ー15節に記されていますように、神さまはモーセをエジプトの王パロの許にお遣わしになるに当たって、ご自身を現してくださり、その御名を示してくださいました。神さまはモーセにご自身の御名が、 わたしは、「わたしはある」という者である。(エヒエ・アシェル・エヒエ) であるということをお示しになりました。この、 わたしは、「わたしはある」という者である。 という神さまの御名はヘブル語本文の訳ですが、これのギリシャ語訳である七十人訳では、 わたしは、「存在している者」である。(エゴー・エイミ・ホ・オーン) となっています。神さまはさらにこの御名を短縮して、 わたしはある(エヒエ) としてお示しになりました。これは七十人訳では、 存在している者(ホ・オーン) と訳されています。この「存在している者」(ホ・オーン)が、ヨハネが黙示録1章4節において「存在しておられる方」(ホ・オーン)と呼んでいる方です。 この、 わたしはある(エヒエ) という御名も、その七十人訳である、 存在している者(ホ・オーン) という御名も神さまが真の意味で存在しておられる方であることを示しています。神さまは何ものにも依存しないで、ご自身で存在しておられる方です。これに対して、この世界のすべてのものは神さまによって造られ、神さまの御手によって支えられて存在しています。神さまは永遠に、ご自身で存在しておられます。これに対して、神さまがお造りになったすべてのものは、この時間的な世界に属していて、時間とともに経過していきます。それも造り主である神さまの御手に支えていただいてのことです。 出エジプト記3章15節に記されていますように、神さまはさらに、この、 わたしはある(エヒエ) という御名を3人称化して、 ヤハウェ として示しておられます。[注 七十人訳では、これは「主」(キュリオス)と訳されています。新改訳では七十人訳に従いつつ、それが「ヤハウェ」であることを示すために太字の「主」で表しています。]その際に、神さまはご自身のことを、 あなたがたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主 としてお示しになり、ご自身がご自身の契約に対して真実な方であられることをお示しになりました。主、ヤハウェはご自身の契約において示されたこと、約束されたことを必ず実現してくださいます。実際、契約の神である主、ヤハウェは、強大な帝国であったエジプトの奴隷となっていたイスラエルの民をエジプトから贖い出してくださいました。 そのことは、ローマという強大で最強の帝国による迫害を受けて、うめいていたヨハネと、ヨハネが牧会している「アジヤにある七つの教会」の信徒たちにとって、大きな意味をもっていたと考えられます。契約の神である主、ヤハウェは黙示録に記されていることを必ず実現してくださる方です。なぜなら、この方は「存在しておられる方」(ホ・オーン)として、永遠にご自身で存在しておられる方であり、お造りになったすべてのものを支え、導いておられる主権者であり、ご自身の契約に真実であられるからです。 二つ目の「昔いまし」ということば(ホ・エーン)は、直訳では「存在しておられた方」です。先週お話ししましたように、これは文法の上では、おかしな表現の仕方です。この「存在しておられた方」、ホ・エーンのエーンは定動詞、英語のbe動詞に当たる、エイミ動詞の未完了時制・3人称・単数形ですが、これに冠詞(ホ)をつけて表されています。英語で直訳すれば「the was」です。これは、ギリシャ語のエイミ動詞に過去時制の分詞がないことによっていると考えられています。 「アジヤにある七つの教会」の信徒たちは、このような特殊な言い方の「存在しておられた方」(ホ・エーン)ということばを聞いたとき、自分たちの牧会者であるヨハネが記した福音書1章1節に記されている、 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。 というみことばを思い起こしたのではないかと思われます。ここヨハネの福音書1章1節では、「あった」ということばが3回繰り返されています。この「あった」という動詞がエーンです。特に、最初に、 初めに、ことばがあった。 と言われているときの「あった」(エーン)は「存在していた」ことを表しています。 初めに、ことばがあった。 と言われているときの「初めに」は、創世記い章1節で、 初めに、神が天と地を創造した。 と言われているときの「初めに」に当たるものです。これは創造の御業の「初め」を表しています。そして、 初めに、ことばがあった。 と言われているときの、「あった」ということば(エーン)は未完了時制で「過去における継続」、すなわち、過去のある時点において、そのことが継続してなされていたこと、あるいは、その状態がずっと続いていたことを表しています。 時間は、神さまがお造りになったこの世界の時間です。神さまがこの世界を時間とともに変化する世界としてお造りになったので、この世界に時間があるのです、それで、この世界が造られていないのに時間だけが、流れていたということはありません。時間はこの世界が造られた時に始まっています。ですから、 初めに、ことばがあった。 ということは、そのような天地創造の御業の「初め」すなわち時間の「初め」に、すでに「ことば」は存在し続けておられたということを示しています。つまり、「ことば」は時間とともに始まった方ではなく、時間を越えた方、永遠の存在であられることを意味しています。 「アジヤにある七つの教会」の信徒たちは黙示録1章4節に出てくる特殊な言い方の「存在しておられた方」(ホ・エーン)ということばを聞いたとき、ヨハネの福音書1章1節において、ヨハネがあかししている、「ことば」が永遠に存在しておられる方であることを思い起こした可能性があります。とはいえ、ヨハネの福音書1章1節では永遠の「ことば」すなわち御子イエス・キリストのことがあかしされていますが、黙示録1章4節において「存在しておられた方」(ホ・エーン)として示されているのは、父なる神さまです。この二つの関連性につきましては、先週一つの面からお話ししましたが、それはまた、次のように説明することができます。ヨハネの福音書1章1節で「ことば」が永遠の存在であられることが示されていることが、黙示録1章4節において「存在しておられた方」(ホ・エーン)として示されている父なる神さまにも当てはめられて、父なる神さまが永遠から存在しておられる方であることが示されているということです。 三つ目の「後に来られる方」(ホ・エルコメノス)は、直訳では「来られる方」です。この「来られる方」(ホ・エルコメノス)ということばは、新約聖書では、基本的に、イエス・キリストのことを指して使われています。前回、その代表的な事例を取り上げましたが、私が調べたかぎりでは、黙示録で父なる神さまを表わすことばとして用いられている個所(後ほどお話ししますが、この1章4節のほか4個所あります)以外で、このことばが父なる神さまに当てはめられている事例は見つかりません。また、黙示録の中でも、「来られる方」は、この、 存在しておられる方、そして存在しておられた方、そして来られる方 という父なる神さまを表わすことばと同じか、それと同じようなことばを除けば、イエス・キリストであることが繰り返し示されています。それは、1章7節、2章5節、16節、3章11節、22章7節、12節、20節に見られます。最後の、22章20節には、 これらのことをあかしする方がこう言われる。「しかり。わたしはすぐに来る。」アーメン。主イエスよ、来てください。 と記されています。ですから、ただ「来られる方」ということばだけを聞けば、まずは、イエス・キリストを思い出すはずです。 先週お話ししましたように、ヨハネはその福音書において、イエス・キリストこそが、 わたしはある(エヒエ) という御名で呼ばれる方であるということを繰り返し示しています。この、 わたしはある(エヒエ) という御名を、七十人訳のように「存在しているもの」(ホ・オーン)と訳さないで、そのまま(直訳調に)ギリシャ語に訳しますと、「エゴー・エイミ」となります。 この「エゴー・エイミ」がヨハネの福音書においてどのように用いられているかにつきましては、先週取り上げました8章58節の「アブラハムが生まれる前から、わたしはいるのです(エゴー・エイミ)。」を見てください。また、それとともに、「エゴー・エイミ・・・」という強調形で表されています、イエス・キリストの教えも見てください。それらは、6章35節、48節の「わたしがいのちのパンです。」、8章12節の「わたしは、世の光です。」、10章7節、9節の「わたしは(羊の)門です。」、10章11節、14節の「わたしは、良い牧者です。」、11章25節の「わたしは、よみがえりです。いのちです。」、14章6節の「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。」、15章1節、5節の「わたしは(まことの)ぶどうの木です。」という七つの教えです。これらの教えは、イエス・キリストが、 わたしはある(エヒエ) という御名で呼ばれる方であられるので、私たち主の契約の民のために「いのちのパン」、「世の光」、「門」、「良い牧者」、「よみがえり」・「いのち」、「道」・「真理」・「いのち」、「ぶどうの木」としてかかわってくださり、私たちをまことのいのちのうちに生きる者としてくださるのです。 ですから、ヨハネは自分が記した福音書と黙示録で、基本的にイエス・キリストに当てはまるとしていることば(呼び方)を、この黙示録1章4節に記されています、 存在しておられる方、そして存在しておられた方、そして来られる方 ということばと、後ほど取り上げますが、この後に出てくる4つのこれと同じか、同じような呼び方において、父なる神さまに当てはめています。これによって、ヨハネは父なる神さまを契約の神である主、ヤハウェとして、また、それゆえに、ご自身の契約に対して真実な方として示しています。そのことは、さらに、父なる神さまが、このご自身がお造りになった世界の歴史を支配し、導いておられる方であられ、創造の御業と摂理の御業、そして贖いの御業をとおして、ご自身のご計画を必ず実現されることを示しています。 実際には、父なる神さまは、ご自身が直接的に創造の御業と摂理の御業、そして贖いの御業を遂行されないで、御子イエス・キリストによって、また御子イエス・キリストにあって遂行されます。 このことは、贖いの御業については説明するまでもありません。父なる神さまは御子イエス・キリストをとおして贖いの御業を遂行されました。御子イエス・キリストの十字架の死によって、私たちの罪を完全に贖ってくださり、御子イエス・キリストの死者の中からのよみがえりにあずからせてくださることによって、私たちを新しい復活のいのちによって生きる者としてくださっています。 創造の御業も同じです。ヨハネの福音書1章3節には、 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。 と記されていて、創造の御業を遂行された方は、永遠の「ことば」すなわち御子イエス・キリストであることが示されています。 三位一体の神さまの御父、御子、御霊はその創造の御業と摂理の御業、そして贖いの御業にかかわるお働きにおいて「役割分担」をしておられます。父なる神さまは無限、永遠、不変の栄光の神さまを代表し、現しておられます。その意味で、父なる神さまはすべてのことの「計画者」であられます。もし父なる神さまが直接的にこの世界にかかわられますと、この世界は一瞬のうちに、父なる神さまの無限の栄光によって焼き尽くされてしまいます。それで、御子が無限の栄光をお隠しになって、その意味で、無限に身を低くされて、この世界にかかわってくださる役割を負ってくださっているのです。 御子は父なる神さまのみこころにしたがって、創造の御業と摂理の御業を遂行しておられますし、贖いの御業を遂行しておられます。それで、父なる神さまは、御子によって、あるいは、御子にあってこの世界にかかわってくださいます。その意味で、父なる神さまと御子イエス・キリストは一つです。 このように、新約聖書は、父なる神さまは御子イエス・キリストによって、また御子イエス・キリストにあって創造の御業と摂理の御業、そして贖いの御業を遂行されることを示しています。それで、黙示録1章4節では、基本的に御子イエス・キリストに当てはめられることばが、父なる神さまにも当てはめられていると考えられます。 これらのこと、特に、父なる神さまが、契約の神である主、ヤハウェとして、この世界の歴史を治め、ご自身の契約に基づいて、ご自身の民のための救いを完全に実現してくださる方であるということを踏まえて、もう一つのことを簡単に見ておきましょう。 黙示録の中には、この 存在しておられる方、そして存在しておられた方、そして来られる方 と同じか、同じような呼び方が、この後にも4回出てきます。それを見てみますと、1章8節では、 神である主、今いまし、昔いまし、後に来られる方、万物の支配者 と言われており、4章8節では、 神であられる主、万物の支配者、昔いまし、今いまし、後に来られる方 と言われています。また、11章17節では、 万物の支配者、今いまし、昔います神である主 と言われており、16章5節では、 今いまし、昔います聖なる方 と言われています。 これら4つの個所に記されている父なる神さまについての呼び方から、三つのことを汲み取りたいと思います。 第一に、これらの呼び方のすべてにおいて、「今いまし」すなわち「存在しておられる方」(ホ・オーン)と「昔いまし」すなわち「存在しておられた方」(ホ・エーン)が組み合わされています。この点は、1章4節の父なる神さまの呼び方においても同じです。ちなみに、11章17節と16章5節の「昔います」も、直訳では「存在しておられた方」(ホ・エーン)です。 この「存在しておられる方」(ホ・オーン)ということば自体が、この方が、常に存在しておられることを示していますが、これらの呼び方では、さらに「存在しておられた方」(ホ・エーン)とが組み合わされていて、この方が時間を越えて永遠に存在しておられる方であられることが示されています。そればかりでなく、この二つの呼び方の組み合わせによって、そのような方として、ご自身の契約に対して真実であられ、契約において約束してくださったことを必ず実現してくださる方であられることを、より鮮明に表しています。神さまは、すでに、ご自身の契約において約束されたことを、実現してこられましたし、これからも、実現してくださいます。 第二に、そのようにして呼ばれている方が「神である主」とも呼ばれています。この「神である主」という呼び方は、契約の神である主、ヤハウェを意味しています。このことは、これまでお話ししてきたことを反映しています。 第三に、この方はまた「万物の支配者」とも呼ばれています。この「万物の支配者」と訳されたことば(パントクラトール)は、ここでは先ほどの「神である主」と組み合わされて用いられています。この組み合わせにおいて「万物の支配者」(パントクラトール)は、しばしば、旧約聖書に出てきます、「万軍の主」を意味しています。 このことについては、黙示録の重要な背景の一つになっているゼカリヤ書の1章16節、17節、2章8節ー12節、3章6節ー10節を初めとする一連の「万軍の主」をご覧になってください。これらの個所に出てくる「万軍の主」(ヤハウェ・ツィバオート)は、七十人訳では、「キュリオス・パントクラトール」と訳されています。 結論だけをお話ししますと、ゼカリヤ書では、罪を犯して主のさばきを受け、バビロンの捕囚になっていたイスラエルの民を、主がその一方的な恵みにより、ご自身の契約に基づいて、再び約束の地に返してくださり、主との交わりを完全に回復してくださることが約束されています。 このことは、出エジプトの時代に、契約の神である主、ヤハウェが奴隷の民であったイスラエルを強大な帝国であったエジプトから贖い出してくださったことを思い起こさせます。いわばバビロンからの帰還は「第二の出エジプト」です。そして、「最終的な出エジプト」は、御子イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いに基づくもので、罪と罪の結果である死の力をもって人をとりこにしている暗やみの主権者、サタンの支配下からの贖いです。コロサイ人への手紙1章13節、14節には、 神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。この御子のうちにあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ています。 と記されています。すべて、神である主がご自身の契約に基づいて、私たちのためになしてくださったことであり、なしてくださっていることです。 |
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