黙示録講解

(第69回)


説教日:2012年4月15日
聖書箇所:ヨハネの黙示録1章1節ー8節
説教題:今いまし、昔いまし、後に来られる方(2)


 先主日は2012年の復活節でしたので、それにちなんだお話をしました。きょうはヨハネの黙示録からのお話に戻ります。
 黙示録1章4節ー5節前半には、

ヨハネから、アジヤにある七つの教会へ。今いまし、昔いまし、後に来られる方から、また、その御座の前におられる七つの御霊から、また、忠実な証人、死者の中から最初によみがえられた方、地上の王たちの支配者であるイエス・キリストから、恵みと平安が、あなたがたにあるように。

と記されています。
 これはその当時の手紙の挨拶の部分に当たるもので、ヨハネが「アジヤにある七つの教会」に送った挨拶です。「アジヤにある七つの教会」とは「エペソ、スミルナ、ペルガモ、テアテラ、サルデス、フィラデルフィヤ、ラオデキヤ」にある教会です。ヨハネはこれらの教会の牧会者として仕えていました。
 しかし、ヨハネはこの時、その牧会者としての働きのために迫害を受け、「パトモスという島」に流刑となっていました。これは、ローマ帝国においてクリスチャンに対する迫害が激しくなっていたことの現れです。その迫害は「アジヤにある七つの教会」にも及んでいました。
 このようにヨハネは、自分が牧会している「アジヤにある七つの教会」から引き裂かれている状態にありました。そのヨハネに、栄光のキリストがご自身を現してくださり、ヨハネがこの黙示録に記していることを啓示してくださいました。そして、その啓示の中で、栄光のキリストご自身が「アジヤにある七つの教会」のまことの牧者であられることを示してくださっています。
 ヨハネは栄光のキリストの命令に従って、栄光のキリストが示してくださったことを記していますが、それが黙示録となっています。その際に、ヨハネは自らも「アジヤにある七つの教会」に挨拶を記しているのです。


 前回は、ヨハネが父なる神さまのことを、

 今いまし、昔いまし、後に来られる方

と呼んでいることについてお話ししました。きょうもそのことについてお話しします。それで、前回お話ししたことを簡単に復習しておきますと、それぞれの頭についている「」と「」と「後に」ということばは、ギリシャ語の原文に出てくるものではなく、意味合いを伝えるために補足されていることばです。これをより直訳調に訳しますと、

 存在しておられる方、存在しておられた方、そして、来られる方

となります。
 ここでは、最初に出てくる「今いまし」と訳されていることば(ホ・オーン)が強調されています。これは直訳としては「存在しておられる方」です。 この「存在しておられる方」(ホ・オーン)という呼び方は、契約の神である主、ヤハウェという御名を指しています。出エジプト記3章13節ー15節には、神さまがモーセにご自身を現してくださり、その御名を示してくださったことが記されています。このことにつきましては前回お話ししましたので、その個所を引用しないで、お話ししたことをかいつまんでお話しします。
 その時、神さまはご自身の御名が、

 わたしは、「わたしはある」という者である。

であるということをお示しになりました。この、

 わたしは、「わたしはある」という者である。

ということば全体が、神さまの御名です。これはヘブル語本文(エヒエ・アシェル・エヒエ)の訳ですが、これのギリシャ語訳である七十人訳では、

 わたしは、「存在している者」である。(エゴー・エイミ・ホ・オーン)

となっています。神さまはさらにこの御名を短縮して、

 わたしはある(エヒエ)

としてお示しになりました。これは七十人訳では「存在している者」(ホ・オーン)と訳されています。この「存在している者」(ホ・オーン)が、ヨハネが黙示録1章4節において「存在しておられる方」(ホ・オーン)と呼んでいる方です。「アジヤにある七つの教会」は、おもに異邦人クリスチャンたちによって構成されていました。それで、ヨハネは、この黙示録1章4節において、異邦人クリスチャンたちがなじんでいた七十人訳に出てくる契約の神である主の御名である「存在しておられる方」(ホ・オーン)を用いていると考えられます。
 神さまはさらに、この、

 わたしはある(エヒエ)

という御名を3人称化して、

 ヤハウェ

として示しておられます。七十人訳では、これは「主」(キュリオス)と訳されています。新改訳では七十人訳に従いつつ、それが「ヤハウェ」であることを示すために太字の「」で表しています。
 このように、神さまの御名は「ヤハウェ」です。これは、神さまの固有名詞に当たります。固有名詞と言いますと、私について言いますと「清水武夫」です。私の場合は、第2次大戦がまだ終わっていないときに生まれましたので「武夫」という勇ましい名前がつけられましたが、現実は、引っ込み思案の憶病者です。名前と現実がまったくずれていますが、神さまの御名はそのようなことはありません。神さまの御名は神さまご自身がどなたであるかを啓示しています。神さまこそは真に存在しておられる方であり、それ以外のものは神さまによって造られ、神さまの御手によって支えられているものとして存在しています。神さまは何ものによって支えられることなく、ご自身で存在しておられるとともに、お造りになったすべてのものの存在を支えておられます。黙示録4章11節には、

主よ。われらの神よ。あなたは、栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方です。あなたは万物を創造し、あなたのみこころゆえに、万物は存在し、また創造されたのですから。

という「二十四人の長老」たちの讃美の告白が記されています。
 神さまはモーセにこの「」(ヤハウェ)という御名を啓示されたときに、

 あなたがたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、

と言われました。[注 ヘブル語本文では、「」(ヤハウェ)が先にあって、「あなたがたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」が、同格の形で続いています。]この、

 あなたがたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、

というみことばは、「」(ヤハウェ)という御名の意味を理解するうえでとても大切なものです。それは、「」(ヤハウェ)という御名は、神さまがご自身の契約に対して真実であられ、その契約のうちに約束されたことを必ず成し遂げられる方であることを意味しています。私たちは「」(ヤハウェ)という御名のこのような意味を覚えて、神さまのことを「契約の神である主(ヤハウェ)」と呼んでいます。
 このように、ヨハネは「存在しておられる方」(ホ・オーン)という呼び方によって、出エジプトの時代に、モーセにご自身を現してくださり、モーセを遣わして、出エジプトの御業を遂行された契約の神である主、ヤハウェを指し示しています。出エジプトの時代、イスラエルの民はエジプトという強大な帝国の奴隷となって、苦役に服していました。その時、契約の神である主は、アブラハム、イサク、ヤコブへの契約を思い起こしてくださって、力強い御手をもって奴隷の民であったイスラエルの民をエジプトから贖い出してくださいました。
 申命記7章7節、8節には、

があなたがたを恋い慕って、あなたがたを選ばれたのは、あなたがたがどの民よりも数が多かったからではない。事実、あなたがたは、すべての国々の民のうちで最も数が少なかった。しかし、があなたがたを愛されたから、また、あなたがたの先祖たちに誓われた誓いを守られたから、は、力強い御手をもってあなたがたを連れ出し、奴隷の家から、エジプトの王パロの手からあなたを贖い出された。

と記されています。ここでは、主がエジプトの奴隷となっていたイスラエルの民を選んで、ご自身の民としてくださったことについて、まず、

あなたがたがどの民よりも数が多かったからではない。事実、あなたがたは、すべての国々の民のうちで最も数が少なかった。

と言われていて、否定的な面が示されています。エジプトの奴隷となっていたイスラエルの民には、数においても力においても、ほかの民よりすぐれたところはありませんでした。主がイスラエルの民をお選びになったのはイスラエルの民の価値やよさによってはいませんでした。主はそのようなイスラエルの民を、あえて、お選びになりました。ここでは、その理由は二つあることが示されています。一つは、

 があなたがたを愛されたから

というみことばに示されていますように、主の一方的な愛です。主の愛は、この世の標準からすれば、まったく価値のない民に注がれていたのです。もう一つの理由は、

 また、あなたがたの先祖たちに誓われた誓いを守られたから、

というみことばに示されていますように、主がアブラハム、イサク、ヤコブに与えられた契約の約束、「誓い」を守られたからです。それでは、主がアブラハム、イサク、ヤコブに契約を与えられたのは、アブラハム、イサク、ヤコブの価値によっていたのでしょうか。そうではありません。主はその一方的な愛によってアブラハムにご自身を現してくださり、アブラハムを召してくださり、祝福の約束を与えてくださり、それをご自身の契約によって保証してくださいました。事実、新約聖書は、アブラハムが行いによらず、ただ主の愛と恵みによって救われていること、主とその約束を信じる信仰によって義と認められていることを繰り返し示しています。
 ですから、主がエジプトの奴隷であったイスラエルの民を選んでくださって、ご自分の民としてくださったのは、ただ主の愛と恵みによっています。このことは、ヨハネの時代にローマ帝国の強大な権力によって迫害を受けていた主の民にも当てはまります。また、今日の、私たちにもそのまま当てはまります。
 私たちは私たち自身の罪と、その罪の結果である死と滅びの力に捕らえれてしまっていたものです。そのような自分を救う力は私たちのうちにはありませんでした。神さまはそのような私たちを愛してくださいました。私たちに神さまの愛を引き出すような価値があったのではありません。私たちにあったのは神さまの聖なる御怒りを引き起こす罪でしかありませんでした。神さまはそのような私たちを愛してくださいました。そして、そのような私たちのためにご自身の御子をも賜り、御子イエス・キリストの十字架の死によって、私たちの罪を完全に贖ってくださり、私たちを御子イエス・キリストの復活にあずからせてくださって、ご自身との愛にあるいのちの交わりに生きる者としてくださいました。
 すべて、ご自身を「存在しておられる方」(ホ・オーン)として示してくださっている、契約の神である主の愛と恵みによることです。

 ヨハネは父なる神さまのことを続いて、「昔いまし」と呼んでいます。これは直訳では「存在しておられた方」(ホ・エーン)です。けれども、これは少し変わった表現の仕方です。この前の「存在しておられる方」(ホ・オーン)とこの後の「来られる方」(ホ・エルコメノス)は現在時制の分詞に冠詞(ギリシャ語の冠詞はみな定冠詞)をつけて表されていますが、この「存在しておられた方」(ホ・エーン)は定動詞[エーン(エイミ動詞の未完了時制・3人称・単数形)]に冠詞(ホ)をつけて表されています。これは、ギリシャ語のエイミ動詞に過去時制の分詞がないことによっていると考えられています。
 これとともに、この「存在しておられた方」(ホ・エーン)という特殊な言い方のことばを聞いた「アジヤにある七つの教会」の信徒たちは、自分たちの牧会者であるヨハネが記した福音書1章1節に記されている、

初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。

というみことばを思い起こしたのではないかと思われます。ここには、「あった」ということばが3回繰り返されています。この「あった」という動詞[エーン(エイミ動詞の未完了時制・3人称・単数形)]が「存在しておられた方」(ホ・エーン)関連しているということです。
 けれども、この二つを直接的に結びつけることはできません。というのは、ヨハネの福音書1章1節に出てくる「あった」(エーン)は永遠の「ことば」として示されている御子イエス・キリストのことですが、黙示録1章4節に出てくる「存在しておられた方」(ホ・エーン)は父なる神さまのことだからです。そうではあっても、この二つのことばにはある関連性があると考えられます。
 そのことを考えるために、黙示録1章4節に出てきます父なる神さまをのことを表す三つ目の呼び方である「後に来られる方」を見てみましょう。これは直訳では「来られる方」(ホ・エルコメノス)です。「来られる」(エルコメノス)という現在時制の分詞に冠詞(ホ)を付けて実体化(この場合は、人格化)しています。この「来られる方」(ホ・エルコメノス)ということばは、新約聖書の中では基本的に、イエス・キリストを指すことばです。たとえば、マタイの福音書11章3節には、バプテスマのヨハネが獄中から、弟子たちをイエス・キリストの元に送って、

おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも、私たちは別の方を待つべきでしょうか。

と問いかけたことが記されています。この「おいでになるはずの方」と訳されているのが「来られる方」(ホ・エルコメノス)です。ここでイエス・キリストはご自身が「おいでになるはずの方」であられることを示しておられます。また、マタイの福音書21章9節には、イエス・キリストの地上の生涯の最後の週にロバの子に乗ってエルサレムに入られたとき、人々が、

 祝福あれ。主の御名によって来られる方に。

と叫んだことが記されています。この「来られる方」(ホ・エルコメノス)はイエス・キリストのことです。黙示録の中でも、「来られる方」は、この父なる神さまの呼び方(御名)を除けば、イエス・キリストです。1章7節には、

見よ、彼が、雲に乗って来られる。すべての目、ことに彼を突き刺した者たちが、彼を見る。地上の諸族はみな、彼のゆえに嘆く。しかり。アーメン。

と記されています。また2章5節には、

それで、あなたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行いをしなさい。もしそうでなく、悔い改めることをしないならば、わたしは、あなたのところに行って(エルコマイ)、あなたの燭台をその置かれた所から取りはずしてしまおう。

と記されています。さらに16節には、

だから、悔い改めなさい。もしそうしないなら、わたしは、すぐにあなたのところに行き(エルコマイ)、わたしの口の剣をもって彼らと戦おう。

と記されています。また3章11節には、

わたしは、すぐに来る。あなたの冠をだれにも奪われないように、あなたの持っているものをしっかりと持っていなさい。

と記されています。そして、22章7節には、

見よ。わたしはすぐに来る。この書の預言のことばを堅く守る者は、幸いである。

と記されており、12節には、

見よ。わたしはすぐに来る。わたしはそれぞれのしわざに応じて報いるために、わたしの報いを携えて来る。

と記されています。さらに、20節にも、

これらのことをあかしする方がこう言われる。「しかり。わたしはすぐに来る。」アーメン。主イエスよ、来てください。

と記されています。ですから、ただ「来られる方」ということばだけを聞けば、まずは、イエス・キリストを思い出すはずです。

 そればかりではありません。ヨハネは、その福音書の中で、最初の呼び名である「存在しておられる方」もイエス・キリストに当てはまることを繰り返し示しています。先ほどお話ししましたように、契約の神である主の御名は、

 わたしは、「わたしはある」という者である。

として示され、それが、

 わたしはある

に短縮されて示されました。これはヘブル語(エヒエ)ですが、これをギリシャ語にそのまま訳しますと、「エゴー・エイミ」となります。この「エゴー・エイミ」はギリシャ語では強調形の現在時制です。ヨハネの福音書8章58節には、イエス・キリストがユダヤ人たちに、

まことに、まことに、あなたがたに告げます。アブラハムが生まれる前から、わたしはいるのです。

と言われたことが記されています。この

 わたしはいるのです。

と訳されたことばが「エゴー・エイミ」で、これは、イエス・キリストが時間を越えた方であられ、永遠の存在であられることを意味しています。それで、これは、神さまがモーセに示された、

 わたしはある

という御名に相当する意味合いをもっています。もし、イエス・キリストが、

アブラハムが生まれる前から、わたしはいた(過去形)のです。

と言っておられたなら、それは、イエス・キリストはアブラハムが生まれた紀元前2千年より前に生まれていたと言っておられることになります。つまり、この時イエス・キリストの年齢は2千歳を越えているということです。しかし、イエス・キリストは、

 アブラハムが生まれる前から、わたしはいるのです。

と言われて、ご自身が永遠の存在であられ、ヤハウェの御名で呼ばれる方であられることを示しておられます。
 このこととの関連で見ますと、ヨハネの福音書には、さらに、イエス・キリストがこの「エゴー・エイミ」(強調形の現在時制)ということばを用いて、「わたしは・・・・・です」という形で、ご自身を示しておられることが7回出てきます。その最初のものは、6章35節に記されています、

わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。

という教えです。この教えは、イエス・キリストが永遠の存在であられ、ご自身の契約に真実であられる方として、時代や文化を越えて、ご自身を信じるすべての人にとっての「いのちのパン」であられ。ご自身を信じるすべての人を永遠のいのちをもって生かしてくださる方であられることを示しています。イエス・キリストはこのような方として、常に「存在しておられる方」です。
 このように、ヨハネはその福音書においてイエス・キリストこそが、

 わたしはある

という御名の主であられることを繰り返しあかししていますし、黙示録において、イエス・キリストこそは「来られる方」であられると繰り返しあかししています。このことを考えますと、「存在しておられた方」(ホ・エーン)という呼び方も、ヨハネの福音書1章1節に記されている、

初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。

というみことばの中に出てくる「あった」(エーン)との関連が考えられるのではないかと思われます。
 黙示録1章4節に記されています、ヨハネの挨拶の中に、ただ、

 今いまし、昔いまし、後に来られる方から

ということばしかなかったとしたら、特に「後に来られる方」ということばから、これは栄光のキリストのことを意味していると考えられます。ヨハネが牧会していた「アジヤにある七つの教会」の信徒たちもそのように受け止めるであろう可能性が高いと思います。しかし、ここでは、これだけで終わらないで、さらに、

また、その御座の前におられる七つの御霊から、また、忠実な証人、死者の中から最初によみがえられた方、地上の王たちの支配者であるイエス・キリストから、

と記されていて、イエス・キリストが出てきますので、

 今いまし、昔いまし、後に来られる方から

ということば、イエス・キリストのことではなく、父なる神さまのことであると理解されるのです。

 それではどうして、父なる神さまが、このような紛らわしいと思える呼び方で呼ばれているのでしょうか。それを理解する鍵は、イエス・キリストの教えにあります。ヨハネの福音書5章19節には、

まことに、まことに、あなたがたに告げます。子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分からは何事も行うことができません。父がなさることは何でも、子も同様に行うのです。

というイエス・キリストの教えが記されています。また、10章37節、38節には、

もしわたしが、わたしの父のみわざを行っていないのなら、わたしを信じないでいなさい。しかし、もし行っているなら、たといわたしの言うことが信じられなくても、わざを信用しなさい。それは、父がわたしにおられ、わたしが父にいることを、あなたがたが悟り、また知るためです。

というイエス・キリストの教えが記されています。

 今いまし、昔いまし、後に来られる方

という父なる神さまの御名は、この世界とは無関係に父なる神さまのことを述べているのではなく、特に、「後に来られる方」(直訳「来られる方」)が示していますように、父なる神さまがこの世界の歴史の流れと深くかかわってくださることを中心として述べています。先ほど引用しましたイエス・キリストの教えだけでなく、聖書のみことばは一貫して、父なる神さまは御子イエス・キリストにあって、また、御子イエス・キリストをとおしてこの世界と私たちにかかわってくださることを教えています。
 これには理由があります。三位一体の神さまの御父、御子、御霊はそのお働きにおいて、いわば「役割分担」をしておられます。御父と御子のことだけを取り上げますと、父なる神さまは無限、永遠、不変の栄光の神さまを代表し、現しておられます。ですから、父なる神さまが直接的にこの世界にかかわられますと、この世界は一瞬のうちに、父なる神さまの無限の栄光によって焼き尽くされてしまいます。それで、御子が無限、永遠、不変の栄光をお隠しになって、その意味で、無限に身を低くされて、この世界にかかわってくださる役割を負ってくださっているのです。御子は父なる神さまのみこころにしたがって、創造の御業を遂行され、摂理の御業を遂行しておられますし、贖いの御業を遂行しておられます。それで、父なる神さまは、御子にあって、あるいは、御子をとおしてこの世界にかかわってくださるのです。その意味で、父なる神さまと御子イエス・キリストは一つです。
 マタイの福音書16章27節には、

人の子は父の栄光を帯びて、御使いたちとともに、やがて来ようとしているのです。その時には、おのおのその行いに応じて報いをします。

というイエス・キリストの教えが記されています。父なる神さまが「来られる方」であられるのは、栄光のキリストにあってのことです。
 このようにして、

 今いまし、昔いまし、後に来られる方

という父なる神さまの御名は、御子イエス・キリストにあって、また、御子イエス・キリストをとおして私たちとこの世界にかかわってくださる父なる神さまをあかししています。それで、

今いまし、昔いまし、後に来られる方から・・・・・恵みと平安が、あなたがたにあるように。

と言われているときの「恵みと平安」は、御子イエス・キリストにあって、また、御子イエス・キリストをとおして与えられる父なる神さまの「恵みと平安」です。それは、時代と文化の隔たりを越えて私たちにも与えられている父なる神さまの「恵みと平安」です。


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