黙示録講解

(第回)


説教日:2012年4月1日
聖書箇所:ヨハネの黙示録1章1節ー8節
説教題:今いまし、昔いまし、後に来られる方(1)


 先主日は、奉仕神学生として1年間ご奉仕してくださった兄弟が説教を担当してくださいましたので、ヨハネの黙示録からのお話はお休みしました。きょうは黙示録からのお話に戻ります。
 1章4節ー5節前半には、

ヨハネから、アジヤにある七つの教会へ。今いまし、昔いまし、後に来られる方から、また、その御座の前におられる七つの御霊から、また、忠実な証人、死者の中から最初によみがえられた方、地上の王たちの支配者であるイエス・キリストから、恵みと平安が、あなたがたにあるように。

と記されています。
 これは形としては、その当時の手紙の挨拶の部分に当たるもので、ヨハネが「アジヤにある七つの教会」に送った挨拶です。ここに出てくる「アジヤ」は、ローマ帝国の属州の「アジヤ」で、今日の小アジアに当たります。この「アジヤにある七つの教会」のことは、1章10節、11節に、

私は、主の日に御霊に感じ、私のうしろにラッパの音のような大きな声を聞いた。その声はこう言った。「あなたの見ることを巻き物にしるして、七つの教会、すなわち、エペソ、スミルナ、ペルガモ、テアテラ、サルデス、フィラデルフィヤ、ラオデキヤに送りなさい。」

と記されています。ここでヨハネに語りかけたのは栄光のキリストです。このみことばから分かりますように、ヨハネは栄光のキリストのみことばにしたがって、「エペソ、スミルナ、ペルガモ、テアテラ、サルデス、フィラデルフィヤ、ラオデキヤ」にある教会に対して、黙示録を記して送りました。それで、黙示録はヨハネが記したものですが、それは栄光のキリストがヨハネに示してくださったことをヨハネが記したものです。それで、この書の冒頭の1章1節の初めに、

 イエス・キリストの黙示。

と記されていますように、この書全体が「イエス・キリストの黙示」です。それが「アジヤにある七つの教会」に宛てて記されたのは、これらの教会が、ヨハネが牧会者としてみことばを伝え、そのために労し働いていた教会であったからです。もちろん、栄光のキリストご自身がヨハネが牧会していた教会を選んでくださったのです。しかし、1章9節に、

私ヨハネは、あなたがたの兄弟であり、あなたがたとともにイエスにある苦難と御国と忍耐とにあずかっている者であって、神のことばとイエスのあかしとのゆえに、パトモスという島にいた。

と記されていますように、ヨハネは、この時、その牧会者としての働きのために捕えられて「パトモスという島」に流刑となっていました。このようにヨハネが流刑に処せられていたのは、ローマ帝国においてクリスチャンに対する迫害が激しくなっていたことの現れです。その迫害は「アジヤにある七つの教会」にも及んでいました。
 このような状態にあったヨハネは自分が牧会している「アジヤにある七つの教会」から引き裂かれている状態にありました。そのヨハネに、栄光のキリストがご自身を現してくださり、ご自身が「アジヤにある七つの教会」のまことの牧者であられることを示してくださっています。そのことは、特に、2章ー3章に記されています、栄光のキリストが「アジヤにある七つの教会」の一つ一つに対して語りかけてくださっていることに現れています。それによって、栄光のキリストはその一つ一つの群れに御目を留めてくださり、それぞれの実情をつぶさに知っていてくださることが示されています。その上で、それぞれの群れの推賞すべきことを取り上げて賞賛してくださり、困難な問題を取り上げて慰め、励ましてくださり、「非難すべきこと」を取り上げて、悔い改めを迫っておられます。そして、一つ一つの群れに対して、終わりの日に、ご自身が主の民の救いを完全に実現してくださることによってもたらされる豊かな祝福にあずかる約束を与えてくださっています。
 このように、栄光のキリストは、流刑の地パトモス島にあって「アジヤにある七つの教会」のことを思い、その一つ一つの群れを主に委ねていたであろうヨハネに、ご自身がまことの牧会者として、その一つ一つの群れを支え、導き、養い育ててくだり、救いの完成へと導き入れてくださることを示してくださいました。ヨハネはこのことをしっかりと受け止めて、この黙示録を記しています。その際に、自分も「アジヤにある七つの教会」の牧会者として、「アジヤにある七つの教会」に、この挨拶を記していると考えられます。


 ヨハネは「アジヤにある七つの教会」への挨拶において、

今いまし、昔いまし、後に来られる方から、また、その御座の前におられる七つの御霊から、また、忠実な証人、死者の中から最初によみがえられた方、地上の王たちの支配者であるイエス・キリストから、恵みと平安が、あなたがたにあるように。

と述べています。
 これは、ローマ帝国による迫害の中にある「アジヤにある七つの教会」に、契約の神である主からの「恵みと平安」があることを祈り求めるものです。
 前回は、ヨハネが祈り求めている「恵みと平安」についてお話ししました。きょうから、その「恵みと平安」の源であられる神さまのことを、ヨハネがどのように理解しているかについてお話しします。
 ヨハネは、まず、父なる神さまのことを、

 今いまし、昔いまし、後に来られる方

と呼んでいます。これは日本語に訳すことがとても難しいものです。それぞれの頭についている「」と「」と「後に」ということばは、意味合いを伝えるために補足されていることばです。これをより直訳調に訳しますと、

 存在しておられる方、存在しておられた方、そして、来られる方

となります。これだけですと、三つの存在があるかのようになってしまいますが、この全体が「・・・から」という前置詞(アポ)によってまとめられていますので、また、この後に、御霊のことと主イエス・キリストのことが出てきますので、一人の方であることが分かります。
 最初の「今いまし」と訳されていることば(ホ・オーン)は直訳としては「存在しておられる方」です。[注]

[注]英語のbe動詞に当たるエイミ動詞の現在分詞(男性・単数・主格)である「オーン」(「存在している」)が冠詞である「ホ」によって実体化されて「存在しておられる方」となります。これが分詞であることから、「常に存在しておられる方」という意味合いがあります。

 大切なことは、ここでは時間的な順序が逆転しているということです。この後に、過去のことを表す「存在しておられた方」が出てきますが、時間的な順序に従えば、まず「存在しておられた方」、次に「存在しておられる方」という順序になります。しかし、ここでは、この「存在しておられる方」が最初に出てきています。それは、この「存在しておられる方」(ホ・オーン)を強調するためです。
 このこととの関連で、ギリシャにも、神々について「存在しておられる方、存在しておられた方、そして、来られる方」と同じような呼び方があることが指摘されています。たとえば、ゼウスについて「存在されたゼウス、存在されるゼウス、そして存在されるであろうゼウス」と呼ばれている事例です。しかし、この呼び方は、単純に、過去、現在、未来という順序にしたがったものです。けれども、「存在しておられる方、存在しておられた方、そして、来られる方」という呼び方は、そのような時間的な順序にしたがってはいません。このことは、特に、最初に出てくる「存在しておられる方」(ホ・オーン)という呼び方が大切なものであることを意味しています。[注]

[注]この「存在しておられる方、存在しておられた方、そして、来られる方」というヨハネの呼び方にもっとも近いものとしては、申命記32章39節のエルサレム・タルグム(タルグムは旧約聖書のアラム語訳のことで、注釈を含んでいることが多い)「わたしはいる者、またいた者であり、またわたしはいるであろう者である」がありますが、「来られる方」の部分が違っています(佐竹明50頁)。Beale, p. 187は同じことばが偽ヨナタンのタルグムにあることを示しています。Bealeはまた、その他の類似の表現もいくつか上げています。その上で、申命記32章39節のタルグムだけがヨハネの呼び方の背景であるということに否定的な見解を述べています。

 このこととの関連でもう一つのことをお話しします。この「存在しておられる方」(ホ・オーン)ということばと、この後に出てくる「存在しておられた方」(ホ・エーン)と「来られる方」(ホ・エルコメノス)は文法的に間違って用いられています。どういうことかと言いますと、これらのことばの前にある「・・・から」ということを意味する前置詞(アポ)は、その後に英語の「所有格」に当たる「属格」が続きます。 しかし、ここでは、すべて「主格」が用いられています。
 けれどもこのことは、ヨハネがギリシャ語の文法を知らなかったということを意味してはいません。というのは、この後に、「その御座の前におられる七つの御霊から」ということばと、「イエス・キリストから」ということばが出てきますが、この二つでは同じ前置詞(アポ)の後には属格が来ているからです。ですから、ヨハネはこの、

 存在しておられる方、存在しておられた方、そして、来られる方から、

という呼び方においてだけ、あえて文法を無視して、「存在しておられる方」(ホ・オーン)、「存在しておられた方」(ホ・エーン)、「来られる方」(ホ・エルコメノス)という(主格)を用いていると考えられます。
 このことは、この、

存在しておられる方、存在しておられた方、そして、来られる方

という呼び方そのものがとても大切なものであることを示していると考えられます。というのは、ヨハネが牧会者として働いていた「アジヤにある七つの教会」の信徒たちがこの呼び方、特に、最初の「存在しておられる方」(ホ・オーン)という呼び方を聞いたときに、思い出す方があると考えられるからです。

 この「存在しておられる方」(ホ・オーン)という呼び方は、契約の神である主、ヤハウェという御名を指しています。契約の神である主の御名が啓示されたことを記している出エジプト記3章13節ー15節には、

モーセは神に申し上げた。「今、私はイスラエル人のところに行きます。私が彼らに『あなたがたの父祖の神が、私をあなたがたのもとに遣わされました』と言えば、彼らは、『その名は何ですか』と私に聞くでしょう。私は、何と答えたらよいのでしょうか。」神はモーセに仰せられた。「わたしは、『わたしはある』という者である。」また仰せられた。「あなたはイスラエル人にこう告げなければならない。『わたしはあるという方が、私をあなたがたのところに遣わされた』と。」神はさらにモーセに仰せられた。「イスラエル人に言え。あなたがたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、が、私をあなたがたのところに遣わされた、と言え。これが永遠にわたしの名、これが代々にわたってわたしの呼び名である。・・・」

と記されています。
 14節に記されています、神さまがモーセに告げられた、

 わたしは、「わたしはある」という者である。

ということば全体が、契約の神である主の御名です。これはヘブル語本文の訳ですが、これのギリシャ語訳である七十人訳では、

 わたしは、「存在している者」である。

となっています。この「存在している者」(ホ・オーン)が、ヨハネが黙示録1章4節において「存在しておられる方」(ホ・オーン)と呼んでいる方です。また、神さまがモーセに、

あなたはイスラエル人にこう告げなければならない。「わたしはあるという方が、私をあなたがたのところに遣わされた」と。

と命じられたときの「わたしはあるという方」も、七十人訳では、その前の「存在している者」(ホ・オーン)と同じことばで、ヨハネが黙示録1章4節において「存在しておられる方」(ホ・オーン)と呼んでいる方のことです。
 「アジヤにある七つの教会」は、おもに異邦人クリスチャンたちによって構成されていました。それで、その群れの人々は旧約聖書のヘブル語本文よりは七十人訳のようなギリシャ語訳のほうになじんでいました。それで、ヨハネは、この黙示録1章4節において、七十人訳に出てくる契約の神である主の御名である「存在しておられる方」(ホ・オーン)を用いていると考えられます。
 このように、ヨハネは「存在しておられる方」(ホ・オーン)という呼び方によって、出エジプトの時代に、モーセにご自身を現してくださり、モーセを遣わして、出エジプトの御業を遂行された契約の神である主、ヤハウェを指し示しています。このことは、後ほどお話ししますが、「アジヤにある七つの教会」の信徒の方々にとっても、大きな意味をもっていました。

 先ほど引用しました出エジプト記3章14節、15節には、

神はモーセに仰せられた。「わたしは、『わたしはある』という者である。」また仰せられた。「あなたはイスラエル人にこう告げなければならない。『わたしはあるという方が、私をあなたがたのところに遣わされた』と。」神はさらにモーセに仰せられた。「イスラエル人に言え。あなたがたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、が、私をあなたがたのところに遣わされた、と言え。

と記されていました。
 ここでは、

 わたしは、「わたしはある」という者である。

という神さまの御名が、

 わたしはあるという方

に短縮され、それがさらに3人称化されて「」(ヤハウェ)として示されています。新改訳で太字で記されている「」は「ヤハウェ」です。
 ですから、「」(ヤハウェ)という御名が意味することは、

 わたしは、「わたしはある」という者である。

というヘブル語本文による神さまの御名によって、あるいは、

 わたしは、「存在している者」である。

という七十人訳が示している御名によって示されています。そのどちらも、神さまの存在を強調するもので、神さまが永遠に存在しておられる方であられること、そして、この世界のすべてのものを造り出し、これを真実に支えておられる方であるということを示しています。
 そして、このことを根本にあることとして踏まえたうえで、15節に、

あなたがたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、

と記されていますように、その「」(ヤハウェ)が、

 あなたがたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神

であることが示されています。
 このことは、出エジプト記において、主がモーセにご自身を現してくださったことを記している3章に先だって、そのことの背景を記している2章23節ー25節に、

それから何年もたって、エジプトの王は死んだ。イスラエル人は労役にうめき、わめいた。彼らの労役の叫びは神に届いた。神は彼らの嘆きを聞かれ、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた。神はイスラエル人をご覧になった。神はみこころを留められた。

と記されていることとつながっています。
 契約の神である主がエジプトの奴隷となって苦役に服しているイスラエルの民をご覧になり、「みこころを留められた」のは、主がアブラハム、イサク、ヤコブとの契約を覚えていてくださったからです。そして、モーセを選んで、遣わしてくださったのも、主がアブラハム、イサク、ヤコブとの契約を覚えていてくださったからです。
 ですから、

あなたがたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、

という呼び方は、「」(ヤハウェ)がご自身の契約に対して常に真実であられることを意味しています。父祖たちや出エジプトの年代に関しては、それぞれに早期説と後期説があって、見方が分かれていますが、アブラハム、イサク、ヤコブの時代から、出エジプトの時代まで、約550年(アブラハム)から400年(ヤコブ)ほどの隔たりがあります。「」(ヤハウェ)はその間変わることなく、ご自身の契約を覚えてくださっていました。
 先ほど出エジプト記3章13節ー15節を引用しましたが、それに続く16節、17節には、

行って、イスラエルの長老たちを集めて、彼らに言え。
あなたがたの父祖の神、アブラハム、イサク、ヤコブの神、が、私に現れて仰せられた。「わたしはあなたがたのこと、またエジプトであなたがたがどういうしうちを受けているかを確かに心に留めた。それで、わたしはあなたがたをエジプトでの悩みから救い出し、カナン人、ヘテ人、エモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の地、乳と蜜の流れる地へ上らせると言ったのである。」

という神さまのみことばが記されています。
 ここでも、「」(ヤハウェ)がアブラハム、イサク、ヤコブとの契約を覚えてくださって、エジプトにおいて奴隷となって苦役に服しているイスラエルの民をみこころに留めてくださったこと、そして、モーセを遣わして、エジプトの奴隷の身分から贖い出してくださり、約束の地へと導き入れてくださることが約束されています。たとえ、イスラエルという地上でもっとも小さくもっとも力のない民が、エジプトという帝国の奴隷になっているとしても、「」(ヤハウェ)にとっては、契約の約束を実現してくださるための妨げとはならなかったのです。むしろ、そのようなことを生かして、ご自身の栄光を豊かに現してくださり、イスラエルの民をエジプトの奴隷の身分から贖い出してくださいました。
 このことは、この黙示録が記されたときにローマ帝国の厳しい迫害にあって苦しんでいた「アジヤにある七つの教会」の信徒にとって、また、特に、パトモス島に流刑になっていたヨハネにとって、大きな意味をもっていたはずです。
 神さまは、かつてアブラハム、イサク、ヤコブの神、主であられただけではありません。この黙示録が記された時代においても、アブラハム、イサク、ヤコブの神、主であられます。そして、すでに、ご自身の御子イエス・キリストをお遣わしになって、真の意味での出エジプト、罪とその結果である死と滅びの奴隷となってしまっていたご自身の民を、その罪の力と死と滅びの中から贖い出し、約束の地の本体である契約の神である主の御臨在の御前に住まうもの、主との愛にあるいのちの交わり、すなわち、永遠のいのちに生きる者としてくださいました。このすべては、契約の神である主、ヤハウェが、アブラハム、イサク、ヤコブに与えてくださった契約に基づいて、御子イエス・キリストをとおしてすべて実現してくださったことで、「アジヤにある七つの教会」の信徒たちも、主の一方的な愛に基づく恵みによって、それにあずかっています。
 ヨハネを初めとする「アジヤにある七つの教会」の信徒たちはこの恵みにあずかり、それによって生きているためにローマ帝国による激しい迫害にあっています。けれども、それがどのように厳しい状況であっても、ローマ帝国がいかに強大な帝国であっても、神さまは、

 存在しておられる方、存在しておられた方、そして、来られる方

であられます。必ず、ご自身の契約の民を完全な救いにあずからせてくださいます。
 このようにして、

 存在しておられる方、存在しておられた方、そして、来られる方

は、時間を越えて永遠に存在される方です。また、この世界のすべてのものを造り出し、その一つ一つを支えておられる方、人類の歴史をあわれみの御手によって支えつつ導いておられる方です。そればかりでなく、また、それ以上に、

 存在しておられる方、存在しておられた方、そして、来られる方

は、何よりも、ご自身の契約を常に覚えてくださっておられる方です。その契約に基づいて、ご自身の民の救いを完全に実現してくださる方です。この方が、人類の歴史をあわれみの御手によって支え、導いておられるのは、ご自身の契約の民の救いを完全に実現してくださるためです。
 「アジヤにある七つの教会」によって代表的に表されている御子イエス・キリストの教会は、世の終わりまで、この、

 存在しておられる方、存在しておられた方、そして、来られる方

の御手によって守られ、導かれており、終わりの日に再び来られる御子イエス・キリストによって完全に実現してくださる神さまの救いにあずかるのです。
 私たちはいま、世界が一つとなって動き、さまざまな問題が噴出してきている時代に生きています。そのような時代にあって、私たちの存在の小ささと無力さを身にしみて思い知らされることがしばしばです。しかし、契約の神である主は初めから、そのような者たちを、ご自身の一方的な愛と恵みによってお選びくださいました。エジプトの奴隷であったイスラエルの民も、ローマ帝国の厳しい迫害のもとにあった初代教会の民も、みな風前のともしびのような存在でした。しかし神さまは、私たちの資質や力によってではなく、神さまが御子イエス・キリストによって成し遂げてくださっている贖いの御業の完全さによって、私たちのための救いを完全に実現してくださいます。私たちはそれを信じて、その日を待ち望みつつ、委ねていただいていることに忠実に、愛のうちを歩みたいと思います。


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