黙示録講解

(第67回)


説教日:2012年3月18日
聖書箇所:ヨハネの黙示録1章1節ー8節
説教題:神からの恵みと平安


 今日も、ヨハネの黙示録1章4節ー5節前半に記されています、

ヨハネから、アジヤにある七つの教会へ。今いまし、昔いまし、後に来られる方から、また、その御座の前におられる七つの御霊から、また、忠実な証人、死者の中から最初によみがえられた方、地上の王たちの支配者であるイエス・キリストから、恵みと平安が、あなたがたにあるように。

というみことばについてのお話を続けます。
 このみることばは、その当時の手紙の挨拶の部分に当たるもので、ヨハネが「アジヤにある七つの教会」に送った挨拶です。ここに出てくる「アジヤ」は、ローマ帝国の属州であるアジアで、今日の小アジアに当たります。この「アジヤにある七つの教会」とは、1章10節、11節に、

私は、主の日に御霊に感じ、私のうしろにラッパの音のような大きな声を聞いた。その声はこう言った。「あなたの見ることを巻き物にしるして、七つの教会、すなわち、エペソ、スミルナ、ペルガモ、テアテラ、サルデス、フィラデルフィヤ、ラオデキヤに送りなさい。」

と記されていることから分かりますように、「エペソ、スミルナ、ペルガモ、テアテラ、サルデス、フィラデルフィヤ、ラオデキヤ」にある教会です。これらの教会は、ヨハネが牧会者としてみことばを伝え、そのために労し働いていた教会です。しかし、この時ヨハネはその牧会者としての働きを果たすことができない状態にありました。1章9節に、

私ヨハネは、あなたがたの兄弟であり、あなたがたとともにイエスにある苦難と御国と忍耐とにあずかっている者であって、神のことばとイエスのあかしとのゆえに、パトモスという島にいた。

と記されていますように、ヨハネはその牧会者としての働きのために捕えられて「パトモスという島」に流刑となっていました。これはヨハネだけが迫害を受けていたということではなく、「アジヤにある七つの教会」にも、迫害の手は及んでいたことを示唆しています。スミルナにある教会に対して語られた栄光のキリストのみことばを記している2章10節には、

あなたが受けようとしている苦しみを恐れてはいけない。見よ。悪魔はあなたがたをためすために、あなたがたのうちのある人たちを牢に投げ入れようとしている。あなたがたは十日の間苦しみを受ける。死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう。

と記されています。
 そのような状態にあったヨハネに、栄光のキリストがご自身を現してくださり、ご自身が「アジヤにある七つの教会」のまことの牧者であられることを示してくださっています。栄光のキリストはその一つ一つの群れに細やかにお心を注いでくださって、それぞれの実情を知っていてくださり、推賞すべきことを取り上げて賞賛してくださり、困難な問題を取り上げて慰め、励ましてくださり、「非難すべきこと」を取り上げて、悔い改めを迫っておられます。そのようにして、終わりの日に、ご自身が主の民の救いを完全に実現してくださることによってもたらされる豊かな祝福にあずかる約束をしてくださっています。
 このように、栄光のキリストこそが、流刑の地パトモスにあるヨハネが心にかけている「アジヤにある七つの教会」の一つ一つの群れのまことの牧会者であられます。ヨハネはこのことを汲み取って、「アジヤにある七つの教会」に、この挨拶を記しているのだと考えられます。


 この挨拶のことばで、ヨハネは、

今いまし、昔いまし、後に来られる方から、また、その御座の前におられる七つの御霊から、また、忠実な証人、死者の中から最初によみがえられた方、地上の王たちの支配者であるイエス・キリストから、恵みと平安が、あなたがたにあるように。

と述べています。
 これは、「アジヤにある七つの教会」に、契約の神である主からの「恵みと平安」があることを祈り求めるものです。このように、神さまからの「恵みと平安」を祈り求めることばは、数週間前に引用しました新約聖書のいろいろな手紙の中の挨拶文から分かりますように、いわば、その当時のクリスチャンたちの手紙の決まり文句のようなものです。しかし、新約聖書のその他の手紙の挨拶もそうですが、ここでヨハネは、決して決まり文句を記しているのではありません。
 というのは、前にお話ししましたように、黙示録はヨハネの手紙ではありません。ヨハネは栄光のキリストが示してくださったことをあかしして記しています。そして、その際に、この挨拶を記しているのです。それで、ヨハネはどうしても、「アジヤにある七つの教会」のために、神さまからの「恵みと平安」を祈り求めないではいられなかったから、これを記していると考えられます。
 ヨハネがそのように感じている理由は、ヨハネ自身がローマ帝国からの厳しい迫害にさらされて、パトモス島に流刑になっており、ヨハネが牧会している「アジヤにある七つの教会」にも迫害の手が伸びているという状況があったからです。そのような状況の中にある一つ一つの群れにとって、契約の神である主からの「恵みと平安」があることが、どんなに大きな意味をもっていたかは十分に理解できます。
 この「恵みと平安」のうち「恵み」(カリス)はギリシャ的な挨拶において用いられ、「平安」(エイレーネー)はシャロームに当たるものとして、ヘブル的な挨拶において用いられると考えられています。とはいえ、新約聖書の手紙の中では、そのような一般的な習慣に倣っているということではありません。つまり、「恵み」ということで、「何かいいことがありますように」というようなことを言っているのではなく、「平安」ということで、「いつも平穏無事でありますように」というようなことを願っているわけではないということです。むしろ、「恵みと平安」を父なる神さまが御子イエス・キリストをとおして成し遂げられた贖いの御業との関連で理解して用いていると考えられます。

 まず「恵み」についてお話しします。
 私たちは造り主である神さまの一方的な愛と恵みによって、神さまとの愛にあるいのちの交わりのうちに生きる者として神のかたちに造られました。そのような栄光と特権を与えられた人が、造り主である神さま神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまいました。それによって、私たちは神さまに背を向け、造り主である神さまを神として愛することはおろか、認めることも、あがめることも、感謝することもなくなってしまいました。私たちは自らの罪に対する神さまの聖なる御怒りによるさばきを受けて、滅びるほかはないものとなってしまっていたのです。
 そのような私たちのために、父なる神さまは、その一方的な愛によって、御子イエス・キリストを贖い主として備えてくださり、いまから2千年前にお遣わしになりました。そして、御子イエス・キリストが私たちの罪の咎を負って、私たちに代わって、私たちの罪に対する神さまの聖なる御怒りによるさばきを受けてくださいました。これによって、私たちの罪をすべて、完全に清算してくださいました。そればかりでなく、御子イエス・キリストは私たちのために、その十字架の死に至るまでの完全な従順に対する報いとして、栄光を受けてくださって、死者の中からよみがえってくださいました。このようにして、御子イエス・キリストは、私たちのために贖いの御業を成し遂げてくださいました。
 私たちのために贖いの御業を成し遂げられた御子イエス・キリストは、栄光をお受けになって、天に上り、父なる神さまの右の座に着座され、そこから御霊を注いでくださいました。御霊は、使徒たちを中心とする新約聖書を記した人々を霊感して、イエス・キリストが成し遂げられた贖いの御業と、その意味を明らかに示されました。そして、私たちを栄光のキリストと一つに結び合わせてくださって、その復活のいのちで新しく生まれさせてくださいました。それによって、私たちは新約聖書にあかしされている福音のみことばを理解することができるようになり、福音のみことばにあかしされているイエス・キリストとイエス・キリストが成し遂げられた贖いの御業を信じるようになりました。
 このように、父なる神さまが御子イエス・キリストによって、私たちのために贖いの御業を成し遂げてくださったことも、私たちをその贖いの御業にあずからせてくださって、私たちの罪を完全に清算して、私たちを死と滅びの中から救い出して、ご自身との愛にあるいのちの交わりのうちに生きる神の子どもとしてくださったことも、すべて、神さまの一方的な愛と恵みによることです。
 父なる神さまは、すでに御子イエス・キリストによってこれらのことを成し遂げてくださっています。そして、御霊によって、それを私たちの現実としてくださっています。そうであれば、やがて終わりの日に再臨される栄光のキリストによって、この一方的な愛と恵みによる救いを完成させてくださることは確かなことです。ローマ人への手紙5章7節ー10節には、

正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです。

と記されています。
 このように見ますと、新約聖書の手紙の中の挨拶に出てくる神さまの「恵み」が、「何かいいことがあるように」というような、一般的な意味での「恵み」とは違って、父なる神さまが御子イエス・キリストによって成し遂げられた贖いの御業に基づき、御霊によって私たちの現実としてくださっている救いの「恵み」のことであることが分かります。この「恵み」のゆえに、私たちはすでに救われて、神の子どもとしていただいており、この「恵み」のゆえに、終わりの日に再臨される栄光のキリストによる救いの完全な実現にあずかるのです。ですから、新約聖書の手紙において、それを記した人が、父なる神さまと御子イエス・キリストからの「恵み」がありますようにと言うときには、今すでにあずかっている豊かな「恵み」だけでなく、終わりの日の救いの完成にまで私たちを確実に導いてくださる契約の神である主の「恵み」をも視野に入れているのです。

 さらに、神さまが御子イエス・キリストによって私たちのための贖いの御業を成し遂げてくださり、それに基づいてお働きになる御霊によって、私たちを死と滅びの中から救い出してくださり、ご自身との愛にあるいのちの交わりのうちに生かしてくださっておられることにより、私たちのうちには「平安」が宿るようになりました。
 先ほどローマ人への手紙5章7節ー10節を引用しましたが、その前の1節ー5節には、

ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。

と記されています。
 1節において、

ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。

と言われているときの「神との平和」の「平和」は、ヨハネが黙示録1章4節で、

 恵みと平安が、あなたがたにあるように。

と祈り求めているときの「平安」と同じことば(エイレーネー)です。けれども、ヨハネがここで、

 恵みと平安が、あなたがたにあるように。

と祈り求めているときの「平安」は、ローマ人への手紙5章1節で、

ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。

と言われている「神との平和」のことではありません。というのは、ここで言われている「神との平和」は、「信仰によって義と認められた私たち」が、すでにもっているものであるからです。ここで、

 神との平和を持っています。

と言われているときの「持っています」ということばは現在時制で表されていて、常に持っているという意味合いを伝えています。それは、先ほどお話ししました、父なる神さまが私たちに対する一方的な愛と恵みによって、御子イエス・キリストをとおして成し遂げられた贖いの御業に基づいて、私たちを死と滅びの中から救い出してくださっただけでなく、私たちを神の子どもとしてくださったことに基づくご自身との間にある「平和」です。かつては、神さまに敵対していた私たちのために、神さまの方から、御子イエス・キリストによる贖いの御業を備えてくださって、私たちをご自身と和解させてくださったのです。それで、私たちは、すでに、神さまの一方的な愛と恵みによって、「神との平和」(エイレーネー)をもっているのです。そして、これは、神さまがその一方的な愛と恵みによって私たちのためになしてくださっていることですので、決して取り去られることはありません。
 ヨハネがここで祈り求めている「平安」(エイレーネー)は、「アジヤにある七つの教会」の群れがさらされている厳しい迫害の中にあっても揺るぐことのない「平安」です。その意味で、「アジヤにある七つの教会」の信徒たち一人一人が心に抱いている「平安」(エイレーネー)です。
 しかし、その根底には、ローマ人への手紙5章1節で、

ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。

と言われている「神との平和」(エイレーネー)があります。というのは、私たちの「平安」(エイレーネー)をかき乱すものは、最終的には、私たちの罪に対する神さまの聖なる御怒りによるさばきによってもたらされる死と滅びへの恐怖であるからです。ヘブル人への手紙2章14節、15節には、

そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。

と記されています。私たちは、信仰によって、御子イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いにあずかって、罪を赦されています。私たちの罪に対する神さまの聖なる御怒りによるさばきは、すでに、御子イエス・キリストの十字架において執行されて終わっています。それで、私たちは決して罪のさばきを受けることはありません。このことに基づいて、神さまは私たちを「死の恐怖」から解放してくださいました。
 また、ヨハネは、その第一の手紙の4章18節、19節において、

愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。なぜなら恐れには刑罰が伴っているからです。恐れる者の愛は、全きものとなっていないのです。私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。

と教えています。私たちは、父なる神さまが私たちのために御子イエス・キリストをも賜ったことにおいて、私たちを愛してくださったその無限とも言うべき愛に触れています。それによって愛というものを知り、御子イエス・キリストの復活のいのちによって新しく生まれたことにより、その愛のうちに生きるようにしていただいています。ヨハネの手紙第一・3章16節には、

キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。

と記されており、4章9節、10節には、

神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。

と記されています。私たちを刑罰としての死の恐怖から救い出して、まったき愛のうちに生きる者としてくださったのは、父なる神さまです。

 先ほど引用しましたローマ人への手紙5章1節では、

ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。

と言われていました。この「神との平和」は、先ほどお話ししましたように、今すでに、すべての主の民が、常に、与えられて、もっているものです。これに続いて2節には、

またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。

と記されています。ここでパウロは、いますでに「神との平和」のうちにある私たちは、将来、神さまが御子イエス・キリストによってもたらしてくださる「神の栄光」への望みのうちに生きていることを示しています。
 この「神の栄光」とは8章28節ー30節において、

神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。

と言われている、私たちが「御子のかたちと同じ姿」に造り変えられることです。ここでは、私たちが「御子のかたちと同じ姿」に造り変えられるために、神さまが「すべてのことを働かせて益としてくださる」と告白されています。つまり、「」とは、私たちが「御子のかたちと同じ姿」に造り変えられることを意味しています。
 また、ここ、5章2節で、

 神の栄光を望んで大いに喜んでいます。

と言われているときの「大いに喜んでいる」と訳されていることば(カウカオマイ)は、基本的に、「誇る」ことを意味しています。ここでは、神さまが私たちを「神の栄光」にあずからせてくださること、すなわち、私たちを「御子のかたちと同じ姿」に造り変えてくださることの確かさを確信して、誇らしく喜んでいることを意味しています。「誇らしく」といっても、それは自分のことを誇るのではなく、コリント人への手紙第一・1章31節に、

 まさしく、「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりになるためです。

と記されていますように、神さまの御業の確かさを誇っているのです。
 このように、今すでに神さまの一方的な愛と恵みによって「神との平和」の中に入れていただいている私たちは、

 神の栄光を望んで大いに喜んでいます。

それで、この「神との平和」を実現してくださった神さまの恵みは現状を維持する恵みではなく、将来における救いを完全に実現してくださる、さらに豊かな祝福をもたらす、ダイナミックな恵みです。
 このことを受けて、ローマ人への手紙5章3節、4節には、

そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。

と記されています。
 ここで「練られた品性」と訳されていることば(ドキメー)は、「試してよしとされた資質」(BAGD)を表し、そのような品性を意味しています。ここではさまざまな「患難」(複数)を忍耐をもって受け止めることによって試された結果、よしとされた資質としての品性です。
 これが希望を生み出すと言われています。それは、私たちがさまざまな「患難」を忍耐をもって受け止めることができるのは、私たちの力によることではなく、私たちが神さまの恵みの確かさを確信するからです。神さまが私たちを「神の栄光」にあずからせてくださること、すなわち、私たちを「御子のかたちと同じ姿」に造り変えてくださることの確かさを確信するからです。また、逆に、私たちがそのさまざまな「患難」を忍耐をもって受け止めていくうちに、その確信がより確かなものとなっていくからです。
 このようにして、神さまが私たちを「神の栄光」にあずからせてくださること、すなわち、私たちを「御子のかたちと同じ姿」に造り変えてくださることの確かさを確信して「大いに喜んでいる」ことが、「患難さえも」喜ぶことにつながっていることをが示されています。
 そして、ここでは、さらに、

この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。

と言われています。
 これが、1節で、

ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。

と言われている「神との平和」をもっていることから生み出される祝福です。
 このようにして、「神との平和」をもっていることはさまざまな「患難さえも」喜ぶことにつながっています。これを厳しい迫害を初めとして、さまざまな試練の中にある「アジヤにある七つの教会」に当てはめてみますと、「神との平和」のうちにある信徒たちが、その厳しい試練の中でなお、神さまの愛と恵みの確かさを確信して「平安」を持ち続けるということになります。
 これらのことから分かりますように、ヨハネが黙示録1章4節で祈り求めている「平安」(エイレーネー)は、波風が立たないから安静であるということとは違うものです。むしろ、すでに神さまがその一方的な愛と恵みによって私たちをご自身との「平和」(エイレーネー)の中に入れてくださっていることに基づいて、さまざまな「患難」の中にあっても、契約の神である主の愛と恵みの確かさを信じて、主が約束してくださっている、終わりの日における救いの完成を待ち望むことに現れてくる「平安」(エイレーネー)です。そして、このような「平安」は、契約の神である主が、御霊によって私たちに与えてくださるものです。
 最後に、ヨハネの福音書14章27節に記されている、私たちの主イエス・キリストが私たちに「平安」を与えてくださることを約束してくださっているみことばをお読みいたします。

わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。


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