黙示録講解

(第66回)


説教日:2012年3月11日
聖書箇所:ヨハネの黙示録1章1節ー8節
説教題:まことの牧者に導かれて


 黙示録1章4節ー5節前半に記されています、

ヨハネから、アジヤにある七つの教会へ。今いまし、昔いまし、後に来られる方から、また、その御座の前におられる七つの御霊から、また、忠実な証人、死者の中から最初によみがえられた方、地上の王たちの支配者であるイエス・キリストから、恵みと平安が、あなたがたにあるように。

というみことばについてのお話を続けます。
 この4節ー5節前半に記されていることばは、ヨハネが「アジヤにある七つの教会」に送った挨拶です。ここに出てくる「アジヤにある七つの教会」は、その当時の、ローマ帝国の属領であるアジアで、今日の小アジアにある七つの教会のことです。栄光のキリストがヨハネに現れてくださったことを記している10節、11節には、

私は、主の日に御霊に感じ、私のうしろにラッパの音のような大きな声を聞いた。その声はこう言った。「あなたの見ることを巻き物にしるして、七つの教会、すなわち、エペソ、スミルナ、ペルガモ、テアテラ、サルデス、フィラデルフィヤ、ラオデキヤに送りなさい。」

と記されています。この記事から、それが「エペソ、スミルナ、ペルガモ、テアテラ、サルデス、フィラデルフィヤ、ラオデキヤ」にある教会であることが示されています。これらの教会は、ヨハネが牧会者としてみことばを伝え、労し働いていた教会です。
 その当時、「アジア」すなわち今日の小アジアには、これら七つの教会以外の教会がありました。地理的にこれら「アジヤにある七つの教会」に近いものとしては、コロサイの教会や、コロサイ人への手紙4章13節に出てくるヒエラポリスの教会があります。これらの教会も、「アジヤにある七つの教会」と同じく、ヨハネの牧会的な指導を受けていたと考えられます。その他、使徒の働き14章20節、21節や16章2節から、小アジアにはデルベ、ルステラ、イコニオム、ピシデヤのアンテオケに教会があったことが分かりますが、これらは、地理的に、黙示録に出てくる「アジヤにある七つの教会」から離れています。それで、これらの教会にどれほどヨハネがかかわっていたかはよく分かりません。
 「アジヤにある七つの教会」のうち、エペソと、やはりコロサイ人への手紙4章13節に出てくるラオデキヤの教会以外の五つの教会については、この黙示録に記されているだけです。(地名としましては、使徒の働き16章14節に、ルデヤの出身地としてテアテラが出てきますが、教会のことは出てきません。)それで、これら五つの教会は、黙示録にその名が記されることがなかったら、その存在は、聖書からは分からなかったものです。それで、聖書に出てこない町にも教会があった可能性があります。
 いずれにしましても、ヨハネが牧会者として深くかかわっていた教会は、黙示録に出てくる「アジヤにある七つの教会」以外にもあったと考えられます。その中から「七つの教会」が選ばれているわけです。それはヨハネが選んだのではなく、先ほど引用しました10節、11節から分かりますように、栄光のキリストご自身です。


 これら「七つの教会」が選ばれた理由は分かりませんが、いくつかのことが考えられます。
 第一に、「7」が完全数であることです。
 黙示録の中では、この「7」という数字が重要な役割を果たしています。
 いま取り上げていますヨハネの挨拶の中にも、「御座の前におられる七つの御霊」が出てきます。日を改めてお話ししますが、これは御霊を指していると考えられます。それが「七つの御霊」と言われていることは、御霊の御臨在とお働きの完全性を示していると考えられます。これは私の言い方ですが「御臨在の完全性」という言い方は、分かりにくいかもしれません。これは、いつの時代のどこにある教会にも御臨在くださることを意味して使っています。後ほど引用します5章6節では、御霊のことが「全世界に遣わされた神の七つの御霊」と言われています。
 また、この挨拶に続いて記されている、栄光のキリストの顕現の描写の中でも、12節に「七つの金の燭台」が出てきますし、16節に「七つの星」が出てきます。そして、20節において、「七つの金の燭台」は「七つの教会」を表し、「七つの星」は「七つの教会の御使いたち」を表しているということが示されています。これは、「アジヤにある七つの教会」に対応している「7」です。
 また、天において「御座にすわっておられる方の右の手」にある「巻き物」は「七つの封印で封じられて」いました。この「巻き物」の「七つの封印」は「ほふられたと見える小羊」すなわち栄光のキリスだけが解くことができました。5章6節には、この小羊のことが、

これに七つの角と七つの目があった。その目は、全世界に遣わされた神の七つの御霊である。

と記されています。そして、この小羊が一つずつ封印を解いていくのにしたがって、救いとさばきの御業の歴史が展開していき、一つの頂点、クライマックスに達します。後ほど7章13節ー17節を簡単に取り上げます。
 さらに、小羊が第七の封印を解くと、「神の御前に立つ七人の御使い」に「七つのラッパ」が与えられます。この「七人の御使い」のそれぞれが、ラッパを吹き鳴らすのにしたがって、救いとさばきの御業の歴史が展開していきます。11章15節には、

第七の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、天に大きな声々が起こって言った。
 「この世の国は私たちの主およびそのキリストのものとなった。主は永遠に支配される。」

と記されていて、一つの頂点に至っています。
 この後、先週お話ししました、12章ー13章に記されていることから始まり、16章まで、暗やみの主権者であるサタンを表す「」とその軍勢と、小羊とその民の霊的な戦いのことが記されています。
 その最後の部分である15章、16章において、「七つの災害を携えた七人の御使い」に「永遠に生きておられる神の御怒りの満ちた七つの金の鉢」が与えられます(15章6節、7節)。そして、この「七人の御使い」が順次「金の鉢」をぶちまけるにしたがって、さばきの御業が展開していきます。もちろん、先週お話ししました「最初の福音」の光から見ますと、これはその裏に救いの御業が隠れていることになります。
 これを受けて、17章ー19章に「大水の上にすわっている大淫婦」(17章1節)と呼ばれる「すべての淫婦と地の憎むべきものとの母、大バビロン」(17章5節)へのさばきの執行が記されています。
 その後、20章にはサタンとその共同体への最終的なさばきが執行されることと、21章、22章には新しい天と新しい地の創造のことが記されています。
 少し長くなってしまいましたが、これらにおいて「7」という数字がとても重要な意味をもっています。

 栄光のキリストが「アジヤにある七つの教会」をお選びになったことと関連して考えられる第二のことですが、2章ー3章に記されています「アジヤにある七つの教会」に対する栄光のキリストのみことばを見ますと、それぞれの教会が異なった状況におかれ、異なった問題に直面しています。一つ一つの教会にお心を注いでくださり、それぞれの教会のことを知っていてくださる栄光のキリストは、このように、異なった状況におかれていて、異なった問題に直面している七つの教会をお選びになったと考えられます。そして、これら七つの教会によって、ご自身のみからだである教会全体を代表的に示してくださっていると考えられます。これによって、異なった状況におかれ、異なった問題に直面している教会が、すべて、栄光のキリストのみからだである教会を形成していることが示されています。
 この「アジヤにある七つの教会」は、ヨハネが牧会者として心にかけている、これら七つの教会以外の諸教会を含むとともに、その時代をともにする地中海世界全体にある諸教会、そして、今日に至るまで、栄光のキリストが「御座の前におられる七つの御霊」によって導き、養い育ててくださってきた諸教会、さらには、終わりの日に至るまで存続する諸教会をも代表的に表していると考えられます。
 このこととの関連で注目したいことがあります。
 2章ー3章に記されています、「アジヤにある七つの教会」に対する栄光のキリストのみことばの最初に取り上げられているエペソの教会に対するみことばを記している、2章7節には、

耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。勝利を得る者に、わたしは神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べさせよう。

と記されています。ここでは、直接的にはエペソの教会に対して語られているのですが、それは「御霊が諸教会に言われること」として、すべての教会に対しても語られています。この「御霊が諸教会に言われること」というのは、栄光のキリストが、御霊によって諸教会に語っておられることを意味しています。
 この、

耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。

というみことばは、この後、同じ2章の11節、17節、29節、3章6節、13節、22節に出てきて、「アジヤにある七つの教会」のそれぞれに対する祝福の約束を伝える、栄光のキリストのみことばの中に出てきます。
 このようにして、2章ー3章に記されています「アジヤにある七つの教会」のそれぞれに対する栄光のキリストのみことばは、この時代のこの国のこの町において主のみからだなる教会を形成している私たちにも当てはまるみことばです。そして、その意味でも、「アジヤにある七つの教会」は栄光のキリストのみからだである教会の全体を代表的に表していると考えられます。そして、栄光のキリストは、ご自身のみからだである教会の全体を代表的に表すためにふさわしい「七つの教会」をお選びになったのだと考えられます。

 これまで繰り返しお話ししてきましたが、1章9節に、

私ヨハネは、あなたがたの兄弟であり、あなたがたとともにイエスにある苦難と御国と忍耐とにあずかっている者であって、神のことばとイエスのあかしとのゆえに、パトモスという島にいた。

と記されていますように、この時ヨハネは、「アジヤにある七つの教会」を含めた諸教会の牧会者としての働きのために捕えられ、パトモスという島に流刑になっていました。このことは、ヨハネだけでなく、ヨハネが牧会する小アジアにある「七つの教会」を含めた、地中海世界にあった諸教会にも迫害が及んでいたことを意味しています。
 ヨハネはそのような厳しい状況の中で、自分が牧会する群れから引き裂かれて、パトモス島に流刑になってしまっていました。そのヨハネに、栄光のキリストが現れてくださり、ご自身がまことの牧者として「アジヤにある七つの教会」にお心を注いでくださっており、その一つ一つの群れを親しく知っていてくださり、賞賛すべき点を取り上げて励ましてくださるとともに、「非難すべきこと」をも取り上げて悔い改めるべきことを示してくださっています。それは、その時限りのことで終わるのではなく、終わりの日において完成するに至る救いの完全な実現にあずかることを、祝福のみことばをもって、約束してくださっています。
 このように、栄光のキリストご自身がまことの牧者であられることが、流刑の地にあるヨハネに示されました。
 栄光のキリストがまことの牧者であられることは、ヨハネの福音書10章11節節に、

わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。

というイエス・キリストの教えが記されており、14節ー16節にも、

わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っています。また、わたしのものは、わたしを知っています。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同様です。また、わたしは羊のためにわたしのいのちを捨てます。わたしにはまた、この囲いに属さないほかの羊があります。わたしはそれをも導かなければなりません。彼らはわたしの声に聞き従い、一つの群れ、ひとりの牧者となるのです。

と記されています。その他、たとえば、ペテロの手紙第一・2章25節には、

あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです。

と記されていますし、5章1節ー4節にも、

そこで、私は、あなたがたのうちの長老たちに、同じく長老のひとり、キリストの苦難の証人、また、やがて現れる栄光にあずかる者として、お勧めします。あなたがたのうちにいる、神の羊の群れを、牧しなさい。強制されてするのではなく、神に従って、自分から進んでそれをなし、卑しい利得を求める心からではなく、心を込めてそれをしなさい。あなたがたは、その割り当てられている人たちを支配するのではなく、むしろ群れの模範となりなさい。そうすれば、大牧者が現れるときに、あなたがたは、しぼむことのない栄光の冠を受けるのです。

と記されています。
 黙示録の中でも、7章13節ー17節には、

長老のひとりが私に話しかけて、「白い衣を着ているこの人たちは、いったいだれですか。どこから来たのですか」と言った。そこで、私は、「主よ。あなたこそ、ご存じです」と言った。すると、彼は私にこう言った。「彼らは、大きな患難から抜け出て来た者たちで、その衣を小羊の血で洗って、白くしたのです。だから彼らは神の御座の前にいて、聖所で昼も夜も、神に仕えているのです。そして、御座に着いておられる方も、彼らの上に幕屋を張られるのです。彼らはもはや、飢えることもなく、渇くこともなく、太陽もどんな炎熱も彼らを打つことはありません。なぜなら、御座の正面におられる小羊が、彼らの牧者となり、いのちの水の泉に導いてくださるからです。また、神は彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださるのです。」

と記されています。
 ここに出てくる「白い衣を着ているこの人たち」とは、9節で、

その後、私は見た。見よ。あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、だれにも数えきれぬほどの大ぜいの群衆が、白い衣を着、しゅろの枝を手に持って、御座と小羊との前に立っていた。

と言われている人々のことで、主の契約の民の全体を指しています。この人々については、

彼らは、大きな患難から抜け出て来た者たちで、その衣を小羊の血で洗って、白くしたのです。

と言われています。
 15節ー17節に記されている、

だから彼らは神の御座の前にいて、聖所で昼も夜も、神に仕えているのです。そして、御座に着いておられる方も、彼らの上に幕屋を張られるのです。彼らはもはや、飢えることもなく、渇くこともなく、太陽もどんな炎熱も彼らを打つことはありません。なぜなら、御座の正面におられる小羊が、彼らの牧者となり、いのちの水の泉に導いてくださるからです。また、神は彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださるのです。

ということばは、新しい天と新しい地のことを記している21章1節ー4節に、

また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」

と記されているみことばを思い起こさせます。
 その意味で、これは先ほどお話ししました、「七つの封印で封じられて」いる「巻き物」の「七つの封印」を「ほふられたと見える小羊」が解いていって、ここで一つの頂点に達していることになります。

 このことは、「ほふられたと見える小羊」、7章17節のことばで言いますと「御座の正面におられる小羊」が私たちご自身の契約の民を、「牧者となり、いのちの水の泉に導いてくださる」こと、すなわち、終わりの日の救いの完成によってもたらされる祝福にあずからせてくださることを意味しています。
 このことは誰よりもまず、パトモス島に流刑になっていたヨハネに示されたことです。ヨハネが心にかけていた「アジヤにある七つの教会」によって代表される諸教会は、このようにして示され、約束されている祝福にあずかることが示されているのです。
 このこととの関連で、それぞれの教会に宛てられた祝福のみことばを見てみましょう。
 エペソにある教会に対しては、2章7節に、

耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。勝利を得る者に、わたしは神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べさせよう。

と言われています。スミルナにある教会に対しては、2章11節に、

耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。勝利を得る者は、決して第二の死によってそこなわれることはない。

と言われています。ペルガモにある教会に対しては、2章17節に、

耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。わたしは勝利を得る者に隠れたマナを与える。また、彼に白い石を与える。その石には、それを受ける者のほかはだれも知らない、新しい名が書かれている。

と言われています。テアテラにある教会に対しては、2章26節ー29節に、

勝利を得る者、また最後までわたしのわざを守る者には、諸国の民を支配する権威を与えよう。彼は、鉄の杖をもって土の器を打ち砕くようにして彼らを治める。わたし自身が父から支配の権威を受けているのと同じである。また、彼に明けの明星を与えよう。耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。

と言われています。サルデスにある教会に対しては、3章5節、6節に、

勝利を得る者は、このように白い衣を着せられる。そして、わたしは、彼の名をいのちの書から消すようなことは決してしない。わたしは彼の名をわたしの父の御前と御使いたちの前で言い表す。耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。

と言われています。フィラデルフィアにある教会に対しては、3章12節、13節に、

勝利を得る者を、わたしの神の聖所の柱としよう。彼はもはや決して外に出て行くことはない。わたしは彼の上にわたしの神の御名と、わたしの神の都、すなわち、わたしの神のもとを出て天から下って来る新しいエルサレムの名と、わたしの新しい名とを書きしるす。耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。

と言われています。そして、ラオデキヤにある教会に対しては、3章21節、22節に、

勝利を得る者を、わたしとともにわたしの座に着かせよう。それは、わたしが勝利を得て、わたしの父とともに父の御座に着いたのと同じである。耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。

と言われています。
 栄光のキリストが語っておられるこれらの祝福の約束は、すべて、終わりの日にご自身が再臨されて、私たちご自身の契約の民の救いを完成してくださることによって、完全な形で実現してくださる約束です。ここに記されている「すべての約束」は、先ほどお話ししましたとおり、

 耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。

というみことばによって、時代を越え、場所を越えて、すべの主の契約の民の群れに当てはまるものとして示されています。
 この七つの祝福の約束は、「アジヤにある七つの教会」が栄光のキリストのみからだであるすべての教会を代表的に表しているように、栄光のキリストのみからだである教会が受けるすべての祝福を代表的に表していると考えられます。栄光のキリストが再臨されて、私たちご自身の民のために完成してくださる救いに伴う祝福を、私たちはすべて述べ尽くすことはできません。それが、完全数である「七つ」の祝福で代表的に表されているということです。
 これを、先ほど引用しました7章17節の、

なぜなら、御座の正面におられる小羊が、彼らの牧者となり、いのちの水の泉に導いてくださるからです。また、神は彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださるのです。

というみことばの光の下で見ますと、「御座の正面におられる小羊」が私たちご自身の契約の民を、「牧者となり、いのちの水の泉に導いてくださる」こと、すなわち、終わりの日の救いの完成によってもたらされる祝福にあずからせてくださるということです。

 最後に簡単に触れておきたいたことは、これらの祝福は「勝利を得る者」に与えられると言われています。この勝利は、先週お話ししましたように、霊的な戦いにおける勝利であって、決して血肉の戦いによる勝利ではありません。先週取り上げました12章11節には、

兄弟たちは、小羊の血と、自分たちのあかしのことばのゆえに彼に打ち勝った。彼らは死に至るまでもいのちを惜しまなかった。

と記されていました。これを血肉の戦いという観点から見ますと、

 彼らは死に至るまでもいのちを惜しまなかった。

ということばは、彼らの敗北を意味しています。彼らはこの世の権力者たちによって殺されてしまったのです。しかし、霊的な戦いという観点から見ますと、彼らは「小羊の血」にあずかり、その「小羊の血」によって成し遂げられた贖いの御業にをあかしする歩みを最後まで続けて勝利したのです。これは、ここに出てくる主の民たちだけのことではありません。先ほど引用しました、ヨハネの福音書10章11節に、

 わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。

と記されていますように、まことの牧者であられるイエス・キリストは、私たちご自身の民のために、十字架におかかりになって、いのちをお捨てになりました。それは、血肉の戦いという観点から見ますと、敗北です。しかし、私たちの主であられる御方が、私たちご自身の民のためにいのちをお捨てになったことによって、霊的な戦いにおける勝利は決定的なものとなりました。
 私たちは父なる神さまの一方的な愛と恵みによって、この御方、「ほふられたと見える小羊」として示されている栄光のキリストの民としていただいている者として、その勝利にあずかるだけです。私たちが栄光のキリストの勝利にあずかっていることを述べている、エペソ人への手紙2章4節ー6節には、

しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、――あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです――キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。

と記されています。すべて、父なる神さまがその一方的な愛と恵みによって、私たちに対してなしてくださっていることです。


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