黙示録講解

(第65回)


説教日:2012年3月4日
聖書箇所:ヨハネの黙示録1章1節ー8節
説教題:主の贖いの御業の歴史の中で


 先々主日と先主日に続きまして、ヨハネの黙示録1章4節ー5節前半に記されています、

ヨハネから、アジヤにある七つの教会へ。今いまし、昔いまし、後に来られる方から、また、その御座の前におられる七つの御霊から、また、忠実な証人、死者の中から最初によみがえられた方、地上の王たちの支配者であるイエス・キリストから、恵みと平安が、あなたがたにあるように。

というみことばについてお話しします。
 この4節ー5節前半に記されていることばは、形としましては、新約聖書の時代の手紙における挨拶の部分に当たります。これはヨハネが「アジヤにある七つの教会」に送った挨拶です。ここに出てくる「アジヤにある七つの教会」は、今日の小アジアにある7つの教会のことで、ヨハネが牧会者としてみことばを伝え、労し働いていた教会です。
 しかし、ヨハネは黙示録を記したとき、その牧会者としての働きをすることができない状態にありました。1章9節に、

私ヨハネは、あなたがたの兄弟であり、あなたがたとともにイエスにある苦難と御国と忍耐とにあずかっている者であって、神のことばとイエスのあかしとのゆえに、パトモスという島にいた。

と記されていますように、この時ヨハネは、その牧会者としての働きのために捕えられ、パトモスという島に流刑になっていました。このことは、ヨハネだけでなく、ヨハネが牧会する小アジアにある「七つの教会」を含めた諸教会にも迫害が及んでいたことを意味しています。
 主が委ねてくださった群れから引き裂かれるようにして、パトモスに島流しになってしまっていたヨハネは、どんなにか、その群れを思い、主に執り成していたことでしょうか。そのヨハネに、栄光のキリストが現れてくださり、黙示録に記されていることを示してくださいました。
 2章ー3章に記されていることをとおして、栄光のキリストは、ご自身が、まことの牧者として「アジヤにある七つの教会」のことをつぶさに知っていてくださることを示しておられます。そして、一つ一つの群れを、それぞれにふさわしい勧告と励ましのみことばをもって養い育ててくださり、終わりの日に完全な形で実現する永遠の祝福に導き入れてくださる約束を与えてくださっていることを示しておられます。
 さらに、4章ー22節においては、「アジヤにある七つの教会」のあった時代、すなわち初代教会の時代から、終わりの日に至までの栄光のキリストが遂行される贖いの御業の歴史が記されています。
 それは、創世記3章15節に、

 わたしは、おまえと女との間に、
 また、おまえの子孫と女の子孫との間に、
 敵意を置く。
 彼は、おまえの頭を踏み砕き、
 おまえは、彼のかかとにかみつく。

と記されている「最初の福音」を、いちばん奥にある背景として展開される、契約の神である主の贖いの御業の歴史です。
 このことに関しては、すでに繰り返しお話ししてきたことですが、改めて、今お話ししていることとの関連で、まとめておきたいと思います。
 この神である主のみことばは、もともと、「」をとおして働いて、最初の人を誘って罪を犯させたサタンに対する、主のさばきのみことばです。
 主は最初の人がご自身に対して罪を犯して、御前に堕落してしまったこの時に最終的なさばきを執行されないで、「女の子孫」のかしらとして来られる贖い主を約束してくださり、その方によって、サタンに対する最終的なさばきを執行されるというみこころを示されました。そのために、まず、

 わたしは、おまえと女との間に、
 また、おまえの子孫と女の子孫との間に、
 敵意を置く。

と言われています。これは、罪によって一つに結ばれてしまっているサタンと「」との間に、さらには、サタンの子孫と「女の子孫」の間に、主が「敵意を置」いてくださるということを意味しています。ここで、「おまえの子孫」と言われているサタンの子孫も「女の子孫」も、ともに単数形です。これは集合名詞として、サタンの子孫たちの共同体と「女の子孫」の共同体を意味しています。そして、この、

 わたしは、おまえと女との間に、
 また、おまえの子孫と女の子孫との間に、
 敵意を置く。

というみことばは、神である主がこの二つの共同体の間に「敵意を置」いてくださることによって、この二つの共同体が、お互いに、敵対して戦うようになるということを意味しています。
 創世記3章の記事の中では、8節ー13節に記されていますように、神である主は罪を犯した最初の人とその妻に対して、罪を認めて悔い改める機会を与えてくださいました。しかし、二人は、自分の罪を認めて、悔い改めることをしないで、その責任は自分にはないという言い逃れをしています。二人は罪に縛られた状態にあり、罪によってサタンとその陣営に属したままでした。しかし、このサタンに対するさばきの宣言のみことばでは、神である主が二つの共同体の間に「敵意を置」いてくださって、二つの共同体が、お互いに敵対して戦うようになるということを示しておられます。
 もちろん、これは霊的な戦いにおけることであって、武力などを用いての血肉の戦いではありません。後に与えられる啓示において明らかにされることを先取りして言いますと、もし「」と「女の子孫」の共同体が、血肉の力にものを言わせて戦うようになるなら、それ自体が、霊的な戦いにおける敗北を意味しています。
 この霊的な戦いにおいて、サタンとその子孫は神である主に敵対して働いています。そのサタンとその子孫に敵対する「」と「女の子孫」は、神である主の側に立つようになります。それは「」と「女の子孫」が救われることを意味しています。それで、このサタンに対するさばきの宣言は、「最初の福音」と呼ばれます。
 これには続きがあります。神である主は続いて、

 彼は、おまえの頭を踏み砕き、
 おまえは、彼のかかとにかみつく。

と仰せられました。
 これは、霊的な戦いにおいて、「」と「女の子孫」の共同体がサタンとその子孫の共同体に対して勝利することを明らかにしています。それは、最終的には、それぞれの共同体のかしらの戦いにおいて、「」と「女の子孫」の共同体のかしらが、サタンに勝利するという形において、さばきを執行するようになるということを意味しています。サタンとその子孫の共同体にはかしらがいます。言うまでもなく、それはサタンです。それで、「」と「女の子孫」の共同体にもかしらがいると考えられます。しかし、それは「」ではなく「女の子孫」の中にいます。それが「女の子孫」のかしらとして来られる贖い主です。この方が、最終的にサタンに対するさばきを執行するのです。
 実際に、永遠の神の御子イエス・キリストが「女の子孫」のかしらとして来られ、十字架におかかりになって、私たちご自身の契約の民の罪に対する神さまの聖なる御怒りによるさばきを私たちに代わって受けてくださり、私たちの罪を贖ってくださいました。ガラテヤ人への手紙3章13節には、

キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである」と書いてあるからです。

と記されています。
 そればかりでなく、イエス・キリストは、その地上の生涯において十字架の死に至るまで神さまのみこころに従いとおされて、そのことに対する報いとして、栄光を受けて死者の中からよみがえってくださいました。ピリピ人への手紙2章6節ー9節に、

キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。

と記されているとおりです。
 私たちは、父なる神さまがその一方的な愛と恵みによって備えてくださった、イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりを信じたことによって、イエス・キリストとともに死に、イエス・キリストとともに栄光あるいのちによみがえっています。ローマ人への手紙6章4節、5節には、

私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。

と記されています。また、私たちが取り上げています黙示録1章4節ー5節前半に続く、5節後半ー6節には、

イエス・キリストは私たちを愛して、その血によって私たちを罪から解き放ち、また、私たちを王国とし、ご自分の父である神のために祭司としてくださった方である。キリストに栄光と力とが、とこしえにあるように。アーメン。

と記されています。
 このように、私たち主の契約の民は、御子イエス・キリストがその十字架の死と死者の中からのよみがえりによって、ご自身の民のために成し遂げてくださった贖いの御業にあずかっています。このことを「最初の福音」の光の下で見ますと、私たち主の契約の民が罪によってサタンとその子孫の共同体のうちにあった状態から贖い出されて、「」と「女の子孫」の共同体のうちあるものとしていただいたことを意味しています。コロサイ人への手紙1章13節、14節に、

神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。この御子のうちにあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ています。

と記されているとおりです。私たちはサタンをかしらとする「暗やみの圧制」の下から救い出していただき、「女の子孫」のかしらとして来てくださった御子イエス・キリストの治めておられる御国に移していただいているのです。


 創世記3章15節に記されています「最初の福音」からは、もう一つのことが汲み取れます。
 繰り返しになりますが、このサタンへのさばきの宣言のことばにおいて、神である主は、この時に、ご自身が直接的にサタンをおさばきになるのではなく、「女の子孫」のかしらとして来られる贖い主をとおしてサタンに対するさばきを執行されるというみこころをお示しになりました。これには理由があります。この時に、神である主が直接的にサタンをおさばきになれば、罪によってサタンと一つに結ばれて、主に背いている最初の人とその妻もともにおさばきになることになります。そうしますと、神のかたちに造られて歴史と文化を造る使命を委ねられている人の存在そのものが失われてしまい、神さまの創造の御業が空しい結末を迎えることになってしまいます。つまり、サタンからすれば、自分はさばかれることになるけれども、神さまが創造の御業において始められたことを、空しいものとして終わらせることに「成功した」ということになるのです。サタンとしては、これは、いわば、「肉を切らせて骨を断つ」ということです。自らの滅びを代償として、神さまの創造の御業そのものを台なしにしてしまうということです。それは、その意味で、霊的な戦いにおけるサタンの勝利を意味しています。
 けれども、このようなサタンの企ては成功しませんでした。契約の神である主は、この時に、ご自身が直接的にサタンをおさばきになるのではなく、「女の子孫」のかしらとして来られる贖い主をとおしてサタンに対するさばきを執行されるというみこころをお示しになりました。これが、創世記3章15節に記されています、サタンへのさばきの宣告であり、それが、主の契約の民にとっては「最初の福音」となっています。
 しかし、この「最初の福音」はサタンにもう一つのチャンスを与えることになりました。
 サタンからしますと、「女の子孫」のかしらとして来られる方が来ないようにしてしまえば、自分に対する最終的なさばきは執行されないことになるということです。それによって、神さまが創造の御業によって始められたこと、すなわち、人を神のかたちにお造りになって、これに歴史と文化を造る使命をお委ねになり、造り主である神さまを礼拝することを中心とした、この世界の歴史と文化を造るというみこころが実現しないことになるばかりか、サタンに対する最終的なさばきの執行についてのみこころも実現しないことになるということです。
 このようなことから、サタンは「最初の福音」に示された神である主のみこころの実現を阻止しようとして働くようになりました。
 これには、基本的に、二つの段階があります。
 サタンが最初に目指していたことは、「女の子孫」の共同体を壊滅させてしまうことでした。そうすれば、「女の子孫」のかしらとして来られるはずの贖い主は、来られないことになってしまいます。
 このことが成功したかに見えた時がありました。それは、大洪水によるさばきが執行される前のノアの時代です。これにつきましては詳しくお話ししたことですので、簡単にまとめておきますと、創世記6章5節には、

は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。

と記されています。これは、「その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾く」というように、神のかたちに造られた人の本性が罪によって徹底的に腐敗してしまったことを示しています。そして、その結果が外に現れてきていることが、11節、12節に、

地は、神の前に堕落し、地は、暴虐で満ちていた。神が地をご覧になると、実に、それは、堕落していた。すべての肉なるものが、地上でその道を乱していたからである。

と記されています。
 このことを受けて、神さまは大洪水による終末的なさばきを執行されることを決意され、そのことをノアにお告げになりました。5節に続いて、6節ー8節には、

それでは、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた。そしては仰せられた。「わたしが創造した人を地の面から消し去ろう。人をはじめ、家畜やはうもの、空の鳥に至るまで。わたしは、これらを造ったことを残念に思うからだ。」しかし、ノアは、の心にかなっていた。

と記されており、11節、12節に続いて、13節、14節前半には、

そこで、神はノアに仰せられた。「すべての肉なるものの終わりが、わたしの前に来ている。地は、彼らのゆえに、暴虐で満ちているからだ。それで今わたしは、彼らを地とともに滅ぼそうとしている。あなたは自分のために、ゴフェルの木の箱舟を造りなさい。」

と記されています。
 この時代には、神である主を信じて、約束された贖い主の出現を待ち望んでいた主の契約の民は、ノアとその家族だけになってしまっていました。これは、ノアが主の一方的な恵みによって残されたことを意味しています。8節に記されている、

 しかし、ノアは、の心にかなっていた。

というみことばは、文字通りには、

 しかし、ノアは、の御目の中に恵みを見ていた。

ということで、ノアが主の一方的な恵みにあずかっていたことを意味しています。
 黙示録との関連で注目したいのは、洪水前の、このような状況を造り出すようになったのには、二つの原因があったということです。積極的な原因は、アダムからカインを通って7代目に記されているレメクの存在です。彼は4章23節に記されていますように、

 私の受けた傷のためには、ひとりの人を、
 私の受けた打ち傷のためには、
 ひとりの若者を殺した。

ということを誇っています。暴虐を誇りとしているのです。レメクは才能に溢れた子どもたちの力を得て、武力や経済力を積み上げ、強大な権力を築いたと考えられます。そして、このような暴虐を誇ることを特徴とした文化を築いていったと考えられます。
 このことは、暗やみの主権者であるサタンが「女の子孫」の共同体を壊滅させようとして用いるものの典型的なものが、罪によって腐敗した、この世の権力であることを示しています。
 この点で注意しておきたいことは、サタンが個々の人に働きかけるというよりは、そのような時代状況を造り出して、人々を惑わし、その時代の流れに巻き込んでいくということが圧倒的に多いということです。サタンは被造物であって、神さまのように、同時にすべての人に、直接的、人格的に働きかけることはできません。時代の流れに巻き込まれて行く人々には、その人自身の思惑があり、それにしたがっているのですが、それを越えたサタンの企てに巻き込まれていくのです。このことを踏まえたうえで、お話を進めていきます。
 サタンが罪によって腐敗したこの世の権力を用いることは、洪水後の時代においても変わることはありませんでした。神である主はイスラエルの父祖アブラハムを召して、アブラハムの子孫によって、この世界のすべての民族が祝福を受けるようになると約束してくださいました。そして、アブラハムの子孫としてのイスラエルの民が主の契約を受け継ぐ民として誕生するようになりました。しかし、主の契約の民であるイスラエルの民は、エジプトの地において奴隷とされたばかりか、出エジプト記1章15節、16節に記されていますように、エジプトの王パロは、イスラエルに生まれた男子を殺害するよう命令を出しました。パロにはパロの思惑があってしたことですが、それを用いているサタンには、「女の子孫」の共同体を破壊してしまおうとする、パロの思惑を越えたはかりごとがあったのです。
 洪水前の時代状況を生み出した消極的な原因は、ヤハウェ礼拝者たちの背教です。4章26節に、

セツにもまた男の子が生まれた。彼は、その子をエノシュと名づけた。そのとき、人々はの御名によって祈ることを始めた。

と記されていますように、アダムから3代目に記されていますエノシュが誕生したころには、ヤハウェ礼拝者たちの存在が一つの社会現象となるまでになっていました。しかし、その後、ノアの時代に至るまでの間に、ヤハウェ礼拝者たちは姿を消し、ノアだけになってしまいました。
 このことは、サタンは「女の子孫」の共同体を誘惑して背教させることによって、「女の子孫」の共同体の本質を損なうことによって、実質的に、「女の子孫」の共同体を壊滅させようとするということを意味しています。
 これは、出エジプトの贖いの御業を経験したイスラエルの民が、約束の地への旅において、繰り返し主への不信を募らせて、主を試み続けたことに典型的に見られます。そして、イスラエルの王国の歴史においても、ソロモンの背教のために北王国イスラエルと南王国ユダに分裂したこと、そして、それぞれの王国が主の戒めの示す道から背教していって、主のさばきを招き、北王国イスラエルはアッシリアによって、南王国ユダはバビロニアによって滅ぼされたことにも見られます。
 その際に、主のさばきの手段として用いられたアッシリアやバビロニアは、自分たちの権力の増大のために遠征をしています。そこには、主の契約の民の共同体を亡き者にしようとする、サタンの思惑が働いていたと考えられます。しかし、主は常に、主の契約を信じて歩む「残りの者」を残しておいてくださっていました。
 このように、古い契約の下で贖いの御業がなされた時代に、サタンは「女の子孫」の共同体を壊滅させようとして働きました。これが第一段階です。これに対して、「女の子孫」のかしらとして約束されていた贖い主が来られたときには、この方を亡き者としようとして働きました。
 それは、すでに、イエス・キリストがお生まれになったときに、ヘロデ大王がベツレヘムとその近郊の2歳以下の男子を殺害したことに見られます。そして、イエス・キリストがメシヤとしてのお働きを始められてから、何度か、その教えにつまずいた人々がイエス・キリストを石打にしようとしたことがありました。最後には、ユダヤ社会の当局者たちが、イエス・キリストをローマ帝国の権力を代表する者に引き渡し、十字架につけて殺してしまうことになります。
 それぞれの段階において、時の権力者の思惑はありますが、それを越えて、「女の子孫」のかしらであられる方を亡き者にしようとするサタンのはかりごとがあったのです。しかし、契約の神である主は、そのサタンのはかりごとをも用いて、ご自身の民のために贖いの御業を成し遂げられました。
 イエス・キリストが十字架につけられて殺されたとき、弟子たちはとまどうばかりでした。「女の子孫」のかしらであられる方は失われ、「女の子孫」の共同体も風前のともしびという状況になりました。それでも栄光のキリストは、ご自身が成し遂げられた贖いの御業に基づいてお働きになる御霊によって、新しい契約の共同体を生み出されました。
 さらに、先週お話ししましたように、栄光のキリストは、天における霊的な戦いにおいて勝利しておられます。黙示録12章7節ー9節には、

さて、天に戦いが起こって、ミカエルと彼の使いたちは、竜と戦った。それで、竜とその使いたちは応戦したが、勝つことができず、天にはもはや彼らのいる場所がなくなった。こうして、この巨大な竜、すなわち、悪魔とか、サタンとか呼ばれて、全世界を惑わす、あの古い蛇は投げ落とされた。彼は地上に投げ落とされ、彼の使いどもも彼とともに投げ落とされた。

と記されています。
 このこととの関連で、ごく簡単に触れておきたいことがあります。先ほど、もし「」と「女の子孫」の共同体が、血肉の力にものを言わせて戦うようになるなら、それ自体が、霊的な戦いにおける敗北を意味していると言いました。ではどのようにして、霊的な戦いに勝利するかということですが、この黙示録12章では11節に、

兄弟たちは、小羊の血と、自分たちのあかしのことばのゆえに彼に打ち勝った。彼らは死に至るまでもいのちを惜しまなかった。

と記されています。ここで「彼に打ち勝った」と言われているときの「」とは、その前の9節で「この巨大な竜、すなわち、悪魔とか、サタンとか呼ばれて、全世界を惑わす、あの古い蛇」と言われている存在です。
 サタンに対する勝利は、御子イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによって決定的なものとなっています。私たち主の契約の民は、

兄弟たちは、小羊の血と、自分たちのあかしのことばのゆえに彼に打ち勝った。

と言われていますように、福音のみことばにあかしされている、栄光のキリストが成し遂げられた贖いの御業に、信仰によってあずかることによって、サタンとその軍勢との霊的な戦いに勝利します。それは、霊的な戦いにおけるイエス・キリストの勝利にあずかることです。イエス・キリストこそは、私たちが属している「女の子孫」の共同体のかしらですから、私たちがそれにあずかることは、「最初の福音」に示された契約の神である主のみこころです。ですから、私たちは決して、自分たちの血肉の力を頼みとして、勝利するのではありません。
 話を戻しますと、天での霊的な戦いに敗北したサタンは「自分の時の短いことを知り」(12章12節)最後の抵抗をしています。このような時代状況にあって、黙示録12章17節、28節には、

すると、竜は女に対して激しく怒り、女の子孫の残りの者、すなわち、神の戒めを守り、イエスのあかしを保っている者たちと戦おうとして出て行った。そして、彼は海べの砂の上に立った。

と記されています。
 これに続いて、すでにお話ししました海から上って来た獣が登場してきます。サタンは、この獣を用いて、「女の子孫の残りの者、すなわち、神の戒めを守り、イエスのあかしを保っている者たち」と戦おうとしているのです。この海から上って来た獣は黙示録の時代においてはローマ帝国です。
 契約の神である主の贖いの御業の歴史の中の、このような時代状況を背景として、ヨハネはパトモス島に流刑になっており、「アジヤにある七つの教会」にも、迫害の手が及んできています。
 また、その一方で、ラオデキヤの教会に典型的に見られますように、教会が福音のみことばを誤解して、背教の瀬戸際にあって、「女の子孫」の共同体としての実質を失ってしまいそうになっている群れもありました。実際に、スミルナとフィラデルフィアにあった教会以外の5つの教会は、その危険に遭遇していて、栄光のキリストからの警告を受けています。
 このような、時の権力者による迫害と、教会の背教という二つのことは、複雑にからみあって、終わりの日にまで続く問題となっていきます。それは今日の世界の至る所で見られる現実です。
 私たちはこのような厳しい現実を、これまでお話ししてきましたような、福音のみことばにあかしされている、主の贖いの御業の歴史の流れの中で理解し、受け止めていきたいと思います。それは、「小羊の血」すなわち、イエス・キリストがその十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げられた贖いの御業にあずかりつつ、その贖いの御業をあかしする福音のみことばの示す真理にしたがって歩み続けることによって、「自分たちのあかしのことば」を守ることでもあります。そして、私たちご自身の契約の民のために罪の贖いを成し遂げてくださっている主が、終わりの日に再び来てくださって、私たちの救いを完成してくださることを信じて、望みのうちを歩みたいと思います。


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