黙示録講解

(第64回)


説教日:2012年2月26日
聖書箇所:ヨハネの黙示録1章1節ー8節
説教題:見えるところを越えて


 先主日に引き続いて、ヨハネの黙示録1章4節ー5節前半に記されています、

ヨハネから、アジヤにある七つの教会へ。今いまし、昔いまし、後に来られる方から、また、その御座の前におられる七つの御霊から、また、忠実な証人、死者の中から最初によみがえられた方、地上の王たちの支配者であるイエス・キリストから、恵みと平安が、あなたがたにあるように。

というみことばについてお話しします。今日は、先主日にお話ししたことを補足するお話をします。
 この4節ー5節前半に記されていることばは、形としては、新約聖書の時代の手紙における挨拶の部分に当たります。けれども、黙示録はヨハネが「アジヤにある七つの教会」に送った手紙ではありません。
 もし黙示録がこのことばから始まっていたとしますと、黙示録はヨハネの手紙であるということになります。しかし、ヨハネは、この4節ー5節前半に記されている挨拶に先だつ1節ー3節において、この書が「イエス・キリストの黙示」であることを明らかにしています。そして、これは「すぐに起こるはずの事をそのしもべたちに示すため」に、父なる神さまが御子イエス・キリストにお与えになり、イエス・キリストが御使いによってヨハネに、今日のことばで言えば動画的に、見える形でお示しになったもので、ヨハネは自分が見たことをあかししたと説明しています。そして、この「イエス・キリストの黙示」としての「預言のことば」を、神さまを礼拝する礼拝において朗読し、これに聞き従うことの幸いを宣言しています。
 そのことを明らかにしたうえで、ヨハネは「アジヤにある七つの教会」に対する挨拶を記しています。この「アジヤにある七つの教会」は、ローマの属領としてのアジア、今日の小アジアにある七つの教会で、ヨハネが牧会者としてみことばを伝え、労し働いていた教会です。ヨハネは小アジアにある諸教会を巡回しながら、牧会者としての働きをしていたと考えられます。
 1章9節に、

私ヨハネは、あなたがたの兄弟であり、あなたがたとともにイエスにある苦難と御国と忍耐とにあずかっている者であって、神のことばとイエスのあかしとのゆえに、パトモスという島にいた。

と記されていますように、この時ヨハネは、その牧会者としての働きのために捕えられ、パトモスという島に流刑になっていました。このことは、ヨハネが牧会する小アジアにある諸教会にも迫害の手が伸びていたことを意味しています。
 流刑の地パトモスにおいて、自分に委ねられた群れのことを思い、主に執り成し祈り続けるヨハネに、栄光のキリストは現れてくださいました。続く10節ー20節には、

私は、主の日に御霊に感じ、私のうしろにラッパの音のような大きな声を聞いた。その声はこう言った。「あなたの見ることを巻き物にしるして、七つの教会、すなわち、エペソ、スミルナ、ペルガモ、テアテラ、サルデス、フィラデルフィヤ、ラオデキヤに送りなさい。」そこで私は、私に語りかける声を見ようとして振り向いた。振り向くと、七つの金の燭台が見えた。それらの燭台の真ん中には、足までたれた衣を着て、胸に金の帯を締めた、人の子のような方が見えた。その頭と髪の毛は、白い羊毛のように、また雪のように白く、その目は、燃える炎のようであった。その足は、炉で精錬されて光り輝くしんちゅうのようであり、その声は大水の音のようであった。また、右手に七つの星を持ち、口からは鋭い両刃の剣が出ており、顔は強く照り輝く太陽のようであった。それで私は、この方を見たとき、その足もとに倒れて死者のようになった。しかし彼は右手を私の上に置いてこう言われた。「恐れるな。わたしは、最初であり、最後であり、生きている者である。わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。また、死とハデスとのかぎを持っている。そこで、あなたの見た事、今ある事、この後に起こる事を書きしるせ。わたしの右の手の中に見えた七つの星と、七つの金の燭台について、その秘められた意味を言えば、七つの星は七つの教会の御使いたち、七つの燭台は七つの教会である。

と記されています。
 12節の、

 そこで私は、私に語りかける声を見ようとして振り向いた。

ということばの後に記されているのは、「クリストファニー」と呼ばれる、栄光のキリストの顕現です。具体的なことはこの個所を取り上げるときになりましたらお話ししますが、このようにご自身を現してくださった栄光のキリストが、ヨハネに「アジヤにある七つの教会」に書き送るべきことばを示してくださいました。それが黙示録として記されています。
 先週お話ししましたように、2章ー3章には、「アジヤにある七つの教会」のそれぞれの教会に対して語られる、栄光のキリストのみことばが記されています。それは、栄光のキリストがそれぞれの教会の現実をつぶさに知っていてくださることを示しています。そして、推賞すべきことを取り上げて賞賛してくださるとともに、「非難すべきこと」を取り上げて、悔い改めるように勧めておられます。そして、最後には、祝福の約束をもって結んでおられます。
 私たちは新約聖書にある使徒たちや指導者たちの手紙になじんでいます。この「アジヤにある七つの教会」に対する栄光のキリストのみことばは、それらの手紙を思い起こさせます。使徒たちや指導者たちも、その手紙において、その手紙が宛てられた群れの推賞すべきことを取り上げるとともに、さまざまな問題について、どのように対処したらいいかを示しています。その意味で、使徒たちや指導者たちの手紙は牧会的な配慮による手紙です。それと同じように、「アジヤにある七つの教会」に対する栄光のキリストのみことばも、牧会的な配慮に満ちたみことばです。
 先週お話ししましたように、ここで栄光のキリストが述べておられることは、その群れの間にあって牧会者として労してきたヨハネにとっても、心にかかっていたことでしたでしょう。もしヨハネが許されてそれらの群れに手紙を記すことができたとしたら、記していたであろうことでもあったはずです。しかし、栄光のキリストは、ヨハネが知っている以上の鋭さをもって、「アジヤにある七つの教会」のそれぞれの現実を知っていてくださり、的確な処方箋を示してくださって、約束してくださっている祝福に至る道筋を示してくださっています。
 また、新約聖書にある手紙を記した使徒たちや指導者たちは、その手紙の中で、主の祝福を祈り求めています。それに対して、栄光のキリストは、たとえば、最初に取り上げられているエペソにある教会に対するみことばを記している2章7節に、

 勝利を得る者に、わたしは神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べさせよう。

と記されていますように、「アジヤにある七つの教会」に対して、ご自身の祝福を宣言し、約束しておられます。これは、その祝福を祈り求める以上のことで、栄光の主であられる御方だけができることです。
 この「いのちの木の実」のことは、黙示録の最後の章である22章の1節、2節に、

御使いはまた、私に水晶のように光るいのちの水の川を見せた。それは神と小羊との御座から出て、都の大通りの中央を流れていた。川の両岸には、いのちの木があって、十二種の実がなり、毎月、実ができた。また、その木の葉は諸国の民をいやした。

と記されています。このことからも分かりますが、これは、終わりの日に再臨される栄光のキリストによって再創造される、新しい天と新しい地における永遠の祝福の宣言であり、約束です。
 このようにして、栄光のキリストはまことの牧会者として、ご自身のからだである教会を、つぶさに知っていてくださり、教え、励まし、叱咤しつつ、養い育て、永遠の祝福へと導いてくださっています。
 ヨハネは、自分が牧会していたし、この時もその牧会者である「アジヤにある七つの教会」のそれぞれの群れに、栄光のキリストがまことの牧会者として、お心を注いでくださっておられ、養い育て、導いてくださっていることを、この上ない現実として示していただいたことに基づいて、先ほどの1章4節ー5節前半に記されています、挨拶のことばを記しています。


 ここで私たちが心に留めておきたいのは、2章ー3章において記されている「アジヤにある七つの教会」の一つ一つに向けて語られた栄光のキリストのみことばだけが、「アジヤにある七つの教会」に対する栄光のキリストのみことばではないということです。4章からは、天における礼拝の情景から始まって、「ほふられたと見える小羊」が「御座にすわっておられる方の右の手に」あって「七つの封印で封じられていた」「巻き物」の封印を解くことによって、「すぐに起こるはずの事」が展開していくことが記されています。そして、最後には栄光のキリストが再臨されて、最終的なさばきによって、罪とその結果生み出されたものをすべて清算され、ご自身が成し遂げられた贖いの御業に基づいて、新しい天と新しい地を再創造されることと、ご自身のみからだである教会をその祝福にあずからせてくださることが示されています。このすべてのことが、「アジヤにある七つの教会」に対して語られているのです。
 ですから、2章ー3章に記されているのは、「アジヤにある七つの教会」の一つ一つに対して語られた栄光のキリストのみことばです。それは、栄光のキリストの御目で見た一つ一つの群れの現実を明らかにしつつ、一つ一つの群れを永遠の祝福へと導いてくださるものです。これはいわば、統一性と多様性、あるいは、共通性と差異性の、多様性あるいは差異性に当たることです。それに対して、4章ー22章に記されていることは、統一性あるいは共通性に当たることです。そのように、「アジヤにある七つの教会」のどの群れもわきまえておくべき、三位一体の神さまの御父、御子、御霊の救いとさばきのお働きが終わりの日に完成するようになるまでの歴史の全体像を示しています。
 このことによって、さらに示されていることがあります。
 すでにお話ししましたように、「アジヤにある七つの教会」のそれぞれの群れの状態は異なっていて、まことの牧会者であられる栄光のキリストが、それぞれにふさわしい導きの御手をもって導いてくださっています。その際に、栄光のキリストは黙示録全体において示されている、終わりの日における、ご自身の契約の民の救いの完成に至るまでの歴史の全体を見据えて、それぞれの群れを導いてくださっています。それで、「アジヤにある七つの教会」のそれぞれの群れは、自分たちの目の前にある問題に取り組みつつ、決して目前のことだけに目を奪われてしまうことなく、父なる神さまが、終わりの日に再臨される栄光のキリストをとおして、ご自身の民の救いを完成してくださることを見据えて、その完成を待ち望むものして、目の前のさまざまな問題と取り組んでいくことができるようにしてくださっているのです。
 ペテロの手紙第一・4章12節、13節には、

愛する者たち。あなたがたを試みるためにあなたがたの間に燃えさかる火の試練を、何か思いがけないことが起こったかのように驚き怪しむことなく、むしろ、キリストの苦しみにあずかれるのですから、喜んでいなさい。それは、キリストの栄光が現れるときにも、喜びおどる者となるためです。

と記されています。このペテロの手紙第一の読者たちも厳しい迫害にさらされていました。そのように苦難の中にあった主の民に対して、ペテロは、その「火の試練」は「キリストの名のため」の試練であり、「キリストの苦しみにあずか」ることであるという、その試練の意味を明らかにしています。そして、主の民がそのような意味をもった試練を受けているのは「キリストの栄光が現れるときにも、喜びおどる者となるため」であるということを示しています。やはり、終わりの日における救いの完成を見据えて、その希望のうちに、目の前に迫ってきている試練を受け止めるように導いています。
 黙示録においても、同じように、栄光のキリストは、「アジヤにある七つの教会」のそれぞれが、終わりの日に再臨される栄光のキリストがご自身の契約の民の救いを完成してくださることを見据えて、その望みのうちに、目の前に迫っているさまざまな問題と取り組むことができるように導いてくださっています。その際に、「アジヤにある七つの教会」のそれぞれが、自分たちの経験していることを、自分たちの目で見たり、自分たちが感じていることを越えて、黙示録をとおして示されている光の下で受け止めることができるようにしてくださっているのです。
 たとえば、「アジヤにある七つの教会」を初めとして、その当時の教会は、ローマ帝国による激しい迫害にさらされています。そのことについて、黙示録は、12章と13章において、神さまの贖いの御業の歴史において起こっていることを明らかにしています。この個所については前に取り上げたことがありますし、今は詳しくお話しするときではありませんので、簡単にまとめます。
 12章1節ー6節には、

また、巨大なしるしが天に現れた。ひとりの女が太陽を着て、月を足の下に踏み、頭には十二の星の冠をかぶっていた。この女は、みごもっていたが、産みの苦しみと痛みのために、叫び声をあげた。また、別のしるしが天に現れた。見よ。大きな赤い竜である。七つの頭と十本の角とを持ち、その頭には七つの冠をかぶっていた。その尾は、天の星の三分の一を引き寄せると、それらを地上に投げた。また、竜は子を産もうとしている女の前に立っていた。彼女が子を産んだとき、その子を食い尽くすためであった。女は男の子を産んだ。この子は、鉄の杖をもって、すべての国々の民を牧するはずである。その子は神のみもと、その御座に引き上げられた。女は荒野に逃げた。そこには、千二百六十日の間彼女を養うために、神によって備えられた場所があった。

と記されています。
 1節で、

また、巨大なしるしが天に現れた。ひとりの女が太陽を着て、月を足の下に踏み、頭には十二の星の冠をかぶっていた。

と言われている「ひとりの女」(「」の単数形)は主の契約の民を意味しています。この1節においては、「太陽を着て、月を足の下に踏み、頭には十二の星の冠をかぶっていた」と言われていることからは、古い契約の下にあった、まことのイスラエルを指していると考えられますが、17節では、

すると、竜は女に対して激しく怒り、女の子孫の残りの者、すなわち、神の戒めを守り、イエスのあかしを保っている者たちと戦おうとして出て行った。

と言われていていて、新しい契約の主の民をも指しています。それで、この「」は主の一方的な愛によって選ばれ、主の一方的な恵みによって成し遂げられた贖いの御業にあずかっている、主の契約の民を指していると考えられます。
 2節において、

この女は、みごもっていたが、産みの苦しみと痛みのために、叫び声をあげた。

と言われていることは、基本的に、創世記3章15節と16節に記されています契約の神である主のさばきのことばを受けています。「基本的に」というのは、それ以外の旧約聖書の背景もあるからです。しかし、すべての背景の出発点は、この創世記3章15節と16節のみことばにあります。15節には、

 わたしは、おまえと女との間に、
 また、おまえの子孫と女の子孫との間に、
 敵意を置く。
 彼は、おまえの頭を踏み砕き、
 おまえは、彼のかかとにかみつく。

という人類を罪へと誘ったサタンに対するさばきのみことばが記されています。これは、別の見方をしますと、サタンとその子孫へのさばきを執行する「女の子孫」とそのかしらであられる方、すなわち、贖い主を約束するみことばでもあります。その意味で、これは「最初の福音」と呼ばれます。
 16節においては、罪を犯してしまった「」へのさばきのことばが、

 わたしは、あなたのうめきと苦しみを
 大いに増す。
 あなたは、苦しんで子を産まなければならない。

と記されています。これは「」へのさばきのことばですが、その前の「最初の福音」とのつながりで読みますと、「女の子孫」とそのかしらであられる方が生まれてくることの保証としての意味を汲み取ることができます。
 黙示録12章3節において、

また、別のしるしが天に現れた。見よ。大きな赤い竜である。七つの頭と十本の角とを持ち、その頭には七つの冠をかぶっていた。

と言われている「大きな赤い竜」は、9節で「この巨大な竜、すなわち、悪魔とか、サタンとか呼ばれて、全世界を惑わす、あの古い蛇」と言われているサタンのことです。
 4節で、

竜は子を産もうとしている女の前に立っていた。彼女が子を産んだとき、その子を食い尽くすためであった。

と言われていることは、創世記3章15節において、

 おまえは、彼のかかとにかみつく。

と記されていることに当たります。これは、その「最初の福音」に示されている、サタンへのさばきを執行する「女の子孫」のかしらであられる方、すなわち、贖い主を亡き者としようとするサタンの姿を示しています。
 しかし、5節には、

女は男の子を産んだ。この子は、鉄の杖をもって、すべての国々の民を牧するはずである。その子は神のみもと、その御座に引き上げられた。

と記されています。「女の子孫」のかしらであられる方はお生まれになりました。

 この子は、鉄の杖をもって、すべての国々の民を牧するはずである。

ということばは、メシヤのことを預言的に記している詩篇2篇7節ー9節、特に9節を背景としています。
 このように、黙示録12章1節ー6節には、旧約聖書に約束されている贖い主が誕生したことと(ここには明確に記されてはいませんが、十字架の死と死者の中からのよみがえりによる贖いの御業を成し遂げられて後)、栄光を受けて父なる神さまの右の座に着座されたことが記されています。
 このことを受けて、7節ー9節には、

さて、天に戦いが起こって、ミカエルと彼の使いたちは、竜と戦った。それで、竜とその使いたちは応戦したが、勝つことができず、天にはもはや彼らのいる場所がなくなった。こうして、この巨大な竜、すなわち、悪魔とか、サタンとか呼ばれて、全世界を惑わす、あの古い蛇は投げ落とされた。彼は地上に投げ落とされ、彼の使いどもも彼とともに投げ落とされた。

と記されています。
 贖いの御業の歴史においては、約束の贖い主が現れて、ご自身の民のために贖いの御業を成し遂げ、サタンの主権を空しいものとしてしまわれました。これは、霊的な戦いにおけることですが、第2次大戦の戦局を決定的なものとした、連合軍の「ノルマンディー上陸作戦」の成功の日、「Dディ」にたとえられます。これ以後も、ナチス軍は戦いますが、それは敗走しながらの戦いです。その戦いは連合軍の勝利の日、「Vディ」まで続きます。終わりの日の栄光のキリストの再臨の日は、この「Vディ」にたとえられます。これが、イエス・キリストが十字架の死と死者の中かからのよみがえりによって、ご自身の契約の民のために贖いの御業を成し遂げられ、栄光を受けて父なる神さまの右の座に着座された後の霊的な戦いの状況です。もはや、サタンとその使いたちの敗北は決定的なものとなっています。けれども、サタンとその使いたちは、自分たちの時の短いことを悟って、最後の抵抗を試みています。
 このことを反映して、13節ー18節には、

自分が地上に投げ落とされたのを知った竜は、男の子を産んだ女を追いかけた。しかし、女は大鷲の翼を二つ与えられた。自分の場所である荒野に飛んで行って、そこで一時と二時と半時の間、蛇の前をのがれて養われるためであった。ところが、蛇はその口から水を川のように女のうしろへ吐き出し、彼女を大水で押し流そうとした。しかし、地は女を助け、その口を開いて、竜が口から吐き出した川を飲み干した。すると、竜は女に対して激しく怒り、女の子孫の残りの者、すなわち、神の戒めを守り、イエスのあかしを保っている者たちと戦おうとして出て行った。そして、彼は海べの砂の上に立った。

と記されています。そして、これに続く13章1節、2節には、

また私は見た。海から一匹の獣が上って来た。これには十本の角と七つの頭とがあった。その角には十の冠があり、その頭には神をけがす名があった。私の見たその獣は、ひょうに似ており、足は熊の足のようで、口は獅子の口のようであった。竜はこの獣に、自分の力と位と大きな権威とを与えた。

と記されています。
 ここには、海から上って来た獣のことが記されています。これは、すでに繰り返しお話ししました、旧約聖書のダニエル書7章に記されています、ダニエルが見た幻の中で示されている4つの獣を背景としています。その4つの獣は、歴史の中で起こっては過ぎ去っていくこの世の国々を代表的に表していて、歴史とともにより凶悪なものとなっていくことが示されています。黙示録に記されています、海から上って来た獣は、ダニエルが見た4つの獣を総合するような凶暴さをもつものとして描かれています。これは、その当時のローマ帝国を表しています。そして、そのローマ帝国を典型(モデル)として、さらに、終わりの日に出現する反キリストの帝国を頂点とするこの世の主権者たちを指し示しています。
 黙示録13章では、さらに、11節に、

また、私は見た。もう一匹の獣が地から上って来た。それには小羊のような二本の角があり、竜のようにものを言った。

と記されています。これは「竜のようにものを言った」ということばから推測されますように、にせ預言者を指しています。これは海から上って来た獣の権威を揮って、さまざまなしるしを行い、人々を惑わして、海から上って来た獣を拝ませます。
 このようにして、「」(サタン)と海から上って来た獣と地から上って来た獣は、三位一体の神さまの御父、御子、御霊のまねをして、一つとなって働いています。自分たちこそが神であるかのように装っているのです。
 「アジヤにある七つの教会」はローマ帝国の手による厳しい迫害にさらされています。そのさ中にある教会にとっては、ローマ帝国はあまりにも強大であり、指導者ヨハネも流刑に処せられてしまっています。「アジヤにある七つの教会」の残された主の民は、その迫害をどのように受け止めたらよいかと、とまどっていたことでしょう。これに対して、栄光のキリストは「アジヤにある七つの教会」に、その牧会者であるヨハネを通して、黙示録を与えてくださいました。そして、この12章、13章においては、目に見える状況を越えた主の贖いの御業の歴史の中で展開されてきた霊的な戦いの状況を明らかにしてくださっています。
 「アジヤにある七つの教会」がローマ帝国の手による厳しい迫害にさらされているのは、天における霊的な戦いにおいてサタンとその軍勢が決定的な敗北を喫し、その主権を失って天から落とされたことの現れであることを、このみことばの光の下で受け止めるようにと導かれているのです。そればかりでなく、このことが、霊的な戦いにおいて栄光のキリストとその民の最終的な勝利の日に至るものであることを見据えて、栄光のキリストにある祝福の約束への信仰と望みのうちを歩むようにと導かれているのです。これは、同じ祝福の約束を与えられていて、望みのうちを歩んでいる私たちに、そのまま当てはまることです。


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