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説教日:2012年2月19日 |
そうであれば、どうしてヨハネは、黙示録に、手紙の挨拶に当たることばを記したのでしょうか。 このこととの関連で、これまでお話ししたことをまとめますと、ヨハネは、自分が記している黙示録が自分からの手紙ではないことを注意深く示しつつ、なおも、このような挨拶のことばを書かなければならないと感じていたということです。 このことを考えるために、ヨハネの挨拶のことばをもう少し具体的に見てみましょう。 すでにお話ししましたように、「差出人」に当たることばは単純に「ヨハネ」とだけ記されています。ギリシャ語本文では、この「ヨハネ」という名があるだけですが、これが差出人に当たりますので、「ヨハネから」と訳すことになります。このように単純に名前だけが記されているのは、パウロの手紙の中では、新約聖書の中でも最も早い時期に記されたと考えられるテサロニケ人への手紙第一とテサロニケ人への手紙第二だけです。その後に記されたパウロの手紙には何らかの修飾のことばがついています。たとえば、この差し出し人の部分が最も単純である、ピリピ人への手紙では、 キリスト・イエスのしもべであるパウロとテモテから となっていますし、宛先が個人であり、最も短いパウロの手紙であるピレモンへの手紙でも、 キリスト・イエスの囚人であるパウロ、および兄弟テモテから となっています。 また、ヨハネの手紙第二と第三においては、ヨハネの手紙第二・1節(この二つの手紙は短いので、章の区分がありません)に、 長老から、選ばれた夫人とその子どもたちへ。私はあなたがたをほんとうに愛しています。 と記されており、ヨハネの手紙第三・1節に、 長老から、愛するガイオへ。私はあなたをほんとうに愛しています。 と記されています。ここでヨハネは、自分のことを「長老」と述べているだけで、それ以上の描写はありません。これは、黙示録の「差出人」に当たることばが単純に「ヨハネ」とだけ記されていることに近いことです。 ヨハネの手紙第二と第三においては、自分のことを「長老」と述べていることは、先ほど引用しましたヨハネの手紙第二・1節において、 私はあなたがたをほんとうに愛しています。 と記されており、ヨハネの手紙第三・1節に、 私はあなたをほんとうに愛しています。 と記されていますように、ヨハネとこの手紙の宛先人である人々との間に深い交わりがあって、その人々がヨハネのことをよく知っていて、何の説明も加える必要がなかったからであると考えられます。 これと同じように、黙示録1章4節に記されている挨拶のことばにおいて、「差出人」に当たることばが単純に「ヨハネ」とだけ記されていることは、「アジヤにある七つの教会」の人々がヨハネのことをよく知っていたことを意味しています。 先ほど引用しました1章9節ー11節に記されていますように、ヨハネが黙示録を記したときには、ヨハネはパトモス島に島流しになっていました。けれども、この挨拶のことばが示していますように、ヨハネが島流しになる前には「アジヤにある七つの教会」において、みことばを教え、牧会の活動をしていたと考えられます。そのヨハネがパトモス島に島流しになっていたということは、「アジヤにある七つの教会」にも、ローマ帝国による迫害の手がおよんでいたということを意味しています。 このことから、黙示録がどのような状況で記されたかを推し量ることができます。 いろいろな議論が重ねられてきましたが、結論的には、黙示録の著者であるヨハネは使徒ヨハネであり、ヨハネの手紙第一、第二、第三の著者でもあるという伝統的な理解を、決定的にくつがえすものはありません。このことを踏まえて申しますと、先ほど引用しました、 私はあなたがたをほんとうに愛しています。 とか、 私はあなたをほんとうに愛しています。 というヨハネの牧会者としてのことばに示されていますように、ヨハネはその群れの一人一人を本当に愛していたのです。その群れは神の家族であり、信仰の家族です。 その群れがローマ帝国の手による迫害にさらされている状況において、ヨハネは、その群れから引き裂かれるようにして、パトモスに島流しになってしまっています。そのような状況に置かれたヨハネにとっては、ひたすら父なる神さまと栄光のキリストの御臨在の御前に、その群れのために執り成し祈り続けることが、重要な務めとなっていたことでしょう。 黙示録はこのような状況の中で、父なる神さまが栄光のキリストによって、ヨハネに示してくださった預言のことばです。それは、何よりも、ヨハネが後ろ髪を引かれる思いで残してきた「アジヤにある七つの教会」に宛てられた栄光のキリストのみことばです。そして、先週お話ししました3節に、 この預言のことばを朗読する者と、それを聞いて、そこに書かれていることを心に留める人々は幸いである。時が近づいているからである。 と記されていますように、「アジヤにある七つの教会」の主の民を、この書、黙示録を礼拝において朗読し、それを全身全霊をもって聞き、その預言のみことばにしたがって、この後の時代における神さまのみこころを理解しながら、自分たちと自分たちの置かれている状況を受け止めて、愛のうちを生きる祝福へと導くものでした。 ですから、この預言のことばは、流刑の地にあって、「アジヤにある七つの教会」のことを深く心に留めていた、ヨハネ自身を慰め、より確かな確信とともに、その群れを栄光のキリストの御手にお委ねすることへと導いていったでありましょう。 このように見ますと、ヨハネが、あたかもこの書が自分からの手紙であるかのような誤解を与えかねない挨拶のことばを、その誤解を避けるために注意深く気を配りながらのことではありますが、あえて記した理由が見えてきます。 ヨハネから、アジヤにある七つの教会へ。今いまし、昔いまし、後に来られる方から、また、その御座の前におられる七つの御霊から、また、忠実な証人、死者の中から最初によみがえられた方、地上の王たちの支配者であるイエス・キリストから、恵みと平安が、あなたがたにあるように。 というヨハネの挨拶のことばは、その当時の手紙に、いわば習慣的に、そのような挨拶のことばが記されるものであるからということで、記されたものではありませんでした。これは、父なる神さまのみこころにより、栄光のキリストによって自分に委ねられた群れから、身を切るような思いで引き裂かれてしまったヨハネの万感の思いのこもった挨拶であるのです。 詳しいことは日を改めて取り上げたいと思いますが、この挨拶のことばにおいてヨハネは、 今いまし、昔いまし、後に来られる方から、また、その御座の前におられる七つの御霊から、また、忠実な証人、死者の中から最初によみがえられた方、地上の王たちの支配者であるイエス・キリストから、恵みと平安が、あなたがたにあるように。 と述べています。 これに相当することばが、新約聖書に記されている、このほかの手紙においてどうなっているかを見てみましょう。最も標準的なことばは、ローマ人への手紙1章7節に記されています、 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安があなたがたの上にありますように。 という祈りのことばです。コリント人への手紙第一、第二、ガラテヤ人への手紙、エペソ人への手紙、ピリピ人への手紙、テサロニケ人への手紙第二、テモテへの手紙第一、第二、テトスへの手紙、ピレモンへの手紙でほ、このローマ人への手紙に記されています祈りのことばと、ほぼ同じです。コロサイ人への手紙1章2節には、 どうか、私たちの父なる神から、恵みと平安があなたがたの上にありますように。 と記されていて、「主イエス・キリストから」に相当することばがなく、テサロニケ人への手紙第一・1章1節には、ただ、 恵みと平安があなたがたの上にありますように。 と記されていて、「私たちの父なる神と主イエス・キリストから」に相当することばがありません。これと同じように、ペテロの手紙第一とユダの手紙でも「私たちの父なる神と主イエス・キリストから」に相当することばはありません。ペテロの手紙第二・1章2節には、 神と私たちの主イエスを知ることによって、恵みと平安が、あなたがたの上にますます豊かにされますように。 と記されています。また、ヤコブの手紙には挨拶のことばはありますが、これらのように、恵みと平安を祈り求めることばはありません。 このように、新約聖書に記されています、このほかの手紙に記されています祈りとしての挨拶のことばと比べてみますと、ヨハネの黙示録においては、それがかなり詳しくというか、ていねいに記されていることが分かります。このことのうちにも、牧会者であるヨハネの思いの深さと言いますか、切実さが表れています。 さらに、ヨハネが述べている、 今いまし、昔いまし、後に来られる方から、また、その御座の前におられる七つの御霊から、また、忠実な証人、死者の中から最初によみがえられた方、地上の王たちの支配者であるイエス・キリストから、恵みと平安が、あなたがたにあるように。 という祈りのことばでは、ヨハネは三位一体の神さまの御父、御子、御霊からの祝福を祈り求めています。三位一体の御父、御子、御霊が、それぞれ特有のお働きを担われながら、一つとなってお働きになって成し遂げられる贖いの御業のうちにもたらされる祝福としての「恵みと平安」を祈り求めているのです。 その際に、父なる神さまのことが 今いまし、昔いまし、後に来られる方 と言われており、御霊のことが、 その御座の前におられる七つの御霊 と言われています。これが御霊のことを述べているということにつきましては、意見が分かれていますが、そのことは日を改めてお話しします。そして、イエス・キリストのことが、 地上の王たちの支配者であるイエス・キリスト と言われています。具体的なことは、日を改めてお話ししたいと思いますが、この一つ一つが、父なる神さまが栄光のキリストをとおしてヨハネに示してくださったこと、すなわち、黙示録に記されていることに基づいており、深く考え抜かれたことです。このことも、ヨハネがこの挨拶のことばを、自分が愛をもって牧会し、仕えていた「アジヤにある七つの教会」に向かって、書き記したときの思いの深さ、切実さを物語っています。ヨハネは、その「アジヤにある七つの教会」を、御父、御子、御霊の御手にお委ねしているのです。 このことを踏まえて、もう一つのことに触れておきたいと思います。 先ほど触れましたように、黙示録2章ー3章には、「アジヤにある七つの教会」に対して語られた、栄光のキリストのみことばが記されています。そのすべてを取り上げることはできませんので、最初に取り上げられているエペソにある教会に対する栄光のキリストのみことばを見てみましょう。2章1節ー7節には、 エペソにある教会の御使いに書き送れ。 「右手に七つの星を持つ方、七つの金の燭台の間を歩く方が言われる。『わたしは、あなたの行いとあなたの労苦と忍耐を知っている。また、あなたが、悪い者たちをがまんすることができず、使徒と自称しているが実はそうでない者たちをためして、その偽りを見抜いたことも知っている。あなたはよく忍耐して、わたしの名のために耐え忍び、疲れたことがなかった。しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。それで、あなたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行いをしなさい。もしそうでなく、悔い改めることをしないならば、わたしは、あなたのところに行って、あなたの燭台をその置かれた所から取りはずしてしまおう。しかし、あなたにはこのことがある。あなたはニコライ派の人々の行いを憎んでいる。わたしもそれを憎んでいる。耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。勝利を得る者に、わたしは神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べさせよう。』」 と記されています。 ここで、栄光のキリストはまず、 わたしは、あなたの行いとあなたの労苦と忍耐を知っている。 と語りかけておられます。そして、エペソにある教会の推賞すべき点を挙げておられます。その後で、悔い改めるべきところを指摘しておられます。その上で、 勝利を得る者に、わたしは神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べさせよう。 という約束のことばをもって、語りかけを結んでおられます。 これが「アジヤにある七つの教会」に対して語られた、栄光のキリストのみことばの基本的な構成となっています。ただし、2番目に取り上げられている激しい迫害の中にあったスミルナにある教会と6番目に取り上げられている試練の中にあって忠実であったフィラデルフィアにある教会に対しては、賞賛と慰めのことばだけが記されていて、非難のことばは記されていません。これに対しまして、最後に取り上げられている、自ら富むものとなったと考えている、ラオデキヤにある教会に対しては、悔い改めるべきことしか記されていません。 このような違いはありますが、どの教会に対しても、イエス・キリストは「わたしは、あなたの・・・を知っている」と語りかけられ、祝福の約束のことばをもって結んでおられます。 このことは、自分に委ねられた群れから引き裂かれるようにして、パトモス島に島流しになっていたヨハネにとってどのように感じられたでしょうか。それぞれの地にある教会の現実を知って、そのために労苦してきたヨハネにとっては、ここで栄光のキリストが語っておられることは、ヨハネ自身が感じ取っていたそれぞれの教会の現実であったことでしょう。しかもそれを、ヨハネ自身が汲み取り、理解していたことよりも、もっと的確にすべてを明らかにする語りかけであったことでしょう。 何よりも、栄光のキリストご自身が、「わたしは、あなたの・・・を知っている」と語りかけてくださっていることは、栄光のキリストご自身がそれぞれの教会に心をかけてくださり、それぞれの教会ををつぶさに知っていてくださることの現れです。 そして、最後に祝福を約束するみことばをもって語りかけを終えてくださることは、たとえそれが非難すべき点を指摘することばであっても、最後には、約束された祝福のうちに導き入れてくださるためのものであることが示されています。 このようにして、ヨハネは、自分が心にかけ、その群れの一人一人を愛していた「アジヤにある七つの教会」から、引き離されてしまったのですが、その一つ一つの教会に、栄光のキリストご自身が、まことの牧者として、心をかけてくださり、教え諭してくださり、永遠の祝福に至る道を示して、導いてくださっているということが、ありありと示されたのです。 私たちも、見える形としては私が牧会者として、このように仕えています。しかし、常にまことの牧者であられる栄光のキリストが、神の家族、信仰の家族の一人一人に心をかけていてくださり、群れを導き、養い続けてくださっています。 黙示録に記されていることををとおして、このようなことを示されたヨハネにとっては、これは深い慰めであったはずです。そして、流刑の地にあって、このことを啓示してくださった栄光の主に、一つ一つの群れをお委ねしつつ、執り成し祈り続けることが、決してむだになることはないことを信じることができるようになったはずです。 あの、 今いまし、昔いまし、後に来られる方から、また、その御座の前におられる七つの御霊から、また、忠実な証人、死者の中から最初によみがえられた方、地上の王たちの支配者であるイエス・キリストから、恵みと平安が、あなたがたにあるように。 という祈りのことばは、そのようなヨハネの牧会者としての、さまざまなことについての執り成しの祈りの根底にある、真実で切実な祈りであると考えられます。 |
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