黙示録講解

(第62回)


説教日:2012年2月12日
聖書箇所:ヨハネの黙示録1章1節ー8節
説教題:聞き従う者への祝福


 黙示録1章3節には、

この預言のことばを朗読する者と、それを聞いて、そこに書かれていることを心に留める人々は幸いである。時が近づいているからである。

と記されています。
 ここには祝福のことばが記されています。これは、黙示録に記されています七つの祝福のことばの最初のものです。このほかの祝福のことばを見てみますと、この1章3節の次には、14章13節に、

また私は、天からこう言っている声を聞いた。「書きしるせ。『今から後、主にあって死ぬ死者は幸いである。』」御霊も言われる。「しかり。彼らはその労苦から解き放されて休むことができる。彼らの行いは彼らについて行くからである。」

と記されています。
 次に、16章15節には、

見よ。わたしは盗人のように来る。目をさまして、身に着物を着け、裸で歩く恥を人に見られないようにする者は幸いである。

と記されています。
 また、19章9節には、

御使いは私に「小羊の婚宴に招かれた者は幸いだ、と書きなさい」と言い、また、「これは神の真実のことばです」と言った。

と記されています。
 さらに、20章6節には、

この第一の復活にあずかる者は幸いな者、聖なる者である。この人々に対しては、第二の死は、なんの力も持っていない。彼らは神とキリストとの祭司となり、キリストとともに、千年の間王となる。

と記されています。
 黙示録の最後の章である22章には、二つの祝福のことばが出てきます。まず、22章7節には、

見よ。わたしはすぐに来る。この書の預言のことばを堅く守る者は、幸いである。

と記されています。そして、14節には、

自分の着物を洗って、いのちの木の実を食べる権利を与えられ、門を通って都に入れるようになる者は、幸いである。

と記されています。
 黙示録に記されています、これら七つの祝福のことばは、マタイの福音書5章ー7章に記されています一般に「山上の説教」と呼ばれる、イエス・キリストの教えの冒頭の5章3節ー10節に記されています8つの祝福のことばと同じように、「幸いである」(単数形・マカリオス、あるいは、複数形・マカリオイ)ということばで始まっています。
 マタイの福音書に出てくるイエス・キリストの祝福のことばは、4節に記されています、

 悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるから。

ということばや、10節に記されています,

義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。

ということばから分かりますように、必ずしも、ここで「幸いである」と言われている人々が自分のことを「幸いである」と感じているとは限りません。このイエス・キリストが言われる「幸いである」という状態は、そのように言われている人々の感じ方を越えているのです。それは、ここで語っておられるイエス・キリストが、神の御国を治めておられる王として、その人々のことを「幸いである」と言っておられるということです。言い換えますと、この人々は神さまの御前において、「幸いである」と言われる状態にあるということです。
 逆に、本人たちが、自分は「幸いである」と感じていても、イエス・キリストの御目には「わざわいである」と写っているということも、聖書の中に記されています。その典型的な例は、マタイの福音書23章13節ー36節に記されています、「わざわいだ」(ウーアイ)ということばで始まっている、七つの告発のことばに見られます。ここで「偽善の律法学者、パリサイ人」として告発されている人々は、自分たちこそ最も幸いな者であると考えていた人々です。しかし、イエス・キリストの御目には、すなわち、神さまの御前では「わざわいだ」と言われる状態にありました。
 それと同じように、黙示録に記されています、七つの祝福のことばは、必ずしも「幸いである」と言われている人々が、自分のことを「幸いである」と感じているとは限りません。というのは、先主日にお話ししましたように、黙示録で「幸いである」と言われている人々は、神さまのみことばに基づいて、イエス・キリストをあかししているために、さまざまな形で迫害を受けている人々であるからです。その意味で、黙示録に記されています、七つの祝福のことばの根底には、山上の説教において、イエス・キリストが、

義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。

と言われた祝福があります。いずれにしましても、黙示録に記されています、七つの祝福のことばは、ヨハネに黙示録を記されていることをお示しになった栄光のキリストが、この人々のことを「幸いである」と言っておられるということです。これによって、栄光のキリストは、真に幸いな人々がどのような人々であるかを明らかにしてくださっているとも言えます。


 先ほど引用しました、黙示録に記されています七つの祝福のことばから、さらに、一つのことを汲み取ることができます。それは、すべのの祝福が、終わりの日に再臨される栄光のキリストによってもたらされる、最終的な幸い、言い換えますと、決して過ぎ去ることもすたることもない永遠の祝福につながっているということです。
 このことは、マタイの福音書5章3節ー10節に記されています8つの祝福のことばにも当てはまります。そこに記されている8つの祝福は、神さまの一方的な愛と御子イエス・キリストの恵みによって、すでに、神の国に入れていただいている私たちの現実となっていることではありますが、その祝福の完成は、終わりの日に再臨される栄光のキリストによってもたらされます。
 このように、黙示録に記されています七つの祝福も、マタイの福音書5章3節ー10節に記されています8つの祝福も、終わりの日に再臨される栄光のキリストによってもたらされる、決して過ぎ去ることもすたることもない永遠の祝福につながっています。けれども、その点は、黙示録に記されています、七つの祝福の方が、より鮮明に示されています。そのことは、先ほど引用しました黙示録に記されています七つの祝福のことばから汲み取ることができます。それはまた、すでにお話ししてきましたように、黙示録に記されていることは、ローマ帝国による激しい迫害の中にある主の契約の民たちに向けて記されていることにもよっています。
 今私たちが取り上げています1章3節に記されている、

この預言のことばを朗読する者と、それを聞いて、そこに書かれていることを心に留める人々は幸いである。時が近づいているからである。

という祝福が、終わりの日に再臨される栄光のキリストによってもたらされる、決して過ぎ去ることもすたることもない永遠の祝福につながっていということは、少し分かりにくいかもしれません。確かにこれは、基本的には、私たちが黙示録に記されていることを朗読し、朗読されたみことばを聞いて、それを守り行うことを求めるものです。けれども、ここでは、それが「幸いである」と言われている理由も示されています。それは、

 時が近づいているからである。

という理由です。
 この「時が近づいている」ということは、すでに長い時間をかけてお話ししました、1章1節に記されています「すぐに起こるはずの事」と対応しています。「すぐに起こるはずの事」ということばは、黙示録に記されていることを全体的に要約することばです。それで、この「すぐに起こるはずの事」とは、世の終わりに栄光のキリストが再臨されることも含めて、黙示録に記されていることのすべてを指しています。それで、これと対応している「時が近づいている」ということばは、黙示録全体にわたって記されていることが、実現する「時が近づいている」ということを意味しています。
 ギリシャ語では「時」を表わすことばが三つ(クロノス、カイロス、ホーラ)あります。そのうちの二つが対比的な意味合いをもっているものとして、比べられます。一つは、私たちが「時間」ということばで考えるときの、過去から現在まで流れてきていて、現在から未来に、いわば、機械的に流れていく「時」を表す「クロノス」ということばです。もう一つは、私たちにとって、あるいは、この世界の歴史にとって、何らかの意味をもっている「時」を表す「カイロス」ということばです。この「カイロス」が、

 時が近づいているからである。

と言われている中で用いられています。
 マルコの福音書1章14節、15節には、

ヨハネが捕らえられて後、イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べて言われた。「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」

と記されています。ここで、イエス・キリストが「時が満ちた」と言われているときの「」は、この「カイロス」です。これは、イエス・キリストが公にメシヤとしてのお働きを始められたことによって、神さまの贖いの御業の歴史において、決定的な意味をもった「」がやって来たことを伝えています。
 神のかたちに造られた人が造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまってから、長い時が流れました。しかし、それは神のかたちに造られた人が罪を犯して堕落した直後に与えられた「最初の福音」を初めとして、古い契約の下での預言と約束の意味をもった贖いの御業が遂行された時でもありました。そのすべてが、やがて来たるべき贖い主、すなわち、メシヤとメシヤが遂行される贖いの御業を指し示し、その意味を前もって説明するものでした。その約束の贖い主とその贖いの御業の意味がこの上なく豊かなものであるために、それをさまざまな面から説明するために、古い契約の下での長い贖いの御業の歴史があったのです。イエス・キリストが、

時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。

と宣べ伝えられたのは、古い契約の下で与えられた預言と約束のことばのすべてが成就する、決定的な「」がすでに来ているということを意味しています。
 黙示録1章3節に記されています、

この預言のことばを朗読する者と、それを聞いて、そこに書かれていることを心に留める人々は幸いである。時が近づいているからである。

というみことばにおいて「時が近づいている」と言われているときの「」も、それと同じような決定的な意味をもっている「」です。「預言のことば」としての黙示録に記されていることのすべてが実現する「」です。ここでは、その「時が近づいている」と言われています。それで、この1章3節に記されています祝福のことばも、終わりの日に再臨される栄光のキリストによってもたらされる、決して過ぎ去ることもすたれることもない永遠の祝福へとつながっていくものであるということが分かります。

 マルコの福音書1章15節には、イエス・キリストがさらに、ご自身が約束のメシヤ、贖い主として、贖いの御業を開始されたことによって、

 神の国は近くなった。

と言われたことが記されています。これは、イエス・キリストが神の国の王としてその主権を行使されることによって、神の国がそこに来ていることを意味しています。[注]


[注]詳しい議論を記すことはできませんが、この場合の「近くなった」(エーンギケン、エンギゾーの完了時制)は、「すでにそこにある」ことを表していることが、広く認められています。France (NIGTC), Lane (NICNT), Zerwick (AGNT) を見てください。黙示録1章3節で、
 時が近づいているからである。
と言われているときの「近づいている」と訳されたことば(エンギュス)は副詞で、この場合には動詞は省略されています。これは先ほどお話ししましたように、1節に記されています「すぐに起こるはずの事」と対応していますので、その「」が近いことを表します。


 今お話ししていることとのかかわりで大切なことは、このイエス・キリストの教えは、

 時が満ち、神の国は近くなった。

という単なる情報を伝えているのではなく、そこで、

 悔い改めて福音を信じなさい。

と言われていますように、この、

 時が満ち、神の国は近くなった。

ということに基づいて、神さまとの関係のあり方、神さまの御前における生き方について決断をすること求めることにあります。言い換えますと、宣べ伝えられた福音に対する応答を求めるものなのです。
 それと同じように、黙示録1章3節に記されています、

この預言のことばを朗読する者と、それを聞いて、そこに書かれていることを心に留める人々は幸いである。時が近づいているからである。

というみことばにおいても、「時が近づいている」ということに基づいて、「この預言のことばを朗読」し、「それを聞いて、そこに書かれていることを心に留める」ことを求めるものです。もちろん、これは「この預言のことばを朗読」し、「それを聞いて、そこに書かれていることを心に留める人々」への祝福を述べています。しかし、これは、私たちをその祝福へと招いてくださっているものです。
 この場合の「朗読する者」は単数形です。そして、「それを聞いて、そこに書かれていることを心に留める人々」は、この訳が示していますように、複数形です。このことから、これは、教会の公的な礼拝において、みことばの朗読者が黙示録に記されていることを朗読し、会衆がそれを聞いていることが示されていると考えられます。
 教会の礼拝において朗読されたのは黙示録だけではありません。コロサイ人への手紙4章16節には、

この手紙があなたがたのところで読まれたなら、ラオデキヤ人の教会でも読まれるようにしてください。あなたがたのほうも、ラオデキヤから回って来る手紙を読んでください。

と記されています。また、テサロニケ人への手紙第一・5章27節には、

この手紙がすべての兄弟たちに読まれるように、主によって命じます。

と記されています。このことから、パウロの手紙も諸教会で朗読されていたことが分かります。
 しかし、それは、今日私たちが礼拝の中で聖書を朗読することとは、少し事情が違います。というのは、その当時は、今日のように聖書が印刷されていたわけではありません。わずかに、ヨハネが記したものが回覧されたり、さらに書き写されて、諸教会の礼拝の中で朗読されたのです。そのように書き写されたものがあったとしても、それを自由に貸し出たりすれば、傷んでしまいますから、大切に保存されていたはずです。ですから、

この預言のことばを朗読する者と、それを聞いて、そこに書かれていることを心に留める人々は幸いである。時が近づいているからである。

と記されているから、この祝福にあずかろうと思っても、いつでも好きな時に「この預言のことば」を読むことができたわけではありません。そのような事情にあった、その時代の人々にとって、しかも、すでに迫ってきている厳しい迫害の中にあって苦しんでいる人々にとって、礼拝において朗読されるみことばに耳を傾けることは、どのようなことであったでしょうか。それは、そこで朗読されるみことばに、全身全霊をもって耳を傾けるという作業であったことでしょう。今日の私たちのように、いつでも好きな時にみことばを読むことができるということで、結局、何も読まないということとは、ほど遠いことであったでしょう。あるいは、自分の好きなところだけを読もうというような、一見、ぜいたくそうでありながら、実際には、とても危険な読み方をすることもなかったことでしょう。

 この3節においては、ただ「この預言のことばを朗読する」ことだけでなく、「それを聞いて、そこに書かれていることを心に留める」ことが大切であることが示されています。
 ここでは、「聞く」ことと「心に留める」ことが組み合わされています。実際、ヘブル語では「聞く」という動詞(シャーマァ)には「聞き従う」という意味があります。たとえば、アブラハムが主の戒めにしたがって、イサクをささげたときのことを記している、創世記22章18節には、

あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。

と記されていますし、主がイスラエルの民と契約を結んでくださったときのことを記している出エジプト記24章7節には、

そして、契約の書を取り、民に読んで聞かせた。すると、彼らは言った。「の仰せられたことはみな行い、聞き従います。」

と記されています。これらの個所で「聞き従った」、「聞き従います」と訳されていることばは、「聞く」という動詞(シャーマァ)です。その他、イザヤ書42章24節やエレミヤ書35章14節などを見てください。ギリシャ語にも、これと同じ意味合いを伝えていると考えられる用例があります。一般に「変貌の山」として知られている記事が記されています、一例として、マタイの福音書17章の6節には、

これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい。

という父なる神さまの御声が記されています。この場合の「聞きなさい」ということばは、「聞き従いなさい」(Davies & Alliso, ICC)、あるいは、「聞いて理解しなさい」というような意味合いを伝えています。
 黙示録1章3節では、黙示録に記されているみことばが教会の礼拝において朗読されるのを「聞く」ということですが、先ほどお話ししましたように、当時の状況では、そのこと自体が真剣な傾聴を意味しています。ヨハネはそれに、さらに、「心に留める」ことを加えています。
 この「心に留める」と訳されたことば(テーレオー)は(EDNTによりますと)、文字通りには、囚人などを「見張る」ことを表し、さらに何かを「保つ」ことを表します。ペテロの手紙第一・1章4節では、「朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産」が、私たちのために「天にたくわえられている」と言われています。この「たくわえられている」と訳されたことばが、このことばです。また(EDNTによりますと、新約聖書では、このことばの用例の半分ほどが、戒めなどを守ることやそれに従うことを表します。
 新改訳は[新国際訳(NIV)と同じように]、「心に留める」と訳しています。これですと、心の持ち方の問題であるかのように聞こえるかもしれません。しかし、これは、黙示録に記されていることを聞いて理解し、それにしたがって、自分たちとこの世界の歴史の流れを受け止め、契約の神である主を礼拝することを中心として、終わりの日の完成を望み見て、それにふさわしく生きることを意味しています。
 ヨハネの手紙第一・3章2節には、

愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現れたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。

と記されています。
 ここには、終わりの日に栄光のキリストが再臨するときに、「私たちはキリストに似た者となる」ことが示されています。私たちはイエス・キリストの復活にあずかって、栄光あるものに造り変えられます。言い換えますと、栄光のキリストが、ご自身の成し遂げられた十字架の死と死者の中からのよみがえりに基づいて、私たちを栄光あるものとして造り変えてくださるのです。私たちは神さまのみことばに基づいて、この望みをもっています。しかし、これで終ってはいません。続く3節には、

キリストに対するこの望みをいだく者はみな、キリストが清くあられるように、自分を清くします。

と記されています。終わりの日に再臨される栄光のキリストが私たちを、ご自身の栄光のかたちに似た者に造り変えてくださることを、神さまのみことばに基づいて、信じて待ち望んでいる者は、この世にある間に、イエス・キリストの十字架の死によって罪を贖っていただいているものとして、また、イエス・キリストの死者の中からのよみがえりにあずかって、新しく生まれているものとして、生きるようになるということです。
 ヨハネはここでは、

 キリストが清くあられるように、自分を清くします。

というように、その生き方を「聖さ」として表しています。それは、消極的には、イエス・キリストの十字架の死によって罪を贖っていただき、罪から聖めていただいたことによる聖さです。そのことは、続く、4節、5節に記されていることからもうかがわれます。
 積極的には、

なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。

というみことばが示している、イエス・キリストと顔と顔とを合わせてまみえる愛の交わりに至る聖さです。このことは、この2節の前の1節において、

私たちが神の子どもと呼ばれるために、――事実、いま私たちは神の子どもです――御父はどんなにすばらしい愛を与えてくださったことでしょう。世が私たちを知らないのは、御父を知らないからです。

というみことばに示されている、父なる神さまのこの上なき愛から出ていることです。ヨハネの手紙第一の流れの中では、父なる神さまと御子イエス・キリストとの交わりにあずかることの聖さであり、その意味で、契約の神である主と兄弟姉妹たちを愛する愛に生きる聖さです。
 黙示録1章1節に記されているみことばに沿って言いますと、「すぐに起こるはずの事」として全体的に要約される、黙示録に記されていることは、「神がキリストにお与えになったもの」であり、その起源は父なる神さまです。そして、イエス・キリストが御使いによって「これをしもべヨハネにお告げになった」ものです。また、2節に記されているみことばに沿って言いますと、それは「神のことばとイエス・キリストのあかし」です。それで、黙示録に記されていることは、真実で確かなことであり、必ず実現することです。このような、黙示録に記されているみことばが、3節では「預言のことば」と言われています。
 それで、たとえ激しい試練の中にあっても、この真実で確かな神さまのみことばを朗読し、そのみことばにしたがって、神さまを礼拝することを中心として、終わりの日における栄光のキリストの再臨によってもたらされる、決して過ぎ去ることもすたれることもない永遠の祝福を望み見て、契約の神である主と兄弟姉妹たちとの愛の交わりのうちを生きることは、幸いなことであるのです。


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