黙示録講解

(第61回)


説教日:2012年2月5日
聖書箇所:ヨハネの黙示録1章1節ー8節
説教題:イエス・キリストのあかし


 黙示録1章2節には、

ヨハネは、神のことばとイエス・キリストのあかし、すなわち、彼の見たすべての事をあかしした。

と記されています。
 ここに出てくる「彼の見たすべての事」、つまり、ヨハネが「見たすべての事」は、1節に、

イエス・キリストの黙示。これは、すぐに起こるはずの事をそのしもべたちに示すため、神がキリストにお与えになったものである。そしてキリストは、その御使いを遣わして、これをしもべヨハネにお告げになった。

と記されている中で、イエス・キリストが「しもべヨハネにお告げになった」事柄を指しています。
 この1節で「お告げになった」と訳されていることばが「動詞・エセーマネン(セーマイノーの不定過去時制、3人称、単数形)で、「しるし」を表わすことば(セーマ)から派生しています。これと符合して、黙示録に記されていることは、さまざまな表象をとおして、絵画的に、いわば、見える形で示されています。このことを受けるようにして、2節では、ヨハネが黙示録に記している事柄のことが「彼の見たすべての事」と言われていると考えられます。
 2節では、このヨハネが「見たすべての事」が「神のことばとイエス・キリストのあかし」と、文法的には、同格として並べられていて、同じものを表しています。これによって、ヨハネが「見たすべての事」、つまり、黙示録に記されている事柄が「神のことばとイエス・キリストのあかし」によるものであることが示されています。また、それゆえに、ヨハネが「見たすべての事」、黙示録に記されている事柄が、まことのことであり、信ずべきことであり、必ず成就することが示されています。


 ここ2節には

ヨハネは、神のことばとイエス・キリストのあかし、すなわち、彼の見たすべての事をあかしした。

と記されています。
 ここに出てくる「神のことばとイエス・キリストのあかし」ということばは「神のことば」ということばと「イエス・キリストのあかし」ということばの組み合わせです。先主日には、「神のことば」ということばが黙示録の中でどのように用いられているかをお話ししました。今日は、もう一つの「イエス・キリストのあかし」ということばに関連して「あかし」あるいは「あかしする」ということばが黙示録の中でどのように用いられているかを、お話ししたいと思います。
 その前に、この「イエス・キリストのあかし」ということばが、2節でどのような意味をもっているかを、1節に記されていますこととの関連をも視野に入れて、お話ししたいと思います。
 2節に記されています、

ヨハネは、神のことばとイエス・キリストのあかし、すなわち、彼の見たすべての事をあかしした。

ということばにおいては、「あかしした」[動詞・エマルテュレーセン(マルテュレオーの不定過去時制、3人称単数形)]ということばと「あかし」[名詞・マルテュリア]ということば、つまり、同じことばの動詞と名詞が出てきて、ここでの鍵のことばとなっています。
 ここ2節では、ヨハネがあかししているのは「彼の見たすべての事」ですが、それが、ここでは「神のことばとイエス・キリストのあかし」であると言われています。
 このことも、1節に記されていることと符合しています。
 1節では、この黙示録に記されていることを全体的にまとめる「すぐに起こるはずの事」は「神がキリストにお与えになったものである」と言われていて、その起源が神さまであることが示されています。このことと符合して、2節で、ヨハネが「見たすべての事」が「神のことばとイエス・キリストのあかし」であると言われているときの「神のことば」ということばは、ヨハネが「見たすべての事」の起源が神さまであるということを示していると考えられます。
 さらに1節では、黙示録に記されていることを全体的にまとめる「すぐに起こるはずの事」は(「神がキリストにお与えになったものである」とともに)、「キリスト」が「その御使いを遣わして、これをしもべヨハネにお告げになった」ものであることが示されています。「すぐに起こるはずの事」は、イエス・キリストがしもべヨハネにお告げになった」もの、生き生きとした絵画的な形でお告げになったものであるというのです。そのことを受けて、2節では、ヨハネが「見たすべての事」が「イエス・キリストのあかし」であると言われているわけです。
 ですから、「神のことばとイエス・キリストのあかし、すなわち、彼の見たすべての事」ということばは、ヨハネが「見たすべての事」の起源は父なる神さまであり、それをイエス・キリストがヨハネにあかししてくださったものである、ということを示しています。
 このように、2節に記されています、

ヨハネは、神のことばとイエス・キリストのあかし、すなわち、彼の見たすべての事をあかしした。

ということばは、1節との関連を生かして言いますと、神さまがイエス・キリストにお示しになったことを、イエス・キリストが生き生きとした絵画的な形であかししてくださり、それを見たヨハネが黙示録を記してあかししたということを意味しています。繰り返しになりますが、これによって、ヨハネが「見たすべての事」すなわち、黙示録に記されていることがまことのことであり、信ずべきことであり、そのゆえに、必ず成就するということが示されています。

 黙示録の中で、「あかし」あるいは「あかしする」ということばがどのように用いられているかを、順次見てみましょう。
 この1章2節の次にこのことばが出てくるのは、1章9節です。そこには、

私ヨハネは、あなたがたの兄弟であり、あなたがたとともにイエスにある苦難と御国と忍耐とにあずかっている者であって、神のことばとイエスのあかしとのゆえに、パトモスという島にいた。

と記されています。ここには「神のことばとイエスのあかし」というように、2節に出ている「神のことばとイエス・キリストのあかし」と同じ組み合わせが出てきます。しかし、その意味していることは少し違っています。
 先ほどお話ししましたように、2節の「神のことばとイエス・キリストのあかし」は、ヨハネが「見たすべての事」のことで、黙示録に記されていることを意味しています。そして、黙示録に記されていることが、「神のことばとイエス・キリストのあかし」であって、真実なことで、信ずべきことであり、必ず成就するということを示しています。
 これに対しまして、9節の「神のことばとイエスのあかし」は、使徒ヨハネの宣教活動を意味しています。それで、この9節の「神のことばとイエスのあかし」は、ヨハネが神さまのみことばを宣べ伝え、イエス・キリストをあかししたことを意味しています。そして、ここでは、ヨハネが神さまのみことばを宣べ伝え、イエス・キリストをあかししたために、パトモス島に島流しになっていることを伝えています。それで、この場合の、「神のことばとイエスのあかし」は、ヨハネがパトモス島に流刑となる前に、神さまのみことばを宣べ伝え、イエス・キリストをあかししたことを意味しています。
 このことにつきましては、さらに、後ほどお話しすることにして、次に「あかし」あるいは「あかしする」ということばが用いられている個所を見てみましょう。
 6章9節には、

小羊が第五の封印を解いたとき、私は、神のことばと、自分たちが立てたあかしとのために殺された人々のたましいが祭壇の下にいるのを見た。

と記されています。ここでも、「神のことば」との組み合わせが出てきます。これも、ここで「神のことばと、自分たちが立てたあかしとのために殺された人々」と言われている人々が、神さまのみことばを宣べ伝え、あかしをしたことを意味しています。この場合、「自分たちが立てたあかし」が「神のことば」と結び合わされているのは、この人々が、神さまのみことばに基づいて、あかししたことを意味しています。当然、それはイエス・キリストをあかしするあかしです。
 ここで「自分たちが立てたあかし」と言われているときの「立てた」と訳されていることば[動詞・エイコン(エコーの未完了時制、3人称、複数形)]は、文字通りには「もつ」とか「保つ」ということを意味しています。また、未完了時制は過去において継続してなされたという意味合いを伝えています。ここでは、あかしが継続してなされたことを伝えていますが、単なる継続ではありません。ここで「神のことばと、自分たちが立てたあかしとのために殺された人々」と言われていますように、この人々は、激しい迫害を受けている中にあって、最後まで、神さまのみことばに基づいてイエス・キリストをあかしし続けたということです。これは、12章10節、11節に、

そのとき私は、天で大きな声が、こう言うのを聞いた。
 「今や、私たちの神の救いと力と国と、また、神のキリストの権威が現れた。私たちの兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている者が投げ落とされたからである。兄弟たちは、小羊の血と、自分たちのあかしのことばのゆえに彼に打ち勝った。彼らは死に至るまでもいのちを惜しまなかった。」

と記されていることを思い起こさせます。
 6章9節の次に「あかし」あるいは「あかしする」ということばが出てくるのは、11章7節です。そこには、

そして彼らがあかしを終えると、底知れぬ所から上って来る獣が、彼らと戦って勝ち、彼らを殺す。

と記されています。この「彼らがあかしを終えると」と言われているときの「彼ら」は、同じ11章の3節で、主が「わたしのふたりの証人」と言っておられる人々です。それが二人であるのは、主の律法(申命記17章6節など)において、証人の証言が確かめられるためには、二人または三人の証人が必要であるとされていることによっていると考えられます。ですから、この「ふたりの証人」のあかしは確かなあかしであることが示されています。
 詳しいことをお話しする余裕がありませんが、この「ふたりの証人」は、神さまのみことばに基づいて、イエス・キリストをあかしする主の契約の民、すなわち、キリストのからだである教会を表していると考えられます。
 私たちが取り上げています11章7節では、

そして彼らがあかしを終えると、底知れぬ所から上って来る獣が、彼らと戦って勝ち、彼らを殺す。

と言われていて、この「ふたりの証人」も、彼らが主から委ねられたあかしをしたことによって、迫害を受けて殺されてしまうことを示しています。この点で、ここに記されていることは、先ほどの6章9節に記されていることと符合しています。
 このようにして、キリストのからだである教会は、消滅してしまったかのように見えるのですが、それは一時的なことです。このことは、引用することはいたしませんが、続く13節18節に記されていることから分かります。
 この次に「あかし」あるいは「あかしする」ということばが出てくるのは、12章11節で、そこには、

兄弟たちは、小羊の血と、自分たちのあかしのことばのゆえに彼に打ち勝った。彼らは死に至るまでもいのちを惜しまなかった。

と記されています。これは、先ほど引用しました、12章10節、11節の一部です。ここで、

兄弟たちは、小羊の血と、自分たちのあかしのことばのゆえに彼に打ち勝った。

と言われているときの「」は、10節で「私たちの兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている者」と言われているサタンのことで、9節では「この巨大な竜、すなわち、悪魔とか、サタンとか呼ばれて、全世界を惑わす、あの古い蛇」と言われています。ここでは、

兄弟たちは、小羊の血と、自分たちのあかしのことばのゆえに彼に打ち勝った。

と言われていますが、続いて、

 彼らは死に至るまでもいのちを惜しまなかった。

と言われています。やはり、彼らも迫害を受けているのです。
 また、次の「あかし」あるいは「あかしする」ということばが出てくる個所ですが、同じ12章17節には、

すると、竜は女に対して激しく怒り、女の子孫の残りの者、すなわち、神の戒めを守り、イエスのあかしを保っている者たちと戦おうとして出て行った。

と記されています。この「」は9節で「巨大な竜」と言われているサタンのことです。ここに記されていることから、13章に記されている、海から上ってくる「十本の角と七つの頭」をもつ獣が登場してきます。これは、すでにお話ししました、ダニエル書7章に記されています、海から上ってくる4つの獣を背景としています。13章7節に、

彼はまた聖徒たちに戦いをいどんで打ち勝つことが許され、また、あらゆる部族、民族、国語、国民を支配する権威を与えられた。

と記されていますように、この獣は「神の戒めを守り、イエスのあかしを保っている者たち」、すなわち、主の契約の民、キリストのからだである教会を迫害します。
 次に、「あかし」あるいは「あかしする」ということばが出てくる19章10節には

そこで、私は彼を拝もうとして、その足もとにひれ伏した。すると、彼は私に言った。「いけません。私は、あなたや、イエスのあかしを堅く保っているあなたの兄弟たちと同じしもべです。神を拝みなさい。イエスのあかしは預言の霊です。」

と記されています。ここで、ヨハネが拝もうとした「」は、9節に出てくる御使いのことです。ここには、「イエスのあかしを堅く保っているあなたの兄弟たち」ということばが出てきます。ここで「堅く保っている」と訳されていることば[エコントーン(動詞・エコーの現在分詞、男性、複数形)で、先ほど触れました6章9節で「自分たちが立てたあかし」と言われているときの「立てた」と訳されていることばと同じことば(エコー)です。その意味では、この兄弟たちも迫害の中であかしを立て続けたことを思わせます。
 次に「あかし」あるいは「あかしする」ということばが出てくるのは、20章4節です。そこには、

また私は、多くの座を見た。彼らはその上にすわった。そしてさばきを行う権威が彼らに与えられた。また私は、イエスのあかしと神のことばとのゆえに首をはねられた人たちのたましいと、獣やその像を拝まず、その額や手に獣の刻印を押されなかった人たちを見た。彼らは生き返って、キリストとともに、千年の間王となった。

と記されています。ここに出てきます、「イエスのあかしと神のことばとのゆえに首をはねられた人たち」は、6章9節に出てきます「神のことばと、自分たちが立てたあかしとのために殺された人々」と符合しています。
 黙示録の最後の章である22章には3個所で「あかしする」ということばが出てきます。
 16節には、

わたし、イエスは御使いを遣わして、諸教会について、これらのことをあなたがたにあかしした。わたしはダビデの根、また子孫、輝く明けの明星である。

というイエス・キリストのみことばが記されています。
 また、18節には、

私は、この書の預言のことばを聞くすべての者にあかしする。もし、これにつけ加える者があれば、神はこの書に書いてある災害をその人に加えられる。

と記されています。これには、ここで語っているのはだれかという問題があります。これについては、ヨハネであるという意見と、イエス・キリストであるという意見に分かれています。結論的には、すでに引用しました16節と、次に引用します20節において、あかしをしておられるのはイエス・キリストですので、ここでも、イエス・キリストがあかししておられると考えられます。
 20節には、

これらのことをあかしする方がこう言われる。「しかり。わたしはすぐに来る。」アーメン。主イエスよ、来てください。

と記されています。

 これらの引用から、三つのことを汲み取りたいと思います。
 第一に、1章2節と、22章16節、18節、20節に記されていますように、黙示録に記されている「すぐに起こるはずの事」をあかしされる方は、イエス・キリストご自身です。黙示録を記したのはヨハネですが、それは「イエス・キリストのあかし」に基づいています。そして、その「イエス・キリストのあかし」は父なる神さまから出たことです。それゆえに、黙示録に記されていることは、真実で確かなことであり、信ずべきことです。
 第二に、黙示録全体をとおして、主の契約の民が、神さまのみことばに基づいて、イエス・キリストをあかしし続けていることが示されています。それは、神さまがイエス・キリストをとおして成し遂げてくださり、今も遂行しておられる贖いの御業を、イエス・キリストの民である私たちもあかしするということです。その私たちのあかしの根底には、「イエス・キリストのあかし」があります。私たちが「イエス・キリストのあかし」にしたがってあかしをするとき、イエス・キリストご自身が、御霊によってご臨在してくださって、私たちとともにあかししてくださいます。
 第三に、黙示録では、主の契約の民が、そのように、神さまのみことばに基づいて、イエス・キリストをあかしをするときには、迫害を受けるということが、一貫して、あかしされています。
 このこととの関連で、1章9節に、

私ヨハネは、あなたがたの兄弟であり、あなたがたとともにイエスにある苦難と御国と忍耐とにあずかっている者であって、神のことばとイエスのあかしとのゆえに、パトモスという島にいた。

と記されていることを、改めて見てみましょう。
 先ほどお話ししましたように、ここでは、ヨハネが「神のことばとイエスのあかし」のために、パトモス島に流刑となっていることが記されています。その流刑の理由は「神のことばとイエスのあかし」のためであるというように、2節の「神のことばとイエス・キリストのあかし」と、ほぼ同じことばで表されています。この二つのことばの違いは、9節の「神のことばとイエスのあかし」ということばの方に「キリスト」ということばがないことだけです。
 このことには意味があると考えられます。
 事柄の時間的な順序は、黙示録に記されている順序とは逆で、9節に記されています、ヨハネがパトモス島に流刑となる前に、「神のことばとイエスのあかし」の宣教をしたこと、すなわち、神さまのみことばを宣べ伝え、イエス・キリストをあかししたことが先に来ます。そして、そのために、ヨハネはパトモス島に流刑となり、この島で「神のことばとイエス・キリストのあかし、すなわち、彼の見たすべての事」をあかしするようになりました。つまり、黙示録を記したのです。
 このような時間的な順序を踏まえて見ますと、一つの大切なことが見えてきます。
 この世の支配者たちがヨハネをパトモス島への流刑に処したのは、ヨハネが神さまのみことばを宣べ伝え、イエス・キリストをあかしすることを阻止するためでした。言い換えますと、ヨハネの宣教活動によって、人々が福音のみことばに耳を傾け、イエス・キリストを贖い主として信じ、造り主である神さまの御許へと立ち返ることを阻止しようとしてのことです。その意味で、「神のことばとイエスのあかし」を無力なものとしようとしてのことです。
 しかし、この9節に続いて、10節ー19節には、

私は、主の日に御霊に感じ、私のうしろにラッパの音のような大きな声を聞いた。その声はこう言った。「あなたの見ることを巻き物にしるして、七つの教会、すなわち、エペソ、スミルナ、ペルガモ、テアテラ、サルデス、フィラデルフィヤ、ラオデキヤに送りなさい。」そこで私は、私に語りかける声を見ようとして振り向いた。振り向くと、七つの金の燭台が見えた。それらの燭台の真ん中には、足までたれた衣を着て、胸に金の帯を締めた、人の子のような方が見えた。その頭と髪の毛は、白い羊毛のように、また雪のように白く、その目は、燃える炎のようであった。その足は、炉で精錬されて光り輝くしんちゅうのようであり、その声は大水の音のようであった。また、右手に七つの星を持ち、口からは鋭い両刃の剣が出ており、顔は強く照り輝く太陽のようであった。それで私は、この方を見たとき、その足もとに倒れて死者のようになった。しかし彼は右手を私の上に置いてこう言われた。「恐れるな。わたしは、最初であり、最後であり、生きている者である。わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。また、死とハデスとのかぎを持っている。そこで、あなたの見た事、今ある事、この後に起こる事を書きしるせ。

と記されています。
 ヨハネは流刑の地パトモスで、イエス・キリストの栄光の顕現(クリストファニー)に触れて、栄光のキリストから、イエス・キリストご自身のあかしである黙示録を記すようにと命じられました。ヨハネがパトモス島に流刑になることなく、神さまのみことばに基づいて、イエス・キリストをあかしする宣教活動を続けていたとしても、そのヨハネのあかしを実際に聞いたであろう人々は、限られていたはずです。しかし、ヨハネがイエス・キリストご自身のあかしである黙示録を記したことによって、今日に至るまでの主の契約の民を初めとして、おびただしい人々が「すぐに起こるはずの事」についてのイエス・キリストご自身のあかしを聞くことになったのです。
 この世の主権者たちの意図は、ヨハネの宣教活動を阻止することでした。そして、そのことは成功したように見えます。しかし、神さまはそのことをもお用いになって、ヨハネのあかしをはるかに豊かなものとしてくださっています。そして、実際に、ヨハネが記した(その意味で、ヨハネがあかしした)黙示録をとおして、今日に至るまで、「すぐに起こるはずの事」についてのイエス・キリストご自身のあかしに基づく、主の民のあかしがこの世に対してなされてきましたし、これからもあかしされていくことになります。


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