黙示録講解

(第60回)


説教日:2012年1月29日
聖書箇所:ヨハネの黙示録1章1節ー8節
説教題:神のことばのあかし


 これまで、黙示録1章1節に記されています、

イエス・キリストの黙示。これは、すぐに起こるはずの事をそのしもべたちに示すため、神がキリストにお与えになったものである。そしてキリストは、その御使いを遣わして、これをしもべヨハネにお告げになった。

というみことばについて、いろいろなことをお話ししてきました。それに続いて、2節、3節には、

ヨハネは、神のことばとイエス・キリストのあかし、すなわち、彼の見たすべての事をあかしした。この預言のことばを朗読する者と、それを聞いて、そこに書かれていることを心に留める人々は幸いである。時が近づいているからである。

と記されています。
 冒頭の「ヨハネは」ということばは関係代名詞で、1節最後の「しもべヨハネ」を受けています。このことは、この2節に記されていることが、1節と深く結びついていることを示しています。
 2節では、ヨハネが、

 彼の見たすべての事をあかしした

と言われています。この「彼の見たすべての事」ということばは、その前の1節において、

これをしもべヨハネにお告げになった。

と言われていることに符合しています。1節で「お告げになった」と言われているときの「告げる」ということば(動詞・セーマイノー)は「しるし」を表わすことば(セーマ)から派生しています。また、黙示録に記されていることは全体として、さまざまな表象をとおして、絵画的に、いわば、見える形で示されています。[注] それと符合して、2節では「彼の見たすべての事」と言われていると考えられます。

[注]TDNT、第7巻、262、264頁。アボット・スミスのレキシコンでは、セーマイノーの第一の意味を「しるしを与える」としています。ただし、BAGDやEDNTには、この意味は出てきません。

 この2節では、「神のことばとイエス・キリストのあかし、すなわち、彼の見たすべての事」という新改訳の訳に反映していますように、「(ヨハネ)の見たすべての事」が、その前の「神のことばとイエス・キリストのあかし」と同格になっています。[注] これによって、「(ヨハネ)の見たすべての事」は、「神のことばとイエス・キリストのあかし」によることであって、まことのことであり、信ずべきことであり、そのゆえに、必ず成就することであることが示されています。

[注]これには別の可能性もあります。Beale, p. 184.に可能な見方として紹介されているもので、「彼の見たすべての事」を1節の「お告げになった」の目的語とするものです。その場合は、2節の「彼の見たすべての事」(これがギリシャ語原文では最後のことばです)以外をカッコでくくることになります。しかし、「彼の見たすべての事」は「神のことばとイエス・キリストのあかし」と同格であるとした方が単純ですし、これで意味が通ります。


 ここには「神のことばとイエス・キリストのあかし」ということばが出てきます。これは「神のことば」ということばと「イエス・キリストのあかし」ということばの組み合わせです。それぞれのことばが黙示録の中でどのように用いられているかを見てみたいと思いますが、きょうは、「神のことば」の方しか取り上げることができません。
 「神のことば」ということばは、黙示録の中には、この個所を含めて、7回出てきます。順次、それを見てみますと、1章2節はすでに引用しましたので、その次から見ていきます。
 1章2節の次に、1章9節には、

私ヨハネは、あなたがたの兄弟であり、あなたがたとともにイエスにある苦難と御国と忍耐とにあずかっている者であって、神のことばとイエスのあかしとのゆえに、パトモスという島にいた。

と記されています。
 また、6章9節には、

小羊が第五の封印を解いたとき、私は、神のことばと、自分たちが立てたあかしとのために殺された人々のたましいが祭壇の下にいるのを見た。

と記されています。
 その次の個所ですが、17章17節には、

それは、神が、みことばの成就するときまで、神のみこころを行う思いを彼らの心に起こさせ、彼らが心を一つにして、その支配権を獣に与えるようにされたからです。

と記されています。この「みことばの成就するときまで」は、直訳では「神のことばの成就するときまで」で、「神のことば」が出てきます。
 この17節は少し分かりにくいので、簡単に説明しますと、ここに出てくる「彼ら」は、その前の16節に出てくる「十本の角」によって表象的に表されている、神さまに逆らうこの世の王たちのことです。それは、先週までお話ししました、ダニエル書7章に出てくる4つの獣を受けています。特に、第4の獣には「十本の角」がありました。彼らは神さまに逆らっているのですが、結局はと言いますか、結果的には、神さまのみこころを行うことになります。神さまは彼らの悪しき思いや行いをも用いて、みこころを実現されるのです。
 もちろん、それは父なる神さまが栄光のキリストをとおして実現されるということです。1章5節では、栄光のキリストのことが「地上の王たちの支配者」と呼ばれており、17章14節では「主の主、王の王」、19章16節では、その順序が逆になって、「王の王、主の主」と呼ばれています。栄光のキリストは地上の支配者たちの思いをはるかに越えて、また地上の王たちの思いやはかりごとをさえお用いになって、ご自身のみこころを実現される主です。
 次に、19章9節には、

御使いは私に「小羊の婚宴に招かれた者は幸いだ、と書きなさい」と言い、また、「これは神の真実のことばです」と言った。

と記されています。
 また、19章13節には、

その方は血に染まった衣を着ていて、その名は「神のことば」と呼ばれた。

と記されています。これは、終わりの日に再臨される栄光のキリストのことを記しています。
 最後に、20章4節には、

また私は、多くの座を見た。彼らはその上にすわった。そしてさばきを行う権威が彼らに与えられた。また私は、イエスのあかしと神のことばとのゆえに首をはねられた人たちのたましいと、獣やその像を拝まず、その額や手に獣の刻印を押されなかった人たちを見た。彼らは生き返って、キリストとともに、千年の間王となった。

と記されています。

 これらの引用から、黙示録で用いられている「神のことば」が、三つほどの意味合いを伝えていることが分かります。
 第一に、これは1個所だけに示されていることですが、19章13節に記されていますように、栄光のキリストのことが「神のことば」と呼ばれているということです。これはヨハネの福音書1章1節に、

初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。

と記されていることと、14節に、

ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。

と記されているを思い起こさせます。
 第二に、先ほど、説明を加えさせていただきました、17章17節に記されていましたが、神さまは、贖いの御業を遂行されるに当たって、悪しき者たちの悪い思いやはかりごとをもお用いになって、ご自身のみこころを実現されます。神さまの主権はこの世の王たちやサタンとその軍勢などの被造物の限界をはるかに越えて働く主権です。それは、この世の王たちやサタンとその軍勢などの人格的なものとして造られているものの自由な意志を無視して、強制力によって抑圧し、従わせるという意味ではありません。それらの被造物が自らの思いにしたがってなすはかりごとをもお用いになって、ご自身のみこころを実現されるという意味です。その意味で、神さまの主権は超越的な主権です。ここに示されていることは、神さまがそのような主権者であられるので、「神のことば」、神さまのみことばは、真実であり、確かであり、信ずべきものであり、必ず、成就するということです。
 このことは、19章9節に記されています、

これは神の真実のことばです

という御使いのあかしのことばにも反映しています。
 実は、このことばは、17章1節から記されている、「大水の上にすわっている大淫婦へのさばき」(17章1節)についての描写の最後に記されていることばです。それで、これは、その前の、

 小羊の婚宴に招かれた者は幸いだ

という祝福のことばだけを指して、

 小羊の婚宴に招かれた者は幸いだ

ということは真実で、確かなことであると言っているのではなく、17章1節ー19章9節に記されている、「大水の上にすわっている大淫婦へのさばき」についてのみことば全体が、「神の真実のことば」であり、確かであり、信ずべきものであるとあかししていると考えられます。ちなみに、この「大水の上にすわっている大淫婦」は「大バビロン」(17章5節)と呼ばれています。
 もちろん、これは黙示録のこの部分(17章1節ー19節9節)に記されていることだけが「神の真実のことば」であるという意味ではありません。黙示録全体に記されていることが、「神の真実のことば」であるということを当然のこととして踏まえています。それが、ここで、ことさら強調されているのには、理由があります。それは、「大水の上にすわっている大淫婦」が17章6節に、

そして、私はこの女が、聖徒たちの血とイエスの証人たちの血に酔っているのを見た。

と記されており、18章24節に、

また、預言者や聖徒たちの血、および地上で殺されたすべての人々の血が、この都の中に見いだされたからだ。

と記されていますように、地上にある主の契約の民を迫害し、その血を流しているからです。「大バビロン」へのさばきそのものの描写は、この18章24節で終わっています。続く19章1節ー9節には、天における礼拝と讃美が記されています。ですから、

また、預言者や聖徒たちの血、および地上で殺されたすべての人々の血が、この都の中に見いだされたからだ。

ということは、「大水の上にすわっている大淫婦」すなわち「大バビロン」へのさばきのいくつかの理由のうちの最終的な理由を示しています。
 この黙示録が記された時代のクリスチャンたちは、非常に厳しい迫害の下にありました。その苦しみの中にある主の民に対して、この17章1節ー19章9節は、神さまが、そのような理不尽なことをなす者たちの悪をも用いて、ご自身のみこころを実現されることを伝えています。先ほど取り上げましたが、そのことを示している17章17節のみことばは、この17章1節ー19章9節の中にあります。そして、主の民は、その「神の真実のことば」を信じて、主にすべてをお委ねすることへと導かれているのです。
 そのような厳しい状況の中にある主の民への戒めを記しているローマ人への手紙12章19節ー21節には、

愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。」もしあなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい。渇いたなら、飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃える炭火を積むことになるのです。悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。

と記されています。大変な苦しみの中で、このようなみことばに導かれて歩む主の民こそが、天における礼拝と讃美へと連なっていくことになります。
 このように、黙示録に記されていること全体が「神の真実のことば」です。それはこの世の支配者たちや、暗やみの主権者たちの思いやはかりごとをはるかに越えて、それらの悪さえも用いて、みこころを実現される主権者であられる神さまのみことばです。これが、1章2節において、

ヨハネは、神のことばとイエス・キリストのあかし、すなわち、彼の見たすべての事をあかしした。

と言われているときの「神のことば」に込められている意味です。

 黙示録に出てくる「神のことば」というみことばから汲み取ることができる第三のことは、その「神のことば」を託された主の契約の民たちが、それをあかししているということです。そのことは、先ほど引用しました、1章9節に、

私ヨハネは、あなたがたの兄弟であり、あなたがたとともにイエスにある苦難と御国と忍耐とにあずかっている者であって、神のことばとイエスのあかしとのゆえに、パトモスという島にいた。

と記されています。ここでは黙示録の著者であるヨハネ自身が、

神のことばとイエスのあかしとのゆえに、パトモスという島にいた。

とあかししています。ヨハネはパトモス島に流刑となっていたのです。ここに「神のことばとイエスのあかし」ということばが出てきます。これは2節の「神のことばとイエス・キリストのあかし」の「イエス・キリスト」が「イエス」になっているだけで、その他は同じです。2節の「神のことばとイエス・キリストのあかし」は黙示録に記されていることを指しています。これに対して、この9節の「神のことばとイエスのあかし」はヨハネの宣教活動を指しています。ヨハネは神さまのみことばを宣べ伝え、イエス・キリストをことばや生き方によってあかししたということです。そして、そのために、パトモス島に流刑になっていました。
 また、6章9節には、

小羊が第五の封印を解いたとき、私は、神のことばと、自分たちが立てたあかしとのために殺された人々のたましいが祭壇の下にいるのを見た。

と記されていました。これも、主の契約の民が迫害の中で、神さまのみことばを宣べ伝え、ことばや生き方をもってあかしをしたということを示しています。
 同じことは、20章4節に記されています、

また私は、多くの座を見た。彼らはその上にすわった。そしてさばきを行う権威が彼らに与えられた。また私は、イエスのあかしと神のことばとのゆえに首をはねられた人たちのたましいと、獣やその像を拝まず、その額や手に獣の刻印を押されなかった人たちを見た。彼らは生き返って、キリストとともに、千年の間王となった。

というみことばにも当てはまります。

 このこととの関連で、アモス書3章7節に記されていますみことばを見てみましょう。そこには、

 まことに、神である主は、
 そのはかりごとを、
 ご自分のしもべ、預言者たちに示さないでは、
 何事もなさらない。

と記されています。
 黙示録には、このような意味で、私たち主の民に与えられた預言のみことばが記されています。1章3節に、

この預言のことばを朗読する者と、それを聞いて、そこに書かれていることを心に留める人々は幸いである。時が近づいているからである。

と記されていますように、黙示録に記されていることは「預言のことば」としての意味をもっています。それは、父なる神さまがご自身の贖いの御業にかかわるみこころ、救いとさばきの御業の遂行にかかわるみこころをご自身の契約の民である私たちに示されたうえで、その御業を遂行されるということを意味しています。
 古い契約の下では、特定の預言者たちに与えられていた啓示のみことばは、新しい契約の下では、すべての主の民に与えられています。それは、最初の聖霊降臨節(ペンテコステ)の日に、ペテロがあかししたことを記している、使徒の働き2章16節ー18節に

これは、預言者ヨエルによって語られた事です。
「神は言われる。
 終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。
 すると、あなたがたの息子や娘は預言し、
 青年は幻を見、
 老人は夢を見る。
 その日、わたしのしもべにも、はしためにも、
 わたしの霊を注ぐ。
 すると、彼らは預言する。」

と記されていますように、預言者ヨエルの預言の成就でもあります。
 また、ヨハネの福音書15章15節には、

わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです。

というイエス・キリストの教えが記されています。この教えに示されていますように、主が私たちにご自身の救いとさばきの御業の遂行にかかわるみこころとご計画をつぶさに示してくださるのは、私たちをご自身に近づけてくださって、ご自身との親しい交わりにあずからせてくださっているからです。
 このことは、また、アブラハムのことを思い起こさせます。創世記18章17節ー19節には、

はこう考えられた。「わたしがしようとしていることを、アブラハムに隠しておくべきだろうか。アブラハムは必ず大いなる強い国民となり、地のすべての国々は、彼によって祝福される。わたしが彼を選び出したのは、彼がその子らと、彼の後の家族とに命じての道を守らせ、正義と公正とを行わせるため、が、アブラハムについて約束したことを、彼の上に成就するためである。」

と記されています。
 ここでは、先ほどのアモス書3章7節に記されている、

 まことに、神である主は、
 そのはかりごとを、
 ご自分のしもべ、預言者たちに示さないでは、
 何事もなさらない。

というみことばがアブラハムに適用されています。もちろん、紀元前760年代の初頭に預言活動をしたと考えられるアモスは、紀元前2000年ー1825年頃の人であると考えられる(NBD、188頁)アブラハムより千年以上後の預言者です。ノアの時代の大洪水によるさばきと、そのさばきからの救いに典型的に見られるように、主は初めから、ご自身のご計画をそのしもべたちに啓示してくださって、救いとさばきの御業を遂行しておられます。その出発点は、最初の人アダムが、契約の神である主、ヤハウェ似対して罪を犯して、御前に堕落してしまった直後に与えられた「最初の福音」です。
 創世記12章1節ー3節や22章18節に記されていますように、アブラハムは「地のすべての国々」の祝福のために召され、主から契約を与えられました。創世記18章19節に記されている「の道を守らせ」ということばの「の道を守る」ということは、主の契約に対して真実に生きることを意味しています。アブラハムへの契約は、アブラハムとその子孫に、主の一方的な愛と恵みによる祝福を約束してくださったものです。アブラハムはその主とその契約のみことばを最後まで信じ続けました。
 そのようなアブラハムに、ソドムとゴモラに対する主のさばきの執行が知らされました。アブラハムは、ソドムとゴモラの罪と腐敗がさばきに価することを知っていました。というのは、後にアブラハムはソドムのために執り成しの祈りをしますが、それは、ソドムの罪がさばきに価しないということを訴える祈りではないからです。そのような状況で、主は、19節に記されている「正義と公正とを行わせるため」という主のみことばが示していますように、この点において、アブラハムが「正義と公正」について知恵深く対処するように、召されたのです。
 実際にアブラハムが取った行動は、ソドムのために執り成し祈ることでした。最初の祈りは18章23節ー25節に記されていますが、25節に、

正しい者を悪い者といっしょに殺し、そのため、正しい者と悪い者とが同じようになるというようなことを、あなたがなさるはずがありません。とてもありえないことです。全世界をさばくお方は、公義を行うべきではありませんか。

と記されていますように、主の「正義と公正」に訴えるものでした。主の「正義と公正」からすれば、ソドムとゴモラはさばかれて当然であるということから、自分もソドムとゴモラを断罪する方向に進まないで、その中にある一筋の光を見据えて、ソドムの救いのために執り成し祈ったのです。当然、アブラハムは、一筋の光として、ソドムに住んでいた甥のロトを念頭に置いていたと考えられますが、ロトの救出のことだけを考えたのではなく、ソドム全体のために執り成し祈ったのです。アブラハムはソドムに50人の「正しい者」がいたらということから始めて、その数を、45人、40人、30人、20人と少なくしていって、最後には、32節に記されていますように、ソドムに十人の「正しい者」がいたらということで主のみこころを求めます。アブラハムは身を低くして、ひたすら、ソドムのために主のあわれみを求めています。これに対して、主は「滅ぼすまい。その十人のために。」とお答えになりました。しかし、実際には、ソドムには「その十人」でさえ、いませんでした。それでも主は、ご自身の「正義と公正」に基づいて、主を恐れるロトとその家族に、救いの道をお示しになり、それに従った者たちを救い出してくださいました。
 このアブラハムの姿勢は、契約の神である主が、ご自身の贖いの御業の遂行にかかわるみこころ、救いのさばきの御業にかかわるみこころを示してくださった者たちに求めておられる姿勢です。
 この世の罪とその腐敗の深さからすれば、最終的なさばきは避けられないことは、みことばの示すところです。そのことを知らされている私たちは、もともと、罪を自らのうちに宿し、腐敗は主の御目に明らかなものでした。そのような私たちが、ただただ主の一方的な愛とあわれみによる恵みにあずかって救われたのです。また、主イエス・キリストは、なおも罪の性質をうちに宿し、日々に罪を犯してしまう私たちのために、父なる神さまの御前に出でて、執り成し続けてくださっています。
 私たちは、自分がそのような者であり、私たちの主はそのようなあわれみ深い主であられることを心に刻まなければなりません。そして、この時代、この国、この町のために、身を低くして、ひたすら主のあわれみを祈り求める祭司の務めに召されています。そのような、祭司的な務めに裏打ちされていて初めて、「神のことばとイエスのあかし」に生きるという、預言者的な働きもできます。しばしば、教会において、預言者的な務めという名目の下に、社会的な権威の悪が糾弾されます。そのような糾弾が主の契約共同体の兄弟あるいは姉妹たちに対してなされることもあります。いずれの場合であっても、それが真に預言者的な働きであるなら、それは、主の御前における絶えることのない執り成しの祈りに裏付けられているはずです。


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