黙示録講解

(第59回)


説教日:2012年1月22日
聖書箇所:ヨハネの黙示録1章1節ー8節
説教題:すぐに起こるはずの事を(57)


 黙示録1章1節に出てきます「すぐに起こるはずの事」ということばは、黙示録に記されていることを全体的に要約することばです。これまでこのことばをめぐって、いろいろなことをお話ししてきました。最後のこととして、このことばがダニエル書2章28節に出てくる「終わりの日に起こること」ということばを背景としているということをお話ししてきました。
 いつものように、簡単に復習しながらお話を進めていきます。
 ダニエル書2章28節には、

しかし、天に秘密をあらわすひとりの神がおられ、この方が終わりの日に起こることをネブカデネザル王に示されたのです。

と記されています。これは、バビロンの王ネブカデネザルが見た夢について、ダニエルがネブカデネザルに語ったことばの一部です。ダニエルの時代に「終わりの日に起こる事」として示されたことが、約700年後の黙示録の記された時代には「すぐに起こるはずの事」となっています。
 ダニエル書2章には、ネブカデネザルが4つの部分から成り立っている「一つの大きな像」を見たことが記されています。ダニエルの解き明かしによりますと、その4つの部分はネブカデネザル、すなわちバビロニアから始まる4つの国を指しています。これら4つの国は、「4」という完全数で表されていて、終わりの日に至るまで、次々と興っては過ぎ去っていく、この世の国々を代表的に表していると考えられます。
 これら4つの国は、次第に、その素材が前のものより劣るもので表されていて、最後に記されている第4の国は、徹底的な破壊をもたらす強さをもつ国であると説明されています。これによって、この世の国々が歴史とともに、より悪いものとなっていくことが示されています。
 これと同じことは、ダニエル書7章に記されている、ダニエルが見た幻の中に出てくる「海から上がって来た」4つの獣として示されている4つの国にも当てはまります。第一の獣がバビロニアで、その後の三つの獣は、だんだんと、どう猛さ、凶暴さを増していき、第4の獣において頂点に達しています。
 このダニエルが見た4つの獣が、黙示録13章に記されている、海から上って来た獣の背景になってます。黙示録13章2節に記されている海から上って来た獣の描写は、その獣がダニエル書7章に記されている四つの獣を総合するものであることを示しています。

          *
 これまで、これら四つの国をとおして代表的に示された、次々と興っては過ぎ去っていくこの世の国々が、だんだんと、その凶悪さを増していくことの背景となっていることをお話ししました。
 そのために二つのことを取り上げました。
 一つは、神のかたちに造られた人が造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまってから、ノアの時代に至るまでの歴史です。
 創世記6章5節や11節、12節に記されているように、ノアの時代には、神のかたちに造られた人の内面において、罪によって人の本性の腐敗が極まり、人が造り出した文化は、暴虐で地を満たしてしまう文化となってしまいました。それで、神さまは大洪水によるさばきを執行して、それまでの人類が築いてきた歴史と文化をおさばきになりました。
 このことによって、神さまは人類の歴史の中でただ一度だけ、人の罪は、どんどん腐敗していって、ついには、神さまがそれ以上その腐敗を放置されるなら、神さまの聖さが問われることになるというほどになってしまうということを、実際の歴史を通してお示しになりました。
 このような人の罪の現実が根底にあって、ダニエル書2章と7章には、四つの国によって代表的に示されている、この世の国々が次々と興っては、過ぎ去っていきながら、だんだんと、悪いものとなっていくということが示されていると考えられます。
 このような人間の罪の現実が実際の歴史を通して示された後、神さまは洪水後の人類の歴史が保たれるために、二つのものを備えてくださいました。
 一つは、神さまご自身が神のかたちの栄光と尊厳性を守られるということです。そのことは創世記9章5節、6節に記されています。注目すべきことは、6節に記されている、

 人の血を流す者は、
 人によって、血を流される。

という神さまのみことばです。神さまは、ご自身が神のかたちの栄光と尊厳性を守られるために、「人によって」と言われていますように、人をお用いになることを示されました。これは私的な復讐を許すものではなく、公的で社会的な権威がその役割を担うべきことをお示しになったものです。
 このことが、ローマ人への手紙13章1節に記されている、

人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。

というパウロの教えの背景にあります。「上に立つ権威」は、基本的に、神のかたちに造られた人の栄光と尊厳性を守るために立てられています。
 このことが実現するためには、社会的な権威者も含めて、人々が、神のかたちの栄光と尊厳性に当たるものを守らなければならないという価値観をもつことが必要です。そのために、神さまは一般恩恵に基づく御霊のお働きによって、人々が神のかたちの栄光と尊厳性に当たるもの、すなわち、人権を尊重すること、具体的には、人格的な存在としての人のいのちの尊さや、良心の自由の尊さなどを自覚して、それ守ろうとする思いをもつように啓発してくださるようになったと考えられます。
 洪水後の人類の歴史が保たれるために神さまが備えてくださったもう一つのものは、バベルにおける神さまのさばきの執行です。バベルにおける神さまのさばきの執行のことは。創世記11章1節ー9節に記されています。
 バベルにおいては、焼いて強度を高めたレンガを作るという「技術革新」によって都市が作られるようになりました。しかしそれが、神さまの御前における人間の高ぶりを助長するようになりました。11章4節に記されているように、人々は「頂が天に届く塔を建て、名をあげよう」とし始めました。このようにして、人類は一つとなって、神さまの御前に堕落の道を突き進むようになりました。それは、やがて神さまの最終的なさばきを招くようになるであろう道でした。
 それで、神さまはバベルにおいて、人々のことばを混乱させ、人々を地の面に散らされました。この場合、ことばは、人が造り出す文化の根底にあるものです。そのことばが混乱して、互いに通じないようになったということは、そこにさまざまな考え方や価値観が生み出されるようになったことを意味しています。
 これによって、地の面に散らされた人々が、それぞれの国を造り、お互いに対立しながら牽制し合うようになりました。そして、一つの国が栄華を極めると、内側からの腐敗が始まり、それによって弱体化すると、別の国が興ってこれを倒し、新興の国としての規律を保って歩むようになるということを繰り返すようになりました。神さまは、そのようにして、人類が一つとなって堕落の道を突き進んで、腐敗を極めて、神さまのさばきを招くことがないようにしてくださいました。


 このように、洪水後の世界の歴史の中では、さまざまな国が興って、争いを繰り返し、その中から権力を積み上げた帝国が興ると、人類の統一を図ろうとしてきました。そのことが、ダニエル書2章や7章に出てくる四つの国によって代表的に示されている、終わりの日に至るまで、この世の国々が次々と興っては、過ぎ去っていくということに反映しています。
 同時に、ダニエル書2章や7章においては、そこに出てくる四つの国によって代表的に示されている、この世の権力を掌握する帝国は、決して真の意味での統一を実現することはできないということが示されています。
 黙示録13章に記されている海から上って来た獣は、世界的な規模での統一を実現するようになります。けれども、それでさえ、真の意味での統一ではないのです。それは、神さまが天地創造の御業において、人を愛を本質的な特性とする神のかたちにお造りになったことによって生み出された、まったき愛と自由における一致からは、ほど遠いものです。
 ダニエル書2章と7章においては、真の意味での人類の一致は、メシヤの御国において実現することが示されています。このメシヤの御国は、2章のネブカデネザルが見た夢では、最後に「人手によらずに切り出され」た「」(単数)として示されています。ネブカデネザルが見た夢に出てくる巨大な像は、人の手によって造られた偶像です。ですから、この「人手によらずに切り出され」た「」は、その成り立ちも、素材によって表されている国としての特性も、この世で興っては消滅していく国々とはまったく違っています。また、この「人手によらずに切り出され」た「」(単数)は部分に分けられてはいない一つの国を表しています。
 また、7章に記されている、ダニエルの見た幻においては、メシヤの国は、「人の子のような方」が「年を経た方」として表されている神さまから「主権と光栄と国」受けることによって確立される国であることが示されています。メシヤの国は獣とはまったく違う、神のかたちに造られた人の表象で表されています。
 先週は、このダニエルが見た幻において、「人の子のような方」ついて、14節で、

 諸民、諸国、諸国語の者たちがことごとく、
 彼に仕えることになった。

と言われていることに注目しました。ここに出てくる「諸民、諸国、諸国語の者たち」ということばは、バビロニアやメディア・ペルシアのすべての民を表しています。「諸民、諸国、諸国語の者たち」がバビロニアやメディア・ペルシアという帝国によって統一されていたのです。しかし、それも一時的なものでした。ここでは、「諸民、諸国、諸国語の者たち」が真の意味で一つに結ばれるのは、「人の子のような方」、すなわち、メシヤの御国においてであることが示されています。

 このことにも、歴史的な背景があります。それは、神さまがバベルにおいて人類のことばを混乱させ、人を地の全面に散らされたことを受けて、アブラハムが召されているということです。
 バベルでの出来事のことは、11章1節ー9節に記されています。これに続く10節ー26節には「セムの歴史」が記されています。この「セムの歴史」ではアブラハムはセムから数えて10代目に当たります。[注]

[注]これは、マソラ本文によることで、七十人訳では、セムの次のアルパクシャデとシェラフの間にカイナンが入っていますので、テラが10代目に当たります。この七十人訳のリストは、ルカの福音書3章23節ー38節に記されている、イエス・キリストの系図に採用されています。このどちらを本来のものと見るかについては、学者たちの間でも意見が分かれています。]

 この「セムの歴史」は、26節の、

 テラは七十年生きて、アブラムとナホルとハランを生んだ。

ということばをもって結ばれています。そして、27節に、

 これはテラの歴史である。

と記されているように、27節からは「テラの歴史」が記されています。「テラの歴史」は25章11節まで続いています。
 実は、創世記の区分では、この「テラの歴史」にアブラハムの生涯が記されているのです。アブラハムは創世記の記事の中で、また、契約の神である主の贖いの御業の歴史の中で最も重要な人物の一人です。そのアブラハムのことが、「アブラハムの歴史」としてではなく、「テラの歴史」として記されているということはどういうことでしょうか。それは、このアブラハムという重要な人物の生涯を、それとして独立させないで、その前の父祖たちの歴史と関連づけて理解させようという意図の現れではないかと思われます。
 12章1節ー3節に記されているように、アブラハムは、

 地上のすべての民族は、
 あなたによって祝福される。

という約束とともに召されました。この「地上のすべての民族」とは、バベルにおいてさばきを受けて、地の全面に散らされた人類のことです。アブラハムは、バベルにおける神さまのさばきを背景として、「地上のすべての民族」が契約の神である主の祝福を受けるようになるために、召されたのです。
 このようにして召されたアブラハムに、神さまは契約を与え、その契約の祝福として約束を与えてくださいました。その約束の一つは、アブラハム100歳、サラ90歳になるまで子どもが生まれなかった、アブラハムとサラに子孫を与えてくださるということです。そして、22章18節に、

あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。

と記されているように、主はアブラハムを召してくださったときに与えられた「地上のすべての民族」への祝福の約束が、アブラハムの子孫によって実現することを示してくださいました。
 これにはいろいろなことがかかわっていますが、今お話ししていることと関連することだけを取り上げます。
 主がアブラハムと契約を結んでくださったことを記している17章の5節では、主はアブラハムの名を、それまでの「アブラム」から「アブラハム」に変えてくださいました。聖書において、名をつけることは、名をつけた側が主権をもち、主権を行使していることを表しています。その上で、主は、6節に記されている、

わたしは、あなたの子孫をおびただしくふやし、あなたを幾つかの国民とする。あなたから、王たちが出て来よう。

という祝福の約束を与えてくださいました。注目したいのは、ここに「王たち」が約束されているということです。
 同じ17章の15節には、主がアブラハムの妻サラの名を、それまでの「サライ」から「サラ」に変えてくださったことが記されています。主がサラの主権者であられることを表してくださっています。その上で、続く16節には、

わたしは彼女を祝福しよう。確かに、彼女によって、あなたにひとりの男の子を与えよう。わたしは彼女を祝福する。彼女は国々の母となり、国々の民の王たちが、彼女から出て来る。

という祝福の約束を与えてくださいました。ここでも「王たち」の約束が与えられています。
 そして、この「王たち」の約束は、35章11節に記されているように、ヤコブに与えられています。この場合も、その前の10節に記されているように、主は「ヤコブ」に「イスラエル」という新しい名をお与えになっておられます。
 ですから、アブラハム、イサク、ヤコブに与えられた契約においては、「王たち」が与えられるという祝福の約束が与えられるたびに、その約束を受けたアブラハとサラとヤコブに新しい名が与えられ、主がこの約束に主権的にかかわってくださることが示されています。そして、「イスラエル」という新しい名を与えられたヤコブへの祝福の約束において、「王たち」の約束は、イスラエルに与えられる王のことであることが明確になっています。
 神さまがバベルでさばきを執行されて、人類を地の全面に散らされたことを受けて、契約の神である主は、「地上のすべての民族」の祝福のためにアブラハムを召してくださいました。そして、そのアブラハムに契約をお与えになり、その祝福の一つとしてアブラハムの子孫から「王たち」が出てくることを約束してくださいました。このことは、アブラハムの子孫として出てくる「王たち」が「地上のすべての民族」、「地のすべての国々」の祝福に深くかかわっていることを示しています。

 古い契約の下で、この「王たち」の約束が実現するのはダビデとその子孫においてです。しかし、ダビデとその子孫であるイスラエルの王たちは、来たるべきまことの王であるメシヤを指し示す「地上的なひな型」でした。
 サムエル記第二・7章12節、13節には、主がダビデに、

あなたの日数が満ち、あなたがあなたの先祖たちとともに眠るとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子を、あなたのあとに起こし、彼の王国を確立させる。彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしはその王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。

という契約を与えられたことが記されています。主はダビデの子の「王国の王座をとこしえまでも堅く立て」てくださると約束してくださっています。
 これまでお話ししてきたことから、アブラハムに与えられた、アブラハムの子孫から「王たち」が出てくるという約束と、「地のすべての国々」がアブラハムの子孫によって祝福を受けるようになるという約束は、最終的には、主が永遠に堅く立てられる「王国の王座」に着座するダビデの子によって実現することが分かります。
 このダビデ契約の約束のとおり、一方でアッシリヤとバビロン、他方でエジプトという大帝国に挟まれた小国ユダを治めたダビデ王朝は、紀元前1010年のダビデの即位から、587年のエルサレムの陥落まで、423年もの間続きました。しかし、ダビデの血肉の子孫である王たちは、主に罪を犯し続け、ついには主のさばきを受けて、バビロンの捕囚に至ってしまうという「地上的なひな型」としての限界を露呈しています。ダビデ契約において約束された永遠の王座は、地上にはありませんでした。また、その永遠の王座に着座するダビデの子孫としての王は、罪によって本性が腐敗してしまっている、ダビデの血肉の子孫ではありませんでした。

 新約聖書はダビデ契約に約束されたまことのダビデの子は、人となって来てくださった永遠の神の御子イエス・キリストであるとあかししています。マタイの福音書は1章1節の、

アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図。

というみことばで始まっています。イエス・キリストは「地のすべての国々」がアブラハムの子孫によって祝福を受けるようになるというアブラハム契約の約束を実現するために、主が永遠に堅く立てられた「王国の王座」に着座するダビデの子として来てくださったのです。
 ヨハネの福音書18章36節に記されているように、イエス・キリストはローマ帝国を代表しているピラトに、

わたしの国はこの世のものではありません。もしこの世のものであったなら、わたしのしもべたちが、わたしをユダヤ人に渡さないように、戦ったことでしょう。

とあかしされました。イエス・キリストの御国は、剣を取って戦う国ではないというのです。経済力や武力に訴えて、相手を屈服させ、支配する国ではないのです。これに先立って10章14節、15節に記されているように、イエス・キリストは、

わたしは良い牧者です。・・・わたしは羊のためにわたしのいのちを捨てます。

とあかししておられます。イエス・キリストの御国では、王として治めておられるイエス・キリストご自身が、その民のためにいのちをお捨てになられるというのです。そして、そのとおり、イエス・キリストは、私たちご自身の民の罪を贖うために十字架におかかりになり、私たちの罪に対する父なる神さまの聖なる御怒りによる刑罰を、私たちに代わって受けてくださいました。そして、私たちを栄光あるいのち、永遠のいのちによって生かしてくださるために、栄光を受けて死者の中からよみがえってくださいました。
 使徒の働き2章には聖霊降臨節(ペンテコステ、五旬節)の日の出来事が記されています。1節ー6節には、

五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。すると突然、天から、激しい風が吹いて来るような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。また、炎のような分かれた舌が現れて、ひとりひとりの上にとどまった。すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。さて、エルサレムには、敬虔なユダヤ人たちが、天下のあらゆる国から来て住んでいたが、この物音が起こると、大ぜいの人々が集まって来た。彼らは、それぞれ自分の国のことばで弟子たちが話すのを聞いて、驚きあきれてしまった。

と記されています。
 この少し後の、11節では、弟子たちが語っていたのは「神の大きなみわざ」のことであると、人々が述べています。この「神の大きなみわざ」とは、神さまがご自身の民を贖い出してくださった御業のことで、「大きなみわざ」と言われているのは、それが讃美に価することを示しています。弟子たちは、神さまを讚えつつ、御子イエス・キリストをとおして成し遂げてくださった贖いの御業による解放をあかししており、それを聞いている人々も神さまを讚えていたということです。
 14節ー36節には、ペテロがこの出来事を説明して、人々に語ったことばが記されています。後半の、24節ー32節では、十字架にかかって死んで罪の贖いを成し遂げられた、イエス・キリストが、ダビデに約束された約束にしたがって栄光を受けてよみがえられたことがあかしされています。そして、これを受けて、33節には、

ですから、神の右に上げられたイエスが、御父から約束された聖霊を受けて、今あなたがたが見聞きしているこの聖霊をお注ぎになったのです。

というペテロのあかしが記されています。父なる神さまの右の座に着座された栄光のキリストが、聖霊を注いでくださり、その聖霊が、弟子たちにさまざまな国のことばで「神の大きなみわざ」をあかしさせてくださったというのです。
 私たちはこのことのうちに、バベルで起こったことと逆のことが起こっているのを見ます。神さまはバベルにおいて、人のことばを乱し、互いに通じないようにして、人々を全地に散らされました。それによって、国々の間に争いが生じることとなりました。しかし、契約の神である主はアブラハムとダビデに与えてくださった契約にしたがって、御子イエス・キリストをとおして、さまざまな国のことばを話す人々が、同じ「神の大きなみわざ」についてのあかしを聞いて、神さまを讃美するようにしてくださいました。
 ダビデ契約によって約束されていた永遠の王座は地上にはありませんでした。なぜなら、それは栄光のキリストが着座された父なる神さまの右の座のことだからです。また、その王座に着座された王は、ダビデの血肉の子ではなく、法的にダビデの子孫としてお生まれになり、ご自身の民のために十字架にかかっていのちをお捨てになり、栄光を受けて死者の中からよみがえられた御子イエス・キリストでした。
 栄光のキリストが、今も、父なる神さまの右の座に着座されて、王として治めておられるのは、私たちの上に権力を振るうためではなく、ご自身が十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げられた贖いの御業に基づいて、私たちを永遠のいのちに生かし、私たちが永遠のいのちのうちを歩むように導いてくださるためです。
 栄光のキリストは、ご自身が聖霊降臨節の日に注いでくださった聖霊によって、私たちを愛を本質的な特性とする神のかたちに回復してくださり、神さまとの愛の交わりにある永遠のいのちに生きるようにしてくださるのです。このことによって、私たちの間に、愛による真の一致が生み出されるようにしてくださいました。


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