黙示録講解

(第58回)


説教日:2012年1月15日
聖書箇所:ヨハネの黙示録1章1節ー8節
説教題:すぐに起こるはずの事を(56)


 これまで黙示録1章1節に出てきます「すぐに起こるはずの事」という、黙示録に記されていることを全体的に要約することばをめぐって、いろいろなことをお話ししてきました。最後のこととして、このことばがダニエル書2章28節に出てくる「終わりの日に起こること」ということばを背景としているということをお話ししています。このダニエル書2章28節に記されていることばは、バビロンの王ネブカデネザルが見た夢について、ダニエルがネブカデネザルに語ったことばの中に出てきます。ダニエルの時代に「終わりの日に起こる事」として示されたことが、約700年後の黙示録の記された時代には「すぐに起こるはずの事」となっているのです。
 ダニエル書2章に記されている、ネブカデネザルが見た夢については、これまで繰り返しお話ししてきましたので、ごく簡単にまとめておきます。
 ネブカデネザルは四つの部分から成り立っている「一つの大きな像」を見ました。ダニエルの解き明かしによりますと、純金の頭はネブカデネザル、すなわちバビロニアのことです。その次に、銀の胸と両腕で表されている国が興るのですが、それは、金の頭で表されているバビロニア「より劣る」ものであると言われています。その後に、「青銅の第三の国」が興ります。その素材からして、この国は、その前の、銀の国より劣るということになります。最後に記されている第四の国は「すねは鉄、足は一部が鉄、一部が粘土」で表されています。この第四の国の特徴は分裂です。鉄はその強度において、金や銀や青銅にまさるものですが、その強さは徹底的な破壊をもたらす強さであると説明されています。
 これら四つの国は、「四」という完全数で表されていて、終わりの日に至るまで、次々と興っては過ぎ去っていく、この世の国々を代表的に表していると考えられます。
 また、これら四つの国は、その質がだんだんと悪くなっていて、最後に最も破壊的な国が興ってくることが示されています。これによって、この世の国々が歴史とともに、より悪いものとなっていくことが示されています。もちろん、それは、神さまがご覧になったときに、より悪いものとなっていくという意味です。
 これと同じことは、ダニエル書7章に記されている、ダニエルが見た幻の中に出てくる「海から上がって来た」四つの獣として示されている四つの国にも当てはまります。第一の獣がバビロニアで、その後の三つの獣は、だんだんと、どう猛さ、凶暴さを増していき、第四の獣において頂点に達しています。
 ネブカデネザルが見た夢では、この世の国々を代表的に表す四つの国は巨大な像を構成しています。そのような巨大な像は、ネブカデネザルにとっては神に当たるものでした。その同じものが、ダニエルの幻においては、「海から上がって来た」四つの獣として示されました。このダニエルが見た四つの獣が、黙示録13章1節以下に記されている、海から上って来た獣につながっています。その意味で、ダニエル書に記されている四つの国が示していることは、黙示録が記された時代とそれ以後の時代にも適用されます。


 これまで3回にわたって、これら四つの国をとおして代表的に示された、次々と興っては過ぎ去っていくこの世の国々が、だんだんと、その凶悪さを増していくことの背景となっていることをお話ししました。
 そのために二つのことを取り上げました。
 一つは、神のかたちに造られた人が造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまってから、ノアの時代に至るまでの歴史です。それは、最終的に大洪水によってさばかれるようになる歴史です。
 もう一つは、その大洪水によるさばきの後の人類の歴史が存続するために、神さまが備えてくださったもののことです。
 この二つのことも、簡単に振り返ってみましょう。
 まず、人類の堕落後からノアの時代に至るまでの歴史のことですが、大洪水によるさばきが執行される前の時代の状況を記している、創世記6章5節には、

主は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。

と記されています。これは、洪水前の時代には、「その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾く」というように、人の内面的な本性の腐敗が極まってしまっていたことを示しています。また、同じ6章の11節、12節には、

地は、神の前に堕落し、地は、暴虐で満ちていた。神が地をご覧になると、実に、それは、堕落していた。すべての肉なるものが、地上でその道を乱していたからである。

と記されています。これは、罪による本性の腐敗が極まってしまった人が造り出した文化が、「暴虐」によって特徴づけられる文化であったことを示しています。
 このような「暴虐」によって特徴づけられる文化は、創世記4章で、アダムからカインを通って7代目に記されているレメクの帝国において造り出されたと考えられます。
 4章23節、24節には、

 私の受けた傷のためには、ひとりの人を、
 私の受けた打ち傷のためには、
 ひとりの若者を殺した。
 カインに七倍の復讐があれば、
 レメクには七十七倍。

というレメクのことばが記されています。
 レメクは、自分が受けた一つの傷のために、その人を殺したことを誇っています。これは、レメクが経済的、軍事的な力を背景として、強大な権力を保持していたことの現れであると考えられます。さらに、レメクは、自分には神の復讐にまさる復讐ができるし、もはや神などいらないと豪語しています。もしこれらのことがレメクという個人に限られたことであったとしたら、神さまの啓示のみことばに、これほど詳しく記されることはなかったはずです。レメクのあり方が、その時代の特質を生み出していたと考えられます。
 このレメクの帝国において、人の本性の腐敗による悪が極まり、暴虐が地を満たしてしまうという、ノアの時代の時代状況が生み出されていったと考えられます。
 その一方で、そのレメクに関する記事に続いて、4章26節には、

セツにもまた男の子が生まれた。彼は、その子をエノシュと名づけた。そのとき、人々は主の御名によって祈ることを始めた。

と記されていて、アダムからセツを通って3代目のエノシュが生まれたころには、契約の神である主、ヤハウェを礼拝する人々の存在が社会現象として認められるほどになっていたことが示されています。しかし、このヤハウェ礼拝者たちは時代とともに失われてしまって、ノアの時代には、ノアとその家族だけになってしまいました。みな、あのレメクのことばに如実に表れている価値観に取り込まれていってしまったのです。
 このように、ノアの時代には、人の本性の腐敗による悪が極まり、暴虐が地を満たしてしまうという状態になってしまいました。それで、神さまは大洪水によるさばきを執行して、それまでの人類が築いてきた歴史と文化をおさばきになりました。
 このことによって、神さまは人類の歴史の中でただ一度だけ、人の罪は、どんどん腐敗していって、ついには、神さまがそれ以上その腐敗を放置されるなら、神さまの聖さが問われることになるというほどになってしまうということを、実際の歴史を通してお示しになりました。
 このような人の罪の現実が根底にあって、ダニエル書2章と7章には、四つの国によって代表的に示されている、この世の国々が次々と興っては、過ぎ去っていきながら、だんだんと、悪いものとなっていくということが示されていると考えられます。

 次に、もう一つのことですが、それは洪水後の人類の歴史が保たれるために神さまが備えてくださったもののことです。それも二つあります。
 一つは、創世記9章5節、6節に、

わたしはあなたがたのいのちのためには、あなたがたの血の価を要求する。わたしはどんな獣にでも、それを要求する。また人にも、兄弟である者にも、人のいのちを要求する。
 人の血を流す者は、
 人によって、血を流される。
 神は人を神のかたちに
 お造りになったから。

と記されている、神さまのノアに対するみことばに示されています。
 このみことばによって神さまは、ご自身が、神のかたちに造られた人のいのちの尊厳性を守られることを示されました。その際に、

 人の血を流す者は、
 人によって、血を流される。

と言われて、ご自身が神のかたちに造られた人のいのちの尊厳性を守られるために、人をお用いになることを示されました。これは私的な復讐を許すものではなく、公的で社会的な権威がその役割を担うべきことをお示しになったものです。
 このことが実現するためには、社会的な権威者も含めて、人々が、神のかたちの栄光と尊厳性を守らなければならないという価値観をもつことが必要です。もちろん、神さまに対して罪を犯して、御前に堕落している人々は、人が神のかたちに造られていることを認めません。それで、具体的には、神さまが、一般恩恵に基づく御霊のお働きによって、人々が神のかたちの栄光と尊厳性に当たる人権を尊重すること、人格的な存在としての人のいのちの尊さや、良心の自由の尊さなどを自覚して、それ守らなければならないという思いを啓発してくださる必要があります。
 そして、実際に、9章8節ー17節に記されています、ノアとその息子たちに与えられた契約とともに、そのような一般恩恵に基づく御霊の啓発的なお働きが備えられたと考えられます。それによって、人が、再び、洪水前の時代のように、自らの本性の腐敗を極まらせ、暴虐で地を満たし、神のかたちに造られた人の栄光と尊厳性を徹底的に損なって、神さまの聖さを冒してしまうような事態に至らないようにしてくださったと考えられます。

 洪水後の人類の歴史が保たれるために神さまが備えてくださったもう一つのものは、バベルにおける神さまのさばきの執行です。
 バベルにおける神さまのさばきの執行のことは。創世記11章1節ー9節に記されています。それをまとめますと、1節に、

 さて、全地は一つのことば、一つの話しことばであった。

と記されていますように、洪水後の世界は、すべての人が一つの権力の下にあって統制されていました。その帝国は、10章8節ー10節に記されている、ニムロデの帝国のことであると考えられます。
 8節に、

 ニムロデは地上で最初の権力者となった。

と記されていることは、ニムロデが洪水後の歴史において最初の帝国を築いたことを示しています。この場合の「権力者」ということば(ギッボール)は、洪水前のノアの時代のことを記している6章4節に、

 これらは、昔の勇士であり、名のある者たちであった。

と記されているときの「勇士」と同じことばです。この「勇士」は「名のある者たちであった」と言われていますが、洪水前の「暴虐」が満ちている時代において「名のある者たちであった」ということです。ですから、彼らは、洪水前の「暴虐」が満ちている時代状況を生み出すのに中心的な役割を果たした者であったと考えられます。ニムロデは、この「勇士」を彷彿とさせる権力者でした。
 10章10節には、ニムロデの帝国の発祥の地について、

彼の王国の初めは、バベル、エレク、アカデであって、みな、シヌアルの地にあった。

と記されています。ニムロデの帝国の人々は、このバベルに「頂が天に届く塔を建て、名をあげよう」(11章4節)としました。このバベルは、後にダニエルが捕え移されるようになるバビロンのことです。
 ニムロデの帝国においては、「技術革新」によって都市が作られ、「頂が天に届く塔」を建てることが可能になりました。しかしそれが、神さまの御前における人間の高ぶりを助長するようになり、人類は一つとなって、神さまの御前に堕落の道を突き進むようになりました。それは、やがて神さまの最終的なさばきを招くようになるであろう道でした。
 しかし、人類が一つとなってその道を突き進むときには、地上には、その流れを止める存在がありません。それで、神さまは、人々のことばを混乱させ、人々を地の面に散らされました。それによって、全人類が一つとなって堕落の道を突き進んで最後に神さまの最終的なさばきを招くようになることがないようにしてくださいました。
 このようにして、洪水後の人類の歴史においては、地の面に散らされた人々が、それぞれの国を造り、お互いに対立しながら牽制し合い、一つの国が腐敗をきわめて弱体化すると、別の国が興ってこれを倒し、新興の国としての規律を保って歩むようになるということを繰り返すようになったのです。これが、ダニエル書2章や7章に出てくる四つの国によって代表的に示されている、終わりの日に至るまで、この世の国々が次々と興っては、過ぎ去っていくということの背景にあります。

 長い復習になってしまいましたが、ダニエル書2章と7章には、四つの国によって代表的に示されている、この世の国々が次々と興っては、過ぎ去っていきながら、だんだんと、悪いものとなっていくということが示されているだけではありません。
 2章では、ネブカデネザルは、その夢の最後に、「一つの石が人手によらずに切り出され、その像の鉄と粘土の足を打ち、これを打ち砕き」、「鉄も粘土も青銅も銀も金もみな共に砕けて・・・あとかたもなくなり」、「その像を打った石は大きな山となって全土に満ち」たことを見たと、ダニエルがネブカデネザルに告げています。そして、そのことを解き明かしたダニエルのことばが、44節、45節に、

この王たちの時代に、天の神は一つの国を起こされます。その国は永遠に滅ぼされることがなく、その国は他の民に渡されず、かえってこれらの国々をことごとく打ち砕いて、絶滅してしまいます。しかし、この国は永遠に立ち続けます。あなたがご覧になったとおり、一つの石が人手によらずに山から切り出され、その石が鉄と青銅と粘土と銀と金を打ち砕いたのは、大いなる神が、これから後に起こることを王に知らされたのです。その夢は正夢で、その解き明かしも確かです。

と記されています。
 ネブカデネザルが見た夢に出てくる巨大な像は、人の手によって造られた偶像です。それは、その素材の違う四つの部分によって代表的に表されている、この世で興っては消滅していく国々を指し示して0います。これらの四つの国によって代表的に示されている、この世で興っては消滅していく国々は、次第にその質が悪いものになっていき、最後に最も破壊的な国が興ります。40節に、

第四の国は鉄のように強い国です。鉄はすべてのものを打ち砕いて粉々にするからです。

と記されているとおり、その第四の国はその素材である「鉄」によって象徴されるように、すべてを破壊するものです。また、7章に記されている、ダニエルの見た幻においては、7節に、第四の獣のことが、

それは恐ろしく、ものすごく、非常に強くて、大きな鉄のきばを持っており、食らって、かみ砕いて、その残りを足で踏みつけた。これは前に現れたすべての獣と異なり、十本の角を持っていた。

と記されています。この国は「十本の角」によって象徴的に示されている強大な権力を持ち、「大きな鉄のきば」によって象徴的に示されている徹底的な破壊を特徴としています。このことは、この第四の国が、洪水前の「暴虐」によって特徴づけられる歴史と文化を生み出したレメクの帝国に近づいていることを思わせます。その意味で、これは、この世においては、国々が次々と興っては過ぎ去っていく間に、洪水前の人類の歴史をとおして神さまが示された、人の罪の現実が、よりあらわになっていくことを示しています。
 これに対して、2章の「人手によらずに切り出され」た「一つの石」(「石」の単数形)は、先の巨大な像と素材が異なっています。ダニエルは、これは「天の神」が興される「一つの国」(「国」の単数形)のことであると解き明かしています。それで、この「一つの石」は、あの巨大な像の、異なる金属を素材とする四つの部分が表している、四つの国とは違う特質をもっているということになります。それが、どのような特質をもっているかは、具体的に示されてはいませんが、四つの国が経済的、軍事的な力を積み上げることによって築き上げた強大な権力に基づく、破壊的な国、「暴虐」によって特徴づけられる歴史と文化を生み出す国であることと対比されるものです。
 これは、また、いくつかの部分に分かれていない「一つの石」です。それで、これは、あの四つの部分によって構成されている巨大な像と対比されます。四つの国によって代表的に示されているこの世の国々は、次々と興っては過ぎ去っていきます。しかし、「人手によらずに切り出され」た「一つの石」が表している国は一つの国であり、過ぎ去ることはありません。ダニエルは、「この国は永遠に立ち続け」ると解き明かしています。

 ダニエル書7章9節ー14節には、この「人手によらずに切り出され」た「一つの石」が表している国について、ダニエルが見た幻のことが記されています。このダニエルが見た幻のことは、すでに詳しくお話ししましたので、ここでは、その最後の部分である13節、14節に注目したいと思います。そこには、

私がまた、夜の幻を見ていると、
 見よ、人の子のような方が天の雲に乗って来られ、
 年を経た方のもとに進み、その前に導かれた。
 この方に、主権と光栄と国が与えられ、
 諸民、諸国、諸国語の者たちがことごとく、
 彼に仕えることになった。
 その主権は永遠の主権で、過ぎ去ることがなく、
 その国は滅びることがない。

と記されています。
 この国は「人の子のような方」が「年を経た方」として表されている神さまから「主権と光栄と国」受けることによって確立される国です。
 ご存知のように、イエス・キリストは、しばしばご自身のことを「人の子」と呼ばれました。それは、ダニエルが幻のうちに見た「人の子のような方」がイエス・キリストであられることを示しています。「メシヤ」ということばは、ギリシャ語では「キリスト」ですが、イエス・キリストの時代のユダヤ社会では、このことばには、政治的な意味合いがついてしまっていました。メシヤの力によってローマ帝国を打ち破り、地上にモーセ律法を基盤とした、ユダヤ人を中心とするメシヤの国を設立するというのです。イエス・キリストはそのような政治的な意味合いのついていない「人の子」という称号をお用いになりました。
 このダニエルが見た幻で注目したいのは、

 諸民、諸国、諸国語の者たちがことごとく、
 彼に仕えることになった。

ということです。ここで「仕える」と訳されていることば(アラム語・ペラフ)は、「人の子のような方」について記している、ここと27節以外では、神に仕えることとして用いられています(3章12節、14節、18節、28節、6章16節、20節)。[KBでは、「礼拝する」を表すセギドと並行して用いられ、「神に『仕える』」としています。]ですから、これは、「諸民、諸国、諸国語の者たちがことごとく」「人の子のような方」に仕え、この方を礼拝することを意味していると考えられます。その意味で、この「人の子のような方」は「年を経た方」として表されている神さまと区別されつつ、神として礼拝をお受けになる方です。
 また、ここに出てくる「諸民、諸国、諸国語の者たち」ということばは、このほか、3章4節、7節、29節、4章1節、5章19節に出てきて、バビロニア帝国のすべての民を表しています。また、6章25節ではメディアとペルシアのすべての民を表しています。「諸民、諸国、諸国語の者たち」がバビロニアやメディア・ペルシアという帝国によって統一されていたのですが、それも一時的なものでした。「諸民、諸国、諸国語の者たち」が真の意味で、一つに結ばれるのは、「人の子のような方」の御国においてです。ちなみに、このことばは、黙示録5章9節の「あらゆる部族、国語、民族、国民」、7章9節の「あらゆる国民、部族、民族、国語」、10章11節の「もろもろの民族、国民、国語、王たち」、11章9節の「もろもろの民族、部族、国語、国民」、13章7節の「あらゆる部族、民族、国語、国民」、14章6節の「あらゆる国民、部族、国語、民族」、17章15節の「もろもろの民族、群衆、国民、国語」に受け継がれています。
 これらのことばにおいては、「諸国語」、「もろもろの国語」(「国語」の複数形)あるいは「あらゆる国語」が出てきます。これは、バベルでの出来事を思い起こさせます。いずれにしましても、「諸民、諸国、諸国語の者たち」が散らされたのは、バベルにおいてです。その後、後の時代のバベルであるバビロンを初めとして、地上のあらゆる帝国が、この世の権力を行使して、「諸民、諸国、諸国語の者たち」を統一しようとしました。しかし、それは一時的なものでした。やはり、「諸民、諸国、諸国語の者たち」が、真の意味で、一つに結ばれるのは、「人の子のような方」の御国においてです。
 先ほど、これまでお話ししたことの復習においてお話ししましたように、神さまは洪水後の人類の歴史が存続するように、基本的に二つのことを備えてくださいました。それには、明確な目的があります。それは「人の子のような方」の成就としてきてくださった、永遠の神の御子イエス・キリストにおいて、贖いの御業が成就し、「諸民、諸国、諸国語の者たち」の中から召された人々が、罪の贖いにあずかって、「人の子のような方」の御国に入れていただき、主を礼拝する者として歩むようになるためのことです。
 このことは、今ここで、御子イエス・キリストのみなによって血かを礼拝している私たちの間に実現しています。私たちは「諸民、諸国、諸国語の者たち」の中から召され、御子イエス・キリストの贖いの御業にあずかって、「人の子のような方」の御国に入れていただいています。それで、今このように、主の栄光の御臨在の御前に出でて、造り主である神さまを主として礼拝しています。


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