黙示録講解

(第57回)


説教日:2012年1月8日
聖書箇所:ヨハネの黙示録1章1節ー8節
説教題:すぐに起こるはずの事を(55)


 黙示録1章1節に出てきます「すぐに起こるはずの事」ということばは、黙示録に記されていることを全体的に要約するものです。このことばは旧約聖書のダニエル書2章28節に記されている、

しかし、天に秘密をあらわすひとりの神がおられ、この方が終わりの日に起こることをネブカデネザル王に示されたのです。

ということばの中に出てくる「終わりの日に起こること」ということばを背景として用いられています。このことばは、バビロンの王ネブカデネザルが見た夢について、ダニエルがネブカデネザルに語ったことばです。
 黙示録はこのときから約700年ほど後に記されました。ダニエルの時代において「終わりの日に起こる事」として示されたことが、黙示録の記された時代においては「すぐに起こるはずの事」となっていました。
 ダニエル書2章に記されている、ネブカデネザルが見た夢のことをまとめておきます。ネブカデネザルは「一つの大きな像」を見ました。それは四つの部分から成り立っています。ダニエルの解き明かしによりますと、純金の頭はネブカデネザル、すなわちバビロニアのことです。その次に興る国は、銀の胸と両腕で表されている国で、金の頭で表されているバビロニア「より劣る」ものです。そして、その後に、「青銅の第三の国」が興ります。その素材からして、この国は、その前の、銀の国より劣るということになります。これらの国のことは簡単に記されています。
 第四の国は「すねは鉄、足は一部が鉄、一部が粘土」で表されています。41節に「それは分裂した国のことです」と記されていますように、この第四の国の特徴は分裂です。鉄はその強度において、金や銀や青銅にまさるものです。けれども、その強さは徹底的な破壊をもたらす強さであって、国家として優れているという意味ではありません。
 ネブカデネザルの見た夢と、それについてのダニエルの解き明かしをとおして示されている四つの国は、終わりの日に至るまで、次々と興っては過ぎ去っていく、この世の国々を代表的に表していると考えられます。聖書の中では、「四」は完全数の一つですので、全体を代表するために用いられることがあります。
 さらに、これら四つの国は、その質がだんだんと悪くなっています。そして、最後に最も破壊的な国が興ってくることが示されています。これによって、この世の国々が歴史とともに、より悪いものとなっていくことが示されています。もちろん、それはこの世の尺度においてより悪いものという意味ではなく、神さまがご覧になったときに、より悪いものであるという意味です。
 これと同じことは、ダニエル書7章に記されている、ダニエルが見た幻の中に出てくる「海から上がって来た」四つの獣をとおして示されている四つの国についても当てはまります。第一の獣はバビロニアですが、その後の三つの獣は、だんだんと、どう猛さ、凶暴さを増していき、第四の獣において頂点に達しています。
 ネブカデネザルが見た夢においては、これら四つの国を表すものは巨大な像で、ネブカデネザルにとっては神に当たるものでした。その同じものが、ダニエルの幻においては、海から上って来た獣として見えていました。そして、このダニエルが見た四つの獣が黙示録13章1節以下に記されています、海から上って来た獣につながっていきます。その獣は、ダニエルが見た四つの獣を総合するような獣です。


 前回と前々回は、これら四つの国をとおして示された、次々と興っては過ぎ去っていくこの世の国々が、だんだんと、その凶悪さを増していくことの背景となっていることをお話ししました。そのために取り上げたのは、神のかたちに造られた人が造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまってから、ノアの時代に至るまでの歴史でした。
 創世記6章5節に、

主は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。

と記されていますように、ノアの時代には、人の内面的な本性の腐敗が極まってしまいました。そして、11節、12節に、

地は、神の前に堕落し、地は、暴虐で満ちていた。神が地をご覧になると、実に、それは、堕落していた。すべての肉なるものが、地上でその道を乱していたからである。

と記されていますように、罪による本性の腐敗が極まっってしまった人が造り出した文化は「暴虐」によって特徴づけられる文化でした。
 このような「暴虐」によって特徴づけられる文化を生み出した存在は、アダムからカインを通って7代目に記されているレメクであったと考えられます。もちろん、その時代の人々がすべて、本性の腐敗を極まらせてしまい、暴虐で地を満たしていたのですが、そのような時代状況を生み出すうえで決定的な役割を果たしたのが、レメクであるということです。
 創世記4章23節には、

 私の受けた傷のためには、ひとりの人を、
 私の受けた打ち傷のためには、
 ひとりの若者を殺した。

というレメクのことばが記されています。
 レメクは、自分が受けた一つの傷のために、その人を殺したことを誇っています。これは、レメクが経済的、軍事的な力を背景として、強大な権力を保持していたことの現れであると考えられます。22節では、レメクの子の一人であるトバル・カインは、「青銅と鉄のあらゆる用具の鍛冶屋であった」と言われています。トバル・カインは農耕文化において、農耕器具の開発によって富をもたらしたばかりでなく、軍事的に武具を開発したことによって、父であるレメクの権力を強大なものとすることを支えたと考えられます。
 さらに、24節には、

 カインに七倍の復讐があれば、
 レメクには七十七倍。

という、レメクのことばが記されています。主はアベルを殺したカインのいのちを守ってくださるために、カインに復讐する者に対して「七倍の復讐」をされると宣言してくださいました。レメクはこれを取り上げて、それをあざけっています。自分には神の復讐にまさる復讐ができるし、もはや神などいらないと豪語しています。
 このレメクの帝国において、人の本性の腐敗による悪が極まり、暴虐が地を満たしてしまうという、ノアの時代の時代状況が生み出されていったと考えられます。
 このような、人類の堕落後からノアの時代の悪と暴虐が徹底的なものとなってしまうに至る歴史の流れに対して、それとは別の歴史の流れを造り出す可能性がありました。それは、ヤハウェ礼拝者たちの存在です。先ほどのレメクについての記述の後の、4章26節には、

セツにもまた男の子が生まれた。彼は、その子をエノシュと名づけた。そのとき、人々は主の御名によって祈ることを始めた。

と記されています。アダムからセツを通って3代目のエノシュが生まれたころ、

 人々は主の御名によって祈ることを始めた。

と記されています。これは、契約の神である主、ヤハウェを礼拝する人々の存在が社会現象として認められるほどになっていたことを示しています。ここに、人々がヤハウェを礼拝することを中心とした文化を造る歴史の流れが始まっています。けれども、この流れは時代とともに失われてしまって、ノアの時代に、ヤハウェを礼拝するのはノアとその家族だけになってしまいました。
 このようにして、ノアの時代には、人の本性の腐敗による悪が極まり、暴虐が地を満たしてしまうという状態になってしまいました。それで、神さまは大洪水によるさばきを執行して、それまでの人類が築いてきた歴史と文化をおさばきになりました。その意味において、これはその時代だけでなく、その時代に至るまでの人類の歴史全体をさばく終末的なさばきです。その時代に至るまでの人類の歴史は、主の御前に過ぎ去るべき、空しい歴史であったのです。
 これらのことによって、神さまは人類の歴史の中でただ一度だけ、一般恩恵に基づく御霊の啓発的な、また、抑止的なお働きがないなら、人類がどのような事態になるかを、実際の歴史を通してお示しになりました。人の罪は、どんどん、その腐敗の度合いを深めていって、ついには、神さまがそれ以上その腐敗を放置されるなら、神さまの聖さが問われることになるというほどになってしまうということです。

 神さまは大洪水によるさばきを執行されたとき、ノアとその家族たち、さらには、ノアとともにいた生き物たちのために、箱舟を備えてくださり、彼らを大洪水によるさばきから救い出してくださいました。そのノアも契約の神である主、ヤハウェの一方的な恵みによって、ヤハウェを礼拝する者として歩むことができました。6章8節に、

 しかし、ノアは、主の心にかなっていた。

と記されているみことばは、直訳では、

 しかし、ノアは、主の御目の中に恵みを見ていた。

ということで、ノアが主の恵みを「得ていた」(CDCH)ことを意味しています。
 もしこのときノアが主の一方的な恵みにあずかって残されることがなかったとしたら、どうなっていたことでしょう。人類の歴史は、そこで終わっていたはずです。その時代におおいては、ヤハウェを礼拝するたった一つの家族が、暴虐によって全人類を掌握しているレメクの帝国と、福音の真理をめぐる霊的な戦いをしていました。そして、ノアとその家族が契約の神である主の恵みのうちを歩み続けることによって、真の意味での、歴史を造り、文化を造っていたのです。
 神さまは箱舟から出てきたノアとその息子たちに、洪水後の世界の歴史と文化を造る使命を更新してくださいました。そのことが、創世記9章1節ー7節に記されています。これは、1節に、

それで、神はノアと、その息子たちを祝福して、彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地に満ちよ。」

と記されていますように、人のいのちへの祝福のことばで始まっています。そして、7節に、

 あなたがたは生めよ。ふえよ。
 地に群がり、地にふえよ。

と記されていますように、人のいのちへの祝福のことばで終わっています。このように、洪水後の人類の歴史の出発点において、神さまは人のいのちへの祝福を強調してくださっています。
 このような、神さまの人のいのちへの祝福のことばに挟まれるようにして、5節、6節には、

わたしはあなたがたのいのちのためには、あなたがたの血の価を要求する。わたしはどんな獣にでも、それを要求する。また人にも、兄弟である者にも、人のいのちを要求する。
 人の血を流す者は、
 人によって、血を流される。
 神は人を神のかたちに
 お造りになったから。

と記されています。それで、この神さまのみことばも、人のいのちへの祝福の実現にかかわるみことばであると考えられます。
 ノアの時代の大洪水によるさばきは、やがて来たるべき終末的なさばきの「地上的なひな型」でした。箱舟による救いも、その終末的なさばきからの救いの「地上的なひな型」でした。それらには「地上的なひな型」としての限界があります。ですから、人の罪はまだ贖われていませんでしたし、人の本性の腐敗も聖められてはいませんでした。洪水後の世界においては、なおも、人の罪は残っています。その罪は、人類の堕落後からノアの時代に至るまでの期間に、その腐敗の度合いを深めて徹底的なものとなり、この地を暴虐で満たすほどになったものです。
 そのような状況において、神さまは人類の歴史が、再びその罪の腐敗を極まらせて、終末的なさばきを招くことがないように、二つの備えをなしてくださいました。その一つが、先ほど引用しました、5節、6節に記されています、神さまのみことばです。これがどのような意味をもっているかは、先週お話ししました。
 ここで神さまは神のかたちに造られた人のいのちの尊厳性を守っておられます。神さまはまず、

わたしはあなたがたのいのちのためには、あなたがたの血の価を要求する。わたしはどんな獣にでも、それを要求する。また人にも、兄弟である者にも、人のいのちを要求する。

と言われて、ご自身が人のいのちの尊厳性を守られることを明らかにされました。その上で、

 人の血を流す者は、
 人によって、血を流される。
 神は人を神のかたちに
 お造りになったから。

と言われていますように、ご自身が神のかたちに造られた人のいのちの尊厳性を守られるために、人をお用いになることを明らかにされました。もちろん、これは私的な復讐を許すものではありません。公的で社会的な権威がその役割を担うべきことを明らかにされたものです。この点は、後ほどお話しすることとかかわっていますので、心に留めておいてください。
 これは、4章23節に記されていた、

 私の受けた傷のためには、ひとりの人を、
 私の受けた打ち傷のためには、
 ひとりの若者を殺した。

というレメクのことばと対比されます。すでにお話ししましたように、レメクはその時代の権力者であったと考えられます。その社会的な権威を委ねられた者自身が、神のかたちに造られた人のいのちの尊厳性をいとも簡単に損なってしまっていたばかりか、そのことを誇りとして、神である主を侮っていたのです。
 9章5節、6節に記されています、神のかたちに造られた人のいのちの尊厳性を守ってくださる神さまのみことばが実現するためには、ただ社会的な権威を委ねられた者たちが立てられるだけでは十分ではありません。というのはレメクのような権力者もありえるからです。それで、神さまが一般恩恵に基づく御霊のお働きによって、人々が、神のかたちの栄光と尊厳性に当たるもの、今日のことばで言えば、人権の尊重に当たるもの、人格的な存在としての人のいのちの尊さや、良心の自由の尊さなどを自覚し、それを守らなければならないという価値観をもつことができるようにしてくださる必要があります。
 そして、実際に、9章8節ー17節に記されています、ノアたちに与えられた契約とともに、そのような一般恩恵に基づく御霊の啓発的なお働きが備えられたと考えられます。ノアたちに与えられた契約の中心は、11節に、

わたしはあなたがたと契約を立てる。すべて肉なるものは、もはや大洪水の水では断ち切られない。もはや大洪水が地を滅ぼすようなことはない。

と記されています。
 もちろん、人が、再び、洪水前の時代のように、自らの本性を極みまで腐敗させ、暴虐で地を満たしてしまい、神のかたちに造られた人の栄光と尊厳性を徹底的に損ない、神さまの聖さを冒してしまうようなことになれば、神さまは終末的なさばきを執行されます。ですから、この契約においては、神さまがそのような事態に至らないようにと、一般恩恵に基づく御霊の啓発的なお働きを備えてくださったと考えられます。

 神さまのもう一つの備えは、バベルにおける神さまのさばきの執行です。11章1節ー9節には、

さて、全地は一つのことば、一つの話しことばであった。そのころ、人々は東のほうから移動して来て、シヌアルの地に平地を見つけ、そこに定住した。彼らは互いに言った。「さあ、れんがを作ってよく焼こう。」彼らは石の代わりにれんがを用い、粘土の代わりに瀝青を用いた。そのうちに彼らは言うようになった。「さあ、われわれは町を建て、頂が天に届く塔を建て、名をあげよう。われわれが全地に散らされるといけないから。」そのとき主は人間の建てた町と塔をご覧になるために降りて来られた。主は仰せになった。「彼らがみな、一つの民、一つのことばで、このようなことをし始めたのなら、今や彼らがしようと思うことで、とどめられることはない。さあ、降りて行って、そこでの彼らのことばを混乱させ、彼らが互いにことばが通じないようにしよう。」こうして主は人々を、そこから地の全面に散らされたので、彼らはその町を建てるのをやめた。それゆえ、その町の名はバベルと呼ばれた。主が全地のことばをそこで混乱させたから、すなわち、主が人々をそこから地の全面に散らしたからである。

と記されています。
 1節には、

 さて、全地は一つのことば、一つの話しことばであった。

と記されています。これは、すべての人が一つの権力の下にあって統制されていたことを示しています。そのことは、10章8節ー10節に、

クシュはニムロデを生んだ。ニムロデは地上で最初の権力者となった。彼はのおかげで、力ある猟師になったので、「のおかげで、力ある猟師ニムロデのようだ」と言われるようになった。彼の王国の初めは、バベル、エレク、アカデであって、みな、シヌアルの地にあった。

と記されていることからうかがわれます。
 10節に、

彼の王国の初めは、バベル、エレク、アカデであって、みな、シヌアルの地にあった。

と記されていることから、バベルで起こったことは、ニムロデの帝国のことであることが分かります。
 8節では、

 ニムロデは地上で最初の権力者となった。

と言われています。この場合の「権力者」ということば(ギッボール)は、戦いにおける「強者」、「勇者」、「強い戦士」を表します。このことばは、9節で、ニムロデのことが「力ある猟師」(ギッボール・ツァイド)と言われているときの「力ある」と訳されていることばでもあります。このことばは、洪水前のノアの時代のことを記している6章4節に、

神の子らが、人の娘たちのところに入り、彼らに子どもができたころ、またその後にも、ネフィリムが地上にいた。これらは、昔の勇士であり、名のある者たちであった。

と記されている中で「ネフィリム」を説明する「勇士」を表しています。この6章4節では、この「勇士」は「名のある者たちであった」と言われています。それは、11節で、

 地は、神の前に堕落し、地は、暴虐で満ちていた。

と言われている時代において「名のある者たちであった」ということです。ですから、彼らこそ、

 地は、神の前に堕落し、地は、暴虐で満ちていた。

と言われているような時代状況を生み出した「張本人」であったと考えられます。ニムロデは、このような存在とのつながりを思わせる権力者でした。もちろん、それは血筋のつながりではなく、権力の特質が同質であるというつながりです。
 「最初の権力者」であったニムロデについては「のおかげで、力ある猟師」であったことが強調されています。この「のおかげで」と訳されたことばは、直訳では「の御前に」という言い方ですが、このことばについては、理解の仕方が分かれています。おそらく、新改訳の理解でいいのではないかと思われますが、この理解は、ニムロデも、契約の神である主、ヤハウェによって立てられているということを示しています。このことばをそのように理解しなくても、この世の権力者が契約の神である主によって立てられていることは、みことばが教えていることです(ローマ人への手紙13章1節)。先ほどお話ししましたように、洪水後の世界の「権力者」は、本来、神さまの、

 人の血を流す者は、
 人によって、血を流される。
 神は人を神のかたちに
 お造りになったから。

というみことばに示されているみこころを行う、神さまの「しもべ」として立てられたはずです。しかし、ニムロデはそのような神さまのみこころを実現する権力者ではありませんでした。
 ニムロデの帝国の状況を記している11章3節には、

彼らは互いに言った。「さあ、れんがを作ってよく焼こう。」彼らは石の代わりにれんがを用い、粘土の代わりに瀝青を用いた。

と記されています。ここには、彼らが手近にあって、すぐに手に入る材料の代わりに自分たちが開発した建築材料によって建物を建てるようになったことが記されています。しかもそれは、天日で乾燥させたレンガではなく、焼いて強度を増したレンガでした。このような「技術革新」によって都市が作られ、「頂が天に届く塔」を建てることが可能になり、それがまた、人間の高ぶりを助長するという悪循環が生まれました。
 人々がバベルに塔を建てようとした動機を記している4節には、

そのうちに彼らは言うようになった。「さあ、われわれは町を建て、頂が天に届く塔を建て、名をあげよう。われわれが全地に散らされるといけないから。」

と記されています。ここで、

 名をあげよう。

と訳されていることばは、文字通りには、

 われわれ自身のために名を成そう。

というような言い方です。聖書の中では、ここに記されていることのほかは、自らその「名を成す」ということは、主ご自身にのみ当てはめられています。たとえば、イザヤ書63章12節には、

 その輝かしい御腕をモーセの右に進ませ、
 彼らの前で水を分け、永遠の名を成し、

と記されています。ですから、バベルにおいて、人々は神さまに対抗する形で自ら名を成そうとしたのです。
 このように、バベルにおいては、強大な権力によって統一されているニムロデの帝国が、神さまに対して高ぶって、神さまの御前に堕落の道を突き進んでしまいました。それは、やがて洪水前のノアの時代のように、神さまの最終的なさばきを招くに至る道でした。神さまは、人類が再びそのような状態になって滅びることがないようにと、人々のことばを混乱させ、人々を地の面に散らされました。
 全人類が一つとなって堕落の道を突き進んで、本性の腐敗を極まらせてしまい、暴虐で地を満たすようになるよりは、お互いに対立しながら牽制し合い、一つの国が腐敗をきわめて弱体化すると、別の国が興ってこれを倒し、新興の国としての規律を保って歩むようになるということを繰り返したほうが、罪の升目を満たして、神である主の最終的なさばきを招くに至る可能性が低くなるわけです。
 このような、神さまの備えによって、この世の国々が次々と興っては、過ぎ去っていくという、歴史が始まっています。これが、ダニエル書2章や7章に出てくる四つの国によって代表的に示されている、終わりの日に至るまで、この世の国々が次々と興っては、過ぎ去っていくということの背景にあります。


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