黙示録講解

(第56回)


説教日:2012年1月1日
聖書箇所:ヨハネの黙示録1章1節ー8節
説教題:すぐに起こるはずの事を(54)


 先主日は降誕節の礼拝となりましたので、黙示録からのお話はお休みしました。本主日は2012年の新年礼拝をささげていますが、黙示録からのお話を続けたいと思います。一週空きましたので、前回までお話ししたことを補足しながら、復習して、お話を進めていきます。
 これまで、黙示録1章1節に出てきます「すぐに起こるはずの事」ということばに関連していろいろなことをお話ししてきました。この「すぐに起こるはずの事」ということばは、黙示録に記されていることを全体的に要約するものです。このことばは旧約聖書のダニエル書2章28節に記されている、ダニエルがバビロンの王ネブカデネザルが見た夢についてネブカデネザルに語ったことばの中に出てくる「終わりの日に起こること」ということばを背景として用いられています。
 ダニエル書2章1節には、ネブカデネザルが夢を見たのは「ネブカデネザルの治世の第二年」であると記されています。この「ネブカデネザルの治世の第二年」は紀元前603/4年ということになりますが、この「ネブカデネザルの治世の第二年」ということばには問題がありますので、いろいろな見方があります。いずれにしましても、それは紀元前600年のほんの少し前のことであると考えられます。
 黙示録が記された年代についても、意見は分かれていますが、おそらく、81年ー96年のドミティアヌス帝の時代であったと考えられます。
 ダニエルの時代において「終わりの日に起こる事」と言われていたことが、それから700年ほど後の、黙示録の記された時代においては「すぐに起こるはずの事」となっているということです。
 ダニエル書2章31節ー35節には、ネブカデネザルが見た夢がどのようなものであったかを示したダニエルのことばが記されています。31節ー33節には、

王さま。あなたは一つの大きな像をご覧になりました。見よ。その像は巨大で、その輝きは常ならず、それがあなたの前に立っていました。その姿は恐ろしいものでした。その像は、頭は純金、胸と両腕とは銀、腹とももとは青銅、すねは鉄、足は一部が鉄、一部が粘土でした。

と記されています。
 この後の36節ー45節には、このネブカデネザルが見た夢を解き明かしたダニエルのことばが記されています。37節、38節では、純金の頭がネブカデネザル、すなわちバビロニアのことであるということを示しています。次に、39節前半では、銀の胸と両腕で表されている国が興るけれど、それは、金の頭で表されているバビロニア「より劣る」と言われています。そして、39節後半には、「青銅の第三の国」が興ると言われています。この国は、その前の、銀の国より劣るということになります。
 これら二つの国のことは39節前半と後半に記されるほど、簡単に記されていますが、「すねは鉄、足は一部が鉄、一部が粘土」と言われている第四の国については、40節ー43節の四つの節にわたって、その解き明かしが記されています。ですから、このネブカデネザルが見た夢に出てくる巨大な像をとおして示されている四つの国においては、第四の国が強調されています。
 この第四の国の素材は鉄と粘土です。この第四の国の素材は粘土でもあります。この第四の国の特徴は分裂です。確かに、鉄はその強度において、金や銀や青銅にまさるものです。けれども、40節に、

第四の国は鉄のように強い国です。鉄はすべてのものを打ち砕いて粉々にするからです。その国は鉄が打ち砕くように、先の国々を粉々に打ち砕いてしまいます。

と記されているように、その強さは徹底的な破壊をもたらす強さです。
 ネブカデネザルの見た夢についてのダニエルの解き明かしをとおして示されている四つの国は、終わりの日に至るまで次々と興っては過ぎ去っていく、この世の国々を代表的に表していると考えられます。
 さらに、これら四つの国によって示されているのは、「頭は純金」、「胸と両腕とは銀」、「腹とももとは青銅」、そして、「すねは鉄、足は一部が鉄、一部が粘土」というように、その素材の質がだんだんと悪くなっていくことです。そのようにして、最後に最も破壊的な国が興ってくるようになっています。これは、歴史が進むにつれて、より良いものが現れてくるという一般的な考え方と違っています。ここでは、この世の国々が歴史とともに、より悪いものとなっていくことが示されています。
 これと同じことが、ダニエル書7章に記されている、ダニエルが見た幻の中に出てくる「海から上がって来た」四つの獣をとおして示されている四つの国についても当てはまります。第一の獣はバビロニアですが、その後の三つの獣は、だんだんと、どう猛さ、凶暴さを増していき、第四の獣において頂点に達しています。そして、このダニエルが見た幻の解き明かしにおいても、第四の獣によって表されている国についての描写がいちばん長く、この国が強調されています。
 このダニエルが見た幻において示されている「海から上がって来た」四つの獣が背景となって、黙示録13章1節に、

また私は見た。海から一匹の獣が上って来た。これには十本の角と七つの頭とがあった。その角には十の冠があり、その頭には神をけがす名があった。

と記されている、海から上って来た獣が記されています。


 前回は、これら四つの国をとおして示された、次々と興っては過ぎ去っていくこの世の国々が、だんだんと、その凶悪さを増していくことの背景となっていることをお話ししました。そのために取り上げたのは、神のかたちに造られた人が造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまった後の歴史がだんだんと腐敗の度を増していき、ノアの時代にその極みに至ってしまうようになったことでした。
 ノアの時代のことを記している創世記6章5節には、

は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。

と記されています。「みな、いつも悪いことだけに」ということばによって、人の悪が極まってしまっていたことが示されています。これは「その心に計ることが」ということばに示されているように、人の内面の状態、人の本性の腐敗のことを示しています。
 その時代の時代状況を記している11節、12節には、

地は、神の前に堕落し、地は、暴虐で満ちていた。神が地をご覧になると、実に、それは、堕落していた。すべての肉なるものが、地上でその道を乱していたからである。

と記されています。

 地は、暴虐で満ちていた。

ということばに示されていますように、人の罪による本性の腐敗が極まったときに、人が造り出した文化は「暴虐」によって特徴づけられる文化でした。もし神のかたちに造られた人が造り主である神さまに対して罪を犯すことがなかったとしたら、人は神のかたちの本質的な特質である「愛」によって特徴づけられる文化を造り出していたはずです。地には愛が満ちていたはずです。しかし、実際には「地は、暴虐で満ちていた」と言われています。
 このような状態は、人類の堕落後からノアの時代に至るまでの歴史の中で、罪による人の本性の腐敗がだんだんと深くなっていった結果であると考えられます。そのことには二つのことがかかわっています。
 一つは、アダムからカインを通って7代目に記されているレメクのことばに表されている価値観です。4章23節、24節には、

 私の受けた傷のためには、ひとりの人を、
 私の受けた打ち傷のためには、
 ひとりの若者を殺した。
 カインに七倍の復讐があれば、
 レメクには七十七倍。

と記されています。レメクは、自分が受けた一つの傷のために、その人を殺したことを誇らかに語っています。このようなことを豪語することができたのは、レメクが経済的、軍事的な力を背景として、強大な権力を掌握していたからにほかなりません。前回は、そのことを示唆するものとして、レメクの子の一人であり「青銅と鉄のあらゆる用具の鍛冶屋であった」と言われている、トバル・カインの存在を取り上げました。彼は農耕器具の開発によって富をもたらしたばかりでなく、軍事器具の開発によって権力を強大なものとすることを助けたと考えられます。
 また、レメクの、

 カインに七倍の復讐があれば、
 レメクには七十七倍。

ということばは、主が、弟アベルを殺して、兄弟たちからの復習を恐れているカインに、

 それだから、だれでもカインを殺す者は、七倍の復讐を受ける。

と宣言してくださったことを受けています。これはカインのいのちを守ってくださるための主の備えです。「七倍」の「」は完全数です。主はカインのために十分な備えをしてくださっています。レメクはこれを意識して、それをあざけっています。主の備えは生ぬるいものであるばかりか、自分にはもはや神などいらないのだというのです。
 このレメクの帝国において、人の本性の腐敗による悪が極まり、暴虐が地を満たしてしまうという、ノアの時代の時代状況が生み出されていったと考えられます。

 ノアの時代の時代状況を生み出したもう一つの背景は、アダムからセツを通ってノアに至る歴史の記録に示されていることです。このレメクについての記述に続く25節、26節には、

アダムは、さらに、その妻を知った。彼女は男の子を産み、その子をセツと名づけて言った。「カインがアベルを殺したので、彼の代わりに、神は私にもうひとりの子を授けられたから。」セツにもまた男の子が生まれた。彼は、その子をエノシュと名づけた。そのとき、人々はの御名によって祈ることを始めた。

と記されています。アダムからセツを通って3代目のエノシュの時代において、

 人々はの御名によって祈ることを始めた。

と記されています。これは、契約の神である主、ヤハウェを礼拝する人々の存在が、いわば社会現象として認められるほどになっていたことを示しています。しかし、ノアの時代には、ヤハウェを礼拝するのはノアとその家族だけになってしまっていました。ヤハウェ礼拝者の家系においては、ヤハウェを礼拝する者がだんだんと失われていったということです。そのようにして、ノアの時代には、人の本性の腐敗による悪が極まり、暴虐が地を満たしてしまうという状態になってしまったのです。
 それで、神さまは大洪水によるさばきを執行して、それまでの人類が築いてきた歴史と文化をおさばきになりました。その意味で、これは終末的なさばきです。もちろん、これは来たるべき終末的なさばきの「地上的なひな型」です。

 これらのことによって、神さまはいくつかのことをお示しになっておられます。まず、そのうちの前回お話ししたことを取り上げます。
 それは、神さまが人類の歴史の中でただ一度だけ、一般恩恵に基づく御霊の啓発的な、また、抑止的なお働きがないなら、人類がどのような事態になるかを、ことばによるだけでなく、歴史の現実を通してお示しになったということです。人の罪は、どんどん、その腐敗の度合いを深めていって、ついには、神さまがそれ以上その腐敗を放置されるなら、神さまの聖さが問われることになるというほどになってしまうということが、歴史の現実として示されたのです。
 けれども、これは、人類の堕落後から、ノアの時代に至るまでに、一般恩恵による御霊のお働きがなかったという意味ではありません。
 創世記3章7節、8節には、

このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った。そこで、彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った。そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神であるの声を聞いた。それで人とその妻は、神であるの御顔を避けて園の木の間に身を隠した。

と記されています。ここに記されている「裸であることへの意識」はアダムとエバのうちに自然と生まれたものというより、一般恩恵による御霊のお働きであると考えられます。というのは、その意識は、エバが善悪の知識の木から取って食べたときではなく、アダムも食べた後に、二人のうちに生まれてきたからです。「ふたりの目は開かれ」たのは、主のお働き、一般恩恵に基づく御霊のお働きによることであると考えられます。ちなみに、8節に記されていることから分かりますように、この「裸であることへの意識」は、ほかの人との間のものである以上に、契約の神である主との間に感じられたものです。
 また、ノアの時代に至るまでの歴史の中で、カインが町を建てていたこと(4章17節)は、そこに文化的な活動がなされ、社会的な権力機構が構築されていたことをうかがわせます。そして、それがヤバル、ユバル、トバル・カインという三人の有能な子をもつレメクにおいて頂点に達したと考えられます。カインとその子孫たちの歴史に文化的な活動があったことが記されていることは、背教してしまった者たちの間においても、一般恩恵による御霊のお働きがあったこと、それゆえに、神のかたちに造られて歴史と文化を造る使命を委ねられた人は、堕落の後にも歴史と文化を造るものであることを示しています。
 けれども、人類の堕落後からノアの時代に至るまでの歴史を支えてくださった、一般恩恵に基づく御霊のお働きは、人類が自らの罪によって本性の腐敗を徹底化する流れを止めるものではなかったのです。
 繰り返しになりますが、これは、人間の罪が実際にどのようなものであるかを、神さまが歴史の事実を通して示してくださるためのことでした。私たちはこのことの前に、身を低くし、これが私たち人間の罪の現実であるということを認めなければなりません。
 ダニエル書に記されている四つの国が歴史とともにその凶暴さを増していくことの根底にも、この人間の罪の現実があります。
 それと同時に、洪水後の時代に生きている人類のためには、神さまがさらに豊かな一般恩恵に基づく御霊のお働きを備えてくださっています。これからそのことを取り上げて、この世の国のことをもう少し考えていきたいと思います。

 ノアの時代の大洪水によるさばきは、歴史の中でただ一度だけ執行された終末的なさばきで、来たるべき終末的なさばきの「地上的なひな型」でした。そのことは、マタイの福音書24章37節ー39節に記されているイエス・キリストの教えや、ペテロの手紙第二・3章3節ー12節に記されているペテロの教えに示されています。その意味では、このさばきは、ただノアの時代の人々だけをさばくものではなく、神のかたちに造られて歴史と文化を造る使命を委ねられた人が、ノアの時代に至るまでに築いてきた歴史と文化をさばきによって清算するものでした。
 また、人だけでなく、生き物たちもさばかれたことは、このさばきが歴史と文化を造る使命に基づくさばきであったことを示しています。生き物たちは歴史と文化を造る使命において、神のかたちに造られた人との一体にあるものとされています。
 神さまはこの時、さらに、もう二つのことを「ひな型」としてお示しになっておられます。
 一つは、大洪水によるさばきという終末的なさばきが執行されたとき、神さまがその一方的な恵みによって箱舟という救いの手段を備えてくださり、ノアとその家族、そして、ノアとともにいる生き物たちを救い出してくださったということです。このことによって、神さまが一方的な恵みによって備えてくださる救いは、世の終わりに執行される終末的なさばきから、ご自身の契約の民を救い出してくださるものであることが示されています。
 もう一つのことは、創世記9章1節ー7節に記されているように、神さまがノアとその家族に対して歴史と文化を造る使命を更新してくださったことに示されています。このことを通して、歴史は終末的なさばきをもって終わってしまうのではなく、終末的なさばきの後の新しい世界の歴史と文化を造る使命は、主の一方的な恵みによって、さばきをとおって救われた主の契約の民によって果たされるものであることが示されています。
 このこととのかかわりで注目したいことがあります。神さまが歴史と文化を造る使命の更新してくださったことを記している9章1ー7節の中の5節、6節には、

わたしはあなたがたのいのちのためには、あなたがたの血の価を要求する。わたしはどんな獣にでも、それを要求する。また人にも、兄弟である者にも、人のいのちを要求する。
 人の血を流す者は、
 人によって、血を流される。
 神は人を神のかたちに
 お造りになったから。

という神さまのみことばが記されています。ここでは、神ご自身が、神のかたちの栄光と尊厳性を守っておられます。
 注目すべきことは、

 人の血を流す者は、
 人によって、血を流される。

と言われているように、神さまが神のかたちの栄光と尊厳性をお守りになるために、人が手段として用いられていることです。これには二つのことがかかわっています。
 第一に、大洪水によるさばきをもたらしてしまった要因です。それは、すでに取り上げましたように、二つありましたが、その一つだけに触れておきます。それは、6章5節に、

は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。

と記されているように、人の罪によって人の本性の腐敗が徹底化してしまったことです。これは、神のかたちに造られた人が、自分自身で、神のかたちとしての栄光と尊厳性を腐敗させてしまったことを意味しています。
 また、11節、12節に、

地は、神の前に堕落し、地は、暴虐で満ちていた。神が地をご覧になると、実に、それは、堕落していた。すべての肉なるものが、地上でその道を乱していたからである。

と記されていますように、神のかたちに造られて歴史と文化を造る使命を委ねられた人が、自らに託された、「地」を荒廃させ、「暴虐」で満たしてしまいました。これは、自分に一つの傷を負わせた者を殺したという、レメクのことばに表されていますように、人のいのちをいのちとも思わない「暴虐」として現れてきていました。洪水前の人の罪による腐敗が徹底してしまった時代を性格づけていたのは、そのような「暴虐」でした。
 神のかたちとしての栄光と尊厳性は、人をご自身のかたちとしてお造りになった神さまの栄光と尊厳性にかかわっていますので、神ご自身がこれを守られます。自ら、神のかたちとしての栄光と尊厳性を徹底的に腐敗させ、損なってしまった人、そして、社会的な価値観において、神のかたちとしての栄光と尊厳性を損い、実際に神のかたちに造られた人の血を流すことが誇りとなってしまっている人に対するさばきが執行されたのも、このことの現れのひとつです。
 洪水後の時代において、神さまが、

 人の血を流す者は、
 人によって、血を流される。

と言われたことは、神ご自身が、神のかたちとしての栄光と尊厳性を守ってくださっているみこころの現れです。そして、「人によって」ということばに示されていますように、そのために、神さまは人を用いてくださるというみこころを明らかにされました。このことから、社会的な権威が神のかたちの尊厳性を守るべきものとして指定されていることを汲み取ることができます。国家はこの社会的な権威の中心にあります。
 第二に、このこととともに考えておかなければならないことがあります。それは、すでにお話ししましたように、洪水前の歴史を通して、人の罪は、どんどん、その腐敗の度合いを深めていって、ついには、神さまがそれ以上その腐敗の徹底化を放置するなら、神さまの聖さが問われることになるというほどになってしまうということが実証されています。そこでは「暴虐」に価値を置く社会的な価値観が生みだされ、それが徹底化していってしまいました。これが造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまった人間の現実です。この状態のままでは、

 人の血を流す者は、
 人によって、血を流される。

という、社会的な権威を通して、神のかたちとしての栄光と尊厳性を守ってくださるという神さまのみこころも、早晩、踏みにじられてしまうことになったことでしょう。このことを考えますと、神さまは、

 人の血を流す者は、
 人によって、血を流される。

というみことばを現実のものとしてくださるために、洪水前より豊かな一般恩恵に基づいて、御霊のお働きに、より豊かな啓発的、あるいはまた、抑止的なお働きを加えてくださったと考えられます。
 それによって、人々が、神のかたちとしての栄光と尊厳性に当たるもの、すなわち、今日のことばで言えば、人権の尊重に当たるもの、人格的な存在としての人のいのちの尊さや、良心の自由の尊さなどを自覚し、それを守らなければならないという価値観をもつことができるようにしてくださったということです。
 もちろん、これは、造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまった状態の世界においては、常に脅かされ続けます。しかし、このような神さまの備えによって、人類は自らの罪の腐敗を極まらせることがないように、したがって、最終的なさばきを招いて、途中で歴史が終わってしまうことがないように、支えられ導かれてきたと考えられます。
 人類の歴史が終わってしまうことがないようにと神さまが備えてくださった備えとしては、もう一つのことが考えられます。それにつきましては、改めてお話しします。


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