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説教日:2012年1月1日 |
前回は、これら四つの国をとおして示された、次々と興っては過ぎ去っていくこの世の国々が、だんだんと、その凶悪さを増していくことの背景となっていることをお話ししました。そのために取り上げたのは、神のかたちに造られた人が造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまった後の歴史がだんだんと腐敗の度を増していき、ノアの時代にその極みに至ってしまうようになったことでした。 ノアの時代のことを記している創世記6章5節には、 主は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。 と記されています。「みな、いつも悪いことだけに」ということばによって、人の悪が極まってしまっていたことが示されています。これは「その心に計ることが」ということばに示されているように、人の内面の状態、人の本性の腐敗のことを示しています。 その時代の時代状況を記している11節、12節には、 地は、神の前に堕落し、地は、暴虐で満ちていた。神が地をご覧になると、実に、それは、堕落していた。すべての肉なるものが、地上でその道を乱していたからである。 と記されています。 地は、暴虐で満ちていた。 ということばに示されていますように、人の罪による本性の腐敗が極まったときに、人が造り出した文化は「暴虐」によって特徴づけられる文化でした。もし神のかたちに造られた人が造り主である神さまに対して罪を犯すことがなかったとしたら、人は神のかたちの本質的な特質である「愛」によって特徴づけられる文化を造り出していたはずです。地には愛が満ちていたはずです。しかし、実際には「地は、暴虐で満ちていた」と言われています。 このような状態は、人類の堕落後からノアの時代に至るまでの歴史の中で、罪による人の本性の腐敗がだんだんと深くなっていった結果であると考えられます。そのことには二つのことがかかわっています。 一つは、アダムからカインを通って7代目に記されているレメクのことばに表されている価値観です。4章23節、24節には、 私の受けた傷のためには、ひとりの人を、 私の受けた打ち傷のためには、 ひとりの若者を殺した。 カインに七倍の復讐があれば、 レメクには七十七倍。 と記されています。レメクは、自分が受けた一つの傷のために、その人を殺したことを誇らかに語っています。このようなことを豪語することができたのは、レメクが経済的、軍事的な力を背景として、強大な権力を掌握していたからにほかなりません。前回は、そのことを示唆するものとして、レメクの子の一人であり「青銅と鉄のあらゆる用具の鍛冶屋であった」と言われている、トバル・カインの存在を取り上げました。彼は農耕器具の開発によって富をもたらしたばかりでなく、軍事器具の開発によって権力を強大なものとすることを助けたと考えられます。 また、レメクの、 カインに七倍の復讐があれば、 レメクには七十七倍。 ということばは、主が、弟アベルを殺して、兄弟たちからの復習を恐れているカインに、 それだから、だれでもカインを殺す者は、七倍の復讐を受ける。 と宣言してくださったことを受けています。これはカインのいのちを守ってくださるための主の備えです。「七倍」の「七」は完全数です。主はカインのために十分な備えをしてくださっています。レメクはこれを意識して、それをあざけっています。主の備えは生ぬるいものであるばかりか、自分にはもはや神などいらないのだというのです。 このレメクの帝国において、人の本性の腐敗による悪が極まり、暴虐が地を満たしてしまうという、ノアの時代の時代状況が生み出されていったと考えられます。 ノアの時代の時代状況を生み出したもう一つの背景は、アダムからセツを通ってノアに至る歴史の記録に示されていることです。このレメクについての記述に続く25節、26節には、 アダムは、さらに、その妻を知った。彼女は男の子を産み、その子をセツと名づけて言った。「カインがアベルを殺したので、彼の代わりに、神は私にもうひとりの子を授けられたから。」セツにもまた男の子が生まれた。彼は、その子をエノシュと名づけた。そのとき、人々は主の御名によって祈ることを始めた。 と記されています。アダムからセツを通って3代目のエノシュの時代において、 人々は主の御名によって祈ることを始めた。 と記されています。これは、契約の神である主、ヤハウェを礼拝する人々の存在が、いわば社会現象として認められるほどになっていたことを示しています。しかし、ノアの時代には、ヤハウェを礼拝するのはノアとその家族だけになってしまっていました。ヤハウェ礼拝者の家系においては、ヤハウェを礼拝する者がだんだんと失われていったということです。そのようにして、ノアの時代には、人の本性の腐敗による悪が極まり、暴虐が地を満たしてしまうという状態になってしまったのです。 それで、神さまは大洪水によるさばきを執行して、それまでの人類が築いてきた歴史と文化をおさばきになりました。その意味で、これは終末的なさばきです。もちろん、これは来たるべき終末的なさばきの「地上的なひな型」です。 これらのことによって、神さまはいくつかのことをお示しになっておられます。まず、そのうちの前回お話ししたことを取り上げます。 それは、神さまが人類の歴史の中でただ一度だけ、一般恩恵に基づく御霊の啓発的な、また、抑止的なお働きがないなら、人類がどのような事態になるかを、ことばによるだけでなく、歴史の現実を通してお示しになったということです。人の罪は、どんどん、その腐敗の度合いを深めていって、ついには、神さまがそれ以上その腐敗を放置されるなら、神さまの聖さが問われることになるというほどになってしまうということが、歴史の現実として示されたのです。 けれども、これは、人類の堕落後から、ノアの時代に至るまでに、一般恩恵による御霊のお働きがなかったという意味ではありません。 創世記3章7節、8節には、 このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った。そこで、彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った。そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神である主の声を聞いた。それで人とその妻は、神である主の御顔を避けて園の木の間に身を隠した。 と記されています。ここに記されている「裸であることへの意識」はアダムとエバのうちに自然と生まれたものというより、一般恩恵による御霊のお働きであると考えられます。というのは、その意識は、エバが善悪の知識の木から取って食べたときではなく、アダムも食べた後に、二人のうちに生まれてきたからです。「ふたりの目は開かれ」たのは、主のお働き、一般恩恵に基づく御霊のお働きによることであると考えられます。ちなみに、8節に記されていることから分かりますように、この「裸であることへの意識」は、ほかの人との間のものである以上に、契約の神である主との間に感じられたものです。 また、ノアの時代に至るまでの歴史の中で、カインが町を建てていたこと(4章17節)は、そこに文化的な活動がなされ、社会的な権力機構が構築されていたことをうかがわせます。そして、それがヤバル、ユバル、トバル・カインという三人の有能な子をもつレメクにおいて頂点に達したと考えられます。カインとその子孫たちの歴史に文化的な活動があったことが記されていることは、背教してしまった者たちの間においても、一般恩恵による御霊のお働きがあったこと、それゆえに、神のかたちに造られて歴史と文化を造る使命を委ねられた人は、堕落の後にも歴史と文化を造るものであることを示しています。 けれども、人類の堕落後からノアの時代に至るまでの歴史を支えてくださった、一般恩恵に基づく御霊のお働きは、人類が自らの罪によって本性の腐敗を徹底化する流れを止めるものではなかったのです。 繰り返しになりますが、これは、人間の罪が実際にどのようなものであるかを、神さまが歴史の事実を通して示してくださるためのことでした。私たちはこのことの前に、身を低くし、これが私たち人間の罪の現実であるということを認めなければなりません。 ダニエル書に記されている四つの国が歴史とともにその凶暴さを増していくことの根底にも、この人間の罪の現実があります。 それと同時に、洪水後の時代に生きている人類のためには、神さまがさらに豊かな一般恩恵に基づく御霊のお働きを備えてくださっています。これからそのことを取り上げて、この世の国のことをもう少し考えていきたいと思います。 ノアの時代の大洪水によるさばきは、歴史の中でただ一度だけ執行された終末的なさばきで、来たるべき終末的なさばきの「地上的なひな型」でした。そのことは、マタイの福音書24章37節ー39節に記されているイエス・キリストの教えや、ペテロの手紙第二・3章3節ー12節に記されているペテロの教えに示されています。その意味では、このさばきは、ただノアの時代の人々だけをさばくものではなく、神のかたちに造られて歴史と文化を造る使命を委ねられた人が、ノアの時代に至るまでに築いてきた歴史と文化をさばきによって清算するものでした。 また、人だけでなく、生き物たちもさばかれたことは、このさばきが歴史と文化を造る使命に基づくさばきであったことを示しています。生き物たちは歴史と文化を造る使命において、神のかたちに造られた人との一体にあるものとされています。 神さまはこの時、さらに、もう二つのことを「ひな型」としてお示しになっておられます。 一つは、大洪水によるさばきという終末的なさばきが執行されたとき、神さまがその一方的な恵みによって箱舟という救いの手段を備えてくださり、ノアとその家族、そして、ノアとともにいる生き物たちを救い出してくださったということです。このことによって、神さまが一方的な恵みによって備えてくださる救いは、世の終わりに執行される終末的なさばきから、ご自身の契約の民を救い出してくださるものであることが示されています。 もう一つのことは、創世記9章1節ー7節に記されているように、神さまがノアとその家族に対して歴史と文化を造る使命を更新してくださったことに示されています。このことを通して、歴史は終末的なさばきをもって終わってしまうのではなく、終末的なさばきの後の新しい世界の歴史と文化を造る使命は、主の一方的な恵みによって、さばきをとおって救われた主の契約の民によって果たされるものであることが示されています。 このこととのかかわりで注目したいことがあります。神さまが歴史と文化を造る使命の更新してくださったことを記している9章1ー7節の中の5節、6節には、 わたしはあなたがたのいのちのためには、あなたがたの血の価を要求する。わたしはどんな獣にでも、それを要求する。また人にも、兄弟である者にも、人のいのちを要求する。 人の血を流す者は、 人によって、血を流される。 神は人を神のかたちに お造りになったから。 という神さまのみことばが記されています。ここでは、神ご自身が、神のかたちの栄光と尊厳性を守っておられます。 注目すべきことは、 人の血を流す者は、 人によって、血を流される。 と言われているように、神さまが神のかたちの栄光と尊厳性をお守りになるために、人が手段として用いられていることです。これには二つのことがかかわっています。 第一に、大洪水によるさばきをもたらしてしまった要因です。それは、すでに取り上げましたように、二つありましたが、その一つだけに触れておきます。それは、6章5節に、 主は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。 と記されているように、人の罪によって人の本性の腐敗が徹底化してしまったことです。これは、神のかたちに造られた人が、自分自身で、神のかたちとしての栄光と尊厳性を腐敗させてしまったことを意味しています。 また、11節、12節に、 地は、神の前に堕落し、地は、暴虐で満ちていた。神が地をご覧になると、実に、それは、堕落していた。すべての肉なるものが、地上でその道を乱していたからである。 と記されていますように、神のかたちに造られて歴史と文化を造る使命を委ねられた人が、自らに託された、「地」を荒廃させ、「暴虐」で満たしてしまいました。これは、自分に一つの傷を負わせた者を殺したという、レメクのことばに表されていますように、人のいのちをいのちとも思わない「暴虐」として現れてきていました。洪水前の人の罪による腐敗が徹底してしまった時代を性格づけていたのは、そのような「暴虐」でした。 神のかたちとしての栄光と尊厳性は、人をご自身のかたちとしてお造りになった神さまの栄光と尊厳性にかかわっていますので、神ご自身がこれを守られます。自ら、神のかたちとしての栄光と尊厳性を徹底的に腐敗させ、損なってしまった人、そして、社会的な価値観において、神のかたちとしての栄光と尊厳性を損い、実際に神のかたちに造られた人の血を流すことが誇りとなってしまっている人に対するさばきが執行されたのも、このことの現れのひとつです。 洪水後の時代において、神さまが、 人の血を流す者は、 人によって、血を流される。 と言われたことは、神ご自身が、神のかたちとしての栄光と尊厳性を守ってくださっているみこころの現れです。そして、「人によって」ということばに示されていますように、そのために、神さまは人を用いてくださるというみこころを明らかにされました。このことから、社会的な権威が神のかたちの尊厳性を守るべきものとして指定されていることを汲み取ることができます。国家はこの社会的な権威の中心にあります。 第二に、このこととともに考えておかなければならないことがあります。それは、すでにお話ししましたように、洪水前の歴史を通して、人の罪は、どんどん、その腐敗の度合いを深めていって、ついには、神さまがそれ以上その腐敗の徹底化を放置するなら、神さまの聖さが問われることになるというほどになってしまうということが実証されています。そこでは「暴虐」に価値を置く社会的な価値観が生みだされ、それが徹底化していってしまいました。これが造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまった人間の現実です。この状態のままでは、 人の血を流す者は、 人によって、血を流される。 という、社会的な権威を通して、神のかたちとしての栄光と尊厳性を守ってくださるという神さまのみこころも、早晩、踏みにじられてしまうことになったことでしょう。このことを考えますと、神さまは、 人の血を流す者は、 人によって、血を流される。 というみことばを現実のものとしてくださるために、洪水前より豊かな一般恩恵に基づいて、御霊のお働きに、より豊かな啓発的、あるいはまた、抑止的なお働きを加えてくださったと考えられます。 それによって、人々が、神のかたちとしての栄光と尊厳性に当たるもの、すなわち、今日のことばで言えば、人権の尊重に当たるもの、人格的な存在としての人のいのちの尊さや、良心の自由の尊さなどを自覚し、それを守らなければならないという価値観をもつことができるようにしてくださったということです。 もちろん、これは、造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまった状態の世界においては、常に脅かされ続けます。しかし、このような神さまの備えによって、人類は自らの罪の腐敗を極まらせることがないように、したがって、最終的なさばきを招いて、途中で歴史が終わってしまうことがないように、支えられ導かれてきたと考えられます。 人類の歴史が終わってしまうことがないようにと神さまが備えてくださった備えとしては、もう一つのことが考えられます。それにつきましては、改めてお話しします。 |
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