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説教日:2011年12月18日 |
このことには、聖書に記されています、契約の神である主の救いとさばきの御業の歴史の一つの時代を背景として理解することができます。それは、大洪水による終末的なさばきが執行された、ノアの時代です。 創世記6章5節には、 主は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。 と記されています。ここでは、「みな」、「いつも」、「悪いことだけに」というように、人の悪が徹底化してしまっていたことが示されています。 創造の御業において、神のかたちに造られた人には、愛といつくしみ、聖さと義、善と真実などの人格的な特性が与えられています。それは、神のかたちに造られた人が歴史と文化を造る使命を果たすことの中で、造り主である神さまの人格的な属性を映し出す存在、その意味で神さまの栄光を現す存在として造られていることを意味しています。 この5節に記されていることは、神のかたちに造られて、そのような栄光と尊厳性を与えられいる人が、自ら、その神のかたちとしての栄光と尊厳性を否定し、損なうものになってしまっていることを意味しています。その意味で、これは、神のかたちに造られた人の内側の本性の腐敗を記しています。 これとともに、そのような本性の腐敗を極まらせてしまった人が造り出している世界のあり方が、11節、12節において、 地は、神の前に堕落し、地は、暴虐で満ちていた。神が地をご覧になると、実に、それは、堕落していた。すべての肉なるものが、地上でその道を乱していたからである。 と記されています。この場合、「地」ということばが繰り返されて強調されていることに注目しますと、「堕落した」と訳されていることば(シャーハト)は「荒廃した」と訳したほうがいいと思われます。 その意味ではこれは創造の御業において神のかたちに造られた人に委ねられた歴史と文化を造る使命の遂行にかかわっています。神のかたちに造られた人が、歴史と文化を造る使命を遂行する中で愛といつくしみ、聖さと義、善と真実などの人格的な特性を現していったなら、「地」には愛といつくしみが満ちていたはずです。しかし、洪水前の時代においては、「地」は「荒廃し」、「暴虐で満ちて」しまいました。 このような状態は、一朝一夕に生み出されるものではありません。これには、ここに至るまでの歴史があったと考えられます。 創世記4章17節ー24節には、カインの子孫のことが記されています。そのうちの19節ー24節には、アダムから数えますと7代目に記されているレメクのことが記されています。その他のカインの子孫のことは17節と18節の二つの節にまとめられており、19節ー24節の6つの節には、レメクのことが記されています。 このように、カインの子孫の中では、最後に記されているレメクのことが最も詳しく記されていて、強調されています。このことは、先ほどの、ダニエル書2章に記されています、四つの国のうち、最後の第四の国がより詳しく記されていて、強調されていることを思い起こさせます。内容的にも、第四の国が最も破壊的な国であったことと符合しています。 創世記4章23節、24節には、 私の受けた傷のためには、ひとりの人を、 私の受けた打ち傷のためには、 ひとりの若者を殺した。 カインに七倍の復讐があれば、 レメクには七十七倍。 という、レメクのことばが記されています。 レメクは、 私の受けた傷のためには、ひとりの人を、 私の受けた打ち傷のためには、 ひとりの若者を殺した。 と豪語しています。「ひとりの人を」と「ひとりの若者を」はそれぞれ単数で表されています。それに対応する「私の受けた傷」(直訳「私の傷」)と「私の受けた打ち傷」(直訳「私の打ち傷」)もそれぞれ単数です。レメクは一つ傷を受けただけで、その人を殺したと言って、誇っているのです。 カインに七倍の復讐があれば、 レメクには七十七倍。 ということばは、14節、15節に記されていることを受けています。カインが主に、 私に出会う者はだれでも、私を殺すでしょう。 と訴えますと、主は、 それだから、だれでもカインを殺す者は、七倍の復讐を受ける とお答えになりました。これはカインのいのちを守ってくださるための主の備えです。レメクは、この主のあわれみによる備えを、生ぬるいものとして、さげすんでいます。自分には神の保護などはいらないと言いつつ、自らを神以上のものであるとしているふしがあります。 このレメクのことばに典型的に示されていますように、レメクの時代には、暴力に基づく支配が強大なものとなっていたと考えられます。そして、暴力を積み上げることこそが価値あることとされるような価値観が生み出されていたと考えられます。 このこととのかかわりで注目されるのは、レメクの子どもたちのことです。19節ー22節にはレメクの二人の妻とその子どもたちのことが記されています。注目したいのは、22節に、 ツィラもまた、トバル・カインを産んだ。彼は青銅と鉄のあらゆる用具の鍛冶屋であった。 と記されていることです。「青銅と鉄のあらゆる用具の鍛冶屋であった」と言われているトバル・カインによって、農耕器具の開発がなされて、経済的な繁栄がもたらされるとともに、武器の開発がなされて強大な権力が出現する基盤となっていったと考えられます。このような強大な経済力や軍事力という基盤に立って、レメクは神さまをも侮るような存在になっていたと考えられます。 このレメクはアダムから数えて7代目に当たります。「7」は完全数で、アダムからレメクに至るまでの歴史が7代でまとめられていると考えられます。これと対応しているのが、5章に記されています、アダムからノアに至るまでの歴史です。こちらは10代にまとめられています。「10」も完全数です。そして、レメクの息子は三人ですし、ノアの息子も三人です。 このように、アダムからカインを通ってレメクに至る歴史と、アダムからセツを通ってノアに至る歴史が同時並行的に存在してることが示されています。そして、ノアの時代の時代状況を記している、6章11節、12節においては、 地は、神の前に堕落し、地は、暴虐で満ちていた。神が地をご覧になると、実に、それは、堕落していた。すべての肉なるものが、地上でその道を乱していたからである。 と記されています。 このことは、レメクにおいて頂点に達した強大な経済力や軍事力を積み上げることによって支配しようとする価値観が、全人類に行き渡ってしまったことを意味しています。これは、今日の、グローバル化された世界の、至る所で猛威を振るっている価値観と相通じるものです。一部の富める者たちが、さまざまな文明の利器をを利用して、さらに富を蓄え、その陰で、多くの貧しい人々が生み出され、さらなる貧困の中へと追いやられています。そのようなことが、自由の名の下に、合法的なこととしてまかり通っています。軍事的にも、殺傷能力の大きな兵器が次々と生み出されています。 大洪水によるさばきの執行の前の時代状況を生み出したのには、もう一つの重要な原因があったと考えられます。 創世記4章では、19節ー24節にレメクのことが記されていますが、それに続いて、25節、26節には、 アダムは、さらに、その妻を知った。彼女は男の子を産み、その子をセツと名づけて言った。「カインがアベルを殺したので、彼の代わりに、神は私にもうひとりの子を授けられたから。」セツにもまた男の子が生まれた。彼は、その子をエノシュと名づけた。そのとき、人々は主の御名によって祈ることを始めた。 と記されています。 ここで、創世記の記述はアダムとエバについての記述に戻っています。そして、これによって導入される形で、5章1節ー32節(5章全体)に記されている、アダムからノアに至るまでの歴史の記録が記されています。このことは、その前の4章19節ー24節に記されているカインからレメクに至る歴史の記録は、このアダムからノアに至る歴史の記録の背景として、記されていることを意味しています。 4章25節に記されている、 カインがアベルを殺したので、彼の代わりに、神は私にもうひとりの子を授けられたから。 というエバのことばに出てくる「もうひとりの子」と訳されたことばは、文字通りには「もうひとりの子孫」です。それで、このエバのことばは、3章15節に記されている、 わたしは、おまえと女との間に、 また、おまえの子孫と女の子孫との間に、 敵意を置く。 彼は、おまえの頭を踏み砕き、 おまえは、彼のかかとにかみつく。 という、「最初の福音」に示されている「女の子孫」についての主の約束のことばへの信仰を表しています。 これは「蛇」を用いて宣告された暗やみの主権者であるサタンに対するさばきのことばです。このサタンへのさばきのことばは、一方で、サタンとその子孫、もう一方で「女」と「女の子孫」との間に、主が「敵意を置」いてくださって、罪によって一つになってしまっている両者の間を引き裂かれることを示しています。 この「敵意」によって、「女」と「女の子孫」は、主に逆らっているサタンとその子孫に敵対するものとなります。それは「女」と「女の子孫」が主の側に立つようになるということで、「女」と「女の子孫」が救われることを意味しています。そればかりではありません。これは、サタンに対するさばきの宣告です。そして、それは、 彼は、おまえの頭を踏み砕き、 おまえは、彼のかかとにかみつく。 と言われていますように、「女の子孫」によって執行されることが示されています。 ここで用いられている「子孫」ということばは単数形ですが、集合名詞であると考えられます。ですから、ここには、サタンとその子孫の共同体と、「女」と「女の子孫」の共同体があります。後の聖書の啓示では、この二つの共同体は終わりの日まで存続していきます。聖書の中では、共同体には「かしら」がいます。明らかに、サタンとその子孫の共同体の「かしら」はサタンです。同じように、「女」と「女の子孫」の側にも「かしら」がいます。それは「女」ではなく「女の子孫」の中にいます。 少し話がそれますが、先週と先々週は、ダニエル書2章に記されている、ネブカデネザルが見た夢に出てきた巨大な像によって示されている四つの国(それは、次々と興っては過ぎ去っていくこの世の国々を表していました)と、「人手によらずに山から切り出され」た「石」によって表されている神の国が対比されていました。ダニエル書2章44節、45節には、 この王たちの時代に、天の神は一つの国を起こされます。その国は永遠に滅ぼされることがなく、その国は他の民に渡されず、かえってこれらの国々をことごとく打ち砕いて、絶滅してしまいます。しかし、この国は永遠に立ち続けます。なたがご覧になったとおり、一つの石が人手によらずに山から切り出され、その石が鉄と青銅と粘土と銀と金を打ち砕いたのは、大いなる神が、これから後に起こることを王に知らされたのです。 と記されています。 ここで、「これから後に起こるこ」と言われているのは、終わりの日まで続く人類の歴史に当てはまることです。そして、黙示録では、これが「すぐに起こるはずの事」となっているのです。 このように見ますと、ダニエル書2章に示されている、次々と興っては過ぎ去っていくこの世の国々と、神の国の対比は、創世記3章15節に記されている、「最初の福音」に示されています、サタンとその子孫の共同体と、「女」と「女の子孫」の共同体との間の、霊的な戦いに基づく対比であり、対立であることが分かります。 話を元に戻しますと、創世記4章25節には、エバが「最初の福音」に示されている「女の子孫」の約束を信じていたことが示されています。このことを受け継ぐようにして、続く、26節には、 セツにもまた男の子が生まれた。彼は、その子をエノシュと名づけた。そのとき、人々は主の御名によって祈ることを始めた。 と記されています。ここでは、セツにエノシュが生まれたころには、ヤハウェを礼拝する者たちの存在が、その時代の特徴となっていたことが示されています。 しかし、このような状態は続きませんでした。アダムからセツを通って10代目に記されているノアの時代には、契約の神である主、ヤハウェを礼拝する者は、ノアとその家族だけになってしまいました。創世記6章5節や、11節、12節に記されていましたように、ノアの時代においては、全人類がその内なる本性を徹底的に腐敗させ、暴虐で地を満たしてしまっていました。そのような状況の中で、わずかに、ノアとその家族がヤハウェ礼拝者であったのです。それは、ノアの力や資質によることではありません。6章8節には、 しかし、ノアは、主の心にかなっていた。 と記されています。これは、直訳調に訳しますと、 しかし、ノアは、主の御目の中に恵みを見出していた。 となります。契約の神である主が、恵みによってノアをヤハウェ礼拝者として残してくださっていたのです。このことは、ノアの時代に至るまでの歴史の中で、契約の神である主、ヤハウェを礼拝する人々は失われてしまったことを意味しています。主の契約の民の間にも、背教の歴史があったのです。 これは終わりの日における終末的なさばきの執行の「地上的なひな型」としての意味をもっているノアの時代に至る歴史の中で起こったことです。これに相当することが、終わりの日に起こるということが、テサロニケ人への手紙第二・2章3節に、 だれにも、どのようにも、だまされないようにしなさい。なぜなら、まず背教が起こり、不法の人、すなわち滅びの子が現れなければ、主の日は来ないからです。 と記されています。「背教」とは異教の宗教がはびこることではなく、主を信じていた人々がその信仰を変質させたり、捨ててしまうことです。また、マタイの福音書24章10節、11節には、 また、そのときは、人々が大ぜいつまずき、互いに裏切り、憎み合います。また、にせ預言者が多く起こって、多くの人々を惑わします。 という、終わりの日に関するイエス・キリストの教えが記されています。 神さまは、ノアの時代に、このような歴史と文化を造り出すに至ってしまった人類の歴史と文化を最終的におさばきになりました。それは、神のかたちに造られた人自身が、自らに与えられた神のかたちとしての栄光と尊厳性を、徹底的に踏みにじってしまったことに対するさばきです。その結果、ノアとその家族、そして、ノアとともにいた生き物以外のいのちあるものたちはすべて、大洪水によって滅ぼされてしまいました。その時は、神のかたちに造られた人の罪がもたらしたのろいが、全地を覆ってしまったのです。それは、あらゆる意味において、死と滅びが世界を覆ってしまうという、まことに恐ろしい状態でした。 このようにして、神さまは終末に至るまでの人類の歴史の中でただ一度だけ、一般恩恵に基づく御霊の啓発的な、あるいはまた、抑止的なお働きがないなら、人類がどのような事態になるかを、ただことばによるだけでなく、歴史の現実を通してお示しになりました。人の罪は、どんどん、その腐敗の度合いを深めていって、ついには、神さまがそれ以上その腐敗の徹底化を放置されるなら、神さまの聖さが問われることになるというほどになってしまう、言い換えれば、罪の升目を満たしてしまうようになるということが、歴史の現実として示されたのです。 このことは、この世界が歴史的な世界として造られており、神のかたちに造られた人に歴史と文化を造る使命が委ねられていることと深くかかわっています。愛を本質的な特性とする神のかたちに造られた人が、歴史と文化を造る使命を遂行することにおいて愛を初めとする神さまの人格的な属性を表現していくなら、人の愛も豊かになっていったはずですし、人は人格的に成熟していったはずです。この歴史的な世界には、その意味での進展があるわけです。そして、これと対応して、神のかたちに造られた人が造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまった後には、逆に、罪と罪による腐敗の深まりに進展があったのです。 このことが、ダニエル書2章や7章に記されている、この世の国々を代表的に表す四つの国が、後に現れてくるものほどその凶暴さを増し、「暴虐」なものとなることの根底にあります。そして、これが、黙示録13章1節に、 また私は見た。海から一匹の獣が上って来た。これには十本の角と七つの頭とがあった。その角には十の冠があり、その頭には神をけがす名があった。 と記されている、海から上って来た獣によって表される国へとつながっていくことになります。 |
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