黙示録講解

(第54回)


説教日:2011年12月11日
聖書箇所:ヨハネの黙示録1章1節ー8節
説教題:すぐに起こるはずの事を(52)


 今日は、先週お話ししたことの続きをお話しします。それで、まず、先週お話ししたことを、補足しながら、復習したいと思います。
 黙示録1章1節に出てきます「すぐに起こるはずの事」ということばは、黙示録に記されていることを全体的に要約するものです。
 この「すぐに起こるはずの事」ということばは、旧約聖書のダニエル書2章28節に記されている、

しかし、天に秘密をあらわすひとりの神がおられ、この方が終わりの日に起こることをネブカデネザル王に示されたのです。あなたの夢と、寝床であなたの頭に浮かんだ幻はこれです。

という、ダニエルがバビロンの王ネブカデネザルに語ったことばに出てくる「終わりの日に起こること」ということばを背景としています。旧約聖書のギリシャ語訳である7十人訳では、この「終わりの日に起こること」ということばは、黙示録1章1節の「すぐに起こるはずの事」ということばと同じような表現の仕方で、「終わりの日に起こるはずの事」となっています。ダニエルの時代において「終わりの日に起こるはずの事」であったことが、黙示録の記された時代においては「すぐに起こるはずの事」となっているということです。このことは、黙示録に記されていることはダニエル書に記されていることの成就であるということを意味しています。
 ダニエル書2章28節に記されている「終わりの日に起こること」ということばは、ダニエルが、ネブカデネザルの見た夢がどのような夢であったかを示し、その夢の解き明かしをしたときに語ったものです。ダニエル書2章31節ー33節には、

王さま。あなたは一つの大きな像をご覧になりました。見よ。その像は巨大で、その輝きは常ならず、それがあなたの前に立っていました。その姿は恐ろしいものでした。その像は、頭は純金、胸と両腕とは銀、腹とももとは青銅、すねは鉄、足は一部が鉄、一部が粘土でした。

というダニエルのことばが記されています。
 そして、ダニエルは、この夢の解き明かしの中で、「頭は純金」と言われているのはネブカデネザル、すなわちバビロニアのことであるということを示しています。そして、その後に「胸と両腕とは銀」と言われている国、「腹とももとは青銅」と言われている国、そして、「すねは鉄、足は一部が鉄、一部が粘土」と言われている国が興ることを示しています。
 これら四つの国が具体的にどの国を指すかについては、学者の間で意見が分かれています。「頭は純金」と言われているのはバビロニアのことであるということは、ダニエルによって示されています。問題はその後の三つの国です。これについては、大きく分けますと、第二の国はメディア・ペルシャ、第三の国はギリシア、第四の国はローマであるとする見方と、第二の国はメディア、第三の国はペルシャ、第四の国はギリシアであるとする見方があります。この二つの見方には、それぞれ言い分がありますし、それぞれに問題があります。
 第二の国、第三の国、第四の国が何であるかは、今お話ししましたように、大体の流れをたどることはできます。しかし、ダニエルは、それらが具体的にどの国であるかを、はっきりと分かる形では示していません。おそらく、それが大切なことではないかと思われます。
 ここには、四つの国のことが出てきます。聖書において、「四」という数字は、しばしば完全数としての意味をもっています。たとえば、2節には「天の四方の風」が出てきますが、この「四方」は「あらゆる方角、方向」を表します。また、エゼキエル書1章にはエゼキエルが見た栄光の主の顕現の幻に「何か四つの生きもののようなもの」が現れたことが記されています。これは契約の神である主の御臨在を表示しているケルビムに当たる生き物のです。これを背景として、黙示録4章6節には、天にある

御座の中央と御座の回りに、前もうしろも目で満ちた四つの生き物がいた。

と言われています。これらには興味深い描写があるのですが、今はこれに触れる余裕がありません。
 その他、ゼカリヤ書に出てくるものですが、1章18節に出てくる「四つの角」、20節に出てくる「四人の職人」、2章6節に出てくる「天の四方の風」、6章1節に出てくる「四台の戦車」(これを引いている、赤い馬、黒い馬、白い馬、まだら毛の馬という4頭の馬は、黙示録6章に出てくる、白い馬、赤い馬、黒い馬、青ざめた馬の4頭の馬の背景になっています)などを見てください。
 いずれにしましても、ダニエル書2章に出てくる、これら四つの国は、この世に興ってくる国、この世の国々を代表的に表していると考えられます。
 これには二つのことがかかわっています。
 一つは、先週明確にお話しすることができませんでしたが、これによって示されていることが、おとぎ話のようなものではなく、この世界の歴史の中の現実であるということです。
 もう一つのことは、このネブカデネザルが夢で見た像では、バビロニアに続いて興る国が具体的に何であるかということを示すというより、この像が象徴的に伝えていることがあるということです。
 この像を構成する部分のそれぞれの素材は、「頭は純金」、「胸と両腕とは銀」、「腹とももとは青銅」、そして、「すねは鉄、足は一部が鉄、一部が粘土」というように、だんだんと質が悪くなっています。これは、人々が一般的に抱いている歴史観と違っています。人々は、歴史が進むにつれて、より良いものが現れてくると考えています。歴史が進むにつれて、より良いものが現れてくるという考えを持っているというとき、そのように考えている人々は、現実の歴史の中では、自分たちが最先端にいることになります。そして、それ以前のものは自分たちより悪いものであったというような、暗黙の理解をもつことになります(たとえば、マタイの福音書23章29節ー36節)。しかし、ここでは、この世の国々が歴史とともに、より悪いものとなっていくことが示されています。
 このことが、ネブカデネザルが夢の中で見た像において示された「終わりの日に起こること」の一つの流れであると考えられます。
 この「終わりの日に起こること」にはもう一つの、より重要なことがかかわっています。それは、ダニエル書2章34節に、

あなたが見ておられるうちに、一つの石が人手によらずに切り出され、その像の鉄と粘土の足を打ち、これを打ち砕きました。

と記されていることです。
 このことについてのダニエルの解き明かしは44節に、

この王たちの時代に、天の神は一つの国を起こされます。その国は永遠に滅ぼされることがなく、その国は他の民に渡されず、かえってこれらの国々をことごとく打ち砕いて、絶滅してしまいます。しかし、この国は永遠に立ち続けます。

と記されています。34節で「一つの石が人手によらずに切り出され」ると言われていることは、44節で、

 この王たちの時代に、天の神は一つの国を起こされます。

と解き明かされているのです。
 ここでは、「人手によらずに切り出されれ」た「」は、神さまが興される国、すなわち、神の国であると言われています(新改訳の「一つの石」と「一つの国」は「」と「」が単数形であることによっています)。この神の国は「この王たちの時代に」興されると言われています。そして、神の国が「これらの国々をことごとく打ち砕いて、絶滅してしま」うと言われています。このことは、三つのことを示しています。一つは、神の国は「これらの国々」によって代表的に表されているこの世の国々と同時並行的に存在しているということです。二つ目のことは、「これらの国々」は過ぎ去ってしまうものであるということです。三つ目のことは、「これらの国々」が過ぎ去るのは、神の国によっているということです。ここでは、これらのことに加えて、神の国は「永遠に立ち続けます」と言われています。「これらの国々」と神の国が同時並行的に存在していることが示されていますが、「これらの国々」は次々と興っては、過ぎ去っていくことも示されています。これに対して、神の国は「これらの国々」と同時並行的に存在している一つの国です。これによって、神の国が過ぎ去っていくことはないことが示されています。
 このことが、ネブカデネザルが夢の中で見た像において示された「終わりの日に起こること」の中心にあります。ダニエルによる解き明かしのことばの最後の部分を記している45節に、

あなたがご覧になったとおり、一つの石が人手によらずに山から切り出され、その石が鉄と青銅と粘土と銀と金を打ち砕いたのは、大いなる神が、これから後に起こることを王に知らされたのです。

と記されているとおりです。


 ネブカデネザルが見た像は人の手によって造られたものです。それによって示されているこの世の国々は、兵士の数や、武器の数や性能による軍事力、経済力など、血肉の力によって築かれるものです。これに対して、「人手によらずに切り出されれ」た「」、すなわち神の国は、その像とは異質のものです。その意味で、これは血肉の力によって建てられるものではありません。ただし、ここでは、それがどのような力によって建てられるかということは、それが「人手」によらないということ、すなわち、神さまの御力によるということ以外は、示されていません。
 後に、この国の王として来られた御子イエス・キリストは、ヨハネの福音書18章36節に記されていますように、この世の国としてのローマ帝国を代表するピラトに対して、

わたしの国はこの世のものではありません。もしこの世のものであったなら、わたしのしもべたちが、わたしをユダヤ人に渡さないように、戦ったことでしょう。しかし、事実、わたしの国はこの世のものではありません。

とあかしされました。イエス・キリストの御国がこの世のものであったなら、その御国の民は武力などの血肉の力をもって戦ったはずだというのです。しかし、イエス・キリストの御国はこの世のものではありません。
 さらに、37節に記されていますように、イエス・キリストはピラトの問いに答えて、

わたしが王であることは、あなたが言うとおりです。わたしは、真理のあかしをするために生まれ、このことのために世に来たのです。真理に属する者はみな、わたしの声に聞き従います。

とあかしされました。イエス・キリストが王として治めておられる御国は「真理」の御国です。この御国では、イエス・キリストが真理のみことばをもって治めておられます。もちろん、その真理のみことばを理解し悟らせてくださるのは、14章17節で「真理の御霊」と言われている御霊です。
 このイエス・キリストとピラトの対話は、イエス・キリストが十字架につけられようとしている時になされたものです。このことは「真理」がどのようなものであるかを指し示しています。それはイエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりを中心とした真理、その意味での福音の真理です。
 この「真理」の御国においては、王として治めておられる主が、私たちご自身の御国の民のためにいのちをお捨てになって、私たちご自身の民を、死と滅びから救い出し、ご自身の復活のいのち、すなわち、永遠のいのちをもって生かしてくださっているのです。このようにして打ち立てられた御国こそが、永遠に続く御国です。

 先週取り上げたのは、同じダニエル書の7章1節ー14節に記されている、ダニエルが見た幻です。3節ー8節には、

私が夜、幻を見ていると、突然、天の四方の風が大海をかき立て、四頭の大きな獣が海から上がって来た。その四頭はそれぞれ異なっていた。第一のものは獅子のようで、鷲の翼をつけていた。見ていると、その翼は抜き取られ、地から起こされ、人間のように二本の足で立たされて、人間の心が与えられた。また突然、熊に似たほかの第二の獣が現れた。その獣は横ざまに寝ていて、その口のきばの間には三本の肋骨があった。するとそれに、「起き上がって、多くの肉を食らえ」との声がかかった。この後、見ていると、また突然、ひょうのようなほかの獣が現れた。その背には四つの鳥の翼があり、その獣には四つの頭があった。そしてそれに主権が与えられた。その後また、私が夜の幻を見ていると、突然、第四の獣が現れた。それは恐ろしく、ものすごく、非常に強くて、大きな鉄のきばを持っており、食らって、かみ砕いて、その残りを足で踏みつけた。これは前に現れたすべての獣と異なり、十本の角を持っていた。私がその角を注意して見ていると、その間から、もう一本の小さな角が出て来たが、その角のために、初めの角のうち三本が引き抜かれた。よく見ると、この角には、人間の目のような目があり、大きなことを語る口があった。

と記されています。
 ここには、海から上って来た四つの獣のことが記されています。これは、これらの獣によって表象的に表されてされている四つの国のことです。
 先週お話ししましたように、海から上って来た四つの獣によって表されている四つの国は、先ほどのネブカデネザルが見た夢に出てきた像によって示されている四つの国に対応しています。
 ネブカデネザルが見た夢のことは2章に記されていますが、続く3章には、そのネブカデネザルが金の像を造って、すべてのものに拝ませたことが記されています。このことは、ネブカデネザルが夢で見た「巨大で、その輝きは常ならず」と言われている像も、偶像の神であったことを意味しています。ネブカデネザルにとっては、この世の国々は神のようなものと見えているわけです。これに対してダニエルには、それが、どう猛に食い荒らす獣のように見えていました。そして、それはかき立てられた海、すなわち、神さまに逆らって働く暗やみの主権者たちの申し子のような存在と見られています。
 それぞれの国についての描写をまとめてみましょう。
 第一の獣は「獅子」と「」を用いて示されています。これは強大な権力を表すとともに、どう猛さも表しています。しかし、この第一の獣は、ネブカデネザルが主によってへりくだらされたことと関連づけられています。つまり、この第一の獣はバビロニアを表しています。
 第二の獣によって表されている国は「」の表象によって示されています。この獣は、すでに三つの国あるいは民族を征服していましたが、さらに、貪欲に征服しようとしています。
 第三の獣によって表されている国は、「その背には四つの鳥の翼」があり「四つの頭」をもつ「ひょう」の表象によって示されています。この獣は獲物を見つけることに長けていて、それを捕えることに俊敏であることが示されています。これに加えて、この獣は強大な権力を誇っていたことが示されています。
 第四の獣によって表されている国は、もはや実在の動物にはたとえられないほどのもので、その征服はすさまじく、そこには徹底的な破壊があったことが示されています。さらに、この獣には、力の象徴である角が十本あったと言われていて、その力がこの上なく強いことを示しています。第四の獣については、その十本の角の間から出てくる小さな角のことも示されていますが、それは省略します。
 これら四つの獣が、順次、海から上って来るのですが、後のものほど凶暴さと凶悪さをましていくことが示されています。その点は、ネブカデネザルが見た夢に出てきた像によって示されている四つの国と同じです。
 これら海から上って来た四つの獣も、完全数によるもので、終わりの日に至るまで、興っては滅亡していく、この世の国々を表していると考えられます。

          *
 ダニエルの見た幻はこれで終ってはいません。7章9節ー14節には、

私が見ていると、
 幾つかの御座が備えられ、
 年を経た方が座に着かれた。
 その衣は雪のように白く、
 頭の毛は混じりけのない羊の毛のようであった。
 御座は火の炎、
 その車輪は燃える火で、
 火の流れがこの方の前から流れ出ていた。
 幾千のものがこの方に仕え、
 幾万のものがその前に立っていた。
 さばく方が座に着き、
 幾つかの文書が開かれた。
私は、あの角が語る大きなことばの声がするので、見ていると、そのとき、その獣は殺され、からだはそこなわれて、燃える火に投げ込まれるのを見た。残りの獣は、主権を奪われたが、いのちはその時と季節まで延ばされた。
 私がまた、夜の幻を見ていると、
 見よ、人の子のような方が天の雲に乗って来られ、
 年を経た方のもとに進み、その前に導かれた。
 この方に、主権と光栄と国が与えられ、
 諸民、諸国、諸国語の者たちがことごとく、
 彼に仕えることになった。
 その主権は永遠の主権で、過ぎ去ることがなく、
 その国は滅びることがない。

と記されています。
 ここでは「年を経た方」と「人の子のような方」が出てきます。これは、これに先だって記されている、海から上って来た四つの獣の表象と対比されています。
 「年を経た方」は御座に着座しておられます。

 さばく方が座に着き、
 幾つかの文書が開かれた。

というみことばから、この御座はさばきの座であることが分かります。
 「年を経た方」について言われている、

 その衣は雪のように白く、

というみことばは、この方が義なる御方であることを表しており、

 頭の毛は混じりけのない羊の毛のようであった。

というみことばは、別の解釈もありますが、「年を経た方」という表象とのかかわりから、白髪で、この方が知恵に満ちた御方であることを表していると考えられます。また、

 御座は火の炎、
 その車輪は燃える火で、
 火の流れがこの方の前から流れ出ていた。

というみことばは、この方が座しておられる御座が、戦車としての意味を持っていることを示しています。このことは、この幻において示されていることが霊的な戦いにかかわるものであることを意味しています。その意味で、ここに出てくる「」は、この方の聖さを表示するとともに、この方がさばきを執行し、すべてを吹き聖める御方であることを示しています。イザヤ書66章15節、16節には、

 見よ。まことに、は火の中を進んで来られる。
 その戦車はつむじ風のようだ。
 その怒りを激しく燃やし、
 火の炎をもって責めたてる。
 実に、は火をもってさばき、
 その剣ですべての肉なる者をさばく。

と記されています。
 ダニエル書7章11節においては、この方が第四の獣をおさばきになったことが記されています.同時に12節には、残りの獣たちへのさばきは「その時と季節まで延ばされた」ことが記されています。

 「人の子のような方」については、「天の雲に乗って来られ」ると言われています。これは契約の神である主に当てはまることです。たとえば、詩篇68篇4節には、

 神に向かって歌い、御名をほめ歌え。
 雲に乗って来られる方のために道を備えよ。
 その御名は、主。その御前で、こおどりして喜べ。

と記されています。また、104篇3節、4節には、主のことが、

 雲をご自分の車とし、
 風の翼に乗って歩かれます。
 風をご自分の使いとし、
 焼き尽くす火をご自分の召使いとされます。

と歌われています。
 この「」は、主の栄光の顕現(セオファニー)に伴う雲のことで、主の御臨在を表示するものです。
 これらのことから、この「人の子のような方」も神であられることが分かります。そして、14節では、

 この方に、主権と光栄と国が与えられ、
 諸民、諸国、諸国語の者たちがことごとく、
 彼に仕えることになった。
 その主権は永遠の主権で、過ぎ去ることがなく、
 その国は滅びることがない。

と言われています。
 イエス・キリストは、ご自身のことを「人の子」と呼んでおられます。それは、このようなダニエル書の預言のみことばを踏まえてのことです。終わりの日についてのイエス・キリストの教えを記しているマタイの福音書24章30節には、

そのとき、人の子のしるしが天に現れます。すると、地上のあらゆる種族は、悲しみながら、人の子が大能と輝かしい栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見るのです。

と記されています。また、十字架につけられる前の日の夜、イエス・キリストは大祭司からの尋問にお答えになって、

あなたの言うとおりです。なお、あなたがたに言っておきますが、今からのち、人の子が、力ある方の右の座に着き、天の雲に乗って来るのを、あなたがたは見ることになります。

と言われました。
 また、黙示録1章7節には、

見よ、彼が、雲に乗って来られる。すべての目、ことに彼を突き刺した者たちが、彼を見る。地上の諸族はみな、彼のゆえに嘆く。しかり。アーメン。

と記されています。
 先ほどお話ししましたように、イエス・キリストが御国を確立されるのは、ご自身の十字架の死と死者の中からのよみがえりによっています。

 この方に、主権と光栄と国が与えられ、
 諸民、諸国、諸国語の者たちがことごとく、
 彼に仕えることになった。
 その主権は永遠の主権で、過ぎ去ることがなく、
 その国は滅びることがない。

とあかしされている御方は、私たちご自身の民のためにいのちをお捨てになった方です。黙示録1章5節、6節には、

イエス・キリストは私たちを愛して、その血によって私たちを罪から解き放ち、また、私たちを王国とし、ご自分の父である神のために祭司としてくださった方である。キリストに栄光と力とが、とこしえにあるように。アーメン。

と記されています。
 ダニエル書7章では、ダニエルが見た幻を記している9節ー14節に続いて、15節ー28節に、ダニエルが見た幻の意味を、御使いがさらに解き明かしたことが記されています。それはダニエルの求めによることです。そこでは、特に、第四の獣によって示されている国のことが詳しく示されています。ダニエルが、特に、第四の獣についてよく知りたいと願ったからです。
 第四の獣について、25節には、

 彼は、いと高き方に逆らうことばを吐き、
 いと高き方の聖徒たちを滅ぼし尽くそうとする。

と記されています。それは、この第四の国が血肉の力をもって、私たち主の民を迫害するということを意味しています。しかし、イエス・キリストの御国は、イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりにかかわる真理によって建てられ、存続する御国です。ですから、私たち主の契約の民は、血肉の力を頼みとして戦うことはありません。ひたすら福音の真理の上に立って、これと戦います。
 黙示録12章には、暗やみの主権者であるサタンが「七つの頭と十本の角」をもつ「大きな赤い竜」(3節)の表象で描かれています。それはまた、「悪魔とか、サタンとか呼ばれて、全世界を惑わす、あの古い蛇」とも言われています(9節)。この龍は、女の子孫のかしらであられる方が父なる神さまの右の座に着座されるとともに、天における霊的な戦いに破れ、天から投げ落とされました(9節)。これを受けて、11節には、

兄弟たちは、小羊の血と、自分たちのあかしのことばのゆえに彼に打ち勝った。彼らは死に至るまでもいのちを惜しまなかった。

と記されています。この「」は龍、すなわち、サタンのことです。
 私たちは霊的な戦いにおいて、父なる神さまの右の座に着座しておられる栄光のキリストの勝利にあずかっているます。それで、私たち主の契約の民は「小羊の血と、自分たちのあかしのことば」、先ほどお話ししたことに合わせて言いますと、福音の真理の上に立って霊的な戦いに勝利するのです。
 先ほど、ネブカデネザルが夢で見た像をとおして示されたことの一つとして、「これらの国々」が過ぎ去るのは、神の国によっているということをお話ししました。それは、基本的には、神の国の王として治めておられる栄光のキリストによっているのですが、私たち主の契約の民が福音の真理の上に立って霊的な戦いを戦うことにもよっています。


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