黙示録講解

(第53回)


説教日:2011年12月4日
聖書箇所:ヨハネの黙示録1章1節ー8節
説教題:すぐに起こるはずの事を(51)


 黙示録1章1節に記されています、

イエス・キリストの黙示。これは、すぐに起こるはずの事をそのしもべたちに示すため、神がキリストにお与えになったものである。そしてキリストは、その御使いを遣わして、これをしもべヨハネにお告げになった。

というみことばは、黙示録がどのようにして私たち主の契約の民に与えられたかを示しています。そして、このみことばの中に出てくる「すぐに起こるはずの事」ということばは、黙示録に記されていることを全体的に要約するものです。
 黙示録は、これが記された初代教会の時代から、終わりの日に至るまでの、イエス・キリストによる救いとさばきの御業の歴史が記されています。その全体が「すぐに起こるはずの事」としてまとめられているのです。
 繰り返しお話ししていますように、初代教会の時代から、終わりの日に至るまでの、イエス・キリストによる救いとさばきの御業の歴史の描写は、この書の最後の章である22章の5節で終わっています。そして、それに続く6節には、

御使いはまた私に、「これらのことばは、信ずべきものであり、真実なのです」と言った。預言者たちのたましいの神である主は、その御使いを遣わし、すぐに起こるべき事を、そのしもべたちに示そうとされたのである。

と記されています。このことは、この6節に記されているみことばは、5節までに記されている、初代教会の時代から、終わりの日に至るまでの、イエス・キリストによる救いとさばきの御業の歴史の描写全体を締めくくるものであることを意味しています。
 この6節を受けて、続く7節には、

見よ。わたしはすぐに来る。この書の預言のことばを堅く守る者は、幸いである。

という栄光のキリストのみことばが記されています。この7節に記されている、

 見よ。わたしはすぐに来る。

という栄光のキリストのみことばは、その前の6節に出てくる「すぐに起こるべき事」という、黙示録に記されていることを全体的に要約することばの枠の中にあります。つまり、「すぐに起こるべき事」の中に、終わりの日における栄光のキリストの再臨も含まれているのです。
 7節に記されている、

 見よ。わたしはすぐに来る。

という栄光のキリストのみことばと同じみことばは、さらに、12節と20節にも出てきます。
 これまで、問題としてきたことは、栄光のキリストが黙示録において、

 見よ。わたしはすぐに来る。

と約束してくださってから、すでに2千年の時が経っているのに、イエス・キリストはまだ再臨しておられないということです。
 これにつきましては、最も基本的なこととして、黙示録が黙示文学の形式で記された預言としての意味をもっているということをお話ししてきました。聖書に記されている預言は今日の私たちが考えるような予告としての「予言」とは違います。聖書に記されている預言にとって基本的に大切なことは、時あるいは時代の特質です。
 すでにお話ししましたように、黙示録を全体的に要約する「すぐに起こるはずの事」ということばは、旧約聖書のダニエル書2章28節に記されています、

しかし、天に秘密をあらわすひとりの神がおられ、この方が終わりの日に起こることをネブカデネザル王に示されたのです。あなたの夢と、寝床であなたの頭に浮かんだ幻はこれです。

というダニエルがバビロンの王ネブカデネザルに語ったことばに出てくる「終わりの日に起こること」ということばを背景としています。ヘブル語旧約聖書のギリシャ語訳である7十人訳では、この「終わりの日に起こること」は、、黙示録1章1節と22章6節に出てくる「すぐに起こるはずの事」と同じような言い方で、これに合わせて訳しますと「終わりの日に起こるはずのこと」となります。二つのことばの違いは、ダニエル書2章28節の「終わりの日に起こるはずのこと」の「終わりの日に」が黙示録1章1節と22章6節では「すぐに」となっていることです。つまり、ダニエルの時代において「終わりの日に起こるはずのこと」と見られていたことが、黙示録の記された時代においては「すぐに起こるはずの事」となっているということです。このことは、黙示録に記されていることはダニエル書に記されていることの成就であるということを意味しています。


 ダニエル書には黙示録の背景となっている個所がほかにもいくつかあります。その代表的なものとしては、ダニエル書7章に記されています、ダニエルが見た幻があります。
 1節ー14節には、

バビロンの王ベルシャツァルの元年に、ダニエルは寝床で、一つの夢、頭に浮かんだ幻を見て、その夢を書きしるし、そのあらましを語った。ダニエルは言った。「私が夜、幻を見ていると、突然、天の四方の風が大海をかき立て、四頭の大きな獣が海から上がって来た。その四頭はそれぞれ異なっていた。第一のものは獅子のようで、鷲の翼をつけていた。見ていると、その翼は抜き取られ、地から起こされ、人間のように二本の足で立たされて、人間の心が与えられた。また突然、熊に似たほかの第二の獣が現れた。その獣は横ざまに寝ていて、その口のきばの間には三本の肋骨があった。するとそれに、『起き上がって、多くの肉を食らえ』との声がかかった。この後、見ていると、また突然、ひょうのようなほかの獣が現れた。その背には四つの鳥の翼があり、その獣には四つの頭があった。そしてそれに主権が与えられた。その後また、私が夜の幻を見ていると、突然、第四の獣が現れた。それは恐ろしく、ものすごく、非常に強くて、大きな鉄のきばを持っており、食らって、かみ砕いて、その残りを足で踏みつけた。これは前に現れたすべての獣と異なり、十本の角を持っていた。私がその角を注意して見ていると、その間から、もう一本の小さな角が出て来たが、その角のために、初めの角のうち三本が引き抜かれた。よく見ると、この角には、人間の目のような目があり、大きなことを語る口があった。
  私が見ていると、
  幾つかの御座が備えられ、
  年を経た方が座に着かれた。
  その衣は雪のように白く、
  頭の毛は混じりけのない羊の毛のようであった。
  御座は火の炎、
  その車輪は燃える火で、
  火の流れがこの方の前から流れ出ていた。
  幾千のものがこの方に仕え、
  幾万のものがその前に立っていた。
  さばく方が座に着き、
  幾つかの文書が開かれた。
 私は、あの角が語る大きなことばの声がするので、見ていると、そのとき、その獣は殺され、からだはそこなわれて、燃える火に投げ込まれるのを見た。残りの獣は、主権を奪われたが、いのちはその時と季節まで延ばされた。
 私がまた、夜の幻を見ていると、
  見よ、人の子のような方が天の雲に乗って来られ、
  年を経た方のもとに進み、その前に導かれた。
  この方に、主権と光栄と国が与えられ、
  諸民、諸国、諸国語の者たちがことごとく、
  彼に仕えることになった。
  その主権は永遠の主権で、過ぎ去ることがなく、
  その国は滅びることがない。

と記されています。
 2節、3節では、

 私が夜、幻を見ていると、突然、天の四方の風が大海をかき立て、四頭の大きな獣が海から上がって来た。

と言われています。
 古代オリエントの神話の中では、「」は神々に敵対する暗やみの権力として描かれていました。バビロニアの神話では「ティアマト」という怪獣が主神マルドゥクと戦って破れます。また、カナンの神話では「ヤム」という怪獣がバアルと戦って破れます。どちらも海を表す怪獣です。古代オリエントの人々の心には、荒れる海に対する恐ろしさがありました。それは、私たちが3月11日に起こった東日本大震災において、津波の恐ろしさを思い知らされたことに相当するものであったと考えられます。
 このことを念頭に置きますと、新しい天と新しい地のことを記している、黙示録21章1節に、

また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。

と記されている中で、

 もはや海もない。

と言われていることをの意味が分かります。
 聖書の中では、契約の神である主、ヤハウェが海を制御しておられることが示されています。たとえば、詩篇89篇9節、10節には、

 あなたは海の高まりを治めておられます。
 その波がさかまくとき、
 あなたはそれを静められます。
 あなたご自身が、
 ラハブを殺された者のように打ち砕き、
 あなたの敵を力ある御腕によって散らされました。

と記されています。ここに出てくる「ラハブ」(「おごり」や「高ぶり」を意味することば)は海の怪獣で、レビヤタンと深くかかわっています。ラハブとレビヤタンは同一の怪獣ではないかと考えている学者もいます。詩篇87篇4節、イザヤ書30章7節などでは、この「ラハブ」がエジプトを象徴的に表しています。[ヨシュア記2章1節に出てくるエリコの町に住んでいた「ラハブ」は、これとは「ハ」に当たる部分の子音字が違います。また、母音の長さも違います。この人名である「ラハブ」は「ラーハーブ」で、海の怪獣は「ラハブ」です。]
 また、主がレビヤタンをおさばきになることは、イザヤ書27章1節に、

 その日、は、鋭い大きな強い剣で、
 逃げ惑う蛇レビヤタン、
 曲がりくねる蛇レビヤタンを罰し、
 海にいる竜を殺される。

と記されています。この場合(イザヤ書27章1節)のレビヤタンは、これが記された時代の帝国で、ユダを脅かす存在であったアッシリヤを象徴的に表していると考えられます。

 ダニエル書7章3節の、

 四頭の大きな獣が海から上がって来た。

ということばが背景となって、黙示録13章1節、2節には、

また私は見た。海から一匹の獣が上って来た。これには十本の角と七つの頭とがあった。その角には十の冠があり、その頭には神をけがす名があった。私の見たその獣は、ひょうに似ており、足は熊の足のようで、口は獅子の口のようであった。竜はこの獣に、自分の力と位と大きな権威とを与えた。

と記されています。この海から上って来た獣の姿も、ダニエル書7章に記されています、四つの獣を背景として記されています。
 ダニエル書7章4節ー8節には、

第一のものは獅子のようで、鷲の翼をつけていた。見ていると、その翼は抜き取られ、地から起こされ、人間のように二本の足で立たされて、人間の心が与えられた。また突然、熊に似たほかの第二の獣が現れた。その獣は横ざまに寝ていて、その口のきばの間には三本の肋骨があった。するとそれに、「起き上がって、多くの肉を食らえ」との声がかかった。この後、見ていると、また突然、ひょうのようなほかの獣が現れた。その背には四つの鳥の翼があり、その獣には四つの頭があった。そしてそれに主権が与えられた。その後また、私が夜の幻を見ていると、突然、第四の獣が現れた。それは恐ろしく、ものすごく、非常に強くて、大きな鉄のきばを持っており、食らって、かみ砕いて、その残りを足で踏みつけた。これは前に現れたすべての獣と異なり、十本の角を持っていた。私がその角を注意して見ていると、その間から、もう一本の小さな角が出て来たが、その角のために、初めの角のうち三本が引き抜かれた。よく見ると、この角には、人間の目のような目があり、大きなことを語る口があった。

と記されています。
 黙示録13章1節、2節に記されている獣には「十本の角」があったと言われています。これは、ダニエル書7章7節に出てくる第四の獣に「十本の角」があったことと対応しています。また、黙示録13章1節、2節に記されている獣については、さらに、

私の見たその獣は、ひょうに似ており、足は熊の足のようで、口は獅子の口のようであった。

と言われています。ここには「ひょう」と「」と「獅子」が出てきます。ダニエル書7章4節ー8節に出てくる四つの獣の描写では、「ひょう」は第三の獣の描写に用いられており、「」は第二の獣の描写に用いられており、「獅子」は第一の獣の描写に用いられています。ですから、黙示録13章1節、2節に出てくる海から上って来た獣の描写は、ダニエル書7章4節ー8節に出てくる海から上って来た四つの獣の描写の順序を、第四の獣、第三の獣、第二の獣、第一の獣というように、逆にたどる形で記されています。
 黙示録13章1節、2節に記されている獣と、ダニエル書7章4節ー8節に記されている獣の違いは、ダニエル書では四つの獣が相次いで海から上って来るのに対して、黙示録では一つの獣が海から上って来ることです。このことは、黙示録に記されている海から上って来る獣は、ダニエル書に記されている海から上って来る四つの獣を総合するような存在であることを示しています。
 ダニエル書7章4節ー8節に記されている第一の獣については、

第一のものは獅子のようで、鷲の翼をつけていた。見ていると、その翼は抜き取られ、地から起こされ、人間のように二本の足で立たされて、人間の心が与えられた。

と言われています。「獅子」はライオンのことで、「百獣の王」と言われるように、動物の頂点に数えられるものです。同じように、「」は鳥の頂点に数えられるものです。これによって、第一の獣の強さと支配権、すなわち、強大な権力を表しています。同時に、それがどう猛に獲物に襲いかかる恐ろしいものでもあることを表しています。

見ていると、その翼は抜き取られ、地から起こされ、人間のように二本の足で立たされて、人間の心が与えられた。

ということばは、ダニエル書4章に記されています、ネブカデネザルが主の御前に高ぶったときに、その主権を剥奪され、へりくだらせられたときの経験を指していると考えられます。つまり、第一の獣はネブカデネザルを指しているということです。

 このことは、このダニエル書7章4節ー8節に記されています、海から上って来た四つの獣が、2章31節ー33節に記されています、ダニエルによって明らかにされた、ネブカデネザルが夢の中で見た像に対応していることを意味しています。そこ(2章31節ー33節)には、

王さま。あなたは一つの大きな像をご覧になりました。見よ。その像は巨大で、その輝きは常ならず、それがあなたの前に立っていました。その姿は恐ろしいものでした。その像は、頭は純金、胸と両腕とは銀、腹とももとは青銅、すねは鉄、足は一部が鉄、一部が粘土でした。

と記されています。
 これにつきましてはすでにお話ししましたので、結論的なことだけをお話しします。
 後にダニエルは、「頭は純金」と言われているのはネブカデネザルのことであるということを示しています。そして、その後に「胸と両腕とは銀」と言われている帝国、「腹とももとは青銅」と言われている帝国、そして、「すねは鉄、足は一部が鉄、一部が粘土」と言われている帝国が興ると言われています。
 これら四つの帝国が具体的にどの帝国を指すかについては、「頭は純金」と言われているのはネブカデネザルのことであるということはダニエルによって示されています。問題はその後の三つの帝国ですが、これについては、学者の間で意見が分かれています。大きく分けますと、第二の帝国はメディア・ペルシャ、第三の帝国はギリシア、第四の帝国はローマであるとする見方と、第二の帝国はメディア、第三の帝国はペルシャ、第四の帝国はギリシアであるとする見方があります。一般的には、福音派の学者は最初の見方、つまり、第四の帝国はローマであるとする見方を取っています。もちろん、もう一つの見方を取る福音派の学者もいます。
 この二つの見方には、それぞれ言い分がありますし、それぞれに問題があります。ダニエルは第二から第四の帝国が具体的に何であるかは明らかにしてはいません。おそらく、それが大切なことではないかと思われます。どういうことかと言いますと、このネブカデネザルが夢で見た像ではネブカデネザル、すなわちバビロンに続いて起こる帝国が具体的に何であるかは曖昧にされていて、それが象徴的に伝えていることがあるということです。この像を構成する部分のそれぞれの素材を見てみますと、「頭は純金」、「胸と両腕とは銀」、「腹とももとは青銅」、そして、「すねは鉄、足は一部が鉄、一部が粘土」と言われています。このように並べてみますと、その素材はだんだんと質が悪くなっていることが分かります。これは、人々が一般的に抱いている歴史観と違っています。人々は、歴史が進むにつれて、より良いものが現れてくると考えています。しかし、ここでは、その逆のこと、この世の国々が歴史とともに、より悪いものとなっていくことが示されています。

 これと同じことが、ダニエル書7章4節ー8節に記されています、海から上って来た四つの獣によって表象的に表されてされている四つの帝国にも当てはまると考えられます。
 すでにお話ししましたように、第一の獣は「獅子」と「」を用いて示されています。これは強大な権力を表すとともに、どう猛さも表しています。しかし、この第一の獣が表しているネブカデネザルは主によってへりくだらされています。
 第二の獣については、

また突然、熊に似たほかの第二の獣が現れた。その獣は横ざまに寝ていて、その口のきばの間には三本の肋骨があった。するとそれに、「起き上がって、多くの肉を食らえ」との声がかかった。

と言われています。この帝国は「」の表象によって示されています。この獣は、

 その口のきばの間には三本の肋骨があった。

と言われていますように、すでに三つの国あるいは民族を征服しています。さらに、

起き上がって、多くの肉を食らえ

と言われていますように、貪欲に征服しようとしています。
 第三の獣については、

この後、見ていると、また突然、ひょうのようなほかの獣が現れた。その背には四つの鳥の翼があり、その獣には四つの頭があった。そしてそれに主権が与えられた。

と言われています。この帝国は「ひょう」の表象で表されています。ひょうはその走る速さと俊敏さで知られています。これに加えて「その背には四つの鳥の翼があり」と言われています。その俊敏性と迅速さは倍加しています。襲った獲物は逃すことがないということでしょう。また、

 その獣には四つの頭があった。

と言われていることは、それによって、一度に四方を見ることができるということで、獲物を見つけることにも俊敏であることを示していると考えられています。さらに、この獣については、

 そしてそれに主権が与えられた。

と言われています。この帝国は強大な権力を持って、さらに獲物を襲ったと考えられます。
 これら、三つの獣によって表されている帝国はそれぞれ恐るべき帝国ですが、第四の獣はさらに恐るべきものです。それについては、

その後また、私が夜の幻を見ていると、突然、第四の獣が現れた。それは恐ろしく、ものすごく、非常に強くて、大きな鉄のきばを持っており、食らって、かみ砕いて、その残りを足で踏みつけた。これは前に現れたすべての獣と異なり、十本の角を持っていた。私がその角を注意して見ていると、その間から、もう一本の小さな角が出て来たが、その角のために、初めの角のうち三本が引き抜かれた。よく見ると、この角には、人間の目のような目があり、大きなことを語る口があった。

と言われています。
 この獣は、もう、実在の動物にはたとえようがないほどのもので、ことばで、

それは恐ろしく、ものすごく、非常に強くて、大きな鉄のきばを持っており、食らって、かみ砕いて、その残りを足で踏みつけた。

と説明されています。その征服のすさまじさと、徹底的な破壊が示されています。さらに、

これは前に現れたすべての獣と異なり、十本の角を持っていた。

と言われています。聖書の中では「」は力、特に、戦いにおける力を表しています(ミカ4章13節、サムエル記第一・2章10節、詩篇22章21節、参照・民数記24章8節)。「十本の角」というのは、その力がこの上なく強いことを示しています。
 さらに、この「十本の角」の間から「もう一本の小さな角が出て来た」と言われています。そして、

その角のために、初めの角のうち三本が引き抜かれた。よく見ると、この角には、人間の目のような目があり、大きなことを語る口があった。

と言われています。「人間の目のような目」は、おそらく、その獣の観察眼の鋭さで、人に固有な知恵、正確には、悪知恵を表していると考えられます。そして、「大きなことを語る口」は、この獣がその権力と知恵と力を誇り、主の御前に高ぶることを表していると考えられます。
 これら四つの生き物も、第一の獣を除いて、それぞれが具体的にどの帝国を表しているかは示されていません。また、特定化することも難しいものです。けれども、これら四つの獣が表している帝国も、それがだんだんと、どう猛さと恐ろしさを増していくことが示されています。そして、黙示録13章1節、2節においては、海から上って来る獣は、ダニエル書7章に預言的に示されている海から上って来た四つの獣を総合する形で成就するものであることが示されています。
 しかし、これは、決して、私たちを恐れさせるために記されているのではありません。これは、私たちが今住んでいるこの世がどのようなものであるかを、栄光のキリストが遂行しておられる救いとさばきの御業とのかかわりで示しています。それは、福音のみことばとしての黙示録において示されていることとして、理解すべきものであるのです。このことにつきましては、改めてお話しいたします。


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