![]() |
説教日:2011年11月27日 |
繰り返しお話ししてきましたように、このことを考えるうえで最も基本的なことは、黙示録に記されていることは預言としての意味をもっているということです。1章3節に、 この預言のことばを朗読する者と、それを聞いて、そこに書かれていることを心に留める人々は幸いである。時が近づいているからである。 と記されているとおりです。聖書に記されている預言は、世間一般で言われている予告としての「予言」とは違って、何年何月にこのようなことが起こるというようなことを伝えようとしてはいません。ですから、20世紀から21世紀にかけてのこの時代に生きていて、時間が機械的に流れていくという発想をもっている私たちが、自分たちの発想を規準にして、聖書の預言としての黙示録をまとめるのに「すぐに起こるはずの事」ということばを使うことはおかしいと批判するのではなく、聖書の預言としての黙示録に記されていることが「すぐに起こるはずの事」ということばによってまとめられていることの意味を汲み取る必要があるのです。このことに関しましては、すでに、いろいろなことをお話ししてきまして、結論的なことはお話ししましたので、繰り返すことはいたしません。 ただ、今日お話しすることとの関連で、一つのことを振り返っておきます。それは、聖書に記されている預言においては、その預言のことばが与えられた時代の主の民に対する契約の神である主のみこころが記されているということです。黙示録の場合には、基本的に、1章4節に、 ヨハネから、アジヤにある七つの教会へ。 と記されている中に出てくる「アジヤにある七つの教会」によって代表されている、黙示録が記された時代の教会、すなわち、初代教会に対する契約の神である主のみこころが記されています。 このように、黙示録には、基本的に、初代教会に対する主のみこころが記されています。その黙示録の中に、終わりの日のことが記されているのです。終わりの日には、栄光のキリストが再臨されて、造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまった人類のひとりひとりの罪をすべておさばきになり、罪を完全に清算されるとともに、ご自身が、その十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げられた贖いの御業に基づいて、ご自身の契約の民の救いを完成してくださり、ご自身の契約の民のために新しい天と新しい地を再創造してくださることが記されています。 何気なく考えますと、そのような終わりの日のことは、初代教会の主の民には、あまり関係がないのではないかというような気がします。特に、初代教会の時代から2千年もの時が経った時代に生きている私たちには、その2千年の時の隔たりが実感されますので、終わりの日のことは、初代教会の主の民には、あまり関係がないのではないかというような気がするのです。 このことには福音の理解にとって、とても大切なことがかかわっています。 言うまでもなく、基本的に、今から2千年ほど前の初代教会の主の契約の民に対する主のみこころが記されている黙示録に、終わりの日における栄光のキリストの救いとさばきの御業が記されているのは、それ、すなわち、終わりの日における栄光のキリストの御業も、初代教会の主の契約の民にかかわっているからです。 それはどのようなことでしょうか。これについては、すでに、皆さんの中に、いくつかの考えが浮かんできていることと思います。実際に、いくつかのことが考えられますが、二つのことだけをお話しします。 第一に、先週お話ししましたが、ヨハネの福音書6章37節ー40節に記されていますように、イエス・キリストは、 父がわたしにお与えになる者はみな、わたしのところに来ます。そしてわたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません。わたしが天から下って来たのは、自分のこころを行うためではなく、わたしを遣わした方のみこころを行うためです。わたしを遣わした方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしがひとりも失うことなく、ひとりひとりを終わりの日によみがえらせることです。事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。わたしはその人たちをひとりひとり終わりの日によみがえらせます。 と教えられました。 ここには、イエス・キリストの御許に来るということが出てきます。これは、イエス・キリストを信じるということを意味しています。そして、そこには、イエス・キリストの御許に来る者たちは、イエス・キリストとの愛にあるいのちの交わりのうちに生きるようになる、という意味合いがあります。 この37節ー40節に記されているイエス・キリストの教えに続いて、イエス・キリストとユダヤ人たちとのやり取りが記されています。その中でイエス・キリストは、44節に記されていますように、 わたしを遣わした父が引き寄せられないかぎり、だれもわたしのところに来ることはできません。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。 と教えておられます。 父なる神さまが「引き寄せられないかぎり、だれも」イエス・キリストの御許に来ることはできませんし、父なる神さまがイエス・キリストに「お与えになる者はみな」イエス・キリストの御許に来ます。これには例外はありません。 私たちが、イエス・キリストを信じることができたのは、父なる神さまが私たちをイエス・キリストの御許へと引き寄せてくださったからです。そして、そのようにして、イエス・キリストの御許に来た私たち主の契約の民を、イエス・キリストは決してお捨てにはなりません。 37節で、 わたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません。 と言われているときの「決して捨てません」は、ギリシャ語の用法の中でいちばん強い否定の仕方(ウー・メー+不定過去・接続法)で表されています。ちなみに、この場合の「捨てる」と訳されていることば(エクバロー・エクソー)は文字通りには「外に投げ出す」ということを意味しています。このことは、イエス・キリストの御許に行った者は、イエス・キリストとともにうちにおり、イエス・キリストとの交わりのうちに生きていることを暗示しています。 このようにして、ここでは、私たち主の契約の民がイエス・キリストを信じて、イエス・キリストをかしらとする主の契約の共同体に加えられたこと、そして、そのうちに保たれていることは、父なる神さまと御子イエス・キリストの一方的で、主権的な愛と恵みによっていることが示されています。 ここで注目したいのは、ここには、ある種の全体性、総体性が示されているということです。 どういうことかと言いますと、37節で、 父がわたしにお与えになる者はみな、わたしのところに来ます。 と言われているときの「みな」は中性形・単数です。これは、父なる神さまがイエス・キリストに「お与えになる者」の全体を一つの集合体として見ています。[注] [注]この中性形・単数の「みな」は「一般性」を表します(Morris, Zerwick)が、ここでは、文脈の上から例外がないことがわかりますので、単なる「一般性」以上の「全体性」、「総体性」を表しています。Carsonは、これが「集合体的」であるとしています。 これに対しまして、37節でそれに続いて、 そしてわたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません。 と言われているときの「来る者」は男性形・単数です。これは、イエス・キリストの御許に来るひとりひとりの人を意味しています。 これは37節の前半と後半における組み合わせですが、同じことが、39節と40節の間に見られます。 39節で、 わたしを遣わした方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしがひとりも失うことなく、ひとりひとりを終わりの日によみがえらせることです。 と言われているときの「すべて」と「ひとりも」と「ひとりひとりを」は中性形・単数で、全体を一つの集合体として見ています。これに対して、これに続く40節で、 子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。わたしはその人たちをひとりひとり終わりの日によみがえらせます。 と言われているときの「みな」と「その人たちひとりひとり」は男性形・単数で、ひとりひとりの人を表しています。 ですから、ここでは、主の契約の民が一つの全体として見られるとともに、そのうちにあるひとりひとりにも、目が行き届いていることが分かります。もちろん、これは私たちの主がご覧になっておられることです。それで、全体の中に個人が埋没してしまうことはありませんし、個人個人に細やかな目配りがなされているために全体が見えなくなることもないのです。 このように、37節で、 父がわたしにお与えになる者はみな、わたしのところに来ます。 と言われているときには、父なる神さまが御子イエス・キリストに「お与えになる者」の全体が一つの集合体として捉えられています。 そして、37節後半では、御子イエス・キリストは、そのひとりひとりを覚えてくださり、ご自身の御許にあるものとして保ち続けてくださると言われています。 また、39節で、 わたしを遣わした方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしがひとりも失うことなく、ひとりひとりを終わりの日によみがえらせることです。 と言われているときにも、父なる神さまが御子イエス・キリストにお与えになった者の全体が一つの集合体として捉えられています。 ちなみに、この39節の「わたしに与えてくださった」は完了時制で、過去に起こったことの結果が今に至るまで続いていることを意味しています。つまり、「父なる神さまがイエス・キリストにお与えになった者が、ずっと、イエス・キリストのものとなっている」という意味合いを伝えています。ここでは、その人々の全体を一つの集合体として見ているのです。 そして、40節では、父なる神さまは、御子イエス・キリストを信じる者、すなわち、御子イエス・キリストの御許に行った者ひとりひとりに永遠のいのちをお与えになり、イエス・キリストは、終わりの日に、ひとりひとりをよみがえらせてくださると言われています。 このように見られた、父なる神さまが御子イエス・キリストにお与えになる者の全体の中には、初代教会の主の民から始まって終わりの日に至るまでに御子イエス・キリストの御許に来る者たちのすべてが含まれています。私たちは「父なる神さまが御子イエス・キリストにお与えになる者の全体」と言いますと、空間的に広がっている人々の全体を考えがちです。ここでは、それだけでなく、時間的に、初代教会の時代から終わりの日に至るまでの主の民の全体を考える必要もあります。 ご自身の契約の民の救いについてのイエス・キリストの教えにこのような視野の広がりがあるとすれば、その教えを聞く私たちにも、このような視野の広がりがなければなりません。特に、私たちは「主の祈り」をモデルとして祈ります。その「主の祈り」の前半においては、 天にいます私たちの父よ。 という父なる神さまへの呼びかけに続いて、 御名があがめられますように。 御国が来ますように。 みこころが天で行われるように地でも行われますように。 と祈ります。この三つの祈りを祈るとき、私たちはこのような視野の広がりをもって、祈る必要があります。 このことを黙示録に当てはめますと、黙示録は基本的に、これが記された時代の主の契約の民に示された契約の神である主のみこころを示しています。その黙示録に終わりの日に至るまでの御子イエス・キリストの救いとさばきの御業の歴史が記されています。主は黙示録を読む初代教会の主の民に、自分たちの時代のことだけでなく、終わりの日に至るまでの主の契約の民を覚えて、主が救いとさばきの御業を遂行される歴史を通して、ご自身の契約の民をどのように救いへと導いてくださるかに関心を払うように導いておられるのです。 繰り返しになりますが、それはまた、この時代において黙示録を読んでいる私たちに対する契約の神である主の導きでもあります。 以上が第一のことですが、第二のこととして、黙示録には、これを読む主の契約の民に、その視野をさらに広くもつようにと促している面があります。 黙示録の最後には、栄光のキリストが再び来られて、人類のすべての罪をおさばきになって、罪を完全に清算されること、さらに、栄光のキリストが、ご自身の十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げられた贖いの御業に基づいて、私たち主の契約の民の救いを完成してくださること、そして、私たち主の契約の民のために新しい天と新しい地を再創造してくださることが記されています。 注目したいのはその最後の章である22章1節ー5節に記されていることです。そこには、 御使いはまた、私に水晶のように光るいのちの水の川を見せた。それは神と小羊との御座から出て、都の大通りの中央を流れていた。川の両岸には、いのちの木があって、十二種の実がなり、毎月、実ができた。また、その木の葉は諸国の民をいやした。もはや、のろわれるものは何もない。神と小羊との御座が都の中にあって、そのしもべたちは神に仕え、神の御顔を仰ぎ見る。また、彼らの額には神の名がついている。もはや夜がない。神である主が彼らを照らされるので、彼らにはともしびの光も太陽の光もいらない。彼らは永遠に王である。 と記されています。 22章はさらに続いていますが、黙示録に記されている栄光のキリストの救いとさばきの御業の歴史についての描写はここで終わっています。これに続く6節には、 御使いはまた私に、「これらのことばは、信ずべきものであり、真実なのです」と言った。預言者たちのたましいの神である主は、その御使いを遣わし、すぐに起こるべき事を、そのしもべたちに示そうとされたのである。 と記されています。ここに記されていることにつきましては、すでに詳しくお話ししました。この後半に記されています、 預言者たちのたましいの神である主は、その御使いを遣わし、すぐに起こるべき事を、そのしもべたちに示そうとされたのである。 というみことばは、1章1節に記されています、 イエス・キリストの黙示。これは、すぐに起こるはずの事をそのしもべたちに示すため、神がキリストにお与えになったものである。そしてキリストは、その御使いを遣わして、これをしもべヨハネにお告げになった。 というみことばと対応しています。 この1章1節に記されているみことばが黙示録に記されている栄光のキリストの救いとさばきの御業の歴史の描写を導入する形で全体をまとめているとすれば、22章6節に記されているみことばは、それを締めくくる形で全体をまとめていることになります。 このように、黙示録に記されています、栄光のキリストによる救いとさばきの御業の歴史の記述は、22章1節ー5節に記されていることをもって終わっています。 この1節ー5節に記されていることで注目したいのは、1節と2節です。そこには、 御使いはまた、私に水晶のように光るいのちの水の川を見せた。それは神と小羊との御座から出て、都の大通りの中央を流れていた。川の両岸には、いのちの木があって、十二種の実がなり、毎月、実ができた。また、その木の葉は諸国の民をいやした。 と記されています。 ここには、まず「いのちの水の川」のことが記されています。これは、エデンの園のことを記している創世記2章10節ー14節に、 一つの川が、この園を潤すため、エデンから出ており、そこから分かれて、四つの源となっていた。第一のものの名はピション。それはハビラの全土を巡って流れる。そこには金があった。その地の金は、良質で、また、そこにはベドラハとしまめのうもあった。第二の川の名はギホン。それはクシュの全土を巡って流れる。第三の川の名はティグリス。それはアシュルの東を流れる。第四の川、それはユーフラテスである。 と記されていることを思い起こさせます。 このエデンの園から流れ出ている川は、園とそれが流れる地域を潤していたという意味で、いわば間接的に「いのちの水の川」と言えるものですが、この川自体は「いのちの水の川」とは言われていません。その意味で、ここには、創世記2章に記されています、間接的に「いのちの水の川」と言える川から、黙示録22章に記されています、それ自体が「いのちの水の川」である川への発展があります。今は、詳しく取り上げることができませんが、これにはエゼキエル書47章1節ー12節やゼカリヤ書14章8節など、旧約聖書の預言の背景があります。つまり、この発展は預言されていたことでもあるのです。黙示録22章1節、2節に記されていることは、その成就としての意味があります。 さらに、黙示録22章2節には「いのちの木」が出てきます。これは創世記2章9節に、 神である主は、その土地から、見るからに好ましく食べるのに良いすべての木を生えさせた。園の中央には、いのちの木、それから善悪の知識の木を生えさせた。 と記されていることを思い起こさせます。 エデンの園では、その中央に一本の「いのちの木」が生えていました。黙示録22章2節では「いのちの木」は単数形で表されています。けれども、ここでは「いのちの木」は「川の両岸に」生えていると言われていますし、 十二種の実がなり、毎月、実ができた。 と言われています。それで、この「いのちの木」は集合名詞として、多くの「いのちの木」をひとまとめに見ていると考えられます。いずれにしましても、ここには、エデンの園の中央に生えていた「いのちの木」から、「いのちの水の川」の「両岸に」生えていて、 十二種の実がなり、毎月、実ができた。 と言われている「いのちの木」への発展があります。 黙示録に記されていることを見ますと、終わりの日に再臨される栄光のキリストが、ご自身の十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げられた贖いの御業に基づいて、再創造される新しい天と新しい地と、その中心にある新しいエルサレムの描写は、21章に記されています。それは21章の最後の27節の、 しかし、すべて汚れた者や、憎むべきことと偽りとを行う者は、決して都に入れない。小羊のいのちの書に名が書いてある者だけが、入ることができる。 というみことばをもって、一応、完結しています。その後に、この22章1節ー5節に記されています、エデンの園の完成を告げる形の新しいエルサレムの描写が続いています。 このことは、とても大切なことを示しています。創世記2章に記されているエデンの園は、契約の神である主の御臨在の場でした。そこに、神のかたちに造られた人が置かれました。神のかたちに造られた人は、そこで、いのちの木によって表されている、契約の神である主との愛にあるいのちの交わりの祝福にあずかりました。その主との愛にあるいのちの交わりこそは、神のかたちに造られた人のいのちの本質です。 契約の神である主は、神のかたちに造られた人を、このようないのちの祝福のうちに生きる者としてお造りになりました。そして、神のかたちに造られた人が、創造の御業において委ねられた歴史と文化を造る使命を果たすことの中で、みこころを実現することへの報いとして、栄光あるいのち、永遠のいのちを人に与えてくださることをよしとされました。 しかし、その契約の神である主のみこころは、暗やみの主権者として働いているサタンの働きによって、阻止されてしまいました。神のかたちに造られて歴史と文化を造る使命を委ねられた人が、神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまいました。それによって、人が死の力に捕らえられ、さばきを受けて滅ぶべきものになってしまっただけではありません。創造の御業における神さまのみこころの実現ががくじかれてしまったのです。 それに対して、契約の神である主は、創世記3章14節、15節に記されています「最初の福音」を示されました。そこには、霊的な戦いの状況の中で、「女の子孫」のかしらとして来られる贖い主によって、主の民のための贖いの御業が成し遂げられることが示されています。 黙示録はこのような創造の御業と贖いの御業にかかわる契約の神である主のご計画が、実現していることを記しています。終わりの日に再臨される栄光のキリストが、再創造される新しい天と新しい地は、最初の創造の御業において造り出された天と地が、栄光あるものとして完成することを示しています。そして、その中心にある新しいエルサレムは、エデンの園において与えられた契約の神である主の祝福が、暗やみの主権者であるサタンとその軍勢の巧妙な働きにもかかわらず、さらに栄光に満ちたいのち、すなわち、永遠のいのちの祝福として完成することを示しています。これは契約の神である主の栄光にかかわっていることです。 黙示録は、これを読む主の民、基本的には、初代教会のクリスチャンたちに、契約の神である主の創造の御業と贖いの御業をとおして示されている、主のご計画をわきまえて、それがどのように実現し、完成に至るかを知るようにと促し、導いています。言い換えますと、自分あるいは自分たちにかかわることだけに目を向けて終わらないで、神さまのご計画全体にかかわるみこころを中心とした歴史観をもつように促しているのです。そして、主の祈りを中心として、その神さまのみこころが実現することを祈り求めつつ、ああらしい時代の歴史と文化を造る使命を果たすことによって、その実現に参与するように促しているのです。それは、また、今のこの時代にあって、黙示録を読んでいる私たち主の契約の民にも求められていることです。 |
![]() |
||